穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・19---
1968年8月 あのころの馬籠・妻籠・田立の滝1

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0.予告編

  2008年9月のはじめ、長野県松川のリンゴ畑を訪れた帰り、高速で帰るのも芸がないからと、国道256号で清内路峠を越えた。そのまま進めば、妻籠宿を経て木曽川沿いの国道19号へ出るのだが、ふと気が変わって馬籠宿へ寄ってみた。馬籠宿へは1990年代以降2、3度訪れていたので、まあ、こんなものでしょうと、特別な思いもなく何枚か写真を撮っただけで帰ってきた。

 帰って写真を整理していて、一枚の写真(左上)がふと気になった。「七笑?」、木曽路でよく見る銘柄だから、特に気にもとめずに撮ったのだが、どこかにこんな写真が残っていたぞ。残っているとしたら、あのときに違いない。昭和40年代前半、高校の写真部の顧問をしていたとき、撮影旅行と称して、夏休みに馬籠宿へ行ったことがある。アレに違いない。アルバムを探してみた。あった。写真右がそれである。昭和43(1968)年のものである。驚いた、こんなだったのか。

 上の2枚の写真は、看板そのものも変わっているし位置も違う。しかしどちらも馬籠で撮ったものであることは間違いない。多分右の写真の手前の2階建てが、左の写真で「七笑」の看板をつけている建物でないかと思われる。今回訪れたとき、はじめから新旧比較などやる気はなく、ただ数枚適当にとって来ただけだった。もしやるとすれば、本気になってもう一度行き直さなければならない。簡単な話ではない。

 高校生と一緒の写真は、以前立山へ登ったものを、このシリーズの一つとしてUPしたが、どうもいま一つで、この馬籠行きも割愛しようと思っていた。しかし、この2枚を比べてみて考えが変わった。ちょうど40年前(2008年現在)の馬籠である。これを見ていただくのも意味があろうと考えた。

 それともう一つ、この馬籠行きの少し前、私は、2冊の写真集に出会っていた。沢田正春著『木曽路』、昭和41(1966)年4月木耳社刊と、同『木曽街道』、昭和42(1967)年10月刊の2冊(写真上左)である。

 沢田正春氏は写真の世界では全く無名の人であったが、ダム建設の一労務者として訪れた木曽谷に感銘を受け、借り物のカメラで撮影をはじめ、自分でアルバムを作っていたのが、所属する建設会社の目に止まり、竣工記念として紙焼きのアルバムを100冊作り、関係各方面に配布したところ、大好評を受け・・・、という経緯で写真集になったのだという。その経過はともかくとして、その努力に感銘を受けた。第1集『木曽路』発刊の時点でも、自分のカメラは持っていなかったという。スゴイ人もおるものだと驚いた。

 そんなことがあって、クラブの撮影旅行に、生徒の意見を聞くような顔をして、馬籠へ誘導したのだった。写真上右は、その後、昭和54(1979)年7月に刊行された同じく沢田正春氏の『あのころの木曽路』。この項のタイトル「あのころの馬籠」は、この本の題をもじったものである。

1.京都から落合川まで 

 昭和43(1968)年8月21日
 午前7時44分の大垣行きで京都を発つ。通勤時間帯ではあるが、京都から上りだから空いているだろうとの予測は見事にはずれ、結構混んでいた。しかし、それも石山まで。あとはがら空きになる。9時53分、大垣着。9時57分発、豊橋行きに乗り継ぐ。10時43分、名古屋着。

 11時21分発の長野行きも空いていた。D51が牽くのかと思っていたら直流電機。複線電化されており快適。数年前までのカラス列車が夢のよう。川沿いの小さなトンネルも複線の長いものに付け替えられており、すーといってしまう。トンネルの中で窓から顔を出してシャッターが切れる。こんな芸当もこのころの楽しみの一つだった。蒸気機関車では煙にいぶされ考えられないことだったし、いまの窓が開かない車両ではまた不可能な話である。

 

 多治見からはD51が牽く(写真左)。トンネルに入るたびによいしょと窓を閉める。そのすきまから入り込む煙のにおい。中津川からは重連になって(写真右)、落合川へ13時46分着。

 何や、宣伝と内容が違うやないか。馬籠の話と違うのか。
 ゴメンナサイ、これはまあ儀式みたいなも。私の旅日記は、鉄道の話がないと始まらないものでして・・・。次からはもうちょっとまじめにやります

2.落合宿

 落合川。かつて山行きの途中、ここを通るたびに、一度下りてみたいと思っていたところである。しかし、旅情を誘ったダムの水も、きょうは灰色の空を写して、どんよりと重い。





 中央線をくぐり、落合川を渡って、落合の街へはいる。京都から数えて、第26番目の宿場町である。道の上へ大きな松の木が張り出していたり、旧い道標があったりする。それらが細い格子のはまった家々とあいまって、旧宿場町の雰囲気を醸し出す。
















 道しるべ、「右ハ木曽、左はなごや」とある。
 明治天皇御小休所という落合宿本陣の写真を撮ったりして、バス道から分かれて左へ折れ、再び落合川をつり橋で渡って、十曲峠への登りにかかる。




3.落合宿・石畳 

 つり橋を渡って少し行くと、「中仙道落合の石畳」との標識に出会う。現在は「中山道」が正式名称だということで、ほとんどこれに統一されているが、このころはまだ「中仙道」が多用されていた。石畳の少し手前で、ムギワラ帽子に赤のブラウス、紺のスラックス姿の大学生風の女性とすれ違う。そんなことをおぼえているくらい人は少ない。 (おぼえていたのは、70歳を過ぎたいままでという意味ではなしに、このときの旅から帰ってアルバムを作った時点までという意味、念のため。こんなこと全部おぼえていたら人間死んでしまいます。)

 形や大きさの整わない荒々しい石畳が現れる(写真左)。単なる山道と大差なし。頭に描いていたイメージと異なる。細い雨の下で、カメラが濡れるのを気にしながら写真を撮る。
 それからものの2,3分も行くと、石畳茶屋という茶店があって、その前から50mほどきれいな石畳が続いている。うっそうと茂る木立、その間をぬって雨に濡れる石畳。みな歓声を上げてカメラを向ける。しかし、考えてみるとこれは映画のセットだよ。




 そうこうしている間に雨が激しくなり、茶屋に転がり込む。馬籠までは30分ほどだという。何とでもなるだろうと、部屋に上がり込んで腰をすえる。40分ほど休んだだろうか、雨はようやく小降りになる。




4.馬籠まで

 雨が小降りになったのを機に茶屋をたつ。石畳を越して、深い木立の中を20分ほど上り詰めると視界が広がる。ここが十曲峠である。広くて明るいため、峠という感じはしない。その一角に新茶屋がある。谷を一つ隔てた山には、さきほどの雨のなごりの白雲が来去して、いかにも日本的風景である。


 一里塚があり、「これより北木曽路」の碑がある。さらには、「送られつ送りつ果ては木曽の穐(あき)」という芭蕉の句碑がある。

 ‥‥新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍に芭蕉の句碑が建てられたのは、何といっても徳川の代はまだ平和だった。
 木曽路の入口に新しい名所を一つ作る。信濃と美濃の国境にあたる一里塚に近い位置を選んで、街道を往来する旅人の眼にもよくつくような、緩慢な丘の裾に翁塚を建てる、‥‥(中略)‥‥碑の表面には、左の文字が読めた。
 「送られつ送りつ果ては木曽の穐 はせを 」 「これは達者に書いてある」 「でも、この秋という字が私にはすこし気にいらん。のぎへんが崩して書いてあって、それにつくりが亀でしょう。」 「こういう書き方もありますさ」 「どうもこれでは木曽の蝿(はえ)としか読めない」 こんな話が出たのも、一昔前だ‥‥島崎藤村『夜明け前』より

 いったん上がった雨が、また細く降り出す。湿度が高く蒸し暑い。30分で行けるときいた馬籠へは、その倍、1時間を要して5時少し前につく。やどは民宿「下井筒屋」、京都からの方ですねと迎えられ、離れへ通される。雨後の夕焼けがきれいだった。


 通された部屋には、句碑の拓本がかかっていた。これやな、さっき見た石碑の拓本や。
 「送られつ送りつ果ては木曽の穐(あき)」と読むらしいが、「送られつ送り川なんたらなんたら木曽のなんたら」としか読めんな。この「川」みたいな字がなんで「つ」やね。そういえば、最後の「木曽のなんたら」も確かに「木曽の蝿(ハエ)」やね。

 夕食を運んできた奥さんが、銚子をひょいと持ち上げて、「これは先生にだけ、地元のお酒です。生徒さんはダメよ」、といいながら、一緒について来ていた若い教員をにらんで、「あんたもダメよ」。
 ここまでの写真を見てくださった方は、高校生にしてはちょっとひねたのがおることに気がつかれたはず。実は出発の前日になって、生徒が一人参加できなくなった。民宿のキャンセルもきのどくだし・・・と思いながら、近くにいた新任のNさんに、「一人穴があいた。馬籠へ行くんやけど、あんた行かへんか。もちろん費用は自前やけど・・・・」というと、「行きます」と二つ返事でついて来た。奥さんは、その彼を生徒と間違えたわけ。「そうや、そうや、これ(地酒)はワシだけやぞ。生徒はアカン。お前もアカンぞ」。




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