穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・37---
1968年8月 田沢湖高原・男鹿半島/3

付 盛岡・秋田・会津若松

その1・その2その3

Web編UP 2019.03.03

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  ■8月7日(水)

  米沢を過ぎたあたりで空が白みだす。これから板谷峠だなと思う。ここはこの前十分見てあるのでそのまま眠ることにする。対向列車待ちのためか、板谷で長い間止まっていたようである。
  急に明るくなったような気がして目を開けると、霧が雲海のように立ちこめる平野を前に勾配を下っていくところ。その上に桃色の太陽が昇る。

◆鉄道に興味をお持ちの方へ。
『奥羽本線板谷峠を訪ねる』(1966年・奥羽本線板谷峠4連続スイッチバック紀行)へジャンプします。またここへ戻ってこれます。

  米沢からの板谷峠を直流電機で越えた列車は、福島からさらに交流電機にバトンタッチされ、朝もやのたちこめる郡山へ6時31分に着く。







  磐越東線用蒸機D60
 郡山にいた磐越東線用蒸機D60。1D1(前輪が1軸、動輪4軸、後輪1軸)のD50という機関車があったが、後輪を2軸として、(車輪数を1軸増やして)、1軸あたりのレールへの負担を小さくし、走行可能路線を拡大したものという。



21.磐越西線・郡山発

  7時15分、磐越西線新津行きに乗り換える。

  喜多方までは電化されており交流電機が牽く。郡山を出ると遥か彼方、頂上を雲に隠した磐梯山が現れる。窓から吹き込む風が寒ぐらい。



22.ここにもあったスイッチバック / 磐越西線・中山宿

  喜久田、安子ヶ島、磐梯熱海と過ぎたところが中山宿。蒸機時代のスイッチバックのなごり。勾配配線のため側線へ入って停車。会津若松発の上野行急行が通過するのを待つ。当時、板谷峠などは雑誌で喧伝され、その存在をよく知っていたが、ここにこんなスイッチバックがあるとは、不覚にも知らなかった。

 いまはどうなっているのかとWikipediaで調べてみた。「1997年(平成9年)3月22日 - 【改キロ】磐梯熱海 - 中山宿 - 上戸(-0.7km)(中山宿駅スイッチバック廃止に伴う)」との記事がある。20年ほど前までは(2019年現在)、スイッチバックが使われていたことになる。現在、高速の磐越自動車道がこれと並行して走っている。2,3度通ったことがあるが、そういえば確かに勾配区間である。


 郡山から来た列車は、左の地図の右端から勾配を登ってくる。そのまま左の側線へ入り、中山宿駅へ止まる。



 地図Cの地点。地図の右下(郡山の方から)から登ってた列車から、水平な山側の側線を見ているところ。こういう水平な線と並ぶと、勾配がわかりやすい。ほう、こんな坂を上ってきたのか。





 地図Aの地点。登ってきた列車が、本線から左へ分かれて水平なホームへ入ろうとするところ。画面に見えているのが本線。勾配がわかりにくいが、本線が登り。側線(いま乗って入る列車が入って行こうとしている線)が水平である。




 地図Bの地点。ホームに止まった列車内から、本線を通過していく急行(小屋の左後ろの勾配を上っていく)を見ているところ。







 急行は、勾配を登りながらカメラの前を通過し、左へ上っていく。地図Dの地点。列車の窓からカメラを回しただけだけど。最後尾を撮ろうとしたらホームの植木が邪魔をした。








23.高原鉄道は行く

  日本硫黄観光鉄道(*)。
  川桁駅のホームからちっぽけな電車が見える。

  *写真が残っているのだから撮ったことは間違いない。アルバムに右のような地図が載っていて、川桁〜沼尻間の鉄道のようである。地図は私が書いたことは間違いはないが、出所はわからない。多分旅行ガイドブックか何かからの引き写しだと思えるが、とにかく前後関係にまったく記憶がない。写真の雰囲気を見るに、何となく廃線直後のようにも感じられる。
  ネットで検索してみると「日本硫黄沼尻鉄道」で出てきた。最盛時は、沼尻鉱山で採掘された硫黄を川尻駅まで運ぶのに使われた貨物輸送主体の鉄道だったという。明治41年より馬力による輸送を開始した。その当時の軌間は609ミリであったが、大正2年、762ミリの軽便サイズに改軌。その後鉱山も閉山し、昭和39年に日本硫黄観光鉄道、昭和42年には磐梯急行電鉄と改称したが、昭和43年7月 、会社更生法の適用を申請。10月14日、 会社倒産。それに伴い全線休止。昭和44(1969)3月27日、 全線廃止にいたるという。
  この旅行が昭和43年8月だから、会社更生法の適用を申請してから会社倒産に至るまでの間ということになる。全線休止の2か月前だから、元気がないのは当然だ。驚いたのは岡本敦郎が歌う『高原列車は行く』の舞台になったともいう(Wikipediaによる)。「汽ー車のー窓か―ら、ハンケチ振ればー」というあの歌は、八ヶ岳山麓の小海線あたりがモデルになっていたのだろうと思い込んでいたが、この鉄道が元気だった時代がモデルだったと。磐梯山やスキー場へ行く観光客に利用され、夏は学生旅行、冬はスキー客で混雑したという。(2019年記)


  磐梯山は、いったんその頂上を雲に隠したが、列車が猪苗代の駅に着いたときに、ひとときそれが晴れて、美しい姿を見せる。東海道線から見る伊吹山のスケールを大きくしたものといえばいいのだろうか。列車はそのあと、磐梯山の裾のに当たる斜面を大きく蛇行しながら会津若松へと下っていく。
  9時31分、会津若松着。

24.鶴ヶ城跡

  1384年、葺名直盛の築城。江戸時代には親藩松平氏の居城であったが、明治維新、滅びゆく徳川幕府に忠誠をささげて一か月の籠城の末、城は落ちた。明治元年9月22日のことである。
  会津藩は、全藩士を玄武・青龍・朱雀・白虎の4隊に分けて戦ったが、戦況意の如くならず。中でも白虎隊は戸ノ原口の戦(猪苗代湖西岸)で敗れ、山間を退却して飯盛山にたどり着き、炎上するこの城を拝して自刃し果てたという。

  会津若松の街は、タクシーの中から見た印象では意外と落ち着きのない街である。もっとも足で探せば、本来の姿を探せ出せるのだろうけれども。

  明治維新に焼けたという鶴ヶ城は、石垣だけが原型に近いものを残しているらしくその上に、とってつけたような新しい天守閣が建てられている。こうなると公園としての価値しか持たなくなる。


*「荒城の月」のモデル
  上の写真のいちばん右。よくみると「荒城の月」の歌詞である。元のアルバムには何の説明もなしにこの写真がぺたりと貼りつけてあるだけ。しかしここに貼ってあるということは、この城址で撮ってきたということであろう。何か意味があるのかもしれないと、「会津若松鶴ヶ城址と荒城の月」で検索してみた。驚いた。会津若松城は「荒城の月」の歌詞のモデルだという。
  土井晩翠は、1898(明治31)年、東京音楽学校の依頼により「荒城の月」を作詞した。その後、晩翠は「荒城の月」のモデルを明かしていなかったが、1946(昭和21)年に、会津若松高等女学校で講演した際、会津若松城(鶴ヶ城)が「荒城の月」のモデルであることを明かしたという。(NHKホームページ・大河ドラマ「八重の桜」(新島八重)のあらすじで紹介する実話の番外編「『荒城の月』のモデルは会津若松城だった」より)
  「荒城の月」といえば、九州竹田の岡城址だと短絡して考えていたが、こちらは作曲者・滝廉太郎とのつながりだという。いやいや勉強のなりました。

  11時30分、駅に戻る。



25.会津若松発

  12時01分発の新潟行きに乗る。引く機関車はC57。見るのはいいが、引いてくれるのはどうもというところ。トンネルが多く、そのたびに窓の開け閉めに閉口する。

  特に阿賀野川と並走するあたりで小さなトンネルが連続するのには参った。

  阿賀野川。現在の会津若松 - 新津間には、森と水とロマンの鉄道という愛称が付けられているという。この「水」は、阿賀野川をイメージするのだろが、実は、私たちがここを通ったとき(1968年)、すでにこの流域には、原因不明の中枢神経疾患患者が多発していた。
  Wikipediaによると、ことの起こりは1964年(昭和39年)だという。科学技術庁は1964年〜1967年(昭和42年)までの3年間、特別研究を行って原因の究明を行った。その結果1968年(昭和43年)、政府はこの原因を「昭和電工鹿瀬工場より排出されたメチル水銀による有機水銀中毒」であるとの見解を発表した。新潟水俣病(第二水俣病)である。
  このとき、私たちは、何も知らずに川を眺め、トンネルのたびにせっせと窓の開け閉めを繰り返していた。

26.列車交換

 どこの駅かわからないが、フィルムの順番からすれば、磐越西線のどこかかと思われる。ディーゼルの急行が通過する。タブレット交換を撮るためにわざわざフォームへ下りて撮ったらしい。20歳代でもないのに、空いた客車列車に乗るとこういうことをやりたくなる。お恥ずかしい。
  15時31分、新津着。


27.新津にいたナメクジ

  すぐ向かいのホームに入ってきた新潟発の大阪行きに乗る。最後尾のガラ空きの箱でのんびり行く。あとはあなた任せで明日の朝京都へ着く。長かった旅も終わりに近い、ふとそんな感がわく。でもまだ京都まで14時間もある。

  乗り込んですぐ、窓からか首を出すとすぐ横にD51が止まっていた。蒸機には阿賀野川のトンネルで辟易したが、よそ事だとなるととたんに張り切り出す。
  おっ!、ナメクジや・・・。
  写真をよく見ると分かるが、蒸気機関車の煙突と後ろのラクダのコブとをカバーでつなぎ合わせたモデル。そのつなぎがナメクジに似ているとファンの間では人気があった。番号限定でどこにでもいたわけではない。D51がごろごろしていたころでも、京都近辺で見たことはなかった。僕自身もこれが初めてだった。

  長岡あたりで通勤客が乗りこみ100%を越える。ここから柏崎まで後ろに3両の増結がある。宮内で上越線を左へ分ける。ここから直江津までの信越線は単線の非電化区間となる。宮内の次、前川を出たところで信濃川を渡る(写真右)。


28.暮れゆく日本海

  柏崎へ18時48分着。暮れゆく中にホームの電灯の明るさが増す。日本海が空と一体になって乳色にかすんで消えてゆく。



  がら空きだった列車が、糸魚川に到着すると大糸線からやって来た山帰りの若者で100%ぐらいに混む。ゆっくり横になっていけると思っていたのがあてはずれとなってがっかりする。

  富山へ22時55分。2両増結されて多少すく。福井、敦賀を多少覚えているぐらいで、ぐっすり眠り、米原で目が覚める。

  ■8月8日(木)

29.京都帰着

  6時16分、京都着。



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