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SZ01.田村川流域

SZ01A. 田村川を遡る・A

取材:2020.12
初稿UP:2022.02.27


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地図001.田村川流域地図 1  (国土地理院Web地図に加筆)
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  田村川分離(実際の川の流れは合流)点は歌声橋のすぐ下流だった。よく、山の中でつり橋の下を深い渓流が流れている場面が写真で紹介されることがあるが、そこまではいかないにしても、イメージとしてはそれに近いものであった。
  西からやって来た旧東海道がそのまま橋でそこを越えることは誰の目にも困難だったろう。東海道はそこでぐっと針路を北に変える。上流の幅の広く瀬の浅いところを越えようというのである。この写真は1980年代前半のころ、土山町瀬ノ音付近で撮ったものである。谷の深い田村川とはイメージとは全く違う。川の中に板を渡しただけの橋が見えるが、増水さえしなければこれで渡れたのであろう。しかし、いま見ている合流点付近ではそうは問屋が下ろさない。水の多い少ないは別にしても、とにかく深い谷の底を流れているのである。



3.A点付近
写真001.歌声橋西側から
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  歌声橋西側、いや西岸と書くべきところだろうけど、岸のイメージがない。ましてやおそらく流れまで10mは十分にあろう深い流れに架かるイメージがない。写真の難しさである。この橋の手前から3分の一ぐらいの場所の右側から撮ったのが、次の合流点である。






写真002.合流点
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  野洲川、田村川の合流点である。画面下から入ってくるのが野洲川、左から入ってくるのが田村川。と、ここまで書いて、よく見ると上辺に赤い霧が流れこんでいる。しかし霧はなかったぞ、それとこんな赤い霧、いままで見たことはない。おそらく右上の紅葉の赤い葉っぱから”赤”を拾ったのだろう。しかし長いこと写真をやっているが、こんな現象は初めてだ。
 と、感じ入っていたら下の野洲川のふちにトラかライオンか。大きな口をあいて、こんなものが出入りするはずはない。しかし、以前(2016年に)撮ったときこんなヤツがいたかな。なるほど、こんな岩が勝手に動くはずはない。しかし光線の状況の差で随分変わるものだ。それと下顎が見えると見えないとで、ずいぶんイメージが変わる。結局水量の差だ。しかしこんなところからトラが顔を出したらびっくりするぞ。




写真003.白川橋
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  すぐ上流側の国道1号白川橋。歌声橋よりかなり高い位置を通っている。そういえば国道から歌声橋を見たときは随分下に見えた。何故、白川橋からこの下流側を撮らなかったのか。白川橋の歩道は、上流側に単独の橋があり、下流側には歩道に関するものは一切なし。だから歌声橋をかけたのだろう。白川橋に歩道があれば撮っていたはずだ。
  橋の奥の山が気になる。カシミールでたしかめたら、綿向山は左の木に隠れているらしい。



4.B点付近
写真004.大山橋
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  白川橋から国道を東に進んで、”土山支所前”という交差点に出る。以前はたしか”土山町役場前”だったはず。十字路の北西角に”平成万人灯”が建つ。北へ折れる道は県道9号、青瀬橋から青土ダムへ至る。一方南へ折れる道は県道539号、旧東海道とクロスしたあと大山橋に至る。
  さて、その大山橋。ご覧のように立派な橋だ。その上クルマは来ない。南へ渡った後、土山町大澤という集落を経て第2名神の甲賀土山ICにつながるのだが、大沢を経由する分敬遠するのだろう。おかげでこちらは天国だ。




写真005.大山橋上流側
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  南土山の旧東海道南側を蛇行しながら下ってくる。太陽を真後ろに置きながらの撮影で苦しいところ。奥の山、左端に気になるピークが見える。カシミールで作画。これが綿向山らしい。

  写真006.大山橋下流側
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  橋をくぐったところでポキンと折れるように90度以上の角度で右へ曲がる。まさに「右折」という言葉がふさわしい。もう1枚。この山がある以上川としても曲がらざるを得ないというところ。




5.C点付近
写真007.南土山旧東海道
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  南土山旧東海道へ戻る。この南西側を田村川が流れていることは地図を見て理解している。そしてさらに、不思議な縁があってこの南土山へは何度となく足を運んでいる。でありながら、ここを歩いていて、その川の流れの空気が感じられない。いやいや、私は空気を感じるなんて器用なことができる人間ではない。私にできることといえば、家と家との間からちらっと見える堤防を見て、ああ、川が流れているのだと感じるのが精いっぱい。写真拡大 ここではその「ちらっ」がないのである。
  右の地図は、南土山の二重道路を示している。茶色は旧東海道。その南西側に緑色で示したもう1本の道路(仮称・グリーン道路とした)が通っている。簡単に言えば宿場町の道路が二重になっているのである。グリーン道路の外側は田んぼである。話はそれるがその仮称グリーン道路に面して常明寺という寺がある。




写真007A.常明寺
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  南土山旧東海道の南、県道539号の近くに常明寺というお寺がある。そこの境内に
      さみだれに 鳰の浮巣を 見に行かん
  との芭蕉の句碑があるという。
  実は、写真仲間からの情報で、湖北水鳥センター近くの余呉川河口で、カンムリカイツブリが営巣するという情報をもらって、何回か通ってヒナの水泳練習などの写真を集めていた。普通のカイツブリとカンムリカイツブリとは基本的な大きさも違うし、頭の部分の恰好もちがう。が、とにかくその句碑が見たくてこの緑の道を走った。琵琶湖周辺の平地では、意識しようがしようまいが、そこに川があれば目に入る。ところがここではただの森にしか見えないのである。おそらく夜になっても、ここから川の音は聞こえないだろう。




写真008.土山宿本陣跡
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  南土山本筋の旧東海道である。土山宿本陣跡、上の県道539号から200m弱である。手前に”明治天皇聖蹟”との石碑が建っている。上に述べた1980年代半ば、野洲川渓谷へ入り込んでいたころ、ここ土山宿へも何度か足を伸ばしていた。当時の本陣である。アップしているので周囲が分かりにくいが、40年前もいまもほとんど変わっていない。もっとも江戸時代からのものだから、簡単に変わるはずはないのだが。
  しかし、写真としては行ったときが悪かった、太陽が真後ろで、左右の面の明るさが同じである。せめてこちらから撮っていたら、光はよかったのだが、碑も撮りたかったしね。




写真009.土山宿本陣跡
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  本陣を通りこして、振り返ったところである。幼稚園の子供たちが先生に連れられて散歩中。列が途切れて後ろのグループがちょっと離れている。その子たちがちょうど本陣の前ということになる。手前の建物は何だろう、民家としては長すぎる。いわゆる旅籠だったのか。いつも気にしながら通り過ぎてしまう。宿場町の風景をもう1枚。






6.D点付近
地図002.田村川流域地図 2  (国土地理院Web地図に加筆)
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 街道筋の中ほどで旧東海道は来見橋(キミ橋かと思っていたらクルミ橋とよむのだとか)というかわいい橋を渡る。欄干に広重の絵がはめられている。ついでに川の名称も来見川(もちろんクルミ川)という。漠然とこの橋を見ていたころは、どこか近くの川から分岐していたものと見て、流れの向きなどにも意識をしたこともなかった。      地図002A. 写真拡大
 この川は並走する国道の方から流れ来て、橋をくぐった後、何と大山橋のすぐ上流で田村川に注いでいる。どこかで田村川から分岐をして、ここへ流れ来たったという考え方は基本的に成り立つはずはなかったのだ。だいたい、川の常識として上流部では合流、下流部では分岐するのが当たり前の姿である。
  じゃ、この川はどこから来たのか。地図(右上の002A)をたどってみると、この川の源流部は、青土ダムの南に当たる標高500mほどの小山に至る。上の地図の国道1号の北東側の山地は、野洲川と田村川との分水嶺だったのである。




写真010.来見橋
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  いま、旧東海道・土山宿を西から東に向いて歩いている。集落の半ばを過ぎたあたり、来見橋(くるみばし)に差し掛かるところである。川(来見川)は、左手、野洲川・田村川分水嶺を水源として国道1号をくぐって流れてくる。上流側を見たところ。進行方向右側。ちょっとした広場のイメージである。右も左もとにかく行ったタイミングが悪かった。照らされる方も影も、とにかく真正面から、これはつらかった。下流側を1枚
  来見川・町道南土山線の下流側をもう1枚。白川神社を町道側へ抜けたところである。暗い林の中を流れている。魚道だと思うのだが、これが川の中央に設置されている。今までいろいろと見てきたが、すべて川の右か左がどちらかに設置されていた。中央にあるのは初めて。



写真011.白川神社
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  来見橋への少し手前に鳥居があったのを思いだし、ちょっとバックしてみた。”白川神社”とある。ここも完全な逆光。どないもこないも写真にならず。案内板には”祭神は速須佐之男命、天照大神、豊受大御神”という。7月第3日曜日に『土山祇園花傘神事』が行われる。そういえば、水口の教室でよく見せてもらった。あの祭りの場所はここだったのか。
 




写真012.白川神社もう一つ
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  予備知識がなくて、神社そのものがどうなのかさっぱり分からない。とにかく逆光に手を焼いた。それよりも田村川の蛇行の様子を見たかったので、そちらの方へ回った。と、反対側にもちゃんとした入口があった。その前に”白川神社駐車場”まである。そして、その横に”町道南土山線竣工記念碑”。田村川蛇行に関係するものかと思ったが、それとは無関係のものだった。旧東海道の南側を走る道路で、蛇行を避けて集落側へ大きく食い込んでいる。



写真013.白川神社参道
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  町道側の鳥居から神社の入り口まで進んで、旧東海道側の鳥居を見たところである。何やこんなに近くだったのか。こちら側からは完全な順光になるのだが、安定した露出は難しかった。太陽にほんの少し雲がかかった瞬間を狙ってやっと形がついた。







写真014.白川神社境内
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  旧東海道側の鳥居のところに立ったとき、神社は手前を向いて、完全な逆光の状態で建っているのだと考えたが、実際は町道の方を向いて建っていた。完全な順光である。本殿は改修工事直後らしく、金の金具などはきらきらと光っていた。これはものになるぞとシャッターを切ったが、写った写真ではその輝きはなくなっていた。写真は難しい。





写真014X.京都へ十五里
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  旧東海道へもどってさらに進む。途中小さな公園があって、生垣の影に小さな道標が立っていた。いわく ”従是 右 京都へ十五里/左 江戸へ百十里”と。石の面を見ても比較的新しい。おかげで、私にも全部読める。石標にもいろいろと出会ったが、江戸時代のやつはほとんど読めない。
  それはよかったのだが、この新しいやつ、”右”の字の筆順が違う。「右」とか「有」とかは、”ノ”が先のはず。石標の「右」の字は1画目と2画目を「左」と同じように書いている。以前、名前は忘れたが、有名な石工の方が、筆順で彫りの深さを変えるという話を何かで読んだことがある。いまの場合彫りの深さまでは読めないが、筆順は出来上がった自体から読める。その点デジタルは楽だ。キーボードをたたいとりゃいいのだから。




地図002B
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  右の地図は旧東海道土山宿である。地図の北西の隅で国道1号から分かれた旧東海道が国道1号と並走する。それともう1本、町道南土山線が旧東海道の南を並走する。旧東海道は道の南北両側に民家が並ぶが、町道は北側だけ民家が並び、南側は農地である。
  さて、この町道は○印で示した部分のところで、大きく旧東海道の方へ入り込んでいる。地図を見るとその部分だけ田村川の蛇行幅が大きく、それを避けてのことと思われる。定規を当ててみると、仮に町道を直線としたとき(破線で示す)、田村川とぎりぎりのところである。そのぎりぎりのところを読んで、旧東海道の方へ迂回させたと解釈した。
  ところが、あるときその部分の航空写真を何気なく見ていて驚いた。大きく蛇行した川の痕跡が土山宿の方へ入り込んでいるのが見えた。地図は現在の状況を示しているだけで、河道が変化した痕跡までは表現していないのである。その点航空写真は違う。河道の変化をきっちり示していた。
  ところがいまの場合、蛇行幅は縮小しているのだが、自然に縮小したのか人工的に縮小させたのか。あれは釧路湿原だったか、ギリシャ文字のΩ状に流れていた川が、喉首のところが侵食されて、ショートカットされると、残った部分が三日月湖になると言われている。いまの場合、古い水路はすでに田んぼに変わっている。この部分が三日月湖だと考えられないこともない。これだけで立派な教材だ。


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7.E点付近
写真015.尾巻橋
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  町道南土山線との十字路を越えて、ちょっとした茶畑を過ぎると、右へ向かって下り道が見える。右側に大きな木があってその陰に橋が見える。地図で田村川が近づいているのは分かっていたが、思った以上に近い。橋の名前は「尾巻橋」。橋の突き当りにはネットのフェンスがある。イノシシ除けかと思ったが、よく見ると「個人の所有地につき立入禁止云々」とある。シッポを巻いて逃げて帰るしかない。なんせここは尾巻橋。





写真016.尾巻橋下流側
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  少しの間左側の山蔭をまっすぐ流れ、やおら右へ曲がっていく。

  写真017.尾巻橋上流側
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  尾巻橋の上から上流側を見たところである。左上に見える建物は、地図で見ると旧東海道沿いの民家を裏側から見たところらしい。それにしてもこの擁壁の高さ。
  このあと旧東海道へ戻ってさらに進む。道の駅”あいの土山”の裏手で田村神社に向かって左へ折れる。



写真018.田村橋
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  田村神社の前、国道1号に架かる田村橋である。画面左に見えるのが田村神社の森。






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