005.笠山荘から槍見温泉までまで
第5日(8月9日)、笠ヶ岳の朝
4時半過ぎ、外へ出る。けさも快晴に明けた。昨夜の月が西の空に残っている。太陽は、北鎌尾根から昇る。出てきたと思ったら一瞬の出来事である。安曇野に面した稜線からの日の出は、雲海の彼方が明るくなって今かいまか・・・・、という昇り方である。しかし、ここからの太陽はそういう悠長な昇り方はしない。
左・這松の斜面から見る昨夜の月。どこかの宇宙空間からの月のように見える。
右・西方、雲海の彼方に沈み行く月。遠く白山が見える。
左・笠ヶ岳が作る影富士。 右・小笠の頂上。
左・槍から穂高に続く稜線。 右・きのう歩いてきた稜線。
笠ケ岳山荘。笠ヶ岳は、ピークが小笠と大笠に分かれており、笠ケ岳山荘はその間にある。朝の眺めを満喫して朝食。ここの飯がうまい。他の小屋の飯とは、歴然とした差がある。平地と変わらない。聞けば、「圧力釜を使っています」。
6時半、小屋を出る。
笠ヶ岳頂上付近。大笠の頂上まで15分。ここからの眺望がまたすばらしい。
左・後ろ真正面に見えているのが乗鞍岳。その右にかすんでいるのが御岳。これはほんの一例。このレベルの眺めがいくらでも・・・・・。
右・焼岳。上高地・大正池畔から見れば、見上げるばかりのこの山も、今朝は眼下に見える。
左・手前、右端に焼岳。左端、いちばん奥に富士山。今のカメラなら、もう少し伸ばして、しかるべく格好をつけられるのだが、当時、私が持っていたカメラは標準レンズが一本ついているだけ、これで精一杯。画面を拡大しても、なお虫眼鏡がほしいくらいにしか写っていないのだが、肉眼で見る風景は感動ものだった。 富士山と重なっているのが、甲斐駒か?。その右に続くのが南アルプス。その手前、画面右に見えるのが中央アルプス。
右・赤外線で見る乗鞍と御岳。どちらもコニーデ式火山、まったくの相似形をしめして教科書通り。
左・左端が焼岳。右2つは、乗鞍・御岳。焼岳はトロイで火山。日本名では”鐘状火山”とも。中学の教科書には、「お椀を伏せたような形」との解説がある。まさにその形。粘性の高いマグマがぐにゅぐにゅと吹き出した。あとの2つはコニーデ、粘性の低いマグマが流れるように吹き出して裾を広げた。それが手にとるように分かる。手前、黒く影になっている稜線が、これから下り行く下山路。焼岳の向こうにかすんで小さく見るのが、中央アルプスの南半分。
7時15分、笠が岳頂上をあとにする。乗鞍(3026m)、御岳(3063m)もこれで見納め。大笠と下り来た道を振り返る。
右・明るい太陽をうけるダケカンバ。白樺より高所に生えるダケカンバ、雪の重みに耐えて、ほとんどがこのように曲がっている。
左・焼岳が近づいてくる。 右・錫杖岳の岩場を見上げる。
この後、1年か2年あとの話。名前は忘れたが、どこかの大学の山岳部の学生が、冬の笠ヶ岳へ登ろうとして、遭難事故を起こした。たしか1週間ほど行くへ不明になって、詰めかけていた新聞社ももうダメだと、ほとんど引き払ったところへ、ひょっこり全員無事で帰ってきた。「奇跡の生還」ということで話題になった。その生還のもとになったのは、夏場に荷揚げのため、笠に登った学生が、この錫杖の岩場を憶えていて、吹雪の切れ間から、チラと見えた岩峰を見て、自分たちの位置を知ったことだったという。地元の人から聞いた話である。
12時ちょうど、槍見温泉着。バスさえうまくいけば、その日のうちに京都まで帰り着ける時間だったが、その日はそこに泊まった。
というのは、私が勤める大谷中・高の中学1年生が、校外学習と称して高山に宿泊中で、明日乗鞍に登る予定になっており、乗鞍の頂上で出会う約束になっていたからである。
槍見温泉、昼食をお願いできますかと問えば、「何もないけど、そうめんぐらいなら」という。どう見回しても、客は我々だけ。来るやらこんやらわからん客相手に、昼飯の準備までできるはずないわね。お間違いないように、これは50年前の話。現在の槍見温泉の様子は、こちらをどうぞ。
槍見温泉では、2階の焼と槍がよく見える部屋へ案内される。焼と槍、槍見温泉からは槍を自分の正面にして立つと焼は右手に見える。
左の写真、手すりに掛かっているひもの真上に槍が見える。何でこんな撮り方をしたのか、記憶にないが、浴衣なんか除けとけばいいのにね。浴衣の向こうが蒲田川の川原。その上流方向に槍が見える。槍ヶ岳は、どこからでも見えそうな気がするのだが、実際には見えにくい山で、部屋にいながら槍が見えたのは、例の餓鬼岳の小屋を除けばここだけだった。
ソーメンを喰ったあと、温泉につかる。浴槽につかったまま槍が見える。ありがたいような、もったいないような。しかし、例によって宿代が心配。米が一升残っていたので、それを渡して一泊、550円と聞き安心。助かったー。今晩はビール!。
それから夕方まで、メモの整理をしたりして過ごす。ウトウトとして、目を覚ますと、焼岳が赤く焼けて消えていくところ。 この調子なら、明日の天気も間違いなし。信じて疑わなかった。ところが翌日目が覚めてみると雨だった。さてどうするか。中学生は乗鞍へ行くかどうか。そこでの珍問答は、こちら「違います。電話です!」をどうぞ。
このときの全行程67.5Km。
行動時間 第1日 葛温泉〜烏帽子小屋 10時間30分。
第2日 烏帽子小屋〜三俣蓮華小屋
11時間00分。
第3日 三俣蓮華小屋〜笠ヶ岳小屋 11時間30分。
第4日 笠ヶ岳小屋〜槍見温泉 5時間30分。
総経費 5085円。 どうでもエエこと記録していたんやね。
そのときの給料。はっきりした記憶はないが、1万円台の前半。 ”一万三千八百円”という歌が流行ったことがあった。その歌を聞いて、「それだけ貰えれば、結構な話やないか」と思った記憶がある。
omake
おまけ---違います。電話です!
昭和35年の話である。烏帽子岳から笠ヶ岳まで縦走した。京都を朝に発って、大糸南線大町まで。高瀬渓谷葛温泉で一泊。烏帽子小屋、三俣蓮華小屋、双六小屋、笠ヶ岳、計5泊ののち、蒲田川沿いの槍見温泉に下りた。笠ヶ岳は川の西側、穂高連峰は東側。現在のロープウエー西穂展望台から見ると、笠ヶ岳が正面に見える。
槍見温泉は、いまでは奥飛騨温泉郷の一角として立派な旅館になっているが、当時は本当にひなびた一軒宿だった。午後早く着いたためか、客は私と相棒Sの二人だけ。浴槽につかっていると、名の通り遙か彼方に槍が見えた。槍見温泉のHPを見ると、「青空を刺す槍の嶺」のキャッチフレーズが出てくるが、まさにその通りである。
富士見という地名は方々にあるが、槍見はない。槍ヶ岳は意外と見えにくい山で、どこからでも簡単に見えるわけではない。浴槽につかりながら、槍が見えるのはおそらくここだけではないか。与えられた部屋も一つの窓から槍が見え、もう一つの窓から焼が見えた。あとで館内を探検してみたところ、どうやらいちばんいい部屋らしかった。風呂から上がって、うとうととして目が覚めると、その焼岳が赤く焼けて消えていくところだった。
5日も山を歩いて薄汚れた格好をした若造二人に、夕食をちゃんと部屋まで運こぶという。宿泊代が心配になった。「米が一升残っているのですが・・・」と、おそるおそるきいてみると、それなら550円でいいという。人の足で顔を蹴とばされそうななぎゅうぎゅう詰めの山小屋でも一泊550円だった。それに比べれば天国だった。
翌朝、目が覚めてみると雨だった。実はそのとき、私が勤める大谷の中学一年生が、校外学習と称して高山に滞在中で、その日は乗鞍岳に登ることになっていた。先輩のAさんが責任者であったこともあり、乗鞍の頂上で会おうという話になっていた。京都を出てからきのうまで一滴の雨も降らなかったのに、よりにもよってこんな日に降らんでもエエやないか。さあ、中学生は乗鞍へ行くか行かないか。行くのなら私たちも乗鞍へ。行かないのなら直接高山へ出た方がいい。
そんなこと何悩んでるの。携帯で聴いたらエエやんか。今の若い人はそう考える。携帯はなかったが、当然私も電話で確かめようと考えた。
しかし、そのころは日本中どこでもそうだったと思うが、電話には市内(通話)と市外に分かれていて、市内はダイアルに指をつっこんで相手の番号をギヤギヤと回せば通じたが、市外はいったん電話局を呼び出して、どこそこの何番と申し込みをしたあと、いったん受話器を置いて待つ、いわゆる待時式だった。2,3分でかかることもあれば、30分、ひどいときは1時間近くも待たされることもあった。
フロントへ行ってきいた。「高山までどれくらいかかるでしょうか」。「そうね、2時間半ぐらいかな」。「はあ?」思わず大きな声が出た。「平湯へ電話したら、なかなかつながらんでな・・・」、いつかAさんがぼやいていたのを思い出した。このあたりは電話に時間がかかるんや。しかし、電話に2時間半も待ってたら、行く方が早いで。
あれこれ考えていると、くだんのフロント氏は、「ここから平湯まで○○分だろう」。・・・・そうか、いったん平湯の局ににつないで、そこから高山へつなぎ直すのか。「乗り換えがうまくあればいいが・・・」。まだ分からなかった。ここらでは、電話の接続も「乗り換え」というのだと思った。
フロント氏の視線が、壁に貼ってある濃飛バス時刻表に向いて、初めて気がついた。「違います。電話です!」。・・・「今からだと、栃尾経由だね」・・・「バスじゃないんです。電話です。高山へ電ヮ・・・」。「電話?・・・・電話、うちありませんよ」。
そういえば、昨日この旅館にはいったのも、予約していたわけではなかった。笠ヶ岳から下りてきて、当然のように「コンニチハ、お願いします」と飛び込んだだけだった。考えてみればのんびりした時代だった。結局そのとき、朝6時40分のバスに乗って、高山へ9時40分に着いている。約3時間。フロント氏の言は正確だった。いま私が住む滋賀県から、朝早く出れば新穂高ロープウエー経由で西穂高山荘まで日帰りができる。50年の年月は伊達じゃない。
余談: そうそう、濃飛バスで思い出した。ときどき「わいわい村」に写真を送ってくる茅野の布施クンは学生時代濃飛バスでガイドのアルバイトをしていた。それが高じて卒業してからも信州に住みついてしまったいう変わり種だが、計算してみるとこのとき布施クンは小学校6年生のはず。大谷中学へ入学して私と出会う前の年ということになる。その布施クンもすでに定年退職して何年かになる。電話がなかった槍見温泉。そんな昔の話である。
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