top

SZ040 山中流域

SZ04D. 鈴鹿越え

取材:2020.12/2021 .03
初稿UP:2022.02.22


前 項 へ 次 項 へ 中トビラへ


                                                  地図M2M.鳥居・灯籠周辺地図
写真拡大 Mゾーン付近
写真065.鈴鹿峠へ
写真拡大

  さて、前方にトンネルが見えてきて山中川源流・鈴鹿峠への入り口である。普通、一般道から支道への入り口は左へ分かれていくのだが、ここは右車線から右へ分かれていく。事前に予備知識を持っていなければ慌てるところである。その入り口の分岐のところに、「右 万人講0.2Km」という標識がひっくり返っていた。
  写真は峠への進入路から国道1号上り車線を見たところ。右が四日市方面。ここからトンネルに向かう。




写真066.鈴鹿峠トンネル
写真拡大

  上と同じ場所からトンネルを見たところ。進入路を入れなかったのは大失敗。分かれのところに立つ立札「万人講0.2Km」と、登り口に立つ「万人講常夜灯0.1Km」の標識でお遊び。こんなことどっちでもいいのだけど、0.1Kmと0.2Km。管轄が違うのだろう。ちょっと登ると、トンネルの出口(三重県側)が見える。

  ■鈴鹿峠Google Map




写真067.支線分岐を見下ろす
写真拡大

  公園への支線入口を振り返って見下ろしたところ。右下2車線の道路が国道の上り線。四日市、名古屋方面へ。その部分を拡大する。画面奥から登って来て、右へ分岐した公園内支線。ぐぐぐと急勾配を上ってきたところ。
  広い写真に戻って、左上外から下ってくるガードレールが見える。これが旧東海道。国道下り線のトンネルの上を通ってきたところ。その下、真っ赤な箱様のものが見える下り線の何かかと思うが、正体不明。国道の上下線が大きく離れており、その間が公園になっている。すぐ左の地面に見えるコンクリートで固められた塹壕を思わす得体の知れない溝。落ち込んだら、さあ自分の力だけで脱出できるかどうか。これが山中川である。下の、「鳥居と灯籠」のところでいったん国道の西へ渡ったが、ここへきて下り車線をくぐってここへ出てきたところである。




写真068.万人講常夜灯
写真拡大

  ちょっと離れた高みに、巨大な石灯籠が見える。入口の案内にあった「万人講常夜灯」である。地図で見ると国道の上を越える旧東海道沿いに立っていることになる。


  写真069.国道下り線
写真拡大

  写真067から少し上がったところ。下り線を走るトラックが見える。地形から見て、トンネルを抜けた直後のようである。赤い箱が見える。消防機具庫だったらしい。この画面左外に、常夜灯という計算になる。





                                                   地図M3M.鈴鹿峠周辺地図
写真拡大 Nゾーン付近
写真070.山中川
写真拡大

  公園内道路の右側を階段状に流れ下ってくる山中川。専門用語では何というのかわからないが、コンクリートでがっしり固められた溝が、10m、20mおきぐらいに段差工が続く。勘定しようかと思ったが、1,2,3、・・と数えていけば、上まで行ってまた戻ってこなければならない。1基づつ写真を撮っていけば、その枚数をカウントすれば数は記録されるからとやってみたが、結局途中で訳が分からなくなってしまった。いまデータは11枚ま残っているが、途中で訳が分からなくなった数字である。それならばと、Googleの航空写真ではと数えてみたが、8段までは読めたが・・・。




写真071.落差工累々          写真072.落差工累々
写真拡大 写真拡大

  とにかくこういうのが累々と続く。最初のうちは1基につき1回、きっちり撮れていたが、道が右にカーブしかかったところで怪しくなった。水路にヨシが伸びてきて、こまかい様子が見えにくくなった。ああ間違えた。”−1”やななどと考えているうちに訳が分からなくなって、やーめた。





写真073.右カーブ
写真拡大

  右カーブである。何故かわからないが、カーブにかかると水路のヨシの背が高くなった。底がほとんど見えない。水路は外へ寄る。それはわかるのだが、その上へヨシが倒れていたりするとカウント不能になる。アホなことをやったものだ。もう1回バックしてカウントしなおす気力はなかった。きっちり勘定できてもどうなるものでもなし。





写真074.峠の茶畑
写真拡大

  上の写真073の右カーブが曲がり切ったところで、旧東海道とT字路をなすようにぶつかる。”T”の字の、上の横棒が旧東海道、縦棒が山中川沿いに上ってきた公園内道路である。旧東海道に架かる山中川の橋の上から、上ってきた道路を振り返ってみたところである。道路の右側に茶畑が見える。普通、峠の鞍部というと、山に挟まれたせまい空間を思い起こすが、ここにはそのイメージはない。後で見るように、その気になれば、野球場でもサッカー場でもでも、楽々並べて置けるぐらいの広さはある。

■鈴鹿峠Google Map  この地図はいま述べた三叉路を中心としている。Tの字は時計文字盤の7時を上にしている。


写真075.源流へ
写真拡大

  旧東海道の橋の上から(といっても欄干も何もないコンクリートの1枚橋だが)、山中川の上流を見たところである。左上の例の道標は、”左、東海自然歩道。右、鈴鹿峠路傍休憩地”とある。その向こうには、道が続いているように見えるが、クルマが2,3台置ける空き地で、その奥は森でふさがれている。国土地理院のWeb地図では、ここから400m弱、河川の線は示されている。そこはもう高畑山山頂のすぐ下の斜面である。





Oゾーン付近
写真076.鈴鹿峠へ
写真拡大

  地図によると、「鈴鹿峠」は上のT字路から直線道路を南へ120mの地点だという。標高は380m。写真の突き当りの森の入り口がその点である。道は直線で、かつ水平。それを軸として、畑の地形は右に高く、左に低い。両側茶畑である。

   写真077.サクラ咲く
写真拡大

  「登山者の方へという掲示板」があって、その後ろに桜が咲いていた。”山の気象は確かめましたか。装備は万全ですか・・・”。掲示板だけだったら、この写真は撮らなかった。






写真078.旧東海道鈴鹿峠道標群
写真拡大 写真拡大 写真拡大 写真拡大


  写真079.三子山・四方草山
写真拡大

  全部で何本立っていたのか。勘定もしていないが、その列は見事だった。上の4葉の写真に登場する道標は、いわゆる旧東海道の森へ入る手前右側に並んで立っている。しかしこの写真079で示した三子山、四方草山への道標だけは、その群れから離れて森への入り口左側に立っていた。どちらも今度の取材で遠景ながら親しく眺めた山(トラックの上が三子山T峰、その左いちばん高いピークが四方草山)だった。地図を調べると、この森の手前の空間を進むと、自然に稜線につながって行くようだった。




写真080.森の中の道
写真拡大

  森の中へ続く道である。この道を進むと坂下宿へ至る。この写真はここへ着いたときに撮っておいたものだったが、道標を撮っていてふと気がつくと、リュックを担いだ女性が2人歩いてくるところだった。これは!…と思ったが、真正面からカメラを向けるわけにもいかず涙をのんだ。

  写真081.山帰り
写真拡大

  「コンニチワ・・・」と声をかけて通り過ぎていった。帰りのクルマの中でヨッちゃんがいわく。「あの、女性2人組、峠へ車置いといて、何とか山へ登って来はったらしいわ」。もうちゃんとインタビューしていたらしい。三子山だったら左から帰って来るはずだが・・・。鈴鹿の山は分からない。




写真X01.阿須波道
写真拡大

  2016年1月、国道1号”頓宮”の近く。大日川の取材をしていて、「阿須波道」という道標に出くわした。近くに地蔵さんがあったり、”花の木七堂 伽藍廃寺跡”という碑があったりして、不思議な雰囲気のところだったが、阿須波道については何の説明もなし。事情が分からないまま、とにかくカメラに収めて帰った。当たるも八卦で検索してみると、何の苦労もなしにすっと出てきた。
  「鈴鹿を越える」、いまも昔も大変な仕事だった。奈良時代には、倉部越え[倉歴(くらぶ)越えとも、およそJR草津線の県境越えルート・倉部川沿い]が使われていたというが、その後、都が京都へ移ったこともあって、いまの鈴鹿峠越えのルートが開かれた。そのときの名称が「阿須波(あすは)道」だったという。ときに886(仁和2)年だとか。そんな細かいことがどうして、と思うのだが、「斎王の群行の記録などから」読み取れるとか。うん、それで”頓宮”の近くにこの碑が立っていたというわけか。

◆鈴鹿峠・直線道路の怪

  阿須波道が開通した当時は、”八町二十七曲り”と呼ばれたという。当然だろう。いまの国道 1 号でも27はないにしても、特に三重県側はカーブの連続である。そのイメージでこの直線道路を見ると、何とも違和感を感じる。そして、「ここが鈴鹿峠」という場所の道標群を見ると、「現物合わせやな」とニヤッと笑いたくなるのである。
  『近江輿地志略』、”鈴鹿越え”の項には、・・・・これ東海道の道、土山駅より伊勢国坂の下へ出るの道なり。嶺の茶店ある地、近江伊勢国の界なり・・・・。とある。「嶺の茶店ある地」である。当時、「近江・伊勢国の界」をどうして定めていたのか知らないが、両国をまたぐ峠道の最高点を界としていたのであろう。そこに一軒の茶店。GPSも何もなかった時代、まさに上り下りの嶺が峠だった。そしていま、谷筋をぬって曲がりくねった道は茶畑に合せて直線になり、GPSで測定された県境との交点が峠だと、まさに現物合わせのなにものでもない。道標が立ち並ぶ鈴鹿峠を尋ねてのたわ言である。




鈴鹿峠地図 (日本図誌大系 近畿Uより)
写真拡大 写真拡大 写真拡大 写真拡大
A.明治25年測量 B.昭和25年応急修正 C.昭和45年編集 D.現在のWeb地図

  鈴鹿峠越えの道路は、都が京に移って以後、仁和2(880)年に阿須波道として、鈴鹿川上流の渓谷沿いに開かれてから、東国への主要道路として発展した。峠の上には、土師器や須恵器片の散布地があり、旅人が道中安全を祈願するために、峠神に幣を手向けた平安時代の祭祀遺跡がある。
  鈴鹿山脈は、西の滋賀県側に緩傾斜、東の三重県側に急崖をなす傾動地塊で、鈴鹿峠付近の羊腸路がその特徴を示している。
  鈴鹿峠の麓、坂ノ下と関は、近世、東海道の宿場町であった。天保14(1843)年の記録では、坂ノ下は本陣3、脇本陣1、旅籠48を数え、旅館以外は、茶屋、髪結い風呂屋など、もっぱら宿場機能上必要な営業ばかりで、農家はなく、裏通りのない純粋の宿場町であった。いまも600余mにわたって立地するが、家屋は櫛の歯が抜けたように取り除かれて、寂莫たる山村と化し、過疎集落の典型となった(地図C)。大正15(1926)年、鈴鹿越えの隧道が開通、自動車の通行が可能となった(地図B)。昭和27(1952)年、阪下、沓掛、関の集落を避けてバイパスが開通した(地図C)。


  地図A:明治25年測量。ただ1本の道が、峠を越えているだけある。地形もおそらく自然のままであったであろう。鈴鹿峠、坂ノ下、いずれも横書きは右書きである。”三子山”は”三児山”となっている。
  地図B:昭和25年応急修正となっている。現実には、大正15年にトンネルが開通して、自動車の通行が可能になったと。しかし、現在の上り線のルートで、当時の自動車では、阪下からの上りは苦しかったことだろう。地図はまだ、まだ右書きだが、”三児山”は”三子山”に変わり。阪下に学校マークが見える。
  地図C:昭和45年編集。坂下宿のバイパスが開通している。学校のマークは消えている。
  地図D:現在のWeb地図。昭和53(1978)年、上下線分離。旧線を上り線とし、新たに下り線を新設した。
  以上、こうして4枚の地図を並べてみたが、鈴鹿峠付近の茶畑が表現されているのは、最後のWeb地図だけである。前3葉の地図を見比べても、茶畑が開かれたのはさして古い時期ではなさそうである。

  余談:私の父は、若いときからずっとトラックの運転手をしていた。昭和27年春、私が高校を卒業したのに合わせて、「ワシの仕事も見ておけ」と、愛知県の岡崎かどこかまで引っ張っていった。帰り、真っ暗な道を峠まで帰ってきたとき、例の登りでクルマの調子がおかしくなった。だましだまし登り着いて、父は京都の会社へ電話、救援を頼んだ。記憶はそこまでしかないが、京都から峠まで、当時の道で3時間で来れたかどうか。その時間を真っ暗な峠でどうして過ごしたのか。以前はトンネルの両側に公衆電話ボックがスあったのだが、それも今は無用の長物となった。考えてみると今では想像もできないことであった。




                                                   地図M3M.鈴鹿峠周辺地図
写真拡大 Pゾーン付近
写真082.路傍休憩地
写真拡大

  茶畑の直線道路を引き返してきたところである。山中川を越えたころから舗装道路になる。東海道自然歩道の”鈴鹿峠路傍休憩地”に当たるところである。右側、枯草の奥に「万人講常夜灯」の先端部が見える。







    ・・・・万人講常夜灯・・・・

  万人講常夜灯は、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38トン、高さ5,44mの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。
        平成14年3月                  甲賀市教育委員会




写真083.万人講常夜灯
写真拡大

  上の常夜灯解説文は、現地柵そばに立てられた立札によるものである。不思議なことが一つある。-----もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。-----との下りである。トンネル工事というのだから、この山の中の東海道沿いという意味であろう。その”東海道沿い”から現在の位置へというのだから、現在の位置は東海道沿いでないことになる。それがおかしい。
 この常夜灯のすぐそばを通る道は、地図によると先ほどの鈴鹿峠からの直線道の延長に当たり、「東海道」と表示されている。私は地図上で表示されている「鈴鹿峠」は歴史的なモノでなく、茶畑によって作られた直線道路と県境との現物合わせによるものだろうと書いた。そして、その「鈴鹿峠」から直線の一本道を歩いてここへ来た。ここも東海道のはず。地図と解説文は矛盾している。それとも、国道1号が”東海道”であって、いま歩いてきた”旧東海道”は東海道ではないということだろうか。結局、私がこの常夜灯のもともとの位置が分からなのだから、この文章の内容が理解できないということである。
  さて、この馬鹿でかい常夜灯。たまたま来た時間帯が悪かった。まともな光線はこの角度だけだった。木の柵があって撮りにくい。40年ほど前、土山宿本陣を撮りに来て、帰りに足を伸ばしてこの常夜灯を撮りに来た記憶がある。当時は6X7判のフィルムを使っていたが、やっぱり柵に難儀した。




Qゾーン付近
写真084.国道を見下ろす
写真拡大

  常夜灯から下流側へ歩いて、国道を見下ろしたところである。左二車線が下り線。京都・大阪へ。右、木の向こうが上り線、四日市、名古屋。右、まだ咲いていない桜の下を流れ下る山中川。上でレポートした段差を下ってきところである。このあと下り線をくぐって左側へ出る。
  右上に妙なものが写っている。大きくいえば、彗星のようなもの。小さく言えばホタルのようなもの。そのどちらでもないことは確か。紙焼きのときは液が飛んだりしてこんなヘマをよくやったものだが、デジタルでは考えにくい。念のためと、同じところで予備に撮っておいたもう一枚を確かめた。やっぱり写っている。ということはアクシデントではない。定常的なものがそこにあったということだ。木の葉っぱか何かの先が、太陽の光を受けて光っていたのだろう。そうとしか考えられない。




写真085.鈴鹿峠直下
写真拡大

 写真は山際を流れ下ってくる山中川を峠の方を向いて撮ったものである。写真が分かりにくいが川の左が国道1号の下り(草津・大津方面へ)。右側は山だが、川沿いに峠から下ってくる車1台の細い道がある。対向車が来たら・・・・ということだが、道は下りの一方通行。ということで、鳥居と灯籠のところでクルマで走りだしたが最後、鈴鹿峠へ向かわなければ、あとはどうしようもないという難儀なところである。




写真086.一方通行出口
写真拡大

  一方通行の出口である。常夜灯の前から一方通行の道を川沿いに下ってきて、右へ曲がって国道へ出るところ。上の写真はこの橋の上から右方を見たところである。左上の標識は、国道を下ってきて、この橋を手前に向かっての一方通行に見えるがそうではない。橋は手前から奥に向かっての一方通行。そこから国道へ出るに際して、左折しかできないということである。橋の出口と、奥の電柱についている矢印が正しい。
 橋の下を流れるのが山中川。流れは右から左へ。このまま500m強、国道の西側(左側)を流れ下って、背の低い鳥居のすぐ下手で右側へ出る。



このページトップへ 中トビラへ