穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・37---
1968年8月 田沢湖高原・男鹿半島

付 盛岡・秋田・会津若松

その1その2その3

Web編UP 2019.03.03

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 1968年夏、”全国高校ユネスコ大会”なるものが開かれた。古い話で何がどうだったのか細かいことは忘れてしまったが、京都で、そのような活動をしている高校から10数名が参加する。生徒の引率はユネスコ支部の事務局が一括して行う。ただし、出発から大会終了までは協会で責任を持つが、現地解散になるので帰りだけは学校別で京都まで引率してほしい。という話である、「どうやろう、行ってくれへんか」という。聞けば、生徒は4人、場所は秋田駒ヶ岳の麓・田沢湖高原だという。そんなところならと、二つ返事で引き受けた。
  何日間かの大会が終了して現地解散。生徒たちが、折角こんなところまで来ているのだから、方々回って帰りませんかという。秋田から男鹿半島を一巡りして、竿灯祭りの夜に秋田発。奥羽本線経由で福島へ。東北本線で郡山へ。磐越西線で新津へ。そこから信越本線、北陸本線経由で米原へというアホなことをやった。そのときの記録である。


01.京都から盛岡まで

■1968年(昭和43年)8月2日(金)

 午前11時に京都駅集合。同行、ユネスコクラブの生徒4名、ほかに堀川、同志社、西高の生徒などユネスコ全国大会参加組。みんなは急行”第2なにわ”に乗る予定だが、ボクは所用のため新幹線で先行する。
  遠い昔の話だが、その前年、1967年1月に東京のS社から”不安と孤独の季節”という本を出版した。当時担任していたクラスの生徒が書いた文章をまとめたもので、全国の高校生から結構反応があった。そんなことで、せっかく東京を通るのだからということで、S社へ挨拶を兼ねのて寄り道。大した用事でもない、要するに新幹線に乗りたかっただけの話だ。
  とまあそんな話で、生徒は京都の事務局に預け、往路は東京まで勝手な行動。

  11時23分発のこだまはがら空き。15時05分東京着。到着の感動はなし。感動の伴わない到着は旅ではなく、単なる移動である。「空白の到着」、そんな言葉をふと思う。



 上野駅で皆と合流。想像を絶する混雑ぶり。駅全体に異様な雰囲気すら感じられる。当然のことながら急行”きたがみ”も超満員。2等の通路は言うに及ばず、1等の通路もふさがっている。右上のホームの雰囲気。ゴミが散らかって昭和30年代初期を思い出す。100円也の座席指定券が1000円にも感じられる。殺気と諦めを詰め込んだ急行”きたがみ”は定刻23時05分、上野発。


■8月3日(土)

  暗黒の那須高原を越した列車は、4時過ぎ、福島を過ぎたあたりで薄明を迎える、朝霧が立ちこめる宮城野。その茫洋たる広がりの中を北上する急行”きたがみ”。
  夜が明けて花巻電鉄の細い電車が見える。

  馬ヅラ電車(762mmナローゲージ、)の愛称で鉄道雑誌にもよく登場していたが、さあこのときのこの車両は現役だったのか、引退後だったのか。現役だったとしても、まだ始発電車が走る前の時間帯だし、ちょっと判断に苦しむ。ネットで調べてみたが、”1969年(昭和44年)9月1日 花巻 - 西花巻 - 西鉛温泉間廃止”などとあるが、この写真のエリアがどれに当たるのかそれも分からない。細かいことは言わずに、年代だけから見れば現役ということになるが。それにしても自分のカメラでこんな写真を撮ったことすら完全に忘れていた。「この写真はお前が撮ったんだぞ」といわれても、「そうですか、ホンマにボクが撮ったんですかね」という以外返事のしようがない。
 

  定刻8時15分、盛岡着。








02.盛岡・不来方城

  田沢湖線に乗り継ぐまで、盛岡市内を自由に散策。

  盛岡市内。
  岩手県の県庁所在地盛岡は、もと南部氏20万石の城下町。森の都、東北の京都といわれ、晴れておれば町の北西に岩手山が秀麗な姿を見せるという。しかし、この日の盛岡は薄曇り、町も何となく埃っぽく、やや、期待を裏切られた感を抱く。
  駅前に啄木の”ふるさとの山に向かひて・・・”の碑が建つ。

  開運橋(北上川)を渡って盛岡城址(不来方城・こずかた城)まで歩く。城址は公園になっているが、けばけばしい遊技施設はなく、しっとりと落ち着いていて好感をもつ。ここで寝ころんだという啄木の心が分からないでもない。

不来方(こずかた)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし十五の心


03.田沢湖線

田沢湖線・盛岡〜田沢湖

  盛岡駅10時23分発の急行”第1南八幡平”に乗る。
  盛岡を出た田沢湖線は、岩手山の裾のを横切る感じになり、小岩井まではのぼりが続く。広々としたスロープに牧場が点在し、ちょっとした高原風景。信州八ヶ岳山麓を走る小海線とよく似た風景である。
  それを上り切ると雫石へ向かって一気に駆け下る。それから再び上りになり、岩手県と秋田県との境の仙谷峠をトンネルで抜けて、生保内川沿いに田沢湖駅へと下る。途中、屋根に覆われた列車交換所があるが、夏のいまは明るい感じである。

04.開会式

  田沢湖駅へ11時18分に着く。田沢湖そのものはかなり離れていて直接見えない。
  駅から10分余の田沢湖町体育館で開会式と記念講演がある。
  4時ごろから激しい夕立があり屋根が鳴る。その雨の中をバスで40分余、宿舎”駒草荘”へ入る。


05.駒草荘

  まるで滝壺にいるような激しい雨、それに雷。ありがたすぎる歓迎ではあった。しかし、それが小止みになると、眼前に駒ケ岳のスロープが姿を見せ出し、そして、見はるかす彼方に田沢湖が白く、鈍く浮き上がるように見えだす。やがて空が灰色に消えて、涼しい夜が来る。霧に塗れる駒草荘


■8月4日(日)

  朝6時半から宿舎目の広場で朝礼・体操。あたりにガスが立ちこめて眺望全く利かず。ときどきガスの切れ間を通して見える空は、曇って天気はあまり良くない様子。7時過ぎに小雨がぱらつき、しばらくして止む。8時過ぎ、申し訳程度の晴れ間が見えだす。外へ散歩に出るが眺望は依然よくない。

06.田沢湖

  生徒諸君はそれぞれの立場で活動しているが、ボクはとりたてて何も仕事がない。ということで、一人で田沢湖へ出かけたもののようだ。

  9時20分の湖畔行バスに乗る。田沢湖高原から湖畔までは30分ほどを要する。湖畔に着いて失望した。昨日見た遥かなる山間の湖のイメージはどこへやら、バスターミナルにはおよそ雰囲気にマッチしないレストハウスがあって、遊覧船のPR放送がひっきりなしにある。ここまで”夜目遠目・・・”の諺が生きていたとは。しかし、よく考えれば今日は日曜日であった。
  湖の本質的なものに触れるには、バスターミナルの反対側まで足を伸ばさなければならないようだ。

07.生徒たちの活動

 午後、生徒たちの分科会に顔を出す。人権問題を中心として、黒人問題、沖縄問題などが盛んに討議されている。
  夜遅くまで報告書を作成するメンバー。

夜はファイアー

■8月5日(月)

  朝、青い空が見える。久しぶりに見る青空。芝生の緑が輝く。7時ごろまではガスが去来していたが、それが晴れ上がると駒ケ岳(1637m・右)が美しい姿を見える。8時出発までの間、180mmをつけてそれを狙う。もう1枚、駒草荘の建物を前景、に入れたもの。つまらない写真だけど望遠効果はあるようだ。

*駒ケ岳を撮った180oというのは、そのとき持って行っていたマミヤ6X6の望遠レンズ。一般に二眼レフはレンズ交換ができないのが普通だが、マミヤ6X6は撮影レンズとビューレンズが一体となっていて、それがボディから取りはずせるようになっていた。レンズ交換式二眼レフである。6X6判での180mmというのはさして効果が期待できるものではなかったが、それでもめずらしく、ないよりはましでときどき使っていた。
  このときはめったに行けない駒ヶ岳の麓に行くというので無理して持って行っていたのだろう。左のカメラの写真は別の場所で撮ったものが残っていた。レンズはちょうど180mmがついていた。右向きに突き出ているレンズ2本が上下セットで、バネ1つでボディーからパカッと外れる独創的なカメラだった。この旅行のときの三脚はもうちょっと小ぶりのものを持って行っていた。二眼レフはミラーが中で動かない分動作は安定していた。少々弱い三脚でも静かに使えば十分使用に耐えた。一眼レフとは別の意味での二眼レフの長所だった。

  気がついてみると、宿舎の前に、美しい白樺が大小合わせて数本ある。昨日何回かそこを通りながら気がつかなかった。それが今朝は、朝日に映えて美しく目立つ。やはり白樺は明るい光の下でこそ真の美しさを見せるのか。(左上の写真)

  田沢湖があの夕立の後で見たのとは全く別の姿を見せる。

  午前8時、宿舎を出てバスで田沢湖町体育館まで下る。その間絶えず駒ケ岳がコニーデ型特有の姿を見せる。もう1枚


08.全体会議・閉会式


  9時から体育館で全体会議と閉会式。
  その間に田沢湖町の方々の郷土芸能の披露、おぼない節、秋田おばこなどの歌や踊りがある。(スライドショーは止まりません。そのまま進んでください。)

京都・沖縄のメンバーが記念写真を撮ってユネスコ大会が終わる。



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