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SZ040 山中流域

SZ040A. 山中川を遡るA

取材:2021.03
初稿UP:2022.02.22


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地図001A.山中川下流部地図  

写真拡大 Aゾーン付近
写真001.蟹坂古戦場跡
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  国道1号、田村神社の正面の鳥居をくぐって森の中を進み、右折をして海道橋を渡る。これがかつての東海道であったという。茶畑の中を進むこと300m足らずで、蟹坂古戦場跡広場に出る。
  左の写真で、手前は一般道、薄茶色に舗装されているところが古戦場広場である。国道1号に「蟹坂」という交差点があることは知っていたが、そこがかつての古戦場跡とは夢にも思ってはいなかった。「蟹坂の合戦」なんて聞いたこともなかった。土山町教育委員会による案内板が立てられていたが、もともと基本的な知識がない上に、案内板には細部の説明があるだけで、素人には大筋の流れが見えてこない。年表を引っ張りだしてみたが、話が細かすぎてお手上げ。後で地図を見ていて、国道1号の山中交差点付近に、山中城址を発見したのが、せめてもの慰めだった。




写真002.古戦場跡碑
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  広場に立っていた古戦場碑。これで、永久にとは言わないが、長くその名は残るだろう。
  その右に別枠で馬鹿でかい碑が建っていた。合戦戦没者慰霊碑か何かかと思ったが、蟹坂地区圃場整備竣功記念碑とある。それぞれの地区でこの記念碑はよく見られるが、・・・まいったな。

写真拡大   写真003.蟹坂集落

  古戦場広場から少しの間、左右を工場に挟まれた無味乾燥の中を行く。それが終わると蟹坂集落。300m足らずの旧街道である。





Bゾーン付近
  写真004.白川神社御旅所
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  集落が尽き、国道1号へ出るまでのほんの少しの間、子供の遊び場のような広場があり、街道から見て左側にぽつんと鳥居が立っている。奥に小さな祠が2つ、白川神社御旅所だという。白川神社といえば、南土山の来見橋の近くで立ち寄った神社だ。







写真005.巨木が2本
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  広場に巨木が2本。上の写真の広場を覆う影はこの木によるもの。案内板があって木は”シイノキ”とわかったが、”榎嶋神社”がわからない。それらしいところを探してみたが、どこにも見当たらず。滋賀県緑化推進会という責任ある立場の標識だから、エエ加減なことを書いているはずはない。何か基本的に私が勘違いをしているのだとは思うが。もう1枚






写真006.神社ではなさそう
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  山の中へ入って行く道があり、ひょっとして?とたどってみたら、祠らしきものが見えだした。しかし、鳥居があるわけでもなし、よく見ると墓場らしい。結局、榎嶋神社はわからずじまい。







写真006A.関係エリア遠望
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  国道1号、道の駅”あいの土山”から田村神社へ渡る歩道橋の上から、関係ゾーンを遠望したものである。左車線、1台前の白いクルマが渡っているのが田村橋。この橋から左(上流側)を見ると、海道橋が見える。話を戻して、ずっと前方、交通標識の向こう、トラックが走っているところ。左方に蟹坂古戦場碑広場。工場を越えたところが蟹坂集落。道路は坂を登って蟹坂交差点を越え猪鼻峠へ消える。

  上の写真で、国道が消える谷のところにちょっと遠い山が見える。これが三子山(3つ並んだ真ん中の山だけが見える)である。周囲が見えないので判断が難しいが、カシミールで確認。間違いないようだ。


Cゾーン付近

  さて、榎嶋神社の正体はわからないまま、街道は国道 1 号に合する。道は上り坂である。坂を上り切って、小さな峠を越えところで細い坂道が左へ下っていく。猪鼻集落へ西側の入口である。


    ・・・・猪鼻立場(いのはなたてば)・・・・

  猪鼻集落は、東海道土山宿から東へ約3Kmの位置にあり、江戸時代には立場(たてば)として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪鼻峠があって、旅人を難渋させたのでこのあたりで休憩を必要とさせたのだろう。
  江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑、よもぎ餅、柿ちまき、強飯(こわめし)、飴、経木で作った水呑などが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。
  明治元年(1868年)の明治天皇御東幸の折、旧暦9月23日に旅籠中屋を御小憩や中食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている。
  また忠臣蔵で名高い赤穂浪士の一人、大高源吾は子葉という俳号で「いの花や早稲のもまるる山おろし」という句を残している。

                                  土山の街並みを愛する会・土山町教育委員会」




写真007.旅籠中屋跡
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  上の解説文、”猪鼻立場”にある旅籠中屋跡である。「明治天皇聖蹟」の碑が立っている。碑ばかりを意識して、旅館そのものが左右どちらだったか、確かめるのを忘れていた。なんとなく、左右どちらも民家だったような気がするが。碑に”中屋跡”とあるから、この碑が立てらえた時点で、既に旅籠は過去のものになっていたということか。





写真008.醫王山浄福寺
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  門の左、道路に面して<猪鼻立場>の中にあった子葉の”いの花や早稲のもまるる山おろし”の句碑がある。

地図A2.猪鼻付近地図

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写真009.猪鼻宿メイン道路
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  国道1号猪鼻交差点から県道507号が下ってくる。その途中から分かれてさらに下ってきた道が写真に見える左からの道である。手前から奥へ一直線に伸びるのが猪鼻宿のメイン道路。
 ちょっとわかりにくいが、道路の左向かい角に東海道猪鼻村の碑が立つ。黒茶色の石で文字は読みにくい。



Dゾーン付近

  さて、山中川と田村川との合流点である。地図で見ると猪鼻集落の背後にあるが、細かい裏道は勝手が分からない。一旦、集落を出て、両川の間の堤防を行くことにする。


写真010.田村川猪鼻橋下流
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  田村川猪鼻橋から下流側を見たところ。左側の白いところが水面と見紛うが、これは河床である。右半分が本当の流れ。河床はコンクリートを流したように白い。事情は分からない。この間、流れのルートは直線である。蛇行を続ける田村川では珍しい。おそらく人工的なルートであろう。奥のほうに橋が見える。国道1号を想定しても橋につながるようなルートはない。左岸にしっかりした道がついておりそれを進む。




写真011.橋に近づく
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  途中に何かの会社の建物がある、しっかりした道はそこまで。あとは草つきの道になる。写真は見えていた橋に近づいたところ。堤防の両側が川になっている。右が田村川である。暗くて分かりにくいが左が山中川、合流するのは橋の向こう側らしい。遠くからでは橋の様子が分からなかったが、どこか雰囲気が違う。水道管の橋らしい。合流点まで行くには橋の下を四つ這いになってくぐらなければならない。若いときなら何の苦もなかった話だが、このトシとなれば無理な姿勢は苦しい。



写真012.板の橋
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  細い板の橋かかかっている。川の中ほどに橋脚が立っていて、その上で2枚がつながれている。こんなところを渡って墜落でもしたら、新聞ダネだ。
  旧い昔、生まれ育った京都伏見での話である。太平洋戦争が始まる前、私個人でいえば、小学校へ入る前の話である。家の近くに1本の川が流れていた。橋には「濠川」と表示されていたが、琵琶湖疏水の下流である。ときどき、ポンポン蒸気(蒸気船をそう呼んでいた)が石炭を積んだ船を牽いて上ってきた。おそらく大阪から淀川を遡ってきたのだろう。その船が止まると、岸の石炭倉庫への陸揚げが始まる。いま思いだしたのがその風景である。コンベアもなければクレーンもない。岸と船との間にこの写真に見るような踏み板を渡して、天秤棒で石炭が入ったモッコを前後に担ぎ、黙々と踏み板を渡っていく。船一杯でどれだけの時間がかかったか。当時の私にはそこまでの感覚はなかったが、おそらく気が遠くなるほどに時間を要したはずである。流れは結構速くしかも深い。いま思うと命がけの仕事を見ていたことになる。




写真013.山中川
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  合流直前の山中川である。水はきれいに澄んでいる。岸から竹のかたまりが垂れ下がって川面は暗い。


写真014.上の農地から
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  以前、田村川本流をトレースしたとき、撮影しておいた写真である。猪鼻橋を渡って左へとると小高い農地に出る。そこが三叉路になっており、右へ行けば、結果的には田村川沿いに、田村神社の横に出る。まっすぐ行くと田村川と山中川の合流点に出る。ただしその道はネットで囲われ入れない。
  上の写真はネット越しの撮影である。例の水道橋が見えている。合流点は、この橋の右手である。荷物を積んであるところが会社があったところ。山中川はこの荷物の向こうを、左手から流れてくる。もう1枚。このときは板の橋はなかったようである。外されていたのか。



Eゾーン付近
写真015.山中川橋
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  旧東海道猪鼻宿を通り抜ける(実際の距離は300m弱である)と、国道1号猪鼻交差点から下ってくる県道507号に出会う。そこを左へとるとすぐ山中川橋に出る。(この写真と次の写真016の2枚は、昨年の晩秋、2020年12月の撮影である)。
  この写真で見ると、県道507号は山中川橋を渡ってなめらに右へカーブをして黒川橋に向かう。しかし、いまから40年ほど前には、このまま直進して、さらに猪鼻橋を渡り、山に突き当たったところでクッと右に折れて上流へ向かっていた。いまそれを思いだすのであるが、実はそれはいまの地図を見て思うのであって、私自身の記憶では橋は一つ、その右への曲がり角に見事なモミジの木があって、晩秋の紅葉が見事だった。
  いま見ている写真で、記憶を呼び起こすと、位置的には明るい赤のモミジだが、木のスケールとしては右に見える暗赤色の木だ。いずれにしても夢のような記憶だ。




写真016.山中川橋上流側        写真017.山中川下流側
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  1976(昭和51)年11月、三上山の撮影を始めて、1982(昭和57年)年6月、『四季近江富士』ができた。これで三上山は終了したと勘違いをした。次の狙いは、ふとしたことから野洲川源流が頭に浮かんだ。そんなことで、そのあと2,3年野洲川源流へ通った。青土ダムが建設中だったこともあって、ここ猪鼻経由で入るのがメインルートになっていた。いまの黒川橋はまだなかった。この山中川橋と猪鼻橋の2つを渡って上流へ向かうのが一般的なルートだった。これは、いま地図を見てそうだったと思い起こすだけで、その当時、山中川の存在に気付いていたかどうか、橋そのものは10m余りである。クルマで走ればあっという間である。
  その後、黒川橋ができてルートが変わってから、黒川橋の手前右側に神社のマークがあるのに気がついた。こんなところに神社があったかな。もっとも新しい道になってからはあまり走っていないから自分が知らなかっただけかもしれないが。・・・・今回の取材の写真016につながる。国道1号猪鼻交差点で左折して、坂を下った。山中川橋まで来て、橋の向こうに碑が建っているのに気がついた。下へ続く。




写真018.火頭古神社
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  承前、碑の正面へ回ってみて、そこが神社の正面だということに気がついた。神社のマークを見て黒川橋の近くだとばかり思っていた。それが何と山中川橋のすぐ横が神社の正面だった。鳥居のマークを見て北側、黒川橋の横が神社の入り口だとばかり思っていた。たとえば寺院の卍マーク、これは方向性がない。実際にその寺院がどちらを向いていようと、さして気にならない。ところが神社の鳥居のマークは、あまりにもイメージがリアルなために、ついそのマークを正面から見た向きに神社が建っていると考えてしまう。今回のこの火頭古神社に関しては、ものの見事にその錯覚にはまってしまった。ところでこの神社の名前は何と読むのか。
  神社の名前は”ひずこ神社”という。分かってしまえばなんでもない、字の通り読めばいいのだが、分からずに字だけ見せられると、とんでもない読み方をするのじゃないかと考えてしまう。




写真019.火頭古神社
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  神社は森の中である。天気のいい日、森の中の写真はつらい。カメラにはコントラスト調整システムがついているのだが、現場に立つと面倒くさいものだから、ついついそのまま撮ってしまう。たとえばこれなども同じこと、本殿前広場への上り口であるが、自分の真後ろに太陽があって手の打ちようがない。






写真020.火頭古神社本殿
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  さして広くもない拝殿前の広場の反射光を受けて、扁額が輝いている。これが案内板に”小規模ながらも本格的な造りの・・・”という本殿であろう。



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