野洲川物語■南北両流跡探訪南流跡・3C |
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7.旧南流右岸を下る GoogleMap写真54・旧笠原橋付近ちょっとした広場になっていて、白い柵の向こうが新堤防の管理道路。手前側が南流側帯部。柵に沿って坂を上り右に曲がると旧笠原橋跡道路につながる(ここからは見えない)。手前右に石垣があって右へ上り坂になっている。これを上ると旧南流堤防右岸上へ出る。したがって今のカメラの位置は旧南流左岸の外側ということになる。 写真55・サッカー場 サッカー場である。上の写真、石垣沿いを登り切ったところ。旧南流の左右両岸の間を埋め立てて出来ている。現在の放水路堤防より高く、ちょっと見ると盛り土の感がある。いわゆる南流側帯部の中心部である。写真は下流にあるグランドゴルフ場との境から上流側を見たところ。 写真56・グランドゴルフ場から守山北高校を見る グランドゴルフ場、道路を挟んで下流側にある。南流側帯部のいちばん下流側にあたる。その片隅の右岸堤防跡から守山北高校校舎を見たところ。校舎は4階建てである。このことからこちらの高さが理解できよう。手前の道、右側にチラッと見えるのが南流跡道路である。 写真57・新庄大橋を見る 同じ位置から新庄大橋を見ている。守山北高校のほぼ反対側に当たる。向こうにアンテナが見えるあたりが橋の中央部だが、そのあたりとほぼ同じ高さといえる。当然橋のたもとはカメラの位置よりは低い。 南流左岸堤防跡から県道に向かって下る。その途中から見たところ。 正面に見えているガードレールが県道の歩道。車道はその向こう側。だからこの道から車で県道には出られない。この坂は車が走れる立派な道なのに、不思議な話である。 上の写真のガードレールのところ、県道48号へ出て、側帯部の終端を前景として守山北高校を見たところ。トラックが走っているのが県道。このあたり、新庄大橋を渡って道が下りになり、笠原町交差点へ向かう途中である。トラックも坂を登ってくるところ。そういう場所から見ても側帯部は高い。 写真60・県道交差から右岸堤防跡を見る 県道交差から右岸堤防跡を見たところ。写真では表現し切れてないが、県道は左へ下っていく。下りきったところから見ると、旧堤防跡は平坦化されたとはいえ、まだそこそこの高さを保っていることが分かる(車が走っているのが旧堤防跡)。 地図61・南流側帯部を見返す 県道交差から400mほど進んだあたり。このあたりから振り返ると南流側帯部の断面を一目で見返すことが出来る。左が右岸堤防跡、右が左岸跡。旧河川断面いっぱいに土を持ち込んだ。南流締め切り地点の強度を持たす意味だという。 上とほぼ同じ場所。左側から道路が合流してくる。写真の軽自動車はそのT字路から堤防跡へ出てきたところ。実はこのT字路、形の上では左から入ってくるが、大きく見るとY字をなしている。下の写真に見るように、左へ別れてすぐにもう一度右へ曲がり、結果的には直進していくことになる。 写真63・T字分岐・2 この写真を見るとその道路の右に盛り土が見える。それが今歩いてきた旧右岸堤防の延長のようである。道はここでY字形に2つに分かれ、旧堤防跡を挟んで内側と外側に別れる形になる。外側の道はしばらくは堤防の外を走るが、少し行くと立田の集落へと離れていく。 内側の道路へ入ってすぐ、跡地を挟んで守山北高校の校舎が見える。跡地は、このように畑になっている分もあるが、空き地のままの部分もある。 写真65・左へカーブ 上の写真63で見える道が旧堤防林にぶつかるあたり。道路はゆっくり右へ曲がっていく。右側に続く盛り土は旧右岸堤防の跡であろう。 GoogleMap写真66・立田自治会「一時避難所」 写真ではわかりにくいが、左の木の向こうはグランドで、立田自治会「一時避難所」との表示がある。写真で車が走っているあたりまで行くと右手の旧堤防林が切れて、立田の集落がすぐ近くに見えるようになる。 手前の草地が旧堤防跡だったろうと推測される。平坦化され高さは低くなっているが、それでも集落へはゆるい坂を下る。カメラの位置から左を見ると立光寺(写真67A)という寺があり、右を見ると新宮神社(写真67B)がある。どちらも手前の旧堤防跡よりも低い位置に建っていることが分かる。 写真68・市道?と交差 上の写真67の位置より約200mほどで市道と交差。一旦停止の標識がある。近寄ってみると「おうみんち」への誘導標識がある。右岸堤防跡は市道を越えて直進する。 写真69・農作業 南流跡地は畑として利用されている。三上山が見える畑地で男性が作業をしていた。現地で見たときは正座をしていたように見えたが、写真で見ると溝に入って立ったままのようにも見える。素人のわたしには作業内容が分からず、どちらとも判断できないが。 赤い屋根が「おうみんち」である。道路でいえば前方のカーブを右へ曲がり、そこでT字路を左へ折れる(写真70A)と駐車場である。 写真71・浜街道と交差 上の写真70Aの位置からものの10mほどで国道477号通称浜街道と交差する。黒い車が走っているのが浜街道。その向こうが「びわこ地球市民の森」である。 8.戸田堤のこと 竹林征三著『湖国の水のみち』(1999.5/サンライズ出版)に野洲川の洪水と被害状況という表が載っている。次がその冒頭部分である。 のっけから戸田堤の決壊が続く。人柱まで立てたとは悲惨きわまる。ところがこのあと戸田堤の名が消える。以降そこだけ絶対に切れなかったというのもおかしなものだし、戸田という地名が何らかの事情で変わったのではないか。そんな気がしてくる。それにしてもこの戸田堤とはどこにあったのか。戸田庄、戸田郷といわれる集落はどこにあったのか。ここ4〜500年の決壊箇所の歴史を読むと、笠原・水保・開発など、およその場所が理解できる。ところがこの戸田という地名だけは分からない。戸田堤という言葉は出てくるが、その場所を明示したものは見あたらない。 そんな中で、守山市誌の歴史年表をくっていて、藩領図なるものに出くわした。市誌には3点掲載されていたが、その中の1つ。 地図06・元禄14(1701)年藩領図 守山市誌 資料編・歴史年表所載 1701年というから、上の年表の時期から150年ほど時代が下がっている。赤丸のところに、富田(戸田)とある。富田は「とだ」と読めなくもないから、おそらくこれが戸田郷かとも思うが、他の大名領がわれわれが見て一目でいまの地名に一致するが、富田、戸田などは若干趣が異なる。これがいまに地名をとどめていない理由だろうか。 明治7年ともなれば、いまとなっては古い話。だけれど、そのときまで戸田村はあったわけだ。上で、「以降そこだけ絶対に切れなかったというのもおかしなものだし・・・」などと無責任なことを書いた。せめてこれだけは確認しておく必要がある。もう一度決壊記録を調べなおした。少なくとも私が見た範囲では1584年以降、戸田堤決壊の記事は載っていない。 田村喜子著『野洲川物語』(2004.8/サンライズ出版)に、次のような記述がある。 ・・・・野洲川は毎年のように水害の歴史を繰り返してきた。だが、北流左岸と南流右岸にはさまれた中洲では明治二十九年の破堤から後は一度も切れたことがない。 ちなみに明治29年の水害の状況は左の通りである。 9月6日 天神橋、列系図橋流出。 また、前出書『湖国の水のみち』に・・・戸田の庄屋・奥野家に代々伝わる「愛の内明神、大日社由緒伝書」・・として次のようにある。 ・・・伝えて云往昔天文八巳亥年八月一七日大雨大洪水ニテ堤防打断レ其間数二十有余間民屋百許戸流損速ク水堰キ致シケルニ又復翌々九年四月及ビ十年ニモ同箇所打断レヌ 『野洲川物語』に続けていう。 ・・・・それ以来、戸田堤は切れたことはない。村では小さな祠を建て、自らを犠牲にして村の救世主となった愛の内明神を祀った。毎年九月二日の命日には、奥野家を中心に祭礼を行って愛の霊を慰めている。・・・・ GoogleMap写真72・愛の内明神社・1 地図を見ると、現在の立田町は西側が国道477号に接し、南東側が旧野洲川南流に接している。そのいちばん旧野洲川に近い方、右岸堤防跡道路から見ると旧堤防林と見える林の中に小さな祠がある。 写真73・愛の内明神社・2 GoogleMapで見ると、立田集落センター、立田いきいきクラブなどが目印になるが、確かにそれらの近くである。しかし、距離は近いが雰囲気的には隔絶している。道路のすぐ横であるにもかかわらず全く別の世界を感じるところである。 写真74・愛の内明神社・3 祠の中を覗くと、小さな社がある。「?」。実は「愛の内明神」として、『湖国の水のみち』には下の写真74のような地蔵さんの写真が掲載されている。当然それが祀られているものと信じて行っている。ところが似ても似つかぬ社に変わっている。これは違ったかな。愛の内明神はもう一つ別のところにあるのだろう。 写真75・愛の内明神社・4 左がその地蔵さんである。写真だから何ともいえないが、前に置かれた仏具などから推定して、身の丈1m足らずというところか。そのイメージで行っているわけで、納得がいかない。写真74の祠の右側に「愛の内明神」の文字がなかったら、これは違うと他所を探すところだった。 3.戸田堤・分からないことがもう一つ地図08・旧一本松付近概念図 分からなかった戸田堤のことが何となく分かってきた。しかし不思議なことがもう一つある。 |
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