野洲川物語■南北両流跡探訪北流跡・2 竹生から旧乙窪橋跡までB
初稿UP:2011.10.03 |
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5.旧北流左岸・野洲川斎場付近 GoogleMap写真23・北流道路を渡る。 2011(平成23)年9月撮影 竹生集落旧竹生橋左岸から、滋賀県理容美容学園の横を抜け、北流道路を渡るところである。走っている車は、県道151号とのT字交差点から乙窪の方へ向かうところ。道は北流道路を渡って野洲川斎苑の裏へ向かう。 「野洲川斎苑前T字交差点」、私が勝手につけた名称である。2011年9月現在この交差点には名称を示す標識がつけられていない。 写真24・放水路堤防にぶつかる 2011(平成23)年9月撮影 写真23の細い道にもどる。野洲川斎苑の裏を通って、放水路に突き当たるところ。左の擁壁は野洲川斎苑敷地。道は放水路堤防沿いになだらかにカーブする。 地図03・竹生・比江・乙窪付近 国土地理院1/50000地形図「近江八幡」 (左)工事開始前(昭和43年3月30日発行)/(中)工事終了後(平成7年5月1日発行)/ (右)両者を重ね合わせたもの
左、工事開始前の地図では、竹生集落を挟むように南北に分かれた流れが、集落の下流で再び北流が南流に近づく。それを工事後の地図(中・赤色)と重ねてみると、ちょうど新放水路の右岸と重なるように流れているのが分かる。北流と南流の間には、ちょっとした堤防があったようにも見えるが、そのあたりは現在の放水路に吸収されて、遺構は一切見られない。 写真25・放水路と平行に進む 2011(平成23)年9月撮影 野洲川斎苑の裏手で放水路堤防と平行になった道。このあと700mほどそのまま直進する。旧北流はこのあたりを流れていたはず。北流右岸はずっと遠く離れている。いま私が歩いているのは、下の写真M1で白線で囲まれた半月状の弧の部分である。左が放水路の右岸堤防、右が旧北流流路と堤防の間の部分である。 写真26・旧北流流路跡から右岸堤防跡を見る・1。 2011(平成23)年9月撮影 北流旧流路と右岸堤防との間。いまは広々とした農地になっている。ソバ畑が見事だった。三上山を撮りだしたころ、いまから30数年前、乙窪橋から右岸堤防を遡ったことがある。堤防が川から離れて、両側は鬱蒼たる森、道は細く陰鬱、不気味だった。早くここから抜け出したい、そんな感じ。竹生橋近くで、川が再び近寄ってきたとき、ほっとしたのを思い出す。 写真27・旧北流流路跡から右岸堤防跡を見る・2 2011(平成23)年9月撮影 ソバ畑が大豆に替わる。とにかく広々としていて気持ちがいい。 上にも書いたが、30数年前乙窪橋から竹生橋まで右岸堤防をバイクで走った記憶がある。どこかで三上山が見えるのではないかと期待していたが、両側が深い森で一切見通しなし。前後左右か閉ざされた空間という感じで不気味だった。左の白枠内弦の部分に見える森がそれだったのだろう。 6.旧北流左岸・新庄墓地付近 GoogleMap写真28・野洲川改修記念碑 2011(平成23)年9月撮影 上の地図03,中央の赤い地図に示すA地点である。地図の上の方に「新庄町」、「乙窪」の文字が見え、その間に縦書きで、乙窪橋の文字が見える。そこから南に向かって縦に堤防の線が見える。旧北流左岸堤防である。それと新放水路右岸堤防との交点、ここに「野洲川改修記念碑」が立つ。小さく車が走っているのが放水路堤防。 写真M2・放水路右岸A地点 撮影:昭和53年3月・ 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より 放水路新庄大橋より下流がほぼ形をなし、旧南北両流が元の形で残っているという面白いタイミングである。写真を拡大すると「A」の文字の所(放水路右岸堤防と旧北流左岸堤防との交点)が、上の野洲川改修記念碑の位置である。 野洲川改修記念碑から堤防の外側へ下りた墓地の前にある。明治29年の水害時、冠水した水位の記録石柱である。以前どこかに立てられていたものが、何らかの事情で土に埋もれ、工事の時に掘り出されたということらしい。 写真30・新庄墓地 2011(平成23)年9月撮影 改修記念碑の近くにある新庄墓地。敷地内に記念碑が2つあり、水害の惨禍を述べている。「明治27年9月7日、ここより上流が決壊し(当水害概念図)、古来の墓地も流出し、現在地に移ったと聞く」、「住民の苦難な生活はは筆舌に尽くしがたく集落全員が北海道への移住の論議さえあったと聞いている。私達の先祖は、不撓不屈の精神で・・・」等々。記念碑全文A,記念碑全文B 写真31・墓地から見る三上山 2011(平成23)年9月撮影 墓地の一画に立つ「南無阿弥陀仏」の碑。幾多の苦難を乗り越えてきた魂の叫びが聞こえる。秋晴れの一日、三上山がきれいに見える。 7.新庄墓地〜旧乙窪橋間、旧北流左岸堤防跡をたどる GoogleMap写真32・放水路堤防上から見る旧堤防跡。 2011(平成23)年9月撮影 新放水路堤防・野洲川改修記念碑のそばから。旧堤防跡を見たところ。右、気の向こうに見えるのが新庄墓地。墓地そのものも旧堤防跡地だろう。道路を境として右が旧堤防それに続く旧河川敷。左は現在の新庄集落へと続く。 写真33・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・1。 2011(平成23)年9月撮影 新庄墓地のはずれ。直進する道路に対して、右へ分かれる道が2本。写真には写っていないが、左にも2本の分岐がある。なんと6差路。右手前への別れが、先ほど歩いてきた道。放水路堤防と平行に来た道。堤防跡は直進する。 写真34・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・2。 2011(平成23)年9月撮影 正面に高圧線の鉄塔。その右に立つ背の高い木がこのあたりのランドマークである。右は生け垣状のものがあって、視界が妨げられているが、広々とした農地。かつての北流河川敷である。 写真35・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・3 2011(平成23)年9月撮影 道は左右にゆるくカーブしながらランドマークの大木に近づいていく。右は旧河川敷。平坦化されて左の旧来の土地と同じ高さになっている。 写真36・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・4 2011(平成23)年9月撮影 振り返ってみる三上山。広々とした農地が旧河川敷である。仕事の内容は素人には分からないが、おばちゃんが2人コンビを組んで仕事中。 写真37・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・5 2011(平成23)年9月撮影 ランドマークの木が近づいてくる。高圧線鉄塔は写真35で見えていたものの次のものである。このあたり、以前は広々としていたが、いまは写真に見るような農地用の土がおかれたり、大きな建物が建てられたり、風景が変わってきた。 写真38・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・6 2011(平成23)年9月撮影 ビニールハウスが並ぶ。こういう施設が造られると必ず電気が必要になる。電線が張られる。 写真39・新庄墓地〜旧乙窪橋間北流左岸堤防跡地・7 2011(平成23)年9月撮影 突き当たり、竹薮の手前に十字路マークがある。旧乙窪橋跡につけられた道路との交差点である。旧乙窪橋はほぼ東西方向に架けられていた。十字路が西側の端である。
写真40・旧乙窪橋跡。 2011(平成23)年9月撮影 上の写真39で突き当たりの十字路に立って右を見たところ。旧乙窪橋の通りである。当然橋はうんと高いところにかかっていた。旧北流はこの前を右から左に流れていた。もちろん2階建ての民家の大屋根ぐらいの高さの所をである。 8.旧北流右岸堤防跡をたどる GoogleMap写真11・北流道路に近づく 2011(平成23)年9月撮影 ここで場所も時間もいったん後戻りする。実はこの項、旧竹生橋跡から県道151号(竹生口〜川田大橋)沿いに右岸堤防跡をたどり、途中県道を左へ分けて、比江集落沿いの旧右岸堤防跡に沿って、県道野洲川斎苑前T字交差点から分かれた北流道路と交わるところまで進んだ。左の写真は前出のもので、旧堤防跡が北流道路に近づくところである。いったんここまでもどり、右岸堤防とを乙窪橋まで歩く。 新設された北流道路。県道151号野洲川斎苑前T字交差点(2011年9月現在、交差点の正式名称表示なし)から旧中主町堤交差点(国道477号)まで北流跡を忠実にトレースしている。 北流道路を乙窪に向かって進む。写真M1の白線枠内の半月型ゾーン、弦の部分を琵琶湖に向かって進んでいることになる。右手の藪は写真11で右に見えていた森である。天井川の堤防だったがいったん平坦化されその跡に茂ったものであろう。位置は変わらないが基本的に土地の高さが異なる。 写真43・北流道路・3 2011(平成23)年9月撮影 右側の森がとぎれたところで、堤防跡は北流道路から離れて、下流に向いて右へずれていく。 写真44・北流道路・4 2011(平成23)年9月撮影 旧北流跡の農地。たとえば下の写真45は同じ場所から見た乙窪の農地である。明らかに雰囲気が違う。どういうわけか、旧北流跡地は乙窪の農地に較べて、1mあまり高さが高い。祇王井川の水路をたどってみて、初めて分かったことだが、この高さの差は大きい。跡地に関しては水田用の水を得ることは難しいのだろう。素人の判断である。小さく自動車が走っているのが北流道路である。 上と同じ場所から見た乙窪の農地と三上山。イネが豊かに実り、まさに日本の秋。田圃は旧北流跡の道路より、1mほど低い位置にある。 写真46・北流道路・3 2011(平成23)年9月撮影 旧乙窪橋跡と北流道路の交差点。通行量はかなり多いが、現時点では(2011年9月)信号なし。遠くに三上山を望むのどかなところである。 写真47・牛尾神社 2011(平成23)年9月撮影 GoogleMap 牛尾神社。県道151号、西河原交差点の近くにある。行政的には西河原に位置するが、感覚的には乙窪の後神社といわれている。この地を収める神として牛頭天王(すさのうのみこと)を牛尾神社に祀って、今なお堤防安全を祈っている。 写真48・三河神社 2011(平成23)年9月撮影 GoogleMap 北比江の三河神社。小さな神社である。境内にある「御由緒」の碑には、「古くから野洲川は荒水川ともいわれ、洪水ごとに周辺地域に大きな被害をもたらした。とくに流域の地勢は、比江から乙窪へと湾曲部にあたり、その被害も大であった。・・・神社名を三河というように、乱流して乙窪へ落ち込んだものである」とある。御由緒碑全文。 |
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