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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・4B 
旧列系図橋から旧天神橋まで・右岸


左 岸 へ 地球市民の森へ

初稿UP:2012.07.02
写真・特記したもの以外2012年06月撮影
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4.旧南流右岸を下る 

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 写真33・樹下神社の森
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 さてもう一度「おうみんち」へ戻って右岸を下る。国道477号から見たところ。何の変哲もない道路である。左が地球の森。奥に見える森は樹下神社の森である。「森」と「森」でややこしいが、地球の森は名称としての「森」である。




 写真34・地球市民の森駐車場
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 地球の森駐車場。上の写真の道路から駐車場へ入るのに、写真に見えている砂利の部分を渡る。この砂利の部分ははば20mほど、ずーっと下流まで続く。この意味はよく分からない。正式な駐車場が満車のときの予備とも考えられるが、よほどのイベントの時以外そんなことも考えられないし。それとも道路予定地か。

 写真35・樹下神社
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 国道から300m足らずで樹下神社の前へでる。写真33の森のところである。野洲川に関する案内がないかと探したが、何もなし。境内の写真をもう1枚



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 写真36・中央橋
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 写真14で見た中央橋である。右岸跡道路は左右とも土地に余裕を持っている。改めて道路を拡張する予定でもあるのかと思わせる。もちろん素人の私には分かるはずもないが。手前がその余裕の分である。
 橋の上に比叡山がちょっとだけ首を出している。この橋は南流の残流を跨ぐのかと思わすが、こちらから見るとその気配はない。ただ単なる公園のデザインのためのものらしい。残流は橋の向こうを橋と平行に走っている。手前は単なる空き地である。整備工事が進めばまた意味も出てくるのかも知れないが。



 写真37・ゆるく左へ
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  ゆっくりと左へ曲がっていく。正面奥のお寺の屋根が目印になる。水保町の正覚寺である。もう一度ゆるく右に曲がってお寺のそばへ出る。





 写真38・ランドマークの巨木
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 左岸堤防跡のランドマーク(巨木)写真17が比叡山と並ぶ。







 
 写真39・文晁ポイント
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 正覚寺横。懐かしい場所である。歩みを止めて振り返ったところ。谷文晁のスケッチポイントを探していて、
 1.「主峰・雌山間の距離」と「雌山・菩提寺山間の距離」の比が2:1。三上山から見て309度の方位。
 2.雌山より菩提寺山が高く見える。
 3.野洲川の堤防沿い。
 この3つの条件が満足する場所として選んだ場所だった。別項「谷文晁が見た三上山」。参考までに文晁の絵をどうぞ。



 写真40・左岸2組の木遠望
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 左岸2組の巨木が遠くに見える。左に駐車場を建設中。付属の建物がチラッと見える。右側、集落まで空き地がある。堤防のすそだったのではないか。下、写真41の木々が右端に見える。





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 写真41・右岸の木々
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 写真40に見えるカーブから残留堤防への上りになる。河川敷側に接して少し広場があり、そこに味のある木々が立っている。








 写真42・左岸ランドマーク
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 左岸のランドマーク。2組の巨木のうちの1つ。左下のトンガり屋根は速野小学校。左岸との間に樹木の繁りが感じられる。







 写真43・三上山1
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 右岸堤防上から見た三上山。何か謂われのありそうな建物。庭の畑も周囲の雰囲気とは異なる。




 写真44・三上山2
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 ほんの少し移動するだけで普通の田園風景に戻る。三上山の右に菩提寺山が並ぶ風景である。細かいことをいえば先ほどの文晁ポイントより菩提寺山が若干三上山に近づいている。



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 写真45・旧天神橋跡道路
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 旧天神橋跡道路を写真30と反対側から見たところ。少し分かりにくいが突き当たりに遊歩道橋が見える。左奥に速野小学校のトンガリ屋根。遠景の山は比良連峰。



 写真46・明富中学校
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 堤防上から見下ろす明富中学校。










 写真47・右岸堤防下流側を見る
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 右岸堤防跡の下流側。巨木が並木をなしている。









 写真48・右岸堤防壁画
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 旧天神橋跡道路右岸トンネル入口に描かれた壁画。銘板がついていて、「1993年守山市立明富中学校2年選択美術生製作」とある。もう20年も前、描いた中学生は30代半ばか。屋外の絵だから簡単な話ではない。足場を組んで描いたのだろう。


 写真49・水保集落への道
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 旧天神橋跡道路から水保町集落への道である。旧天神橋が今の道路より2,30mのど上流側についていた。すなわち上の写真48でいえば壁画のトンネルより左へ寄っていたことになる。とすればそれへの取り付きはどうなっていたのか。何か痕跡が残っていないかと歩いてみたがとくに何も見つからなかった。

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 地図04・国土地理院1/25000地形図「堅田」1981(昭和56)年2月発行
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 しかし現実問題として道がなければ橋にはつながらないわけで、何かあったはずである。地図ではどうだったか。1981年のものがいちばん分かりやすかった。しかし地図としては分かりやすいが、何でこんな道を造ったのか。まさか橋が将来つぶされるのを見越していたわけでもないだろうし。
 これはひょっとして、放水路完成後橋の取り壊しが決まり、代替道路の工事準備中の状態ではないのか。何ともはや妙な道路だ。で、もう一度持っている地図を洗い直してみた。とすると、何? 上の地図01にもこの三角道路が見えるではないか。(地図01が細かくて見えにくい場合はこちらをどうぞ)。
 地図を見る場合、私たちはつい平面上で考えてしまう。しかし今の場合は堤防への取り付き道路である。平地から数mの高さのところでこの三角道路、こんな面倒くさいことをやる理由が分からない。世には不思議なことがあるもので。2010年代になって、こんなアホなことで遊ぶヤツが現れることを想定したサービスだとも思えないし。


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