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SZ01.田村川流域

SZ01B. 田村川を遡る・B

取材:2020.12
初稿UP:2022.02.27


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地図002.田村川流域地図 2  (国土地理院Web地図に加筆)
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  前項と同じ地図である。前項はEゾーン・尾巻橋まで。本項ではFゾーン・田村神社前からスタート。
  道の駅の前から神社へ跨線橋がついている。まんが悪く工事中。案内のおばちゃんがいて、跨道橋は「渡れません」という。道路には、”横断禁止、跨道橋をお渡りください”との注意書き。おばちゃんに「神社へ行くのはどうしたらいいの」ときくと、「分かりません」。そのための案内係なのに・・・。聞いたはほうが馬鹿でした。





8.F点付近
写真019.田村神社
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  国道は片側一車線が二車線に分かれるところである。ややこしい。若いときなら何の苦労もないものを。首振り人形のように、”右左”を繰り返してやっとの思いで渡り切ったところである。
  大きな神社にしては、かわいらしい鳥居が建っている。その前に「田村神社」と記した石標。また神社の森のスケールから見て可愛らしいなと思ってふと側面を見ると、何と、「元帥伯爵東郷平八郎謹書」とある。いまの若い人たちは何も感じないだろうが、大日本帝国のはしくれに生まれてきた私などは、こういうのを見ると”オオ―”と驚く。そういえばもう一か所、野洲川旧南流・北流を尋ねていたときに、あれは野洲市比江の長澤神社だったかに同じ表記があった。比江というところは、東郷姓の多い地域だが、長澤神社神主の東郷重太郎氏が大正11年に、単身上京東郷邸を訪れ請願したものだという。



写真019_1.境内を行く
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  そんなことで驚いていると、先ほど道の駅へ着いた観光バスから、お客さんが降りてきた。何人ぐらいだったか、その3分の1ぐらいがこちらへ渡ってきた。コロナのこのとき、そんな連中に巻き込まれたら・・・。その連中をやり過ごして参道を進む。
  杉林の中は暗い。両側に石灯籠が並んでいる。この写真の灯籠が切れるあたりに十字路があり、入口の鳥居からその十字路経由で右折して、森を出るところにかかっている海道橋(田村川)を渡って鈴鹿へ向かうルートが旧東海道であるという。



写真020.永夜燈
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  ”永夜燈”と銘の入った灯籠がたっていた。右面には「文政十二己丑年正月」とあって、西暦では1829年だとか。今年2020年を基準としたら、191年前になる計算。古いといえばいいのか新しいといえばいいのか。私なんかは、生まれた年しかわからないが、昔はこうして干支をちゃんと整理して理解してたんだ。このころの人は、これを1から60まで暗記してたんだろうか、たまらんね。





写真021.海道橋
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  参道の十字路を右折して、100mほど進むと森をぬけ、海道橋という田村川に架かる橋にでる。橋の手前左手に”鮎の背に 朝日さすなり 田村川”の句碑がある。近くにもう1つ案内板があって、
  ----”江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋を復元した橋です。・・・・安藤広重の「土山宿・春の雨」は、この橋を渡る大名行列の様子を東側から描いたものです。”----
  とある。    番外編:海道橋細見




写真022.海道橋下流側
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  海道橋下流側。穏やかな流れである。午後の光を受けて水面が鏡のように光る。奥の方、トラックが走っているのが国道1号の田村橋。左が鈴鹿峠。いま立っている海道橋がなかったころは国道を越えて50mほど下流のところを徒歩で渡っていたという。右の黒く繁る森が田村神社の森である。






写真023.海道橋上流側
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  橋の影が写っている。こうして見ると真下に見えるようだが、実際は冬の午後の光で太陽は結構低い。右から流れ下ってきて、左へオーバーランして、折り返してくる。そのあと平仮名の”く”の字を裏返したように流れてくる。500mに満たないこの間でも早くも蛇行しかかっている。
  正面の稜線を越えた向こうは青土ダム、見えている稜線は野洲川流域と田村川流域の分水嶺ということになる。
 さて、実はこのあたりから川沿いに遡っていく道があると勝手に決めていた。実際にそのような道があったのかもしれない。しかしネットで封鎖されていた。仕方ないもう一度もとの参道に戻ってさらに進む。




写真024.拝殿
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  拝殿である。森の中の光が妙な形に影を作る。影が動くのをじっと待っているほどの暇はない。さらに進むと石灯籠や石橋、石造建造物が並ぶ。直射日光ではどうにもならない。たしかこれを通り過ぎたところだったか、右へ折れる下り坂があって、階段状のテラスへ出る。







9.G点付近
写真025.階段状テラス
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  柵も何もない階段状テラス。目の前が深い淵である。子供が遊んだらちょっと怖いところだ。いやいや年寄りでお縁まで行くのは怖い。上流側へも下流側へも逃げ道はない。漠然とこのあたりから川の右岸へ出る道があるだろうと考えてきたことが甘かった。何回も書いたが、私はこういう取材のときには、もちろん予習はするけれども、現場へは地図は持って行かない。このときはそれが凶と出た。




写真026.下流側
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  下流側、流れの縁に道はない。もちろんあったとしても先ほどの海道橋へ戻るだけだ。それよりも流れの上に見える盾を伏せたような稜線が気になる。あれはどこだったか、大原川をたどったとき、”左田堵野右上野”の道標を見た。そこから見た飯道山によく似ている。ひょっとしてこれもと思ったが、いくらなんでも基本的に場所が大きく離れている。大原川は新名神の南だったし、こちらは国道1号沿いだ。方向も違うはず。カシミールで作図すると、高畑山と出た。



X.猪鼻から田村神社へ
地図002C.田村川流域地図 2C  (国土地理院Web地図に加筆)
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  鈴鹿峠へ向かう国道1号は、田村神社の前で片側2車線に広がる。田村橋を渡ったあたりの標高が254m。少し行くと、上り坂になり蟹坂交差点で271m。この数字はプロが近くの三角点を基準にして実測したものではない。国土地理院のWeb地図の任意の点を右クリックし標高を求める機能を使って、国道1号の道路上の点をクリックして求めたものである。実測との間にどれだけ誤差があるのか私にはわからない。
  道はさらに上り続ける。”S”の字を大きく上下に引伸ばしたようにカーブする真ん中あたり、P=295と表記文字を大きくしたあたりが最高点、いわばこの付近の峠ということになる。私は勝手にこの峠を「猪鼻峠」と呼んでいる。後は下りになって、猪鼻交差点で285m。これがこのあたり国道の最低点。最高点から最低点まで一気に走り下ることになる。後は鈴鹿峠まで上り一方である。

  細かい数字を上げて猪鼻周辺の道路の様子を述べた。その意味は後述するとして、40年前の思い出話を少々。
  1982(昭和57)年の秋から2,3年間、野洲川源流をまとめてみようと、この道をよく通った。野洲川へ入るには、国道の白川橋、(前項の田村川合流点近くの橋)から上流へというのが合理的なルートだが、青土ダムがまだ工事中で、ダム左岸はまだ通れなかったはず。そんなことで、猪鼻交差点経由でというのが、当時のコースだった。国民宿舎”かもしか荘”へのバスも、この交差点を経由していたのではなかったか。
  いま国道1号猪鼻交差点からから田村川沿いを遡ろうとする場合、山中川を渡ったところで右折して黒川橋を渡るのが一般的なルートである。しかしそのころは、黒川橋はまだなく、山中川を渡った後、そのまま直進して猪鼻橋を渡って正面の山にぶつかるように右へ折れるのが唯一のルートだった。そんなことで、橋を越えた突き当りは、あたかも右折専用道路で、左へ曲がることなど、考えてみたこともないという場所だった。
  野洲川源流へ入っていたころ、このあたりはただの通過点だった。クルマを止めて辺りを観察することもなかった。しかしいま考えてみると、例の猪鼻峠(295m)から猪鼻交差点(285m)への下りで、ダムの底へ落ち込んでいくような感覚を抱いていたことがよみがえる。そこで、県道へ左折するとまた下りである。標高は田村川と山中川との間の田んぼで270m。猪鼻峠からすれば25mの深さである。右折して田村川沿いを走るようになると、いつの間にか忘れてしまうのだが、橋を2本続けて渡るあたりのダムの底に落ち込んだ感覚は40年たったいまでも忘れられない。
  猪鼻橋をくぐった後、田村川はそのまま直進して、標高329mの山にぶつかった後、右に折れ335m峰・324m峰沿いを流れ下る。そして482m峰にぶつかって向きを西に変える。そこから田村神社まで右岸沿いに細い道がついている。特に前半が細く、後半はやや安定した道になる。で、前半の細い水路が塞がっていたら、猪鼻周辺の低地はまさにダムの底に沈んでいたはずである。
  田村神社の”水のテラス”を訪ねた後、田村川沿いを遡るルートが分からなくなった。帰って地図を調べればわかる話だが、まだ時間がある。とりあえずと猪鼻橋までやってきて周りを歩いてみた。それまで考えても見なかった突き当りに、左へ折れる道があることに気がついた。




10.H点付近
写真031.猪鼻橋
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  国道猪鼻交差点、国土地理院Web地図から得られる標高285m。この前後の国道1号の最低点である。そこから県道へ出てさらに下る。山中川を渡り、並行して流れる田村川畔に出たところ。標高は270m。国道1号の猪鼻峠との標高差は295−270=25mである。写っている橋は猪鼻橋。橋を越えてすぐ右に曲がる道が田村川沿いに遡る旧道である。古い記憶では山にぶつかって右に曲がる道だけの印象が強いが、その記憶が正しかったかどうか。




写真032.猪鼻橋下流
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  猪鼻橋から下流を見たところ。300m余り直進して、突き当りの320m山にぶつかって右へ曲がる。水平に連なる稜線が壁といえばいいのか、屏風といえばいいのか。珍しい風景である。蛇行することが多い田村川。この直線部分は、猪鼻橋のすぐ上流に架かる黒川橋あたりまでと考えると400m余りになる。この部分は人工的に改修されたのだろうか。黒川橋から見た下流部。写っている橋が猪鼻橋。流れはほぼ直線である。





写真033.下流側から見た猪鼻橋
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  猪鼻橋下流側から上流側を見たところ。右手に見える山峡を田村川が流れ下ってくるわけだが、それ以外はすべて山で囲まれている。まさにダムの底というイメージである。









写真034.山すそを左へ
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  野洲川源流へ入っていたころは、橋を渡って右折するのが自然なルートだったが、今回、そこらをぶらついていると、山裾を左へ上る細い道があることに気がついた。上がり切ったところで、その道はイノシシ除けネットで塞がれていたが、その手前に右折する道がありネット沿いに別の道が続いていた。






写真035.フェンス越しに
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  フェンス越しの道。突き当りの稜線は、先ほど猪鼻橋から見たのと同じものである。道はその山にぶつかって右へ曲がる。実際には見えないけれど、地図によると田村川はその道の向こうの山裾を流れているはずである。







写真036.ネット沿いの道
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  右へ行く道はネット沿いである。山裾にそこそこの道が続いている。どうなるか分からないが、この状態なら心配なさそう。とにかく行けるところまで行ってみるか。

  写真037.山峡を見る
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  画面左は上の写真に見える300m峰の右端である。左からずーっと続いてきた稜線がここで途切れる。山裾を縫ってきた田村川は田んぼを斜めに横切って、上の写真036の道の方へ寄って来る。




11.I点付近
写真038.山峡へ
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  2つ上の写真036。”ネット沿いの道”の突き当り。上の写真037の右外。道が左へ曲がるところで道幅がぐっと狭くなる。どうしようかと思ったが、こんなところでめったに対向車はこないだろう。とにかく行けるところまで行ってみるか。いつもこんな調子で狭い林道へ入り込んで、ひやひやものながら何とかなってきた。しかしもう年だから無理はできません。





写真039.山峡の流れ
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  川はクルマから見て左下を流れている。運転席からはまず見えない。その上、木が密生しているから、見えても一瞬。助手席のヨッチャンが目を凝らして「みえた!」と叫ぶ。この写真なんかは最高の部類。一見して橋の上から撮っているように見えるが、そうではない。このあと車が走っている右岸にぶつかって跳ね返る。
  しかしエライところへ来たな。クルマ返すところもないで・・・。




写真040.水治心人
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  ?、あれなんや?、碑があるぞ。近寄ってしげしげと見ると”平成大改修記念 水治心人 東井堰水利組合”とある。平成というのだから、そう古いものではない。しかし、何でこんな妙なところに・・・。まだ意味が分からなかった。
  もう一つ向こうに何かあるぞ・・・。






写真041.佐平治翁開鑿碑
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  「佐平治翁開鑿東井水是也」とある。佐平治という人がここの流れを開鑿しゃはったんやな。”東井水”というのがここの流れの名称だったのか。それとも開鑿したあとで佐平治さんが命名したのか。もしここが開かれなかったら、猪鼻地区一帯はダムはともかく、大雨のたびに田畑が冠水する状態だったのだろう。そこを広げたという話だろう。いま見ている状態が開鑿したあとの状態だから、開鑿前はどうだったのか。現在、国道を走っていて、猪鼻交差点から田村神社まで田村川は姿を消す。どこへ行ってしまうのかと思っていたが、こんなところを抜けていたのだ。それも自然に抜けるのでははなしに、佐平治さんの努力の結果だという。
  で、右面を見ると、”文政6年(1823)竣工とある。200年前の話や。重機も何にもなかった時代に、これは大変な仕事やったと感心していたら、ヨッチャンがこっちにも・・・と。いわれるままに左面を見ると、「昭和五十六年十二月八日 佐平治翁百五十回忌建之」とある。びっくりしたなー、これが50年前だったら太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の大変な日だった。




写真042.橋があった
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  そうか、ここはそういうところだったのか。この碑を見るまでは引き返すことばかり考えていたが、これを見て意識が変わった、とにかく行けるところまで行ってみよう。と、橋があった。明るい太陽が差し込んでいた。まだこんなに明るかったのか。そんな思いだった。
  いま北西への道を太陽に向かって走っている。写真は太陽を背にして写している。どうやら橋を越えてから振り向いて写したらしい。そのときの記憶は薄れてしまっている。




写真043.拓道之心碑
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  その橋のふちにまた碑があった。”拓道之心”下の字が小さくて読めない。アップすると”集落林道竣工記念”とある。いま走っているこの林道の竣工記念碑らしい。村の人たちにとってはこの狭い水道、この道。これに命をかけてきたのだろう。心根を見せてもらった思いだった。







12.J点付近
写真044.もう一つ橋が
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  相変わらず木が密集している。そんな中でときどき水面がまぶしく光る。
  道幅が広がった。また橋が。地図を見て、田村神社側の半分ほど道幅が広くなっている記憶があった。何とかセーフティーゾーンに出たらしい。田村神社の森を左に見て、国道へのT字路がそこに見えて来た。
  最初考えていたコースを結果的には逆行したことになったが、「佐平治翁開鑿碑」という思っても見ない記念碑に出会った。しかしこれから得たものはいま見てきたことがすべてだった。それ以上は何もわからない。早い話が佐平治翁がどこの住人っただということも分からない。しかし、いまの世の中のことだ、帰ってインターネットで調べれば…。いままで漠然と感じていた田村川が消える区間を、この目で確かめられたことで心は満たされていた。
  しかし、”・・・家へ帰って、インターネとで調べれば・・・”は甘かった。佐平治翁、東井水、開鑿など考え得るキーワードをすべて放り込んでみたが、何の結果も出て来なかった。こうなれば、しかるべきところへ出向いて尋ね歩くしか手はないが、コロナのこのご時世、うっかりしたことはできない。いつそれが可能になるか。




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