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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・3C 
旧笠原橋から旧列系図橋まで・右岸


左 岸 へ センター

初稿UP:2012.06.19
写真・すべて2012年6月撮影
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7.旧南流右岸を下る GoogleMap

 写真54・旧笠原橋付近
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 ちょっとした広場になっていて、白い柵の向こうが新堤防の管理道路。手前側が南流側帯部。柵に沿って坂を上り右に曲がると旧笠原橋跡道路につながる(ここからは見えない)。手前右に石垣があって右へ上り坂になっている。これを上ると旧南流堤防右岸上へ出る。したがって今のカメラの位置は旧南流左岸の外側ということになる。


 写真55・サッカー場
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 サッカー場である。上の写真、石垣沿いを登り切ったところ。旧南流の左右両岸の間を埋め立てて出来ている。現在の放水路堤防より高く、ちょっと見ると盛り土の感がある。いわゆる南流側帯部の中心部である。写真は下流にあるグランドゴルフ場との境から上流側を見たところ。



 写真56・グランドゴルフ場から守山北高校を見る
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 グランドゴルフ場、道路を挟んで下流側にある。南流側帯部のいちばん下流側にあたる。その片隅の右岸堤防跡から守山北高校校舎を見たところ。校舎は4階建てである。このことからこちらの高さが理解できよう。手前の道、右側にチラッと見えるのが南流跡道路である。



 写真57・新庄大橋を見る
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 同じ位置から新庄大橋を見ている。守山北高校のほぼ反対側に当たる。向こうにアンテナが見えるあたりが橋の中央部だが、そのあたりとほぼ同じ高さといえる。当然橋のたもとはカメラの位置よりは低い。


 写真58・県道交差を見る
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 南流左岸堤防跡から県道に向かって下る。その途中から見たところ。 正面に見えているガードレールが県道の歩道。車道はその向こう側。だからこの道から車で県道には出られない。この坂は車が走れる立派な道なのに、不思議な話である。


 写真59・側帯部終端
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 上の写真のガードレールのところ、県道48号へ出て、側帯部の終端を前景として守山北高校を見たところ。トラックが走っているのが県道。このあたり、新庄大橋を渡って道が下りになり、笠原町交差点へ向かう途中である。トラックも坂を登ってくるところ。そういう場所から見ても側帯部は高い。



 写真60・県道交差から右岸堤防跡を見る
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 県道交差から右岸堤防跡を見たところ。写真では表現し切れてないが、県道は左へ下っていく。下りきったところから見ると、旧堤防跡は平坦化されたとはいえ、まだそこそこの高さを保っていることが分かる(車が走っているのが旧堤防跡)。



 地図61・南流側帯部を見返す
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 県道交差から400mほど進んだあたり。このあたりから振り返ると南流側帯部の断面を一目で見返すことが出来る。左が右岸堤防跡、右が左岸跡。旧河川断面いっぱいに土を持ち込んだ。南流締め切り地点の強度を持たす意味だという。


 写真62・T字分岐・1
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 上とほぼ同じ場所。左側から道路が合流してくる。写真の軽自動車はそのT字路から堤防跡へ出てきたところ。実はこのT字路、形の上では左から入ってくるが、大きく見るとY字をなしている。下の写真に見るように、左へ別れてすぐにもう一度右へ曲がり、結果的には直進していくことになる。


 写真63・T字分岐・2
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 この写真を見るとその道路の右に盛り土が見える。それが今歩いてきた旧右岸堤防の延長のようである。道はここでY字形に2つに分かれ、旧堤防跡を挟んで内側と外側に別れる形になる。外側の道はしばらくは堤防の外を走るが、少し行くと立田の集落へと離れていく。
 ここからは内側の道路(写真に見えている道路)をたどることとする。

 写真64・守山北高校を見る

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 内側の道路へ入ってすぐ、跡地を挟んで守山北高校の校舎が見える。跡地は、このように畑になっている分もあるが、空き地のままの部分もある。






 写真65・左へカーブ
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 上の写真63で見える道が旧堤防林にぶつかるあたり。道路はゆっくり右へ曲がっていく。右側に続く盛り土は旧右岸堤防の跡であろう。




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 写真66・立田自治会「一時避難所」
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 写真ではわかりにくいが、左の木の向こうはグランドで、立田自治会「一時避難所」との表示がある。写真で車が走っているあたりまで行くと右手の旧堤防林が切れて、立田の集落がすぐ近くに見えるようになる。


 写真67・立田集落を見る
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 手前の草地が旧堤防跡だったろうと推測される。平坦化され高さは低くなっているが、それでも集落へはゆるい坂を下る。カメラの位置から左を見ると立光寺(写真67A)という寺があり、右を見ると新宮神社(写真67B)がある。どちらも手前の旧堤防跡よりも低い位置に建っていることが分かる。



 写真68・市道?と交差
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 上の写真67の位置より約200mほどで市道と交差。一旦停止の標識がある。近寄ってみると「おうみんち」への誘導標識がある。右岸堤防跡は市道を越えて直進する。




 写真69・農作業
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 南流跡地は畑として利用されている。三上山が見える畑地で男性が作業をしていた。現地で見たときは正座をしていたように見えたが、写真で見ると溝に入って立ったままのようにも見える。素人のわたしには作業内容が分からず、どちらとも判断できないが。

 写真70・おうみんち近く
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 赤い屋根が「おうみんち」である。道路でいえば前方のカーブを右へ曲がり、そこでT字路を左へ折れる(写真70A)と駐車場である。




 写真71・浜街道と交差
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 上の写真70Aの位置からものの10mほどで国道477号通称浜街道と交差する。黒い車が走っているのが浜街道。その向こうが「びわこ地球市民の森」である。



8.戸田堤のこと

 竹林征三著『湖国の水のみち』(1999.5/サンライズ出版)に野洲川の洪水と被害状況という表が載っている。次がその冒頭部分である。
 ●1538年(天文7年) 戸田郷、幸津河郷、津田郷の家屋900戸が浸水流失。
 ●1539年(天文8年) 戸田堤80m決壊、人家100戸余り流失。
 ●1540年(天文9年) 戸田堤決壊。
 ●1543年(天文12年) 戸田の庄水に流れる。
 ●1544年(天文13年) 戸田堤決壊。庄屋奥野忠左衛門の愛娘を人柱とする。
 ●1584年(天正12年) 戸田堤決壊。

 のっけから戸田堤の決壊が続く。人柱まで立てたとは悲惨きわまる。ところがこのあと戸田堤の名が消える。以降そこだけ絶対に切れなかったというのもおかしなものだし、戸田という地名が何らかの事情で変わったのではないか。そんな気がしてくる。それにしてもこの戸田堤とはどこにあったのか。戸田庄、戸田郷といわれる集落はどこにあったのか。ここ4〜500年の決壊箇所の歴史を読むと、笠原・水保・開発など、およその場所が理解できる。ところがこの戸田という地名だけは分からない。戸田堤という言葉は出てくるが、その場所を明示したものは見あたらない。

 そんな中で、守山市誌の歴史年表をくっていて、藩領図なるものに出くわした。市誌には3点掲載されていたが、その中の1つ。


 地図06・元禄14(1701)年藩領図 守山市誌 資料編・歴史年表所載
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 1701年というから、上の年表の時期から150年ほど時代が下がっている。赤丸のところに、富田(戸田)とある。富田は「とだ」と読めなくもないから、おそらくこれが戸田郷かとも思うが、他の大名領がわれわれが見て一目でいまの地名に一致するが、富田、戸田などは若干趣が異なる。これがいまに地名をとどめていない理由だろうか。
 あれこれ考えあぐねながら、最後に滋賀県の地名(平凡社)に食らいついた。すると守山市の項に、「戸田村」とあって、その隣に「立花村」とある。明治7年、戸田村と立花村が合併して立田町になったとある。なーんや、そういえば何かのときにそんな話を聞いたことがあった。それなら分かる。立田町なら南流の通り道だ。

 明治7年ともなれば、いまとなっては古い話。だけれど、そのときまで戸田村はあったわけだ。上で、「以降そこだけ絶対に切れなかったというのもおかしなものだし・・・」などと無責任なことを書いた。せめてこれだけは確認しておく必要がある。もう一度決壊記録を調べなおした。少なくとも私が見た範囲では1584年以降、戸田堤決壊の記事は載っていない。

 田村喜子著『野洲川物語』(2004.8/サンライズ出版)に、次のような記述がある。

 ・・・・野洲川は毎年のように水害の歴史を繰り返してきた。だが、北流左岸と南流右岸にはさまれた中洲では明治二十九年の破堤から後は一度も切れたことがない。
 「ちりんさんのおかげや」
 と、だれもが信じていた。戸田堤(戸田村は今の立田町、南流右岸にあった)を守る人柱を祀った鎮守社「愛の内明神」を、地元のひとたちは「ちりんさん」と呼び習わしている。・・・・

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 ちなみに明治29年の水害の状況は左の通りである。

 9月6日 天神橋、列系図橋流出。
 9月7日 今浜堤防、立入堤防、善岸堤防、新庄堤防決壊。琵琶湖の水位上昇と重なって中洲地区一面泥海と化す。(この中で善岸堤防の場所が分かりにくいが、地図によると現在の守山市小島町あたりかと考えられる)。


 また、前出書『湖国の水のみち』に・・・戸田の庄屋・奥野家に代々伝わる「愛の内明神、大日社由緒伝書」・・として次のようにある。

 ・・・伝えて云往昔天文八巳亥年八月一七日大雨大洪水ニテ堤防打断レ其間数二十有余間民屋百許戸流損速ク水堰キ致シケルニ又復翌々九年四月及ビ十年ニモ同箇所打断レヌ
 如此再三大破ニツキ普請モ再三致シケル処同十三年申辰七月九日河水満溢同所断レ入リ民家流没スル多数也 
 剰ヘ大淵ノ箇所モ出来ケル
 村中甚タ困難ニ及フヲ憂ヘ当村奥野忠左ヱ門ノ処女(名称アイ年令不祥)為ニ我レ人堰キト成リ後害ヲ防ガント忽チ身ヲ投水シケル后ヲ今ノ堤防築クニ果シテ難ナシ依テ此ノ地ヘ斉ヒ納メ其ノ神魂ヲ慰スルト・・・・ 

 『野洲川物語』に続けていう。

 ・・・・それ以来、戸田堤は切れたことはない。村では小さな祠を建て、自らを犠牲にして村の救世主となった愛の内明神を祀った。毎年九月二日の命日には、奥野家を中心に祭礼を行って愛の霊を慰めている。・・・・

 GoogleMap

 写真72・愛の内明神社・1
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 地図を見ると、現在の立田町は西側が国道477号に接し、南東側が旧野洲川南流に接している。そのいちばん旧野洲川に近い方、右岸堤防跡道路から見ると旧堤防林と見える林の中に小さな祠がある。
 道順をここで詳しく書くことは不可能で、地図を確認して実際に行ってもらうしかないが、必ず歩いて行っていただきたい。わたし自身も1回目は歩いていき、2度目はもう分かっているからと車で行った。見事に通り過ぎてしまった。


 写真73・愛の内明神社・2
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 GoogleMapで見ると、立田集落センター、立田いきいきクラブなどが目印になるが、確かにそれらの近くである。しかし、距離は近いが雰囲気的には隔絶している。道路のすぐ横であるにもかかわらず全く別の世界を感じるところである。



 写真74・愛の内明神社・3
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 祠の中を覗くと、小さな社がある。「?」。実は「愛の内明神」として、『湖国の水のみち』には下の写真74のような地蔵さんの写真が掲載されている。当然それが祀られているものと信じて行っている。ところが似ても似つかぬ社に変わっている。これは違ったかな。愛の内明神はもう一つ別のところにあるのだろう。


 写真75・愛の内明神社・4
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 左がその地蔵さんである。写真だから何ともいえないが、前に置かれた仏具などから推定して、身の丈1m足らずというところか。そのイメージで行っているわけで、納得がいかない。写真74の祠の右側に「愛の内明神」の文字がなかったら、これは違うと他所を探すところだった。
 その下に書かれた、「人身御供」の文字と「せんどつんだに夜のまにぐらり農民泣かせの戸田づつみ」の歌でかろうじて踏みとどまった。『湖国の水のみち』や『野洲川物語』でこの歌に予備知識があったからである。しかし両方とも「農民泣かせ」のところが「百姓だおれ」になっていた。
 歌としては「百姓だおれ」のほうが臨場感がある。しかし今の時代、分からなくもない。だけど地蔵さんはどうなったのか、誰かに訊ねたかったが、周囲に人影は見えなかった。


3.戸田堤・分からないことがもう一つ

 地図08・旧一本松付近概念図
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 分からなかった戸田堤のことが何となく分かってきた。しかし不思議なことがもう一つある。
 左の地図は前出の川田一本松付近の概念図である。(一本松広場の案内板に、白地の文字を八田が追記した)。実はここに「戸田堤」の文字が見られる。現在の川田大橋、かつての旧南流川田橋の場所、そこに見える残留堤防跡と二重になっている内側の堤防である。
 最初これが例の愛の内明神の「戸田堤」かと思ったが、いくら何でも場所が違いすぎる。とすればこの「戸田堤」とは何なのか。たとえば『湖国の水のみち』には、明治29年の大洪水について、
  ・・・野洲川では、今浜堤、川田の戸田堤、善岸堤・・・
とある。
 「善岸堤」がいまのわれわれには分かりにくいが、当時の表現で「野洲村地先から小島にかけて」とあるから、今の地名でいえば、野洲市野洲から守山市小島町にかけてということだろう。(野洲市野洲は右岸を想起するが、この場合は左岸であろう。中山道野洲川橋から近江富士大橋あたりは左岸も野洲市である)。
 それよりも問題は「川田の戸田堤」である。これが地図08の「戸田堤」を意味することはまず間違いないだろう。「戸田堤」とは、前述したように戸田(現在の立田町)あたりの堤防だとすると、「川田の立田付近の堤防」となりわけがわからなくなる。しかし、この場合の「戸田」は固有名詞ではなくて、普通名詞であると考えると意味が通じやすくなる。たとえば「戸田堤」という場合、地名としての「戸田の堤」ではなくて、たとえば「二重堤防」を意味するとしたら、「川田の戸田堤」は「川田の二重堤防」ということになる。もちろん二重堤防にこだわっているわけではない。たとえば「スーパー堤防」の意味だとしても理屈は通ずる。
 人柱まで立てて築き上げた野田堤。以降それが切れることがなかったとしたら、周囲は注目するはずである。そして、その戸田堤が、他にない特徴を持っていたとしたら、その特徴が独り立ちして「戸田堤」の名で歩き出すこともあるはずである。たとえば一般的な機器名ステープラーがいつのまにか商標としての「ホチキス」名で呼ばれるようになったように。
 



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