野洲川物語■南北両流跡探訪南流跡・3A |
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1.笠原町川辺地区のこと GoogleMap地図01・旧笠原橋付近 国土地理院1/50000地形図「京都北東部・近江八幡」
地図左は昭和45年の発行。私が野洲へ住みついた年。1970年、大阪万博が開かれた年である。野洲川放水路は影も形もない。下の方に見える黒い横線は地図の折り目、縦の筋は地図の継ぎ目である。その折り目と継ぎ目が交わるところに、少しわかりにくいが「川辺」という集落(青丸)がある。「かわべ」だと思っていたが「かわづら」と読むのだそうだ。
地図02Aは、01Aと同じ地図である。赤丸印の箇所はただの田圃のまん中である。旧川辺地区から旧笠原橋を渡って、笠原の集落を抜け、琵琶湖大橋取付道路へ出るところである。 写真01・集団移転記念碑 GoogleMap 現在の笠原町川辺地区集落内に記念碑が建っている。それによると、 写真02・笠原町方面から見た現在の川辺地区 記念誌『野洲川放水路』によると、 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より 旧野洲川南流右岸堤防より旧川辺集落を見たところ。カメラの高さが2階建ての家屋より高いことが分かる。余談ながら、この種の写真を撮る場合、お寺の屋根を画面に入れておいてもらうと、後日それを見たときのポイントになる。この場合は残念ながら・・・。 2.蜊江神社のこと写真04・一神社一寺 笠原町川辺地区集団移転記念碑でいう「一神社一寺」である。奥のお寺は真宗木辺派光雲山浄寶寺・神社は蜊江神社(蜊江大明神)、「つぶえ」と読むのだとか。集落の東はずれにひっそりと建つ。どちらも旧新庄川辺地区から移転したものという。 写真05・蜊江大明神 GoogleMap 蜊江神社の鳥居である。上の写真で見るように、窮屈な建ち方をしているために撮りにくい。神社名は「蜊江神社」だが、鳥居の扁額には「蜊江大明神」とある。境内へはいると拝殿の背後から三上山が見える。 写真06・蜊江神社(笠原町) GoogleMap 実は蜊江神社という神社がもう一つある。左は笠原町の蜊江神社。旧南流左岸堤防のすぐ下に位置している。 写真07・御蜊様池 上で述べたお蜊池である。「御蜊池乃碑」裏面の由緒によると、 写真08・中町若宮神社 竹林征三著『湖国の「水の道」』によると、守山市中町にある若宮神社も同じタニシ信仰で「蜊江若宮神社」とも呼ばれるとある。何か案内板でもあるかといってみたが、「若宮神社」との石標があるだけで特別なことはなかった。 3.旧笠原橋付近 GoogleMap写真09・旧笠原橋付近 撮影:昭和53年3月・建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より 野洲市竹生・旧南北分岐あたりの上空から見たところである。中央にほぼ形をなした新放水路。左へ別れていくのが旧南流。右下にチラと見えているのが旧北流である。拡大してみると旧南流と新放水路左岸との交点あたりに小さな橋が見える。これが旧笠原橋である。 地図03・旧笠原橋付近 旧笠原橋付近の地図である。ベースはGoogleMap。現在、これがいちばん正確なようである。地図の左下、南東側が笠原町の集落。拡大すると、旧堤防左岸に接して蜊江神社が建っているのが分かる。この地図の範囲ではかろうじて旧堤防左岸は残り、右岸は笠原橋の一部とともに、新放水路に吸収されている(それぞれ破線の部分)のが分かる。この地図の右上、北東側が、旧川辺集落だったと推定される。上の写真03・(集団移転前の新庄川辺地区)は、この地図の旧笠原橋右岸畔あたりからの撮影ではないか。 写真10・野洲川通水十五周年記念碑 上の地図に見るように旧笠原橋から県道48号(新庄大橋)までの旧南流跡地は、「野洲川改修記念広場」となり、笠原橋に近い方が公園、県道に近い側がサッカー場になっている。公園の一画に左の「野洲川通水十五周年記念碑」が建っている。裏面には・・・「野洲川改修事業をやってよかった」といえる日をねがい・・・とある。 写真11・「野洲川放水路事業」説明板 公園内に立つ「放水路事業」説明板。裏面には「昭和28年台風13号による災害状況」の写真を載せる。笠原決壊箇所復旧作業・洲本町法泉寺付近・荒見町の浸水状況・列系図橋より開発を見る。 写真12・「野洲川音頭」 こういいう歌があったらしい。つくづく詩人は凄いとおもう。あることないこと、いや全部あることだろうが、これだけ並べられるとまいったなと思う。ホント、これだけ資料を集めるだけでも大変だ。近江富士は当然として信長まで出てくるしね。ついでに壬申の乱も・・・。 4.南流側帯のこと GoogleMap地図04・側帯平面図 以上のように旧笠原橋付近はわれわれ素人から見れば、単なる公園に見えるが、専門的には「側帯」といって大きな意味を持っているとのこと。 上の地図03・旧笠原橋付近で、「公園・サッカー場」と実際の利用状況を書き入れたが、その部分を専門的に書き表すと左のようになる。このうち第2,3備蓄場は旧堤防と同じ高さを保ち、第1備蓄場は半分はグランドゴルフ場、残り半分は県道への下り斜面になっている。 川田大橋から田中コンクリート工場あたりまでは旧南流は新放水路に吸収されて姿は残っていない。跡地が見えるようになるのは、写真で「旧南流堤防分離」とあるところ。そこから新堤防の外側を付きつ離れつしながら下ってくるが、その間ずっと旧南流が高く保たれているのが分かる。そのあと旧南流は旧笠原橋跡道路とクロスするため、高度を下げるが、道路を除く南流側帯部は南流堤防とほぼ同じ高さを示している。 地図03に示すように新放水路に吸収されていた旧南流左岸は、現在のサッカー場のはずれで放水路の外側へ戻ってくる。上の写真は県道48号を越えて下流側へ出て、そこから振り返って側帯部を見たところである。河川の左右は下流を正面に見て左右で表すから、ここでは下流側から上流を向いて見ているわけで左右が逆転する。向かって左が右岸、右が左岸である。左右両岸、かつては水が流れていたところを全部埋め立て、側帯部としているのがよく分かる。 旧笠原橋から旧列系図橋までの跡地はほとんど畑になっているが、左右堤防跡地の他、どういうわけか分からないが、中央にもう1本道路がつけられている。その中央道路を下流から上流に向いて歩くと、この側帯部に真正面からぶつかることになる。県道48号から下流側はほとんど平坦化されてしまって、ところどころに堤防林の名残が見えるぐらいである。そこを歩いてきて、県道とのT字路に突き当たる。バスの2倍もの高さの丘を見上げる形になり、かつてその断面を川が流れており、自分が立つ場所はその川の底よりまだ低い場所だったと想像すると、何とも不思議な思いに駆られる。 5.左岸跡地を下る GoogleMap写真16・旧笠原橋跡道路との交差点を見る旧笠原橋道路との交差点から旧堤防上を300mほど遡った地点からの望遠撮影である。といっても道路も交差点も見えない。ただ一つ道路を暗示するものが、左に見える白い柵である。実はこれ笠原集落から上ってくる道路である。しかしこれとどうして交差するのか。仮にこれが道路であったとしても、この道路は堤防をトンネルで抜けているとしか考えられない。それほど低いのである。バックは青空に見えるが、これが比良山の中腹である。 写真17・かつての旧笠原橋跡道路との交差点 左の写真は上で見た航空写真09の旧笠原橋の部分だけをアップしたものである。赤い矢印で示した場所が上の写真16の部分である。もっとも現在の姿が昔のままだというわけではない。現在の笠原橋跡に当たる道路が旧笠原橋と同じ高さかどうか、それすら分からない。しかし、旧南流堤防が笠原集落から上ってきた道路よりも高く、その道が堤防の上部を切り通しで抜けていた。そんなイメージが見えてくるのである。 写真18・旧笠原橋跡道路との交差点概念図 写真だけではもどかしい。これは現場の概念図である。もっとも、わたし自身旧笠原橋の存在すら記憶になかったわけで、旧乙窪橋などの淡い記憶を頼りに、多分こうであったろうと推測したものである。 写真16の撮影位置から堤防上を歩き、坂を下ってきたところである。写真13パノラマ写真で、「旧笠原橋へ下る」とあるところ。旧笠原橋道路と左岸堤防との交差点。堤防へは進入禁止のゲートがある。左が上流、右が下流である。 写真20・下流側から交差点を振り返る。 再び堤防上の高さに戻り、十字路を見返したところ。写っている車は写真16のもの。下り坂に止まっている。十字路を右へ下ると笠原集落。左が旧笠原橋跡。現在は「野洲川改修記念広場」。 写真21・蜊江神社 十字路から100mあまり進むと左に蜊江神社の屋根が見えてくる。神社側から見たときは堤防に気づかなかったが、こうして堤防上から見るとあまりの近さに驚く。本殿のもう一つ手前の建物など、まさに眼下である。野洲川との伝承など、むべなるかなというところ。 写真22・側帯部から県道48号を見下ろす さらに進むと、側帯部から下りになる。下った先は県道48号。「一旦停止」があって、白い車とオバチャンの自転車が走っているところ。その向こうビニールハウスが何棟も重なって見える。カメラの位置が高いことを示している。 写真23・半分ほど下りたところ 上の斜面を半分ほど下ったところ。ビニールハウスよりは少し高め。だいたい普通の家屋の2階ぐらいの高さの場所である。県道を越えて堤防跡が蛇行していくのが見える。交差点の向こうは何かの工事中。 写真24・側帯部を見る 県道を渡って、側帯部を見返したところ。一見まん中が高い山形に見えるが、実はこれ下から見上げているため、手前の角が高く見えるだけで、もともとは写真15のように水平である。 写真25・黒い小屋 写真23で白い車の右に見えていた小屋である。何のためのものかうっかりして確認してこなかったが、風景の一つとして、色といえ形といえ存在感がある建物である。 農作業用の道路かと思うが、左岸と右岸をつないでいる。遠くの山は比良山系北部。ほとんど人も車も通らない。GoogleMapにも表示されていない。 上の写真で遠くに見えていたフェニックス?に近づく。その木のすぐ右に比叡山が見えてくる。最初は左の方に隠れて見えなかったもの。道がいつの間にか左へ曲がってきたことが分かる。 写真28・左岸右岸連絡道路 もう一つ連絡道路。道路状況から見て、こちらはそこそこ車も通っているようである。写真26の連絡道路はGoogleMapにも載っていないが、こちらは記載されている。比叡山が画面まん中へ出てくる。さらに左へ曲がったことになる。 写真29・右岸の残留堤防林を見る 畑を通して旧右岸の堤防林を見る。もちろん堤防林そのものは堤防と同時に撤去されただろうから、その外側にあったものだろうが。 写真30・ひょっこりこんなものが 砂山の向こうから、ひょっこりこんなものが現れる。守山北高校のシンボル・トンガリ屋根。手前は湖南会蛍の里の建物の一部。 GoogleMap写真31・市道?交差点 しっかりした道路なので県道かと思っていたが、その表示がないので市道?らしい。県道川田町から笠原町を経て浜街道に至る一直線の道路(ワゴンが走っている)である。その道路とクロスする。 写真32・市道との交差点から三上山を見る 市道との十字路に立つ。電柱さえなければこれはこれで一つの風景ではある。 写真33・市道を渡る 市道を渡って直進する。誤解を招きそうなので注釈を。写真31と写真33。市道渡る前と渡ったあとと、道は直線である。31では比叡山が右にはずれ、33では画面内に見える。カーブ上ならともかく、直線上を歩いていて何故こんなことが起こるのか。レンズの長さを変えたためである。現場検証のようなことをやろうとするときはむやみやたらと長さを変えてはいけない。深く反省しております。 左岸跡の桜並木。これがずーとこのあと「JAおうみんち」の手前まで続く。 写真35・三上山 桜並木の外へ出て三上山を見る。交差している道は写真32で触れた不思議な二重道路。 写真36・左へ曲がる ゆるく左へ曲がっていく。真正面が比叡山。ビニールハウスの上の赤い屋根は、取付道路沿いのJAのカントリーエレベーター。 写真37・「おうみんち」近く 「JAおうみんち」に近づく。笠原町川辺地区のほうからやって来た農道と合流。写っている車は農道から合流してくるところ。 写真38・圃場整備記念碑 農道のそばの記念碑。 写真39・JAおうみんち JAおうみんち。きょうも車が多い。左の黒い車はおうみんちから出てきて浜街道(国道477号)へ向かうところ。 |
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