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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・4A 
旧列系図橋から旧天神橋まで・左岸


右 岸 へ 地球市民の森へ

初稿UP:2012.07.02
写真・特記したもの以外2012年06月撮影
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1.列系図橋のこと

 列系図橋、不思議な名前である。川田橋、笠原橋、天神橋など、橋の名といえば地名ないしはその付近の名所旧跡等に因むのが普通だが、この橋の名だけは何か曰くがありそうである。わたし自身笠原橋や天神橋は知らなかったが、列系図橋だけは知っていた。とくにそこの橋で写真を撮ったとか特別な思いがあったわけではない。やはりその特殊な名で意識の中に入ってきたのかとも思う。
 さてこの名の読み方である。いま「JAおうみんち」のそばにこの橋の親柱が4本とも、それもたぶん元あったであろう位置に保存されている。これはわたしのような阿呆なことで楽しもうというものには有り難い。
 それによると「れっけいづばし」とある。なんやそのままかいなといいたくなる。しかしそのままはいいとして、その由来は何ですねや。角川日本地名大辞典には、・・・名前の由来は連結橋の意・・・とある。(大和書房『滋賀県百科事典』によれば、意味不明とも)。
 なるほど「れんけつばし」か。そういえば、何人かの人から「れっけつ橋」ときいた記憶があるし、地図か何かにもそのように仮名が振ってあった記憶もある。「れんけつばし」が「れっけつばし」に変化したのか。しかしそれがなんで列系図橋になったのか。そこのところが知りたいところだし、なにが連結だったのかも知りたい。しかし今のところは意味不明。何かの時にまたひょっこり現れるかも知れないが。


 写真01・旧列系図橋  1980(昭和55)年9月撮影
 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より

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 さて、列系図橋の航空写真である。水は流れていないし、堤防の外側と、内側の手前の部分まで樹木が切られている。放水路への通水が始まり、平地化工事が始まろうという時点の撮影であろう。
 左右に走っている道路が現在の国道477号(浜街道)、右が野洲・近江八幡方面。左が草津・大津方面である。画面手前が山側、奥が琵琶湖側である。
 いうまでもなく手前が上流、奥が下流である。下流のほうが狭い。写真には遠近による大小表現があるとはいえ、これには驚く。
 一方、橋を渡る側からいえば、旧野洲川の橋の多くが、まず平地のまま堤防にぶつかる。そこで90度ターンして堤防に沿って斜面を登る。上りきったところでもう一度反対向きに90度ターンして橋を渡る。その後もう一度同じことを繰り返して平地へ戻る。いわゆるクランク軸状の構造になっていた。ところがこの列系図橋については、ご覧のように一直線。国道になる前から、いわゆる浜街道(大津守山近江八幡線)として重きを置かれていたことが分かる。
 そしていま、上流側川幅いっぱい、ちょうど木々が残っている範囲ぐらいが「JAおうみんち」になっており、下流側は、「びわこ地球市民の森」として、公園化が進んでいる。


 地図01・列系図橋付近 国土地理院1/50000地形図「京都北東部」1951(S26)年8月発行
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 左の地図は、1951年発行の5万分の1地形図(地名はすべて右書き)である。列系図橋は画面の中央にあるが文字での表記はない。下の地図にはその表記がある。同じ範囲を表示しているから両者照らし合わせてご覧いただくと分かりやすいだろう。
 ところで、大和書房『滋賀県百科事典』によれば、次のようにある。 ・・・・1935(昭和10)年、現在の堤防上から堤防上へのコンクリート橋になった。それまでは堤防中腹の高水位敷からかけられていた木橋で、出水時にはひきあげていたが・・・・、
 実は、上の地図でこの「堤防中腹の高水位敷から」の橋が表現されている。堤防間の間隔はその後のものと変わらないが、橋は実際の川の流れの部分だけになっている。それが堤防から堤防への橋に変わったのが1935(昭和10)年だという。それの前の状況が1951(昭和26)年発行の地図に載っている。何とも不思議なことだが、戦争を挟んで地図の修正もままならなかったのだろう。


 地図02・列系図橋付近 国土地理院1/50000地形図「京都北東部」1970(昭和45)年11月発行
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 文字表記は左書きになっている。偶然の結果だろうが、「野洲川」の文字は右書きの時は、上流から下流向きになっていたのが、こちらの左書きになって流れと逆向きになっているのが皮肉である。列系図橋の表記もあり、橋そのものも堤防上から堤防上へのものに変わっている。
 さてこのコンクリート橋の長さ、角川日本地名大辞典によると、172.8mとある。上にも書いたように、いまJAおうみんち横の浜街道に列系図橋の親柱が4本とも、おそらく元とほとんど変わらないだろうと思われる位置に配置されている。その間の距離をGoogleMapで計ってみるとおよそ200m、地図を見ても浜街道そのもののルートは変わっていないようだから、これら4本は、かなり正確に配置されているものと考えられる。


2.列系図橋親柱

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 写真02・列系図橋親柱1
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 旧列系図橋跡地に保存されている親柱、地図03に示す1の位置に立っているものである。ひらがなで「れっけいづばし」とある。野洲・近江八幡方面から進んだ場合、JAおうみんちの手前左側に立っている。走っている赤いクルマは草津方面から野洲近江八幡方面へ向かっている。画面左外にJAおうみんちがある。


 写真03・列系図橋親柱2
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 おうみんちから国道を渡って「びわこ地球市民の森」側へ渡ったところ。手前が親柱2。表記は、ひらがなで「やすがわ」。軽トラは国道を草津方面に向かっている。その向こうに親柱1が見える。手前の舗装路は歩道、といっても自転車の中高生が通る程度で、人が歩いているのはまず見ることはないが。


 写真04・列系図橋親柱3
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 旧列系図橋の左岸へ回る。地図03に示す3の位置のもの。表記は漢字で「列系図橋」。通り過ぎた軽トラは草津方面から野洲・近江八幡方面へ向かう。向かい側におうみんちの建物が見える。




 写真05・列系図橋親柱4
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 おうみんち駐車場入口から見たところ。右が親柱4。表記は漢字で「野洲川」。左側が親柱3。黒いクルマは野洲・近江八幡方面へ。なお、南流の流れでいえば上流側、国道でいえば野洲から草津へ向いて左側には親柱1・4に添えて松の木が植わっている。写真3では親柱2のそばに生えているように見えるが、実際は1のそばに植わっている。
 親柱3の向こうに地球の森の一部が見える。




3.旧南流左岸を下る 


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 写真06・旧左岸堤防跡・国道交差
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 旧左岸堤防跡と国道が交差するところ。右側には「びわこ地球市民の森」入り口付近が見えている。画面左下に左へ離れていく白線が見る。実は上の航空写真(写真01)で見えている堤防のふくらみの部分である。これ(写真01)で見ると橋の下流すぐのところで、堤防が外側(左側)ふくらんでいる。堤防下に1本の道路が走っている。これが忠実に残っているのである。



 写真07・ふくらみ道路もどる
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 ふくらんでいた部分が戻ってきたところ。しっかりした道路がついたのだから、こんな道路ぐらい適当にしておけばいいのにと思うのだが、そうはいかないものと見える。これがかつては堤防下を行く生活動路だったのだろう。



 写真08・地球市民の森外側
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 上で「ふくらみ道路が戻ってきて」という表現をしたが、いまこうして左岸跡と考えている道路は、逆にいえばふくらみ道路の延長であり、旧左岸堤防の外側につけられていた道路ということになる。いま写真に写っている草地あたりが堤防だったということになる。



 写真09・地球市民の森・時計台
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 地球市民の森の時計台が見える。旧左岸堤防跡は特別高いというわけではない。しかしそのふちの道路を歩いていると、それが邪魔をして視界を塞ぐ。ここは外側道路から地球の森への通路になっていて、その部分だけ切れている。そこを通して時計台が見える。地球市民の森のシンボル的な塔で1つの目印になっている。



 写真10・己爾乃神社1
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 航空写真(写真01)を見ると、左岸のふくらみが終わったところで、堤防上から左へ斜めに下る道が見える。それが下り終わって堤防下の道路と交わり、そのまま集落の中へ進んだ右側に森が見える。そこに建つのが己爾乃神社である。
 さてなんと読むのか。悩んでいるところへ赤い帽子をかぶった老人(相手もわたしを老人と思ったはず)がやって来た。きけば「こじのじんじゃ」だという。なんや、またそのままかいな。

 写真11・己爾乃神社2
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 そのままはいいが意味が分からない。鳥居の左側に由緒書きがあって、それによると・・・・この辺り一帯は己爾乃庄ともよばれ、現在の鎮座地名「列系図」は昔神主の子孫が住んだ地といわれている・・・とある。
 ひょっとして古代渡来民族と関係がありはしないかと、いくつかの本を調べてみたが、・・・申し訳ない、勉強不足で。境内の写真をもう1枚

 写真12・巨木・丘の上
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 丘の上の巨木が見えだした。こういう木の名前ぐらいは知っていなければならないのだが、・・・何ともはや。「巨木」でごまかします。おわかりの方教えてください。秋には葉を落とします。
 丘の上に立つ立派な木である。地球の森整備に当たって残された。下流側から三上山と並べても絵になる。まさに地球の森のランドマーク的存在である。
 手前、案内板のところが車両入口、駐車場になっていて、茶色の建物がトイレ。

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 写真13・田圃の向こうの比叡山
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 道路の外側・・・・。おかしな言葉だけど、南流跡地を内側とした反対側という意味である。すぐ田圃になっていて、遠く比叡山を望む。湖南地域に見る典型的な風景である。





 写真14・中央橋
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 地球の森の中心部に当たる部分で、高い橋が架かっている。両側の堤防がかつての堤防の一部分かと考えてみたが、そうではなさそうである。橋の上に立って左岸右岸どちらを見ても同じような距離があり、ちょうど旧河川敷のまん中あたりに当たる。新たに作られた盛り土ではないかと想像する。
 橋の下に見える遠くの山は一見三上山に見えるが、そうではない。これは津田山。



 写真15・近づく巨木
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 写真12で見えていた案内板のところ。
 木は小高い丘の上に立っているが、この丘は旧南流左岸堤防かと思われる。地続きに墓地がある。公園が整備される前からあったような気もするが、近寄ってみると結構新しい墓もある。
 駐車場から見た巨木をもう1枚



 写真16・湧水公園
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 何やこれは。実は例の巨木から、道路を挟んだ反対側に小さな公園があって、その片隅から水がとくとくと噴出している。最初、ポンプで回しているのかなと思ったが、流れのふちに温泉地で見るような化学物質風の色がついている。何か案内板でもないかと探したが何もない。と、横のフェンスに小さな張り紙があって、「湧水で洗濯をしないでください」。
 私が住む野洲市街地でも、「昔、水が勝手に湧き出しててな」という話はよく聞く。しかし話だけで実際にそれを見たことはなかった。それがこうして実際に目の前で噴出している。南流跡地の水脈が通っているのだろう。



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 写真16A・己爾乃神社
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 湧水公園から100m足らずのところに己爾乃神社という神社がある。写真10の神社と同名である。人間でも田中さん、鈴木さんと同姓は珍しくないが、こんな不思議な名前で同姓とは深いつながりがあるのだろう。由緒書きに曰く。・・・この地は古来より曲峡の里。己爾乃荘大曲里とも呼ばれ中世には大満加里とも言われた。度重なる洪水の時、御前大明神が現れ「この地は霊地なり。我を祭らば五穀豊饒にして、国民安穏なるべし」とのご託宣により・・・云々とある。うん、「我を祭らば・・・」なんてスゴイね。今も昔もこれくらいの迫力がないと・・・。それと、「曲峡の里」、エエ言葉やね。「きょっきょうの・・」と読むのかな。読みはともかく字がエエ。400mほど下流でぐっと右に大曲するんだから。



 写真17・巨木近景
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 何度もいうが、この木は丘の上に生えている。一段低い道路上から見るとその高さが何とも心地よい。しかし、これが旧南流堤防そのままの姿かというとまた疑問も湧く。南流堤防はもっと高かっただろう。公園として整地したあとへこの木を持ってきたとも思えないし。どう判断するか、難しいところ。

 写真18・右カーブ
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 道が右へ曲がり出す。例の「曲峡のカーブだ」。
 左正面の建物は「明冨の郷」老人ホーム、その右、遠くのトンガリ屋根が速野小学校。左の道路がいま歩いているかつての堤防下外側の道路。右は地球の森内の道路。杭から右側が堤防だったと思われるが、はっきりしたことは分からない。
 なお、この右カーブは結構きつい。もう1本外側に道路がある。生活道路として使われているらしいが、ひょっとしたら、二重堤防の跡かと思われる。



 写真19・右カーブ続く
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 右カーブが続く。クルマで走る程度では何ら抵抗はないが、もし川幅いっぱいの水がぶつかることを想像すると恐ろしい。
 老人ホームが後へ去り、速野小学校も画面外へ消え去ろうとしている。




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 写真20・ランドマーク
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 左岸堤防跡の巨木。2本組みといえばいいのか、4本組みといえばいいのか。2本1組が2組ある。それはいいとして、これは左岸堤防跡だろうと考えられる。そこに立って見ると右岸跡が見えるわけで、左岸であることは間違いないが、どうも今たどってきた左岸跡との間に何となく違和感がある。今までの跡地が一旦消滅し、別の場所から別の堤防が割り込んでくる感じである。かつての堤防が、連続性のない流れになっていたのか、それとも公園整備の時点で人工的に変更が生じたのか。



 写真21・T字路
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 左岸堤防下道路が速野小学校横から来た道とT字に交わる。左へ行けば速野小学校。右が地球の森である。郵便屋さんの後、クルマが走っているあたりの堤防跡は道路との整合性がある。ここらはそのままだと思われるが、問題はその手前である。上の2組の巨木は画面右にはずれている。イメージに合わないところである。



 写真22・三上山
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 写真21と同じ場所から右を見たところである。三上山が見える。かつては目の前に左岸堤防が塞いでいて、三上山は見えなかったはずである。いやいまでも国道477号からここまで左岸跡の低い丘が視界をさえ下っていて、道はその丘に沿って来た。それがここへ来て一旦とぎれている。とぎれるだけなら不思議でもないが、新たな左岸跡とのつながりに整合性が感じられないのである。



 写真23・天神橋親柱
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 と、何となく落ちつかないまま進むと道路右側に親柱らしいものが一対。近づいて確認すると間違いなし。「昭和三十年十月竣功」、「てんじんばし」とある。前者はそのまま正直に読めるが、後者は「てんじん」の「じ」が「志」に濁点になっている。「ばし」の「ば」も何と書いてあるのか私の能力では見分けられない。
 走っているバイクが現在の天神橋跡道路である。見えている橋は左岸堤防遊歩道の橋。



 写真24・天神橋跡道路
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 今歩いてきた左岸堤防下道路が天神橋跡道路と交わるところである。手前左右の道が堤防下道路。目の前の橋が堤防をつなぐ遊歩道の橋。南流現役のころ、ここは左岸堤防だったところ。そこから対岸に向かって天神橋が架かっていた。上で見た親柱は画面右外にある。親柱を置くとしたら、この画面、奥へ伸びる道路の左右と違うのか。妙なところへ置いたものだ。



 写真25・三上山
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 写真24の場所から道路を横断して向かい側に渡る。橋の下から右岸越しに三上山が見える。中学生は天神橋跡道路を走ってきて、堤防下道路へと左折するところ。





 写真26・左岸堤防跡
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 写真21の場所へバックして公園内から左岸跡を見たところ。例の2本2組の木が1本に見える。これが見る角度によって4本にも、3本にも、2本にも見える。おもしろい木である。
 堤防跡を意識して見るときの違和感は写真20のところで触れたが、それは一旦置いておいてとにかく左岸堤防跡をたどる。




 写真27・ランドマークに近づく
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 2組4本のランドマークである。木のスタイルなどからして新たに植えたとは考えられない。現役の堤防の時からここにあったのだろう。坂の上の人物が小さく見える。写真23の橋を越えてきたところである。




 写真28・右岸越しの三上山
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 画面左に木が生えているところが右岸。その向こうに三上山が見える。河川敷というよりは今は公園内だが、またまた木が増えだしている。






 写真29・園内遊歩道橋
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 旧天神橋跡道路を跨ぐ橋である。漢字で書くと簡単に書けて便利だけれど、こういう場合に困る。「旧」の意味がどこまでかかるのかということ。「旧」は天神橋までで、道路は旧ではない。現に存在している。その道を跨ぐ橋の意味だけれど。まあ、早い話が、「((旧天神橋)跡道路)を跨ぐ橋」ということ。こんな事欠くと余計に分からなくなる。間違いないように、この橋は遊歩道の橋。天神橋ではない。橋の向こうはさらに続く旧左岸堤防跡。

 写真30・旧天神橋跡道路

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 写真29の遊歩道橋から旧天神橋跡道路を見下ろしたところ。走っているクルマは向こう向き、左岸から右岸に向かっている。右岸の向こうのでかい屋根は明冨中学校の体育館。






 写真31・旧天神橋跡
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 いまの遊歩道橋の下流側へ渡ったところから見た風景である。かつてこの道路のところに天神橋が架かっていた。道路の上が天神橋だった。と思ってイメージしてみるとどうも橋が近くに感じられる。もしこの道の上が橋だったとしたら、ここから撮るだろうか。橋が大きくて、三上山がどこにあるのか分からなくなるだろう。そんなことを考えていても仕方がない。実際はどうなっていたのか。確かここから天神橋を撮った記憶がある。帰って実際の写真を探してみよう。

 写真32・旧天神橋  撮影:2004年3月19日
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 左がそのときの写真である。撮影はそう古い話ではない。2004年3月19日。『近江富士まんだら』の5度刻みの撮影ポイントを探していてここに出くわした。もちろん遊歩道橋は架かっていなかった。でも旧堤防に上れば橋の上に三上山が見えると、斜面を上った記憶がある。いま思うと、その時点ですでに旧堤防ではなく、いまの遊歩道の堤防になっていたのだと思うが。
 と、このように旧天神橋は現在の旧天神橋跡道路よりも2,30m上流側に架かっていた。とすると写真23の親柱の位置は? 実は案外正しい位置だったのかも知れない。「妙なところへ置いたものだ」と悪態をついたが、いやはや申し訳ない。あの位置は正しかったのです。


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