穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・9---
1960年 烏帽子・三俣蓮華・笠 その1

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001.京都から葛温泉まで

 「神さんは、何でワシにだけこんな目にあわすねん」・・・、と思うこともある。しかし、長い目で見てみるとやはり平等なんだな、神さまは。大雨でひどい目にあった翌年、昭和35(1960)年8月、今度は見事な快晴続きだった。さあ、”裏銀座”をやるぞ。

 1960年8月5日、京都駅、深夜0時21分発112列車(門司発東京行)に乗る。東海道線全線電化は昭和31年11月に完成していた。しかし、新幹線はまだない。いわゆるブルートレーン全盛へ向かう時代、我々はそんな列車には縁がない。門司発東京行き、もちろん普通列車。そんな列車が走っていた。そういえば、大阪発青森行きなんてのもあった。車内は120%ぐらいの混雑ぶり。例によって4等寝台。当時の長距離移動手段は、国鉄に頼るしか他に考えられなかった。そういう時代の話である。

 この年から、1等車が廃止になって、今までの2等車が1等車に、3等車が2等車に繰り上がった。ということで、我々がやっているのは、3等寝台だが、それでは気分が出ない。やっぱり4等寝台がぴったり来る。草津あたりでニギリメシを喰って、ザック枕にウトウトする。米原でその横に妙齢の女性が立ち、具合が悪くなる。

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 午前4時10分、名古屋着。中央線の車両に入って朝食をとる。中央線、名古屋発の時刻は記録していないが、少なくとも5時台だったのだろう。これも普通列車。もちろんD51のお世話になる。夜行の準急の混雑にうんざりしていたのだが、名古屋早朝発の普通列車、これは天国だった。

 塩尻で列車の進行方向が逆になる。中央線の塩尻駅、今は確か名古屋から来た列車も、新宿から来たのも両方とも松本に向かってはいるはずだが、そのころは、名古屋から来た列車は新宿向きに入り、そこでスイッチバックする形で、前後逆向きで松本へ向かっていた。

 松本へ11時29分着。駅前で昼食をとって、松本城。13時13分、松本発大町行き。大町へ14に30分着。葛温泉行きのバスは15時40分。約1時間駅前で待つ。16時30分、葛温泉着。・・・さて、宿をどうするか。

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 大町での情報では、「山へ行く人は、T館に泊まるそうですよ。でもいつも満員らしいがね」とのことだった。
 バスを降りると、川向こうに立派な「旅館」が見える。あれはワシらの行くところではないで。とりあえずT館へいってみようかと話し合っていると、大町から同じバスに乗ってきた年のころ40歳半ばのオッサン(ゴメンナサイ。今の私から見れば、40歳半ばはまだまだお若い青年だが、そのとき20歳半ばの私たちからは、立派なオッサンに見えた)が、「あんたたちどこに泊まるのか。私は・・・」と川向こうを指さして、「そこの河鹿荘へ泊まろうと思う。何だったら、一緒に行こうか」という。 と、いわれても、あんなところへ泊まったら、途中で金がなくなるで・・・。
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 しかし、結局、T館は情報通り満員だった。おそるおそる河鹿荘へいってみると、例のオッサンは、玄関脇のソファーに上がり込んで、「来い来い」という。そうして、もう一人のオッサンを交えた4人で、一間へ通される。女中さんが、「よーこそお越しで、ただいまお茶を持って参ります」などという。いよいよフトコロが心配になってくる。おそるおそるオッサンにここの宿賃は?といいてみると、今夜と明朝の二食付きで、515円だ」という。ほんまか?、そんな安いことないやろ。
 もう一人のオッサンは、この旅館になれているらしく、すぐに風呂へ案内してくれた。立派な浴槽で、目の前に高瀬の渓流が見える。またまた、心配になってくる。

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 こうなったら、心配していてもしようがない。腹を決めて、自分で聞きに行こう。高けりゃ、今ならまだ逃げ出せる。結局、一人615円だった。オッサンの値段との100円の差、この意味は未だに不明である。風呂の最中に、雷が鳴り出して雨になった。



※インターネットで調べてみると、現在、葛温泉に『温宿かじか』というのがある。そのHPに、・・葛温泉の元湯『河鹿荘』は、昭和44年8月の洪水で流失。『葛温泉:温宿かじか』は、平成8年4月に再建した施設である。・・とある。

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