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SZ040 山中流域

SZ040B. 山中川を遡るB

取材:2020.12/2021 .03
初稿UP:2022.02.22


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地図001F.山中川中流部地図

写真拡大 Fゾーン付近
写真021.第二名神(新名神)滋賀県起工の地
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  猪鼻交差点を過ぎると、道は改めて上りに転じる。前方に新名神の高架橋が大きく谷を越えていくのが見える。そして高架橋にさしかかる直前に、旧東海道が左へ分岐する。高架橋直下、二本の道に挟まれた三角形の土地が第二名神滋賀県起工の地だという。左はそのモニュメントである。いまは”新名神”という名称がなじんできたが、そういえば当時は「第二名神」と呼ばれていた。




写真022.山中一里塚公園
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  山中川は、山中川橋上流では、国道から少し離れたところを流れているが、ここへきてぐっと近くへ寄ってくる。その山中川と国道に挟まれた細長い土地が、ちょっとした公園になっている。左の写真、画面左に山中一里塚公園の碑が見える。すぐ外が国道1号である。

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  写真023.鈴鹿馬子唄之碑

  ”鈴鹿馬子唄之碑”なるものがある。上の写真の奥2つの碑がこれに当たる。左の写真023は、馬子唄碑と馬を引いた馬子の像。適当に撮っておいたら、馬子と馬の間に木が入ってしまった。何ともはや。それにしても後ろの像、ホンマに馬ですかね。



写真拡大     ・・・・いちいのくわんのん道・・・・

  山中地区の旧東海道沿い、現在は第2名神高速道路山中橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
 当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、ここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白の「儘十方世にはえぬきや大悲心」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺へお参詣道でもあったことを伝えている。(後略)
    平成15年3月        「土山の街並みを愛する会・土山町教育委員会」



地図002F.山中川中流部地図

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  一里塚公園内に立つ道標である。かつて、公園から国道を反対側(鈴鹿峠へ向かって右側)へ渡ったあたりから南西へ分岐する山道があって、現在の甲賀市神・櫟野に通じていたという。その分岐点に立っていた道標が、一里塚公園内に移され保管されているとのこと。
  左の地図は、その部分の地図である。現在の国道が開通するまでは、旧東海道は、いまの国道の南側を通って猪鼻へ通じていたらしい。現在の国道蟹坂から神に通じる県道129号近くのR点から途中のQ点までは道が残っているようである。仮にこれがかつての大原道の名残だとすれば、P→Q間の赤線部分が、昔の消えた道の部分だと推定できる。
  最近は、この種の立札はステンレス製が多い。確かにしっかりしていて見場もいいし腐食にも強い。しかし、不均衡な表面反射で見にくい。ここの立札はその上に、近くを車が走るせいだろう。ほこりをかぶって文字が読みにくい部分が多く難渋した。




写真025.旧東海道標識
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  土山宿付近でよく目にした”旧東海道”の標識が立っていた。懐かしかった。しかしよく考えてみればここも土山町だ。懐かしがる方がおかしい。
  その向こう山中川が流れていく。橋が見える。ネットが張り巡らされており、簡単には近寄れない。名称を確かめることができなかった。上の地図001Fでは仮の名前”P橋”とした。流れは奥(上流)から手前へ。





Gゾーン付近
写真026.東海道を振り返る
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  一里塚公園を後に、旧東海道を進む。新名神の下をくぐって少し行くと、家並が見えてくる。左へ折れる狭い道。それを折れるとすぐ橋がかかっている。その橋の上から旧東海道(突き当りの左右の道)を振り返ったところである。橋の名称は不明。プレートがなかったのか、調べるのを忘れたのか。撮影から2か月が経っている。そこのところの記憶も怪しい。親柱がついている、こんな構造の橋で名称がないということはまずない。確認を忘れたのだろう。地図では”Q橋”とした。




写真027.Q橋下流側
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  Q橋の下流側。すぐ目の前、左岸にちょっとした木が生えている。その奥、見上げるばかりのところに新名神の高架橋が見える。


  写真028.上流側
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  山間農地の中を行く。堤防はない。


写真029.下流側遠望
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  旧東海道へ戻るつもりでいたが、Uターンできる場所がなく、そのまま奥へ入った。そこもT字路になっており、狭い空間を横切っていく新名神の高架橋がますます近づいて見えた。一里塚公園から、先ほどのT字路までの旧東海道が見えた。その向こう、小さくて分かりにくいが乗用車が見えるのが国道1号。上下4車線だが、真横から見ればそんな雰囲気は感じられない。さきほどのQ橋下流の山中川。川も真横から見れば分かりにくい。




写真030.上流側遠望
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  きれいに整備された農地を巻くように、黒い線となって流れる上流側。右、屋根が光る山中集落。
  ここでクルマを回すつもりでいたが、面倒くさいので、そのまま上流に向かって走ることにした。








Hゾーン付近
写真031.山中西交差点
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  と、すぐ2車線のしっかりした道に出た。へー、こんな道があったんか。右折するとそこが国道”山中西交差点”だった。帰ってから地図を調べたら、2車線の道は、笹路川の方からやってくる道だった。なるほどそういうことだったのか。
  この写真は橋の上から撮っている。川はもちろん山中川。橋の名前は、なんと”馬子歌橋”だという。おそらく日本中さがしてもめったにない名称だろう。





写真032.馬子歌橋下流側
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  下流側。川は手前から奥へ流れている。左の道が旧東海道。これをまっすぐ進むと、新名神の高架橋下が、先ほどの一里塚公園。今回の取材は、右奥の山の下を走ってきたわけ。手前の板橋は農作業用蚊かと思うが、この橋へどうして取りつくのだろう。







写真033.旧東海道を望む
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  上の写真では斜めに見ていた旧東海道の正面に立った。Fゾーンの一里塚公園からまっすぐ歩いてきたらここへ出ていたことになる。と、写真を確認していたら、びっくりするようなものが見えて来た。途中、軽トラの奥に公園の滑り台が見える。そのずっと奥、新名神の高架橋の下へ登っていく道が見える。これが、さきほどこちらの写真を撮ったところだった。その道がいま東海道のこの写真に写っていたのである。とすれば、逆もまた真なりで、Gゾーンの丘の上から撮った写真にも旧東海道が写っているはずだ。で、探してみたら、写真030の真ん中辺に、公園の滑り台がしっかり写っていた。すべり台の前に、地蔵さんか何かの祠が見える。




写真034.馬子歌橋上流側
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  実はこの写真、記憶がはっきりしない難しい写真だった。撮影した順番から見れば、馬子歌橋上流ということになるのだが、それを撮ったときの記憶が残っていない。撮影が3月半ば、このページを作成している現在は5月半ば、2か月の間に記憶が飛んでしまっている。
  馬子歌橋上流とすれば、何か存在証明がいる。とすれば右の木の奥に屋根が光っている建物。そうだ、これがトイレだった。こんな立派な建物がトイレ?と、疑問に思われるだろう。そしてああそうか何かの一角がトイレになっているのだろうと納得されるかもしれない。しかしそうじゃない、この建物、一戸が独立したトイレなのである。
  このあとすぐ紹介するように、ここは公園になっていて、”馬子歌公園”という立派な名前がついている。それはそれでいいのだが、若しその名称がない場合、この公園を”トイレ公園”と名付けようと考えたほどである。それほど立派なトイレなのである。ウチのヨッちゃんのレポート。「あー、びっくりした。それはスゴイわ。だーれも入っているわけでもないのに、昼間からカンカン電灯がついているし、便座は暖房がついている。公衆便所でそんなとこある?。今度来たときもここで昼ゴハンにしよう」。ここで弁当の話に飛ぶのがヨッちゃんの語法。トイレで弁当を食べようというわけではない。お間違いのないように。
  後で近景を紹介するが、その横に自動販売機が置いてある。それがこの写真に見える。間違いない。
  こんなところでトイレの宣伝をして何になるのかと、苦虫をつぶしておられる方もおられるはず。その方々のためにもう一つの証明方法を。カメラの位置をこの橋の上、カメラの向きをこの川の上流向きとセットして作図させると、正面に高畑山が見える絵を描く。右手に見える茶色の2本線が国道である。写真にもちゃんと高畑山が写っている。




写真035.馬子歌公園
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  山中川と国道1号に挟まれた一角が”馬子歌公園”である。いま、”トイレ公園”で紹介した。一つ下手の一里塚公園には、その名称を刻んだ石柱が立っていた。ここにも同じものがありはしないかと探してみたが、見つからなかった。ざっと見ただけで念入りに探せば、どこかにあったのかもしれないが。しかし、「東海道鈴鹿・山中」いいね。




写真拡大     ・・・・鈴鹿馬子唄・・・・

   坂はてるてる  鈴鹿は曇る
   あいの土山  雨が降る
  近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、二つの国を行き来するには、必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道は鈴鹿峠を越えていたが、「東の箱根、西の鈴鹿」といわれるように旅人には非常な難所であった。その為にこの峠を人や荷が越えるのには、馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。彼らの間で自然発生的に歌われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりした調子で哀愁を帯びた節で歌われる。歌詞は七・七・七・五の甚句形式で、主に関宿や坂下宿のことが歌われている。冒頭に掲げたのは、いちばんの歌詞であるが、「あいの土山」の解釈には諸説があり、判然としないものの、その中のひとつには「あいのう雨が降る」すなわち「間もなく雨が降る」と解釈する説もある。しかし今日では意味を問うことなく「あいの土山」として三音節ながら土山の枕詞のように使われ多くの人に親しまれている。

  平成31年1月31日                       「土山の街並みを愛する会・土山町教育委員会」

I ゾーン付近
写真037.国道1号をくぐる
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  川の流れでいうと国道1号をくぐって、馬子唄公園の上手へ出てきたところである。トラックは鈴鹿峠から下ってきて、草津・大津へと向かうところ。その手前上り線があって、いちばん手前が馬子歌公園から出てきた旧東海道。これは国道の上り線への一方通行。下り線へ出るためには反対側へ出て、山中西交差点で右折。クルマを馬子歌公園へ置いておいて、信号を渡って向かい側へ。




地図003F I ゾーン付近地図

写真拡大 写真038.落差工
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  馬子歌公園から、交差点を渡って国道の南西側の様子を見る。国道の下り線歩道から、右の地図のa点の落差工を見たところ。田んぼのを巻いてきた流れが白波を上げて落下している。中央の凹みは魚道か?。当り前の話だが、流れは奥から手前へ。手前のフェンスは、国道歩道の欄干。川筋は国道に対して、少し右寄りから流れてくることを示している。




写真039.小さな橋
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  右の地図のb点の小さな橋である。渡り切って、振り返ってみたところ。クルマ(鈴鹿峠へ向かっている)が走っているのが国道。そこから畑の中をたどってきたところ。3月の末だというのに、もう桜が咲いていた。


  写真040.小さな橋・上流側
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  b点の小さな橋の上から、上流側(写真39でいうと左側)を見たところ。川は奥から手前へ流れてくる。ず―と向こう、国道をトラックが走っている。偶然だけど、トラックの荷台のところだけガードレールになっている。その前後は体裁のいい柵である。小さな橋ではこのようにガードレールが使われているケースがよくある。山中川の場合、大半が国道の北東側を流れている。いま見ているこの部分は南東側であるが、すぐ上流側の今トラックが走っているところで、国道の下をくぐってこちらへ流れてきたらしい。




写真041.小さな橋・下流側
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  b点の小さな橋下流側である。少し下ったところで鈍角に右へ曲がり、この画面の右外あたりで、写真038の落差工へでる。









写真042.村の1本橋
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  欄干も何もない。もちろん名前もない。コンクリートの一枚橋。昔だったら”村の一本橋”というところか。戦後間なし、ボクが中学生か高校生だったころ、二葉あき子が”むーらの一本橋 恋の橋”と歌っていた。コンクリートの橋はそれはそれでいいのだけれど、その向こうをネットで塞がれるとは、そのころ誰が想像しただろうか。
  「写真039.小さな橋」を渡ってさらに突っ込んだところ。地図の、c点のところである。もちろん地図にはネットは表示されていない。川はネット沿いを流れているが(本来はネットは川沿いに張られているのだが)、地図では、どちらが上流かよくわからない。現場でも確かめてこなかった。この写真を見ても判別の手はない。山中川と矛盾がないようにと考えると奥から手前かと思われる。
  もう1枚。村の一本橋の右側、地図で見るとネット沿いの流れの続き(下流側?)ということになるが、こうして写真で見ると奥が上流側のように見える。ヨシが生えて手の出しようがなかった。




写真043.国道1号
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  上流へ川沿いの道がないので、一旦、国道へ戻る。トラックで隠れているところが、馬子歌公園から出て来る道である。いま写っている家が、旧東海道沿いの家並だとすれば、国道はそこからこちら側へ拡張されたのだろう。トラックの後方が”山中西”交差点。その部分を長いレンズで見る。黒い乗用車の前に見えるガードレールのところが、山中川が南西側から北東側へ国道をくぐって出たところ。その奥に見えるのが、例の立派なトイレ。その前からガードレールの右へ出てくる道が旧東海道。そこで、国道に吸収されて消えている。




写真044.地下道入り口
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  さきほどb点の小さな橋の上からトラックが見えていた場所である。山中川が国道の下をくぐってこちら側へ出てくるところだと想定していたが、何と、そこは地下道の出入り口だった。川なんてどこにもない。しかしそんなことはよくある話で、多少オーバーランしてもUターンしてきて…ということは珍しくはない。さして心配していなかった。しかし、それが地下道の横断歩道だったとは。そういえば入口の壁面にに貼り付けてあった高さ制限のプレートが、先ほどの写真に写っていた。しかしその時点では、川の出口だとしか考えていなかった。「不覚」の一言だった。




写真045.流れ下る
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  地下道ののり面にステップがあって、そこをヨッコラショと上ると、流れ下ってくる山中川が見えた。地下道の上流50mほどのところで国道の地下をくぐって、こちら側へ出てきているようだった。写真はその間の直線流路である。Uターンして戻ってきて…は私の寝言だった。







写真046.地下道をくぐる
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  地下道をくぐって北東側(出発点の馬子歌公園側)へ戻り、鈴鹿峠方を見たところ。直線道路のカーブの先に十楽寺の屋根が光っていた。十楽寺の後の山が373mの三角点のピーク。その左の低く平らな稜線が山中城跡かな。
  このあと馬子唄公園へもどるへ戻る。右へ折れる細い道が旧東海道跡である。その道に面して建つのがトイレ。国道を走るトラックの背後が山中交差点。帰りついて馬子歌公園トイレ前から国道を見たところ。



写真047.地下道をくぐる・遠景
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  上の写真046の文章ではいかにもすぐ国道1号で峠へ向かったかのようなことを書いているが、実際は国道へは出ず、地図003Fの"山際の道”で示した国道を見下ろす道を走った。これはその道から見た地下道の北東側出入り口である。上の写真046は、地下道から歩道へ上がって、柵が途切れるところ。ちょうど赤色トレーラーが走っているところから、トラックの向きに撮ったものである。国道の向こう側がこのレポートの”I ゾーン”に当たる。地下道出口から画面左端まで地下道が続いているように見えるが、出入り口から左端までは土地の段差の影である。




写真048.山中川、国道をくぐる
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  地下道より50mほど峠寄り。山中川が I ソーンへ向かって国道をくぐるところ。工場の上に見える遠景の山は高畑山である。このあと山際の道を経て、国道を挟んで十楽寺の前の”Jゾーン”へ出る。






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