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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・9 旧六番橋秘聞


大川左岸へ大川右岸へ

初稿UP:2012.08.06
写真・特記したもの以外2012年07月撮影
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 写真00・不思議な標識
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 不思議な標識である。場所は旧大川橋左岸の変則四差路。内容は「1.5t この先350m」とある。皆さん、ここに立ってこの標識の内容が理解できるだろうか。
 「350m先に橋があって、1.5トンの重量規制があるのでしょう」と答える人は幸せ。人生何の悩みもない。
 私なんかは人生悩みばかりだから、こういうのを見ると気になって仕方がない。だいたい、この橋(規制対象の橋)はどこにあるのだろうか。「どこ」で分かりにくければ「どちら」にあるのだろうか。「この先350m」は、右か左、どちらを意味するのか。要するに、橋に対する重量規制はどちらへ行けば出くわすのか。それが分からない。
 道路標識は、道路から見て左側に立っている。これが常識。だとするとこれはここから見て、右奥へ進む道路のはず。実際にはそれが現在の大川橋跡道路で、150m進むとつぎの道路に突き当たってしまう。あと200mおつりが来るわけで、また右か左かで悩む。結論から先にいえば、そこでさらに右へ行こうと左へ行こうと200m以内に橋はない。
 じゃ、左だと簡単に考える人は幸せ。距離メーターをリセットして350m走る。橋など影も形もない。なんやね、これは!。と腹が立つのをぐっとこらえて、もう一度考える。オモチャのようなミラーがついて文字を隠している。だいたいそれがおかしい。さらに道路から随分奥まった場所に立っている。こんなところにミラーがあっても、何の役にも立たない。まともな道路標識なら、こんなところには立てない。これは公園のアクササリーだ。いや、何かを意味する記念碑ではないか。
 しかし、それならそれで意味をはっきりさせてもらわないと人騒がせで終わる。・・・とまあ、これを前置きにして・・・。


 写真01・旧六番橋のこと
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 左は旧大川橋跡道路沿いにある「旧野洲川のすがた碑」の一部。今浜町美崎から旧南流がさらに左右(あえていえば東西か)に分かれて琵琶湖へそそぐ部分である。美崎(旧新田)、大川橋とある。現在の今浜町美崎はかつて「新田」といったのだろう。そこまでは分かる。分からないのが「六番橋」である。
 いまの湖岸道路はさておき、旧大川橋が野洲川南流を渡る橋としては最下流のものだと思いこんでいた。ところがそれよりさらに下流に「六番橋」という橋の名が出ている。これが分からない。



 地図0A・野洲川概念図
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 左の概念図を見れば分かるが、旧大川橋は上流の川田橋から勘定して6番目に当たる。「大川橋」のことをこのあたりでは「六番橋」といって、石を刻む上で、並べて書くのも具合が悪いのでちょっと離して書いたのではないか。と、勝手な推測をしたりもした。
 何回目かに行ったときに、ちょうど子供の下校時間帯に当たり、交通当番のおじさんが定員一人のボックスに所在なさそうに一人ぽつねんと座っていた。
 そこの石碑に載っている”六番橋”というのは・・・。
 「あー、六番橋か、あれもうないわ。地図には載ったるけどな」
 ないのは分かってるんです。それよりも、以前にはあったのですか。たとえば大川橋のことをこのあたりでは六番橋と呼んでいたとか。
 「違う違う、大川橋はここにあった。六番橋は別にあったんや。そこちょっと行ったとことこや。今は竹薮になっとるわな。ワシら子供のころは、水が出たら六番橋へ逃げろと教えられた。ほかよりちょっと高かったんやろな」
 なんぼ高こうても、橋が流れたらしまいやん。ホンマカイナといいたかったが、口には出さずにだまって首を傾げていると、
 「ワシ、説明が下手やからわからんかもわからんが・・・」と石碑まで歩いて、「ここから、枝の川が出とったわけや。その枝に架かってた・・・
 ・・・六番橋が。ああ、そうか野洲川を渡ってたわけやないのや。支流に架かってたわけですか。
 本流が危ないのに、支流が安全だという理屈は分からずじまいだったが、支流にかかっていた橋だということが分かっただけでも大収穫だった。




 地図01・国土地理院25000分の1地形図(堅田)1981(昭和56)年2月発行
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 帰って調べてみた。あった。これだけのエリアに文字といえば「新川」と「美崎町」だけ。その「美崎町」の右下の橋が大川橋。これは間違いなく南流を渡っている。「美」の字の左に支流が出ていてそこを渡る橋がある。これや六番橋は。
 ちなみに、琵琶湖大橋取付道路以北の湖岸道路は、いまのリゾートマンションの手前ぐらいまでしか記載されていない。だからこの地図の時点では大川橋が野洲川最下流の橋だったわけ。なお、念のために確認しておくと湖岸道路は取付道路で妙なずれが生じている。取付道路を越えて湖岸道路を直進しようとすると、ほんのちょっとだけ取付道路を走らなければならない。面倒くさいことが起こっていた。


 地図02・国土地理院25000分の1地形図(堅田)2004(平成16)年2月発行
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 驚いたことに「美崎町」の名が消えている。今浜町美崎になったためだろう。大川橋の姿が消え細い道路になっている。ルートも現在とは多少違いがあるようだ。湖岸道路は現在の姿に変わっているが、六番橋は健在である。




 地図03・国土地理院50000分の1地形図(京都東北部)1951(昭和26)年8月発行
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 たとえば琵琶湖大橋がなかったころ、六番橋はあった。枝分かれするところ、すなわち六番橋のところでは流れは1本だが、その後すぐ枝分かれして、4本にも5本に及ぶ支流が今の琵琶湖大橋が架かるデルタを形成している。そのメインに当たるのが、これから歩こうとしている北から2本目の川である。いちばん北の川はいまの大型商業施設ピエリ本体と駐車場の間に流れ出ている。これら2本以外の支流は琵琶湖大橋工事によって消滅してしまったようである。


 以上のことを予備知識として、いざ出陣。


 写真02・六番橋跡
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 大川橋跡から河床林を右に見て進むと、オッチャンがいう本当のすぐそこだった。左に見えてくる藪が枝分かれした川の河床林である。右が南流そのものの河床林。森と森に挟まれた部分が六番橋が架かっていたところ。道はT字路で左へ別れる。枝の左岸を歩く勘定だ。
 例の道路標識がいう「350m先」はここのことだとすぐに分かったが、帰って地図で読んで見ると、まさにピシャリだった。橋があったころは標識は現役として道路の左側に立っていたのだろう。橋がなくなり標識撤去の段になって、捨て去るに偲びがたく、右側の公園に移したのだろう。それならそれでちょっと注釈をつけてくれるともっと意味が深くなろうものを。それにしても水が出たとき、重量制限が必要な橋に人が避難したのだろうか。

 写真03・枝川左岸
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 「枝分かれした川」ではリズムがとれない。「枝川」と表記することにする。その枝川の左岸を歩く。右が枝川跡。鬱蒼たる河床林である。中は見えない。道は何となく右へ曲がっていく。






 写真04・湖岸道路が近づく
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 すぐに湖岸道路が見えてくる。走っているクルマは湖岸道路に対して、一旦停止の準備。その奥左向きにクルマが走っているところが湖岸道路。(手前左向きの白いクルマは駐車中で話題外)
  右側は枝川の河床林である。水面はほとんど確認できない。湖岸道路近くへ来て、ごくわずかに水面らしきものも見えるが写真に撮れる状態ではない。

 写真05・湖岸道路出会い
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 湖岸道路に出会う。先ほどの南流左岸跡のT字路から170mほどである。今までのルートは上で見た地図02にはっきり出ている。枝川の左岸ルートをだとってきたことになる。そのあと川は湖岸道路の下をくぐって西側に出て、左へカーブしながら進んでいく。Google Map によれば、その左岸にも小径がついているようだ。当然それを進むつもりでいた。
 同じ場所から湖岸道路添いの水路を1枚(写真26)。水がきれいだった。


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 写真06・草むら
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 ところがご覧の通り。道のすぐそばに、何でこんな草むらがと驚くような繁みがあって、小径が左へ入っていく。(まっすぐ行くのは湖岸道路の歩道である。念のため)。ものはためしと入ってみたが、ものの数mで立入不能。・・・・「立入禁止」ではない。地図にも明記されている道が「立入不能」の状態である。

 写真07・枝川河床
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 で、小径はあきらめてそのまま湖岸道路を直進する。ぎっしり詰まった竹、枝川の河床である。裸の部分はクルマ屋さんの裏庭に当たる土地で(クルマ屋さんの土地かどうかは不明)その部分の藪を刈り取ったあとらしい。この対岸の小径を歩くつもりでいたのだが、いずれにしても無理な話だった。

 写真08・T字路左折
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 少し進んで変則T字路を左折。左の写真は湖岸道路を反対側(琵琶湖の反対側)へ渡って、これから左折しようとする道路(画面奥に向かって伸びていく道路)を見たところ。よく考えたら、これが湖岸道路の旧道だった。画面では見えないが、右外がピエリの駐車場。

 写真09・新六番橋
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 クルマ屋さんを過ぎると橋(錆びた欄干が見えている)に出会う。クルマの奥に見えている跨道橋は取付道路からピエリ駐車場への進入路。今の橋とは直接関係はない。最初の予定では川に沿って進むつもりが、結果的にはほんの少し遠回りをしたことになった。
  銘板を見る。「しんろくばんばし」。なに?これが「新」か。反対側を見ると、「昭和42年12月竣工」とあるから、湖岸道路を通すについて架けられた橋だろう。枝川にはすでに「六番橋」が架かっている。「第2六番橋」でもよかったのだろうが、それよりも「新六番橋」の方がエエで。なんぼ古くなっても「新」やから。昔、私が子供のころ、いまの阪急京都線のことを「新京阪」と呼んでいた。まあ、新快速、新名神と同じ発想やな。

 写真10・なに、大谷川?
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 あと2つの親柱には草が生い茂っていたが、それを除けると「大谷川」との銘板が出てきた。ヘー、この川、大谷川というのか。何でこんな下流に「大谷」やね、と思ってよく見ると、何となく違う。なんや、「六番川」やないか。そういえば、交通指導員のオッチャンと話したとき、川の名前は話題にならなかったし、私自身、この川に名前があるなんとことは思ってもみないことだった。しかし、考えてみればすべてのものには名前がないと社会生活は成り立たない。そうか、「六番川」か。これは勝手な推測だが、いちばんずぼらなネーミングだろう。大きい川から一番、二番・・・六番か。または手前から順に一番、二番・・・、その方が可能性が高いな。そういえば地図03を見てもそれぐらいの枝川はある。

 写真11・新六番橋銘板
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 橋の名前も分かったし、川の名前も分かった。これは収穫やった。しかし、漢字の銘板をまだ見ていない。最後の親柱は草に覆われていた。やめとこうかとも思ったが、どうせ後悔するのは目に見えている。えーイやってしまえ、と突撃して撮った写真である。

 撮り終わってからだんだん腹が立ってきた。何やね、この道路整備は・・・・。昭和47年、湖岸道路の橋として竣工したときは、麗々しく渡り初めも行われただろうし、華々しく報ぜられたことだろう。それが現在はこのていたらくである。なるほど、今この道は人も車も通らない。こんな道を造ったのはどこの誰か。
  この道も出来た当時は湖岸道路は地図01のように、琵琶湖大橋取付道路を巻き込んでカギ形に折れ曲がっていた。それが渋滞の一因にもなっていた。琵琶湖大橋は1本だったし、他にも色々要因はあっただろうが、それでも渋滞はひどかった。ゴールデンウィークには取付道路の渋滞が守山市街地まで続いたという。それを解消するために湖岸道路が現在のように付け替えられた。その結果が今の姿である。
  カギ形を造れば渋滞を引き起こす。そんなことは戦国の昔から分かり切ったこと。城下町には敵の進入を防ぐために、いいかえたら渋滞を起こさすために枡形を造った。その枡形道路をあえて造ったのである。作っておいて、渋滞が起こるからと切り捨てる。これほど無駄な話はない。新六番橋は泣いている。

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 写真12・新六番橋から上流側を見る
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 こういう残流水路のような川を観察しようとするときは、橋が頼りである。たとえば川岸に立って川面を望むというような悠長なことは不可能である。
 これは新六番橋から上流側を見たところである。橋の上から見てもこの通りである。草に覆われてほとんど水面は見えない。ましてや川岸からにおいておやというところである。
  どうせ茶色く濁った水が見えるだけなんだから。と橋の上から水面を見るとちょっとわけが違う。少なくとも水が流れている。旧北流、南流の残流水路においては、水が動いているところはなかった。ところがここは少なくとも流れているのである。

 写真13・ピエリの駐車場1
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 ピエリの駐車場へ入る。驚くほど広大なもので、そのまん中を六番川が横切り駐車場を2分している。駐車場側からいえば、万里の長城である。その長城に2箇所切れ目があって、両駐車場間の連絡通路が通っている。左の写真はそのうちの1本で、琵琶湖大橋取付道路からの連絡道路につながっている。
 道は当然六番川を渡る。そこから河床の様子が見える。

 写真14・ピエリの駐車場2
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 こちらは堅田からの入口。写真は堅田側からやって来て、六番川を渡るところである。細かいことをいえば道路の下流側に歩道がつけられており、フェンスがついている。カメラ側は歩道なし。普通のガードレールがついている。だからこの写真でいえば左が下流である。ちなみに写真13でいえば、右に歩道が見える。右が下流側である。だから、写真13と写真14とではカメラは正反対を向いていることになる。



 写真15・新六番橋下暗渠
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 写真13の進入路から上流側を見たところである。すぐ目の前に新六番橋があって、その欄干がわずかに見える。水路は細い暗渠でつながっている。新六番橋は橋であって、その下が暗渠?。確かめてみたら、橋のすぐ下にもう1本道があって、それが川を締め切る形になり暗渠でつながっているということらしい。


 写真16・魚が
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 その暗渠から水が流れてくるのである。もちろん大々的にというわけではない。しかし注意してみると木の葉などがゆっくりと流れ出てくる。流れ出て広いたまりへ出ると流れは感知できないが、少なくとも水は止まってはいない。それに、色が旧北流・南流で見たあの茶色ではない。深さ10cmか20cmぐらいまでは見通せる。驚いたことに魚が群れをなして動いている。水辺周辺をもう1枚。確かに底にはヘドロがたまっている。しかし水面から数10cmぐらいまでは魚が生息できる環境らしい。足音を立てて逃げられたがカメもいた。

 写真17・青空を映す
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 進入路の下は暗渠でつながっている。水はゆっくり流れている。水面が青空を映す。実際にはヘドロがたまった息絶え絶えの状態には違いはないが、こうして空を映すかぎりでは生きた風景になっている。もう1枚どうぞ

 写真01Aを見ると、六番橋の「番」の字の左にもう1本枝の川がみえる。たとえば地図03地図01にもきっちり表記されている。いまでいうと、ピエリ駐車場と建物群との間。湖岸の堤防にもしっかりした水門が見える。地図03では枝川であることは明らかだが、地図01地図02ではそれがもう一つはっきりしない。行けば分かるだろうと、とにかく現場へ。

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 写真18・ピエリ横の漁港
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 いまこうして写真を見ると、誰が見ても漁港だということは一目瞭然。しかしそのときはいわゆる枝川の一つだと思いこんでいた。六番川のどこかから枝分かれしてるはずだ。そのルートが地図では分からない。だからその存在がはっきりした場所へ行って、そこから逆にさかのぼれば分岐点が分かるだろうと考えた。しかし実際に現場へ行ってみると流れ込む川はない。あえていえば直径30cmぐらいの排水口が2本、流れ込んでいるだけ。それを確認した時点でも、まだどこかに仕掛けがあるのではないか。そう考えていた。

 写真19・護岸堤から
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 すぐに琵琶湖の護岸堤に出る。向こうは琵琶湖大橋。振り返ればピエリノ建物が大きい。ここまで来たときには、これは川ではない、漁港だと思い始めていた。水門も明らかに船の出入りを考慮して造られている。
 しかし、漁港の名前が分からない。どこかに何かないかと探してみたが全く不明。水門の名が「美崎水門」だから、多分「美崎漁港」というのだとは思うが。

 写真20・美崎水門
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 少なくとも、地図03のころは、明らかに枝川の一つだった。しかし、いまは漁港として独立しており、六番川とは直接関係はないのだろう。としたら・・・、六番川の流出口はどこなのか。最初、左の水門を見たとき、これは六番川の出口も兼ねているものと思いこんだ。しかしそれはどうも間違いらしい。だとすれば六番川の出口はどこなのか。

 写真21・護岸堤琵琶湖大橋側
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 琵琶湖大橋の方を見渡す。距離にして200mほどである。水門らしきものは何も見えない。これもまた不思議な話である。・・・なのだが、いま画像を拡大してみると実はこの中に見えているのである。画面まん中当たり、大橋の一部が見える。その右下に小さく長方形の枠が見えるのがそれである。でも現場ではそれが見えない。いや、見えてはいるのだろうけれど、漫然と見ているだけだから分からない。

 写真22・六番川樋管
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 とにかく歩いてみることにする。大した距離ではない。なんや、こんなところにあったんや。遠くから見れば琵琶湖大橋の構造体の一部に見える。小さな水門だった。名標を見ると「六番川樋管」とある。


 写真23・樋管前から上流側を見る
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 樋管前から上流側を見たところ。右上画面外が琵琶湖大橋のゲート。右側斜面中腹を細い小径が行く。それをたどると右上のモニュメントのところへ出る。
 六番川はぎっしり草に覆われ水面は見えない。もう1枚、右側小径の中程から上流を見る(写真23A)



 写真24・堤防をくぐる六番川
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 六番川が堤防下へ入っていくところ。奥に見えるのが琵琶湖。近寄ってみると河床全面に草が生えている。しかし、部分的に水面が見える。決して濁った水ではない。
 写真では表現できないが、肉眼で見ると水が流れ出ているのが分かる。

 写真25・琵琶湖へ
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 もう一度堤防へ上がって琵琶湖側を見る。なんと、きれいな水が流れ出ている。「写真では表現できないが・・・」なんて言い訳不要。何で初めにこれに気がつかなかったのか。岸辺へ下りて水門側を見る。幅1.5mぐらいの水路から水が流れ出てくる。それがキラキラ光りながら琵琶湖へ注いでいる。
 六番川は、かつては南流の枝川だった。しかし現在は完全に締め切られ、湖岸道路を横切るあたりまでは水流はない。それがここへ来て流れているのである。その水はどこから来るのか。どう考えても不思議である。もう1度確認してみることにした。

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 写真26・湖岸道路沿い水路1
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 そういえば六番川跡と湖岸道路の出会いで不思議に思ったことがある。道路沿いを流れてきた水路がそこで消えていたぞ。最初それを見たときは別に気にならなかったが、よく考えてみると不思議な話だ。あの水はどこへ消えたのか。未練たらしく消える前の水流をもう1枚



 写真27・湖岸道路沿い水路2
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 左がその現場である。フェンスの外が湖岸道路。黒いクルマが2台続けて走って来る。その両側が六番川の河床林。湖岸道路が六番川の河床を横切っている構図が見えてくる。その手前、右から来るのが六番川左岸跡道路。そのT字路で、水路、水ともに忽然と姿を消す。念のために反対側からの写真をどうぞ。左から白いクルマが出てくる。水路はその向こう側で消える。左は六番橋の河床林。

 写真27・ヤブの中
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 消える、消える、といっているが、水路はともかくあの水流、あの勢いの水が消えることはあり得ないわけで、おそらく湖岸道路の下をくぐって旧六番川へ流れ落ちると推定される。そこを水が流れていることが確認できれば、一応のつじつまだけは合う。六番川側からいえば、湖岸道路と出会った時点で完全になくなっていた水流が、その下流でまた復活しているのだから。しかし、簡単に中の様子が見える場所ではない。どこかでその水面が見えないか。もう一度念入りに確認して歩いた。
 結局、クルマ屋さんの裏庭、ヤブを切り取ったところだった。そこへ入り込んでヤブの中を覗く。警官に出くわしていたら、不審尋問ぐらいはされていたかも知れない。でも家の中を覗くわけではないしとやかくいわれる筋合いはないと開き直って・・・。
 それが上の写真である。藪の中だから、水を波立たすほどの風があるとも思えない。おそらく水の動きによる波だろう。ほぼ同じところからもう1枚。湖岸道路にいたるまでは旧六番川に流れはなかった。それを渡ったところからは水は流れている。それがピエリノ駐車場の中を流れて、琵琶湖へ流れ出ていたのである。その水量は、素人の目分量だが、出会いで消えた水量とほぼ同じだった。


 ちなみに、例の水路の水はどこから来たのか。GoogleMapで地図を拡大してトレースしてみると、なんと今浜橋から大川橋まで歩いたときに、水保町の新しい住宅地の中を流れる水路を見た。そこから来ていたのである。そこでも水の美しさに驚いた。だから、いま湖岸道路沿いの水路が美しいのは当たり前と納得したのだった。





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