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地図001.田村川流域地図 1 (国土地理院Web地図に加筆) 田村川分離(実際の川の流れは合流)点は歌声橋のすぐ下流だった。よく、山の中でつり橋の下を深い渓流が流れている場面が写真で紹介されることがあるが、そこまではいかないにしても、イメージとしてはそれに近いものであった。 3.A点付近 写真001.歌声橋西側から 歌声橋西側、いや西岸と書くべきところだろうけど、岸のイメージがない。ましてやおそらく流れまで10mは十分にあろう深い流れに架かるイメージがない。写真の難しさである。この橋の手前から3分の一ぐらいの場所の右側から撮ったのが、次の合流点である。 写真002.合流点 野洲川、田村川の合流点である。画面下から入ってくるのが野洲川、左から入ってくるのが田村川。と、ここまで書いて、よく見ると上辺に赤い霧が流れこんでいる。しかし霧はなかったぞ、それとこんな赤い霧、いままで見たことはない。おそらく右上の紅葉の赤い葉っぱから”赤”を拾ったのだろう。しかし長いこと写真をやっているが、こんな現象は初めてだ。 写真003.白川橋 すぐ上流側の国道1号白川橋。歌声橋よりかなり高い位置を通っている。そういえば国道から歌声橋を見たときは随分下に見えた。何故、白川橋からこの下流側を撮らなかったのか。白川橋の歩道は、上流側に単独の橋があり、下流側には歩道に関するものは一切なし。だから歌声橋をかけたのだろう。白川橋に歩道があれば撮っていたはずだ。 4.B点付近 写真004.大山橋 白川橋から国道を東に進んで、”土山支所前”という交差点に出る。以前はたしか”土山町役場前”だったはず。十字路の北西角に”平成万人灯”が建つ。北へ折れる道は県道9号、青瀬橋から青土ダムへ至る。一方南へ折れる道は県道539号、旧東海道とクロスしたあと大山橋に至る。 写真005.大山橋上流側 南土山の旧東海道南側を蛇行しながら下ってくる。太陽を真後ろに置きながらの撮影で苦しいところ。奥の山、左端に気になるピークが見える。カシミールで作画。これが綿向山らしい。 写真006.大山橋下流側橋をくぐったところでポキンと折れるように90度以上の角度で右へ曲がる。まさに「右折」という言葉がふさわしい。もう1枚。この山がある以上川としても曲がらざるを得ないというところ。 5.C点付近 写真007.南土山旧東海道 南土山旧東海道へ戻る。この南西側を田村川が流れていることは地図を見て理解している。そしてさらに、不思議な縁があってこの南土山へは何度となく足を運んでいる。でありながら、ここを歩いていて、その川の流れの空気が感じられない。いやいや、私は空気を感じるなんて器用なことができる人間ではない。私にできることといえば、家と家との間からちらっと見える堤防を見て、ああ、川が流れているのだと感じるのが精いっぱい。
ここではその「ちらっ」がないのである。 写真007A.常明寺 南土山旧東海道の南、県道539号の近くに常明寺というお寺がある。そこの境内に 写真008.土山宿本陣跡 南土山本筋の旧東海道である。土山宿本陣跡、上の県道539号から200m弱である。手前に”明治天皇聖蹟”との石碑が建っている。上に述べた1980年代半ば、野洲川渓谷へ入り込んでいたころ、ここ土山宿へも何度か足を伸ばしていた。当時の本陣である。アップしているので周囲が分かりにくいが、40年前もいまもほとんど変わっていない。もっとも江戸時代からのものだから、簡単に変わるはずはないのだが。 写真009.土山宿本陣跡 本陣を通りこして、振り返ったところである。幼稚園の子供たちが先生に連れられて散歩中。列が途切れて後ろのグループがちょっと離れている。その子たちがちょうど本陣の前ということになる。手前の建物は何だろう、民家としては長すぎる。いわゆる旅籠だったのか。いつも気にしながら通り過ぎてしまう。宿場町の風景をもう1枚。 6.D点付近 地図002.田村川流域地図 2 (国土地理院Web地図に加筆) 街道筋の中ほどで旧東海道は来見橋(キミ橋かと思っていたらクルミ橋とよむのだとか)というかわいい橋を渡る。欄干に広重の絵がはめられている。ついでに川の名称も来見川(もちろんクルミ川)という。漠然とこの橋を見ていたころは、どこか近くの川から分岐していたものと見て、流れの向きなどにも意識をしたこともなかった。
地図002A.
写真010.来見橋 いま、旧東海道・土山宿を西から東に向いて歩いている。集落の半ばを過ぎたあたり、来見橋(くるみばし)に差し掛かるところである。川(来見川)は、左手、野洲川・田村川分水嶺を水源として国道1号をくぐって流れてくる。上流側を見たところ。進行方向右側。ちょっとした広場のイメージである。右も左もとにかく行ったタイミングが悪かった。照らされる方も影も、とにかく真正面から、これはつらかった。下流側を1枚。 写真011.白川神社 来見橋への少し手前に鳥居があったのを思いだし、ちょっとバックしてみた。”白川神社”とある。ここも完全な逆光。どないもこないも写真にならず。案内板には”祭神は速須佐之男命、天照大神、豊受大御神”という。7月第3日曜日に『土山祇園花傘神事』が行われる。そういえば、水口の教室でよく見せてもらった。あの祭りの場所はここだったのか。 写真012.白川神社もう一つ 予備知識がなくて、神社そのものがどうなのかさっぱり分からない。とにかく逆光に手を焼いた。それよりも田村川の蛇行の様子を見たかったので、そちらの方へ回った。と、反対側にもちゃんとした入口があった。その前に”白川神社駐車場”まである。そして、その横に”町道南土山線竣工記念碑”。田村川蛇行に関係するものかと思ったが、それとは無関係のものだった。旧東海道の南側を走る道路で、蛇行を避けて集落側へ大きく食い込んでいる。 写真013.白川神社参道 町道側の鳥居から神社の入り口まで進んで、旧東海道側の鳥居を見たところである。何やこんなに近くだったのか。こちら側からは完全な順光になるのだが、安定した露出は難しかった。太陽にほんの少し雲がかかった瞬間を狙ってやっと形がついた。 写真014.白川神社境内 旧東海道側の鳥居のところに立ったとき、神社は手前を向いて、完全な逆光の状態で建っているのだと考えたが、実際は町道の方を向いて建っていた。完全な順光である。本殿は改修工事直後らしく、金の金具などはきらきらと光っていた。これはものになるぞとシャッターを切ったが、写った写真ではその輝きはなくなっていた。写真は難しい。 写真014X.京都へ十五里 旧東海道へもどってさらに進む。途中小さな公園があって、生垣の影に小さな道標が立っていた。いわく ”従是 右 京都へ十五里/左 江戸へ百十里”と。石の面を見ても比較的新しい。おかげで、私にも全部読める。石標にもいろいろと出会ったが、江戸時代のやつはほとんど読めない。 地図002B 右の地図は旧東海道土山宿である。地図の北西の隅で国道1号から分かれた旧東海道が国道1号と並走する。それともう1本、町道南土山線が旧東海道の南を並走する。旧東海道は道の南北両側に民家が並ぶが、町道は北側だけ民家が並び、南側は農地である。
7.E点付近 写真015.尾巻橋 町道南土山線との十字路を越えて、ちょっとした茶畑を過ぎると、右へ向かって下り道が見える。右側に大きな木があってその陰に橋が見える。地図で田村川が近づいているのは分かっていたが、思った以上に近い。橋の名前は「尾巻橋」。橋の突き当りにはネットのフェンスがある。イノシシ除けかと思ったが、よく見ると「個人の所有地につき立入禁止云々」とある。シッポを巻いて逃げて帰るしかない。なんせここは尾巻橋。 写真016.尾巻橋下流側 少しの間左側の山蔭をまっすぐ流れ、やおら右へ曲がっていく。 写真017.尾巻橋上流側 尾巻橋の上から上流側を見たところである。左上に見える建物は、地図で見ると旧東海道沿いの民家を裏側から見たところらしい。それにしてもこの擁壁の高さ。 写真018.田村橋 田村神社の前、国道1号に架かる田村橋である。画面左に見えるのが田村神社の森。 |
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