穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・19---
1968年8月 あのころの馬籠・妻籠・田立の滝3

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6.馬籠から妻籠まで

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  だらだら坂を登って馬籠の宿はずれに立つ。恵那山が高い。ススキが生えていたりして、はや初秋のムード。2190mのこの山について、藤村は次のように書いている。
 ”遠く美濃の平野の方へ落ちている大きな傾斜、北側に山の懐をひろげてみせているような高く深い谷、山腹に当たって、俗に「鍋づる」の名称のある半円形を描いた地形…”、その女性的な豊かな山容に、きょうは白雲が遊ぶ。

  道はいったん小さな谷に下り、さらに段々畑の中を登っていく。日本的な風景である。

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 馬籠から30分ほどで峠部落に着く。昔の街道時代そのままを思わせる家々は囲いもなく、道に沿ってぎりぎりに建っている。

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軒端にトウモロコシがつるされ、冬に備えてマキがが準備されている。



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 集落の中程、道ばたに小さな生け垣の囲いがあって、「峠之御頭頌徳碑」なるものがある。一瞬峠のテッペンを表すのかと考えたが、徳をたたえるとなると、ちょっと話が変わってくる。事実、ここは「峠」と呼ばれる集落であって、峠そのものではない。
 江戸時代末期、この峠にあって、ありとあらゆる相談を一手に引き受けて、それを徹底的に解決することに努力した人がいた。今井仁兵衛、人呼んで”峠の頭”という。どこの地にも頭的存在の人はいただろうが、この峠のお頭ほど義侠にとんだ人は、他には居なかったという。その徳がいまこうして碑となって残る。

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 石が置かれた屋根がある。静かであった。人は山へ働きに行っているのであろうか・・・。「過疎」という言葉が、そのころあったのかどうか。今思うと、それはまさに過疎そのものだった。

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 海抜801m、馬籠峠に立てば、累々たる木曽の山々の手前に、白く見える木曽川と、三留野あたりの町がかすんで見える。茶店の主に、「御岳は?」ときけば、「ここからは見えない」という。

     白雲や青葉若葉の三十里  子規

 左の写真は、何となくピントが悪い。多分振ったんだろう。

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 バス道から離れて、幅1mほどの旧中山道を下る。

 峠から2Kmほど下ったところに、男滝・女滝と称する2つの滝がある。滝壺への降り口に「御小休処」との旗のさがった茶店がある。ソバを注文する。一緒に出てきた漬け物がうまかった。


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 どっちが男滝でどっちが女滝?。
 しょうもないこと聞くな。見たら分かるやろ。













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 12時、そこを出て再び旧中山道を下る。写っているのは、昨夜、銚子片手の民宿の奥さんに、「あんたもダメよ」とにらまれた、ひねた高校生である。







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 写真左、重さ120Kgに制限された滝見の橋。清澄な空から照りつける真昼の太陽が、くっきりとコントラストをつける。その短い影が、木曽の山々の静かさを強調する。
 ここはもう大妻籠に近い。

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 13時ごろ、大妻籠につく。明るい感じのする村である。細い谷沿いの道を歩いてきて、急に開けたところへ出たせいかもしれない。
 軒下に駕籠がつるされており、その下にある自動車との対比が面白かった。

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あと少しで妻籠である。



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