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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・3A 
旧笠原橋から旧列系図橋まで・左岸


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初稿UP:2012.06.19
写真・特記したもの以外2012年05月撮影
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1.笠原町川辺地区のこと GoogleMap

 地図01・旧笠原橋付近 国土地理院1/50000地形図「京都北東部・近江八幡」

01A・工事開始前(昭和45年11月発行) 01B・工事終了後(平成6年9月発行)
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 地図左は昭和45年の発行。私が野洲へ住みついた年。1970年、大阪万博が開かれた年である。野洲川放水路は影も形もない。下の方に見える黒い横線は地図の折り目、縦の筋は地図の継ぎ目である。その折り目と継ぎ目が交わるところに、少しわかりにくいが「川辺」という集落(青丸)がある。「かわべ」だと思っていたが「かわづら」と読むのだそうだ。
 新放水路は地図01Bに見るように、川辺の真上を通り服部集落の西をかすめ、幸津川(さづかわ)の東、小浜の西を経て琵琶湖へ至っている。当然のことながら川辺地区のその後が気にかかる。

 地図02・現笠原町川辺付近

02A・工事開始前(昭和45年11月発行)
国土地理院1/50000地形図「京都北東部」
02B・工事終了後(昭和56年2月発行)
国土地理院1/25000地形図「堅田」
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 地図02Aは、01Aと同じ地図である。赤丸印の箇所はただの田圃のまん中である。旧川辺地区から旧笠原橋を渡って、笠原の集落を抜け、琵琶湖大橋取付道路へ出るところである。
 その後、昭和56年発行の地図には、かつての川辺地区は放水路に替わり、田圃のまん中だったところに川辺(かわづら)の集落が記載されている。いうまでもなく旧川辺集落が集団移転したことを示している。


 写真01・集団移転記念碑 GoogleMap
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 現在の笠原町川辺地区集落内に記念碑が建っている。それによると、
 ・・・当時の川辺は笠原町と新庄町の中間に位置し、笠原とは改修前の野洲川南流をへだてて相隣りする集落で一神社一寺を擁する農村であった。・・・・
 とある。この一文、まさに上の地図02Aそのものである。
 ・・・昭和47年4月1日、守山市笠原町川辺自治会公示・・・とある。


 写真02・笠原町方面から見た現在の川辺地区
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 記念誌『野洲川放水路』によると、
 ・・・本工事により移転した戸数は、新庄の川辺地区の全戸と小浜の2戸だったという。川辺地区の大部分(24戸)は笠原町地先(地図02B赤丸中央下)へ集団移転し、新たに「川辺自治会」を設けた。残りの11戸は新庄東に新しく宅地(地図02B赤丸右上)を造成して移住、その他数件は希望する地に転居。小浜の2戸は同村内に転居した。・・・とある。

 写真03・集団移転前の新庄川辺地区(地図01A・02A青丸のところ) 1971(昭和46)年5月撮影
 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より

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 旧野洲川南流右岸堤防より旧川辺集落を見たところ。カメラの高さが2階建ての家屋より高いことが分かる。余談ながら、この種の写真を撮る場合、お寺の屋根を画面に入れておいてもらうと、後日それを見たときのポイントになる。この場合は残念ながら・・・。


2.蜊江神社のこと

 写真04・一神社一寺
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 笠原町川辺地区集団移転記念碑でいう「一神社一寺」である。奥のお寺は真宗木辺派光雲山浄寶寺・神社は蜊江神社(蜊江大明神)、「つぶえ」と読むのだとか。集落の東はずれにひっそりと建つ。どちらも旧新庄川辺地区から移転したものという。



 写真05・蜊江大明神 GoogleMap
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 蜊江神社の鳥居である。上の写真で見るように、窮屈な建ち方をしているために撮りにくい。神社名は「蜊江神社」だが、鳥居の扁額には「蜊江大明神」とある。境内へはいると拝殿の背後から三上山が見える





 写真06・蜊江神社(笠原町) GoogleMap
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 実は蜊江神社という神社がもう一つある。左は笠原町の蜊江神社。旧南流左岸堤防のすぐ下に位置している。
 さて、この「虫」偏に「利」と書く見慣れない字、「つぶ」と読み「田螺(タニシ)」を意味するという。ここ、笠原の蜊江神社は野洲川の洪水による災害をたびたび受てきた。とくに享保6(1721)年7月の笠原切れの際には、社殿が流出し、御祭神が危険な状態となった。幸いにも御神輿に多くのタニシが付着していたため、社前で止まりご神体の流出だけは免れた。村人は境内に池を掘り、タニシを放って永遠に保護することにしたという。
 いま、境内には下に見るような池があり、そのほとりに「御蜊池乃碑」と刻まれた巨大な碑が建っている。



 写真07・御蜊様池
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 上で述べたお蜊池である。「御蜊池乃碑」裏面の由緒によると、
 ・・・昭和54年、野洲川改修工事完成と同時に全くの渇水状態になり、時代の推移によるとはいえ誠に残念である。遺跡として池の一部を残し、記念碑に古来よりの伝説をまとめ、由緒を後世に残す。・・・
 とある。工事完成と同時に池の水が涸れたという。タニシからすれば「我がこと成れり」というところか。神様も方々へ配慮して大変でした。



 写真08・中町若宮神社
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 竹林征三著『湖国の「水の道」』によると、守山市中町にある若宮神社も同じタニシ信仰で「蜊江若宮神社」とも呼ばれるとある。何か案内板でもあるかといってみたが、「若宮神社」との石標があるだけで特別なことはなかった。





3.旧笠原橋付近 GoogleMap

 写真09・旧笠原橋付近 撮影:昭和53年3月・
 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より

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 野洲市竹生・旧南北分岐あたりの上空から見たところである。中央にほぼ形をなした新放水路。左へ別れていくのが旧南流。右下にチラと見えているのが旧北流である。拡大してみると旧南流と新放水路左岸との交点あたりに小さな橋が見える。これが旧笠原橋である。
 右端奥の集落が新庄。そこから伸びた細い道が心細げに新放水路を横切って、南流右岸へカーブしながら上っていくのが見える。登り切ったところが笠原橋。左岸を行く堤防上の道路が、「く」の字を逆にしたように折れ曲がっているところ(クリック赤矢印)、ここが前項で述べた2度目の別れのところである。とはいってもこの表現は新堤防から見てもので、いまのこの状態では「別れ」は感じられない。
 この左岸堤防が旧笠原橋と交差するところ、ここが窪んで見える。高い堤防が橋のところだけ高さを下げる。旧堤防でよく見た状況である。一旦緩急あれば道をふさいで土嚢を積む、そういう計算だったのだろう。確か乙窪橋もそうだった。
 下の地図が現在の状況だが、いま旧堤防左岸を歩くと、旧笠原橋跡が低くなってその前後が高くなっている。ようするに上下どちらから来てもかつての橋の部分に向かって下り坂になっている。これがかつての旧南流堤防のままだとは思わないが、とにかく橋の部分が低かったことを示しているのは確かである。



 地図03・旧笠原橋付近
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 旧笠原橋付近の地図である。ベースはGoogleMap。現在、これがいちばん正確なようである。地図の左下、南東側が笠原町の集落。拡大すると、旧堤防左岸に接して蜊江神社が建っているのが分かる。この地図の範囲ではかろうじて旧堤防左岸は残り、右岸は笠原橋の一部とともに、新放水路に吸収されている(それぞれ破線の部分)のが分かる。この地図の右上、北東側が、旧川辺集落だったと推定される。上の写真03・(集団移転前の新庄川辺地区)は、この地図の旧笠原橋右岸畔あたりからの撮影ではないか。


 写真10・野洲川通水十五周年記念碑
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 上の地図に見るように旧笠原橋から県道48号(新庄大橋)までの旧南流跡地は、「野洲川改修記念広場」となり、笠原橋に近い方が公園、県道に近い側がサッカー場になっている。公園の一画に左の「野洲川通水十五周年記念碑」が建っている。裏面には・・・「野洲川改修事業をやってよかった」といえる日をねがい・・・とある。


 写真11・「野洲川放水路事業」説明板
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 公園内に立つ「放水路事業」説明板。裏面には「昭和28年台風13号による災害状況」の写真を載せる。笠原決壊箇所復旧作業洲本町法泉寺付近荒見町の浸水状況列系図橋より開発を見る



 写真12・「野洲川音頭」
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 こういいう歌があったらしい。つくづく詩人は凄いとおもう。あることないこと、いや全部あることだろうが、これだけ並べられるとまいったなと思う。ホント、これだけ資料を集めるだけでも大変だ。近江富士は当然として信長まで出てくるしね。ついでに壬申の乱も・・・。





4.南流側帯のこと GoogleMap

 地図04・側帯平面図
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 以上のように旧笠原橋付近はわれわれ素人から見れば、単なる公園に見えるが、専門的には「側帯」といって大きな意味を持っているとのこと。
『野洲川放水路工事誌』によれば、
 ・・・旧野洲川下流部は扇状地を流れる天井川であったことから基礎地盤は水の浸透性がよく漏水量が多い。そのため南北両流の締め切り部には,堤防の安全を図るため側帯部を置き、堤防の補強を計ると同時に、非常時に使う土砂等の備蓄場としても有効利用しているという。旧両流の分岐点のところで、旧川幅全体を埋めて盛り土することで強度を保っているとのこと。なるほどそうだったのか。そういえば「野洲川改修記念広場」案内板にも、・・・災害時の土砂の採取場となっています。・・・とあった。なるほど。

 地図05・南流側帯部
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 上の地図03・旧笠原橋付近で、「公園・サッカー場」と実際の利用状況を書き入れたが、その部分を専門的に書き表すと左のようになる。このうち第2,3備蓄場は旧堤防と同じ高さを保ち、第1備蓄場は半分はグランドゴルフ場、残り半分は県道への下り斜面になっている。
 ここで改めて南流側帯部を見てみよう。

 写真13・新庄大橋の半ば最高点から旧南流左岸堤防・南流側帯部を望む
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 川田大橋から田中コンクリート工場あたりまでは旧南流は新放水路に吸収されて姿は残っていない。跡地が見えるようになるのは、写真で「旧南流堤防分離」とあるところ。そこから新堤防の外側を付きつ離れつしながら下ってくるが、その間ずっと旧南流が高く保たれているのが分かる。そのあと旧南流は旧笠原橋跡道路とクロスするため、高度を下げるが、道路を除く南流側帯部は南流堤防とほぼ同じ高さを示している。

 写真14・下流側から側帯部を望む
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 地図03に示すように新放水路に吸収されていた旧南流左岸は、現在のサッカー場のはずれで放水路の外側へ戻ってくる。上の写真は県道48号を越えて下流側へ出て、そこから振り返って側帯部を見たところである。河川の左右は下流を正面に見て左右で表すから、ここでは下流側から上流を向いて見ているわけで左右が逆転する。向かって左が右岸、右が左岸である。左右両岸、かつては水が流れていたところを全部埋め立て、側帯部としているのがよく分かる。
 自動車が走っている道が県道48号。左が新庄大橋、右が笠原町信号である。

 写真15・川の底から側帯部をもう1枚
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 旧笠原橋から旧列系図橋までの跡地はほとんど畑になっているが、左右堤防跡地の他、どういうわけか分からないが、中央にもう1本道路がつけられている。その中央道路を下流から上流に向いて歩くと、この側帯部に真正面からぶつかることになる。県道48号から下流側はほとんど平坦化されてしまって、ところどころに堤防林の名残が見えるぐらいである。そこを歩いてきて、県道とのT字路に突き当たる。バスの2倍もの高さの丘を見上げる形になり、かつてその断面を川が流れており、自分が立つ場所はその川の底よりまだ低い場所だったと想像すると、何とも不思議な思いに駆られる。



5.左岸跡地を下る GoogleMap

 写真16・旧笠原橋跡道路との交差点を見る
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 旧笠原橋道路との交差点から旧堤防上を300mほど遡った地点からの望遠撮影である。といっても道路も交差点も見えない。ただ一つ道路を暗示するものが、左に見える白い柵である。実はこれ笠原集落から上ってくる道路である。しかしこれとどうして交差するのか。仮にこれが道路であったとしても、この道路は堤防をトンネルで抜けているとしか考えられない。それほど低いのである。バックは青空に見えるが、これが比良山の中腹である。



 写真17・かつての旧笠原橋跡道路との交差点
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 左の写真は上で見た航空写真09の旧笠原橋の部分だけをアップしたものである。赤い矢印で示した場所が上の写真16の部分である。もっとも現在の姿が昔のままだというわけではない。現在の笠原橋跡に当たる道路が旧笠原橋と同じ高さかどうか、それすら分からない。しかし、旧南流堤防が笠原集落から上ってきた道路よりも高く、その道が堤防の上部を切り通しで抜けていた。そんなイメージが見えてくるのである。



 写真18・旧笠原橋跡道路との交差点概念図
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 写真だけではもどかしい。これは現場の概念図である。もっとも、わたし自身旧笠原橋の存在すら記憶になかったわけで、旧乙窪橋などの淡い記憶を頼りに、多分こうであったろうと推測したものである。
 とにかく橋に通ずる道路は堤防の上部を切り通しで向ける。切り通しは石積などが施されていたような気がする。もちろん堤防上にも道路(というほどのものではない軽トラックが精一杯の道幅だった)があるわけで、それが道路と交差するために、現在でいえば、高速道路の本線から側道へ下る要領で堤防の斜面を斜めに下るのである(オレンジ色のルート)。旧堤防をオレンジ色の線まで削り取ったのが写真16ということになる。

 写真19・旧笠原橋跡道路と交差点から笠原集落を見る。
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 写真16の撮影位置から堤防上を歩き、坂を下ってきたところである。写真13パノラマ写真で、「旧笠原橋へ下る」とあるところ。旧笠原橋道路と左岸堤防との交差点。堤防へは進入禁止のゲートがある。左が上流、右が下流である。




 写真20・下流側から交差点を振り返る。
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 再び堤防上の高さに戻り、十字路を見返したところ。写っている車は写真16のもの。下り坂に止まっている。十字路を右へ下ると笠原集落。左が旧笠原橋跡。現在は「野洲川改修記念広場」。
 ずーっと奥、屋根が光っている建物が野洲川斎苑。その奥の山が菩提寺山。


 写真21・蜊江神社
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 十字路から100mあまり進むと左に蜊江神社の屋根が見えてくる。神社側から見たときは堤防に気づかなかったが、こうして堤防上から見るとあまりの近さに驚く。本殿のもう一つ手前の建物など、まさに眼下である。野洲川との伝承など、むべなるかなというところ。
 左の写真は堤防上で突っ立って撮影しているため、もう一つ高さの関係がぴんと来ない。もう1枚、写真21Aを見てもらうと分かりやすい。写真21を撮ったあと少し行くと堤防上の道路が県道48号へ向かって下りになる。写真21Aは斜面を身長分下ったところ、いいかえたら堤防上の道路と同じ高さにカメラを構えている訳である。これで両者の高さを客観的に比較することが出来る。堤防の高さより、本殿の棟がやや低いぐらいに見える。




 写真22・側帯部から県道48号を見下ろす
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 さらに進むと、側帯部から下りになる。下った先は県道48号。「一旦停止」があって、白い車とオバチャンの自転車が走っているところ。その向こうビニールハウスが何棟も重なって見える。カメラの位置が高いことを示している。




 写真23・半分ほど下りたところ
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 上の斜面を半分ほど下ったところ。ビニールハウスよりは少し高め。だいたい普通の家屋の2階ぐらいの高さの場所である。県道を越えて堤防跡が蛇行していくのが見える。交差点の向こうは何かの工事中。






 写真24・側帯部を見る
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 県道を渡って、側帯部を見返したところ。一見まん中が高い山形に見えるが、実はこれ下から見上げているため、手前の角が高く見えるだけで、もともとは写真15のように水平である。





 写真25・黒い小屋
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 写真23で白い車の右に見えていた小屋である。何のためのものかうっかりして確認してこなかったが、風景の一つとして、色といえ形といえ存在感がある建物である。
 道は徐々に左へ左へと曲がっていく。


 写真26・左岸右岸連絡道路
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 農作業用の道路かと思うが、左岸と右岸をつないでいる。遠くの山は比良山系北部。ほとんど人も車も通らない。GoogleMapにも表示されていない。



 写真27・フェニックス近づく
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 上の写真で遠くに見えていたフェニックス?に近づく。その木のすぐ右に比叡山が見えてくる。最初は左の方に隠れて見えなかったもの。道がいつの間にか左へ曲がってきたことが分かる。






 写真28・左岸右岸連絡道路
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 もう一つ連絡道路。道路状況から見て、こちらはそこそこ車も通っているようである。写真26の連絡道路はGoogleMapにも載っていないが、こちらは記載されている。比叡山が画面まん中へ出てくる。さらに左へ曲がったことになる。




 写真29・右岸の残留堤防林を見る
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 畑を通して旧右岸の堤防林を見る。もちろん堤防林そのものは堤防と同時に撤去されただろうから、その外側にあったものだろうが。
 ビニールハウスの手前の木々が琵琶湖に写る蜃気楼に見える。






 写真30・ひょっこりこんなものが
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 砂山の向こうから、ひょっこりこんなものが現れる。守山北高校のシンボル・トンガリ屋根。手前は湖南会蛍の里の建物の一部。








 GoogleMap

 写真31・市道?交差点
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 しっかりした道路なので県道かと思っていたが、その表示がないので市道?らしい。県道川田町から笠原町を経て浜街道に至る一直線の道路(ワゴンが走っている)である。その道路とクロスする。
 比叡山のピークは画面右外。道の奥に桜並木。




 写真32・市道との交差点から三上山を見る
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 市道との十字路に立つ。電柱さえなければこれはこれで一つの風景ではある。
 すぐ目の前にゼブラがあって電柱が立っている。そこにもう1本道路がある。市道を挟んで両側へ伸びている。左の方へは「蛍の里」への進入路として分からなくもないが、右へは何の意味もない。ときどきこういう訳の分からない道路に出会う。
 とここまで書いて現実はどうなのか、市道はよく通るが、こういう脇道はしっかり見たことがない。気になったのでもう一度行ってみた。それがこの写真(32A)である。写真32のゼブラに立って、下流を向いたところである。左は一般的な田圃、右は畑である。どうもこの部分だけ旧堤防が出っ張っていたらしい。



 写真33・市道を渡る
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 市道を渡って直進する。誤解を招きそうなので注釈を。写真31と写真33。市道渡る前と渡ったあとと、道は直線である。31では比叡山が右にはずれ、33では画面内に見える。カーブ上ならともかく、直線上を歩いていて何故こんなことが起こるのか。レンズの長さを変えたためである。現場検証のようなことをやろうとするときはむやみやたらと長さを変えてはいけない。深く反省しております。

 写真34・桜並木
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 左岸跡の桜並木。これがずーとこのあと「JAおうみんち」の手前まで続く。








 写真35・三上山
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 桜並木の外へ出て三上山を見る。交差している道は写真32で触れた不思議な二重道路。








 写真36・左へ曲がる
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 ゆるく左へ曲がっていく。真正面が比叡山。ビニールハウスの上の赤い屋根は、取付道路沿いのJAのカントリーエレベーター。








 写真37・「おうみんち」近く
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 「JAおうみんち」に近づく。笠原町川辺地区のほうからやって来た農道と合流。写っている車は農道から合流してくるところ。








 写真38・圃場整備記念碑
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 農道のそばの記念碑。








 写真39・JAおうみんち
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 JAおうみんち。きょうも車が多い。左の黒い車はおうみんちから出てきて浜街道(国道477号)へ向かうところ。
 余談だが、国道477号はすぐ近くの洲本東交差点で右折、琵琶湖大橋へ向かう。そこで右折せずそのまま直進する道路は県道26号(大津守山近江八幡線)となって大津市瀬田へ向かう。この道路が通称「浜街道」と呼ばれている。これが何故浜街道なのか。滋賀県へ来たときから疑問だった。いまだに分からない。



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