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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・6A 
旧今浜橋から旧大川橋まで/左岸外縁道路


右 岸 へ 地球市民の森へ

初稿UP:2012.07.29
写真・特記したもの以外2012年07月撮影
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1.旧今浜橋付近


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 写真01・旧今浜橋跡から残流水路を見る
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 かつてここに高さ数mの橋がかかっていた。新放水路の開通で川は役目を終えた。堤防は平地化され橋は取り除かれた。しかし、いまも流れは残っている。
 画面の柵が2種類見える。右が道路そのものの柵。左は残流水路の橋の欄干である。写真には写っていないが、草むらの中に茶色の水が残っている。このあたりはまだ地球の森のエリアである。「ふるさとゾーン」として、昔の南流の姿をそのままに残されているという。画面中央奥に見える小山のような森も当時の河床林である。



 写真02・旧今浜橋跡下流
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 旧今浜橋跡を越えて、外縁道路が続く。道を渡った右側に旧今浜橋の親柱が見える。実は前項で類似の写真を見てもらった。私自身撮ったときにも気づかなかったが、どこか雰囲気が違う。今回のは草が刈られ親柱がきっちり見える。どなたかが手入れされているのだろう。




 写真03・地球の森作業中
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 残流水路の向こうに地球の森が見える。芝生広場の一画で作業中。手前のヨシの下が水路のはずだが、水面は見えない。








 写真04・行き止まり
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 道はすぐに行き止まりになる。引き返して地図で見る直線道路を進むことにするが、その前に周辺の状況を。
 左奥の森が南流左岸の河床林、それがとぎれたところから右手前にフェンスが続いてくる。そのフェンスの手前、それに沿うように残流水路が見える。水面が周囲のヨシに同化して見にくい。そこに水面があると意識してみないと見えてこない。現場に立って肉眼で見てもそんな感じである。夕方、西日を受けたときに水面が反射するときがねらい目かとも思うが、まだそれは撮影できていない。フェンスの向こう側に続く森は地球の森「つどいのゾーン」内の森。これもかつての右岸の河床林だろう。




 写真05・直線農道
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 ほんの少しバックして、左へ続く直線農道へはいる。旧南流外側に約500m、軽トラック1台でギリギリの道幅である。直線道路をもう1枚






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 写真06・旧堤防跡・河床林
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 道の両側はビニールハウスが続くが、ところどころこのような切れ目があって、畑の向こうに旧堤防跡、河床林が見える。旧堤防跡へは無理すればあがれないかも知れないが、上がり口も分からないし、上がって果たして道があるかどうかも不明。




 写真07・水田
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 行く手に新しい住宅地が見えてくる。その手前に水田が見える。今まで歩いてみて理解できたことだが、水田は旧堤防の跡ではない、ということ。ここからはもともとの田畑だったところであろう。






2.南流跡横断道路


 写真08・新しい住宅地に出会う
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 左手前からやってくる一般道路とX字型に交わる。琵琶湖大橋取付道路・信号「速野」からやってくる道である。今歩いてきた農道をそのまま直進すると住宅地の中へ入っていく。右折して少し行くと堤防跡にぶつかる。





 写真09・堤防跡沿い1
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 家一軒分進むとすぐに旧堤防跡。矢印に沿って左へ曲がると旧堤防に沿うようになる。以前このあたりで、旧堤防跡に上り、三上山を見た記憶がある。もちろん周囲は田畑で住宅地など、見たくても見られなかった。





 写真10・堤防沿い2
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 新しく整備された住宅地を左に見て、道は堤防沿いに右へ右へとカーブしていく。以前見た風景は、旧堤防上の道がゆるーく左へカーブしていた。左手は藪、それをたどっていくと藪の影から三上山が現れた。カメラを低くセットして、高くわき上がる積乱雲で絵を作った。




 写真11・三上山
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 そんなことを思い出しながら、ふと後を振り返ると・・・。まさにその風景だった。いま歩いてきた道は左へ左へとカーブし、左が堤防跡、その向こうに三上山が見えた。あのとき、堤防下には細い道が見えていた。それがいまのこの道だ。「幾年故郷来てみれば・・・」の思いだった。それにしてもあのとき、堤防上への上り口はどこだったのか。帰ってから、その「積乱雲」のポジを探したが、見つからなかった。




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 写真12・十字路
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 しばらく行くと一旦停止の十字路に出る。琵琶湖大橋取付道路・信号「水保町中野」から来る道路で、旧南流を横切り右岸跡につながっていく。走っているクルマは右岸跡から来て水保町中野に向かう。ちなみにこれをそのまま直進すると、佐川美術館の前を通って湖岸道路へ出る。現地の標識に「美術館通」とある。水保町中野側(写真12A)を見る。クルマの奥の森は旧南流河床林。
 反対側から左岸外縁道路(写真12B)を見る。一旦停止を渡って、向こう側からいま歩いてきた道(白いクルマが走って行く)を振り返ったところ。左の森は旧南流河床林。




 写真13・南流跡横断道路
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 私がつけた名前である。大げさな名前がついたが、その名の通りの道路である。かつて南北両流が現役だったころ、流れを渡るのは橋だった。橋のないところは渡れない。その後、川が平坦化されて、理屈の上ではどこでも渡れるようになった。しかしやはり今でも両流跡を渡れるのはそのほとんどが旧橋の跡である。
 そんな中で、この道路は異例である。湖岸道路から佐川美術館の前を経て、取付道路「水保町中野」まで、これがいわゆる美術館道路。それをさらに延長して旧南流右岸跡まで。それもこのあたりは地球の森の現況保全エリアに当たり、南流跡は旧堤防のままの形で残っている。そこを新しい道路が堤防の切り通しを横断する。まさに異例である。
 写真は南流を横断する道路。白いクルマは水保町中野から右岸跡道路(県道323号)へ向かうところである。切り通しの遠景(写真13A)をもう1枚。




 写真14・旧南流河床林
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 写真12の一旦停止から右に曲がって、旧河床を見る。一見して狭いなと感じる。部分的に水面が見えるところもあるが、今のこの写真には写っていない。道路にフェンスがあって自由がきかない。このあたりはまだ地球の森の範囲内であって、いわゆる「ふるさとゾーン」(現況保全エリア)である。これが100%昔のままだとは思わないが、こうしてかつての状況が残されていることは、歴史の証人としては大事なことである。この状況と現代の都市生活とのバランスが問われていくのであろう。



3.美崎付近


 写真15・神社の森
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 さて、先ほどの写真12・一旦停止を直進する。右に旧河床林が続き、左に神社の森が見えてくる。
 この森のすぐ左に鳥居があって、「皇太神社」。どえらい名前である。それを過ぎるとお寺。地図によると「阿弥陀寺」とある。





 写真16・美崎集落
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 阿弥陀寺を過ぎて道路がゆるーく左に曲がり出すと美崎集落。右手に桜並木。その幹を通して明るい茶色の線が見える。美崎グランである。





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 写真17・美崎グランド
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 桜並木をくぐってグランドへ出る。入口に地蔵さんが祀られている。それ以外に、何があるわけでもない。まあ、要するにただのグランドであるが、遠くにプラネタリウムのドームが見える。なんでこんなところに?といぶかったが、横にラフォーレ琵琶湖の本体が見える。なるほど、もうそんなところまで来ているのだと、あらためてその場所を認識した。



 写真18・児童公園
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 グランドを越えると児童公園がある。振り返ってみたところで、奥に美崎グランド、独特の土の色が見える。








 写真19・旧大川橋跡道路
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 T字路に出る。旧大川橋跡である。写真は左岸から右岸を見たところ。後述するが、実際の大川橋はこの画面の右外(上流側)から、正面に見える建物(美崎自治会館)当たりに向かってに架かっていた。
 上の写真18は、中央の木の向こう側から撮ったもの。木の下に立て看板が見えるが、その影に下の写真20・「旧野洲川のすがた」碑が建っている。



 写真20・旧野洲川のすがた碑
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 児童公園の片隅に「野洲川のすがた」という碑が建っている。”人々に豊かな恵みと多くの洪水被害をもたらした旧野洲川”とのコメントを付して、南北両流の流路が花崗岩に刻まれている。






 写真21・大川橋跡(2012.07)  写真22・大川橋遺構(2006.10)
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 大川橋跡道路と左岸外縁道路との交差点。2枚とも同じ場所からの撮影。左は現在、右は6年前。

 実は、ラフォーレ琵琶湖の肝いりで、2003年秋から2007年秋まで、まる4年がかりで琵琶湖を一周した。「琵琶湖一周カメラウォーク」、春秋2回の4年がかりだった。最初はあまり集まらなかったが、数回目からは受付開始5分後にはバス1台が満杯になるという盛況ぶりだった。人呼んで「伝説のカメラウォーク」。
 その途中で、琵琶湖歩きの専門家・道本忠裕さんの発案で、バリエーションをつけようと、ラフォーレ琵琶湖の東側から美崎公園へ入り、新川を遡ってここへ出た。右の写真はそのときのものである。旧大川橋は使われてはいなかったが、その遺構は姿をとどめていた。
 いまこうして並べてみると、そのまま残っているのは、右側の電柱2本と、児童公園の青い象と滑台の組合わせだけ。その象ですら、木が伸びて見えにくくなっている。まさに諸行無常である。




 写真23・旧大川橋と残流水路 2003年10月撮影
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 手前、カメラが立っているのが現在の大川橋跡道路。奥が撤去前の大川橋。道路の上流側に架かっていた。道路を基準とすれば左側(右岸側)でやや近く、右(左岸側)へ行くほど離れていく、そんな感じで残っていた。
 橋の奥には残流水路、両岸には河床林がぎっしりだった。



 写真24・旧大川橋跡
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 上と同じ場所、ガードレールいっぱいまで寄って見たところ。ヨシが生い茂る中、予備知識なしで見たら、全く意味不明のコンクリートブロックが残っている。直方体の両端、えもいわれぬ場所に円が2つ。これが上の写真の橋脚部分だったのだろう。ぎっしり茂っていた河床林は切り取られ、いまは美崎グランドに変わっている。
 2週間ほど間をおいて行ってみた。何か雰囲気が違う。ヨシが刈り取られ水面が露出し、岸辺も裸になっていた。また何か変わるのかも知れない。なおついでに、ヨシが刈り取られて初めて分かったことだが、見えていたコンクリートブロックが橋脚の基礎部分だと思っていたが、これは2本の柱の間隔を固定しているだけで、基礎部は地中深くにあるらしい。このブロックは空中に浮いている。念のためにもう1枚どうぞ。バックの白い建物は美崎自治会館。



 写真25・旧大川橋跡と児童公園
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 大川橋の右岸側から左岸側へ向いて見たところ。車が通っているところが左岸外縁道路。右上の木の影が児童公園。大川橋はその左、いま踏み跡が見えるあたりへ渡っていた。


 以上3枚、撮影場所は写真19に見える、美崎自治会館(中央奥の白い建物)の前あたりである。




補遺・中野樹下神社の大モミジ

 写真J01・中野樹下神社地図
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 このあたりは「樹下神社」という名の神社が多い。いまたどってきただけでも水保の樹下神社今浜の樹下神社、そして今回の中野の樹下神社。前二社は南流堤防のすぐ外に建つが、中野の樹下神社は少し離れている(地図)。といっても、本稿の出発点・今浜橋左岸跡から琵琶湖大橋取付道路の方へ250mほどの地点であるが。由緒書きには「明治二十九年の旧野洲川決壊により云々」とある。




 写真J02・大モミジ
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 また同じ由緒書きに「境内にある守山随一の巨木大楓樹3本は、当時の氏子三人が京都の御所修築工事に参加した時もち帰り・・・」とある。
 竹林征三著、「湖国の水の道」(サンライズ出版)にも、つぎのようにある。
 ・・・・西村駒次郎、猪飼清一郎他一名の三人は、やはりそのときの台風で損傷した京都の二条城の修築工事に従事した。そのおり、三人はそれぞれ城内のモミジ苗をこっそり抜いて持ち帰り、野洲川の堤防近くにあった元宮の地、若宮神社境内に・・・・植えた。大正3年、モミジは現在地に移され、見上げるような巨木となった。・・・・

 こっそり抜いて持ち帰り・・・ということで、大っぴらに書いていいやら悪いやら。まあでも神さんが黙認したんだからいいでしょ・・・。
 由緒書きには3本とあったが、私が見た限りでは、2本が残り、そのうちの1本は枯れ、他の1本も半分枯れた状態だった。残された根元からは、まさに巨木であったことが読みとれた。





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