野洲川物語■南北両流跡探訪南流跡・5A |
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1.旧天神橋から旧今浜橋まで旧天神橋から旧今浜橋まで。ごく短い距離である。左岸で500m、右岸で570mほど。いままでの例からみて、不思議なくらいの距離である。深く調べればそれなりの理由はあるのだろうが、ざっと調べただけではとくに意味はつかめなかった。あえていえば学校かとも思う。しかし、これも単なる推測である。 地図01・国土地理院1/25000地形図「堅田」
野洲川放水路通水式は1979(昭和54)年6月2日に挙行されている。だから、上の地図01Aは通水後2年たっての発行ということになる。その時点において野洲川南流は役目を終えていたはずだが、地図の上ではまだ「野洲川南流」と現役のままであるように表記されている。 2.左岸旧堤防外縁道路を下るGoogleMap写真01・旧天神橋跡 見えている道路が旧左岸堤防外縁道路。クルマが走っているところが旧天神橋跡道路。両者はこの先でT字路で交わる。見えている橋は旧左岸堤防跡遊歩道の橋。前項で述べたように旧天神橋は現在の天神橋跡道路より、3〜40上流に架かっていた。写真の親柱はかつての橋の位置と考えられる。 写真02・旧天神橋跡下流 旧天神橋跡下流すぐのところ。カメラの位置は交差点のように見える。事実それに間違いはないのだが、これは会社の門への進入路。道は堤防跡にしたがって、左へ曲がっていく。 写真03・堤防外縁道路 道は堤防跡から離れて(画面左下の方へ)、中野町の方へと向かう。堤防外縁道路はその道から右へ分岐する形で分かれ、旧南流跡に沿って進む。手前の道路を左へとれば中野町。画面奥へ続いているのが旧堤防外縁道路。 中野町への道から別れてすぐ、公園への出入口の階段が見える。といっても林に切れ目があるだけで、人が通行しているようにも見えないが。現在の左岸跡遊歩道はさして高さがあるようにも思えないが、それでもこうしてみると私の身長よりは高い。これを中へはいると園内「十の橋」へつながる。 道はゆっくりと左へ曲がっていく。遠く比良山系がまさに「青い山脈」。近く、中野町の集落の屋根が光る。大きな屋根は福正寺。 GoogleMap写真06・わずかに蛇行 中野町の集落に近づき、道がわずかに蛇行する。画面奥のクルマは今浜橋跡道路出会いで、一旦停止しているところ。左の家並みは中野町集落。 写真07・巨木の切り株 今浜橋跡道路出会いの左に広場があって、巨木の切り株が残っている。旧堤防に生えていたものかと考えたが、切り株そのものも思うほど古くはなく、生えている場所の高さなどから、どうも元堤防のものではなさそう。 写真08・今浜橋跡道路出会い 今浜橋跡道へ路出会う。左右の道路が今浜橋跡道路。左が中野町、右が今浜町。道路を渡った向かい側に旧今浜橋の親橋が保存されている。 写真09・今浜橋跡道路 今浜橋跡道路。中野町側から今浜町へ向かうとき、少しの間は直線だが、すぐに右カーブになり自然に右岸外縁道路につながる。 写真10・旧今浜橋親柱1 道を渡った草むらに旧今浜橋の親柱が保存されている。しぶいデザインで「いまはまばし」との銘板も落ち着いたものである。反対側の銘板を見ると「昭和十年五月竣工」とある。こういうものでも当時の社会状況を反映している。この時期はまだ日本も落ち着いていたのだ。 写真11・旧今浜橋親柱2 親柱2基をセットで見る。手前が竣工年月、向こう側が「いまはまばし」。黒いクルマは今浜町から旧橋跡道路を経て中野町へ。奥の白いクルマは左岸外縁道路を経て天神橋跡へ。 GoogleMap |
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