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S14.櫟野川流域

S1401. 櫟野川を遡る

取材:2021.11
初稿UP:2022.01.30


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地図002.櫟野川流域地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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  まず、”櫟野”の読み方。まず有名なお寺”櫟野寺”、これは”らくやじ”。”櫟野川”は”いちのがわ”、”甲賀町櫟野”は”こうちょういちの”。ついでにというと叱られそうだが、”甲賀市”は”こうし”、うっかりすると”こうが市”と読んでしまう。いつだったか忘れてしまったが、草津線に初めて乗ったとき、車内放送で「次はこうか」といわれてびっくりした記憶がある。
  さて、その甲賀駅のすこし東が櫟野川と杣川の合流点である。草津線と並行して市神橋がかかっている。そのあとは「櫟野寺のある甲賀町櫟野集落まで、山間平野を蛇行しながら上流へ向かう。



1.A点付近
写真001.市神橋
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  県道4号、”市神橋”である。下流側にJR草津線が並走する。甲賀駅から南へ約490mの地点である。右に見える電柱が草津線の架線支柱。県道と草津線とはほとんど密着しているといっていい。さらに下流側にもう1本旧道の橋がかかっている。







写真002.旧道橋と草津線
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  下流側を撮るために旧道の橋へ回ってみた。と、うろちょろしている間に警報機が鳴りだして草津行きの電車がやってきた。4両やり過ごしてテールライトが遠ざかってゆくところである。電車の右に、県道を行く白いクルマが見える。







写真003.旧道橋から上流を見る
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  電車が行ってしまった後、同じ橋の上から下流側を見る。すぐ下にちょっとした橋がかかっている。上の地図では1本の線で表現されているが、クルマは通れそうな橋である。さらにその向こうにガードレールが見える。これは杣川左岸の道路である。いま見下ろしている櫟野川との合流点の対岸である。画面では、櫟野川は手前から奥へ、杣川はこの左から右に流れている。





写真004.合流点
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  上の写真のガードレールのところまで回って、合流点を見たところ。カキの木の向こう側から左手前へ、カーブを描くように手前を横切るのが杣川(右が上流)。向こうから手前に向かって流れ落ちるのが櫟野川である。






写真005.市神橋から上流を
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  再び市神橋へ戻って上流を見たところ。橋には、しっかりした歩道がないから、ゆっくりと写真を撮ることは難しい。川は下田堵野、上田堵野、鹿深台と山間平野を遡っていく。
  琵琶湖に近い平野では、川を渡る場合必ず堤防へ登って橋を越えるが、このあたりでは橋は平地にかかり、川は平地より随分低いところを流れる。





2.B点付近
写真006.富田橋
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  富田橋である。田堵野の方からやってくる道は2車線だが、めったに車はやってこない。

  写真007.下流側
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  富田橋から下流側を見たところである。田んぼの中に大きく黒々とした森。その森をまくようにして流れ下る(流れの向きは手前→奥)。河床一面にオギやヨシが生い茂り水面は見えない。森の右側に遠く山並が見える。見なれない方角なのでおよそ見当がつかない。カシミールで作図してみると、左の横に長いところで一番高いのが飯道山、右端、ぎりぎりに見えるのが三雲の烏ヶ岳らしい。



写真008.上流側
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  上流側である。きれいに澄んだ水面が見える。山間平野、少し上流側に次の橋を渡る道(ガードレール)が見える。外側が高く内側が一番低く流れているのが分かる。左側、鹿深の森へ登る道。右側、川が少し右へ寄って、森との間に余裕がない。橋自体が上りになっている。勾配が左より大きい。ちなみに、森の向こうに見える山が那須ガ原山。





写真009.上流右側
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  山間平野の話が上流の橋まで先走ってしまった。もう一度富田橋に話を戻して、上流右側を見る。田んぼの中に小山が横たわり、その上が森になっている。何となく古墳を見る思いがする。富田橋から堤防へ下りて、同じく古墳?を見る。爽やかな風景である。






3.C点付近
写真010.鹿深の森交差点
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  交差点の名称を確かめてくるのを失念した。交差点の奥が鹿深の森だから、多分それでいいのだろうとは思うが。甲賀市南部の文化公園である。2,3度誰かの写真展を見に来た記憶がある。杣街道の寺庄のところで話題になった高田さんの「引札」の展覧会も確かここだった。
  写真に写っている道をまっすぐバックすると、JR草津線をまたいで、和田川沿いの”五差路”に出る。




写真011.上流側を見る
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  鹿深の森交差点から五差路への道である。川筋と直角に交差する道では、この道がメインだろう。この道路では橋のこちら側の岸(流れは右向きだから右岸)のあたりがいちばん低い。橋自体が上りになって森を越える。上の写真006参照。橋の名称は失念

  写真012.那須ガ原山
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  富田橋から見えていた那須ガ原山がかなり近づいた。









4.D点付近
写真013.小倉保橋
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  鹿深の森交差点からさらに東へ進んで、次の信号を右折したところである。橋は小倉保橋。両側に歩道がついたしっかりした橋である。誰も歩いてはいないけど。








写真014.下流側
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  河床の整備が行われているのか、自然にこういう状態になっているのか、ヨシなどの背の高い草がなく、清流がきらきら輝きながら流れていく。谷筋の果てに飯道山、烏ヶ岳が遠い。もう1枚






写真015.上流側
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  上流側である。下流に対し光は逆になるが、流れは清らか。
  富田橋からここまでは道はしっかりしていたが、この道はここで終わり。このあと櫟野集落まで道は細くなる。
 この探訪を始めて入院するまでは、ずーっと”探訪の始点近くにクルマを置いて、そこから予定の範囲を歩いて往復する”というシステムでやってきたが、いまはそれもちょっとつらい。このあとクルマで迂回して櫟野集落まで移動。




5.E点付近
写真016.櫟野寺門前
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  櫟野寺の門前である。太陽がほとんど後ろに近い。特にメインの石標がつらい。カメラを上へ向けるのもつらかった。上何文字かが不明。これでは何と何と書いてあるのか想像もできない。右へ逃げて撮りなおし。これで国宝云々が分かる。後ろに電柱が入ってきた。仕方なし。電柱を建てる側は何も考えないから。
  横へ回ってみると、「昭和17年度大原村初老同年者一同建之」とある。戦争真最中のころだ。初老同年者とあるが、同じ”初老”といっても、今とあのころでは随分違うはずだ。私は小学生だったから、何とも言えないが、50歳を過ぎれば立派な老人だったのではないか。




写真017.門前の石仏
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  門前に至るまでの左側に、きれいにそろった石仏群。
  ”甲賀の大仏”、いちいの観音として、福生山櫟野寺(ふくしょうざんらくやじ)の解説がある。伝教大師最澄に”様”がついていたりして妙な文章だけど、要するに最澄が根本中堂建立のためこの地を訪れた。そのとき当地の櫟の大樹に霊夢を感じ、彫った日本最大座仏の十一面観世音菩薩が本尊だという。そのほか坂上田村麻呂が鈴鹿の鬼退治をした伝説も・・・。




写真018.櫟野寺本堂
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  山門を入るとすぐ本堂である。2018年4月に改修が完了。まだ真新しくみえる。






地図003.櫟野川上流流域地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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  F地点、櫟野寺を過ぎるあたりで、川はL字型に2度屈曲する。県道131号とクロスして、上流へ向かう。櫟野の集落を離れるあたりから櫟野ダムあたりまでが上流ということになるのか。実際に踏査したのはK点の三叉路までである。










6.F点付近
写真019.観音橋
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  さて、櫟野川に戻る。山門を出て鍵型に進むと朱色の”かんのんばし”へ出る。近くに河川名の標識があって、”櫟野川”、仮名がふってあって”いちのがわ”とある。お寺は櫟野寺(らくやじ)、川は”櫟野川”(いちのがわ)。それじゃ集落名はどうなるのだろう。”甲賀市甲賀町いちの”だそうな。

  写真020.下流側右岸
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  観音橋の下流側右岸である。桜の葉が黄葉している。その向こう白いフェンスに囲まれた櫟野寺の駐車場。








写真021.下流側を見る
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  下流側である。左側が山に近く、川に影を落とす。その影の中で右へ曲がって左へ曲がりなおすと、山際に橋が見える。上の写真で桜の木の下を白いクルマが走っている。この道をバックすると左の写真に見える橋へでる。道が細くて走れなかったのは、この橋までだった。そこまでバックしておくべきだった。





写真022.上流側を見る
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  櫟野寺の本堂に向いて右外側を流れて来た川がL字型の山にぶつかって手前の方に近づいてくる。ほとんど山の陰になって、流れそのものは見えない。








7.G点付近
写真023.東河原橋
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  櫟野寺の門を出て左へとると、100m足らずで東河原橋へ出る。橋の欄干などは新しいが、親柱だけは4本とも古い。経済的な改修方法だ。左側の”櫟野川”のネームプレートが気になる。親柱自体にタテヨコの筋が入っている。その線に対して、ネームプレートの横長の線が右上がりに見える。事実貼り付けるときに右上がりになったのだろうが、縦線は歪んではいない。言い換えたら、ネームプレートが右上がりの平行四辺形に見える。目の錯覚かな。ネームプレートの縦線も傾いているのかな。いやいやつまらん話で。




写真024.下流側を見る
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  観音橋から上流を見たら、川は左へ曲がっていく。曲がったところがいま見えているところ。流れは深い。このあたりの川の特徴である。








写真025.上流側
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  左側が櫟野寺境内である。右側の岸に真正面から夕陽が当たり、影がない。難儀な風景になってしまった。順を追ってきているので仕方なし。突き当りで川は右へ曲がり、阿弥陀寺の前を通過するが、うっかり見逃してしまった。






8.H点付近
写真026.不明橋
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  東河原橋を撮り終えて県道131号へ出る。県道をそのまま進めば大原ダムを経て国道1号へ出る。途中、櫟野の集落を抜けたところで櫟野川を渡る。とりあえずそこの橋を撮ったところで、引き返すことにする。橋といってもガードレールが欄干の代役を務める橋である。名称不明。





写真027.下流側
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  櫟野の集落の裏手を流れて櫟野寺の横、東河原橋へ至る。ここまで来るとさして深さは感じない。しかしこうして見ても川の水面はほとんど見えない。








写真028.上流側
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  橋のたもとから上流側を見る。右側が竹薮で川は日陰になっている。田んぼの向こうに那須ガ原山が見える。川は竹藪を巻くようにして右へ曲がっていく。県道はこのあと大原ダムの方へ進むため、県道トレースはいったん終了。引き返し、突き当り(写真026の突き当りの三叉路)を左へ、櫟野ダムの方へ進むことにする。




9. I 点付近
写真029.下田橋
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  集落をはずれるとあとは一面の農地、川沿いはススキの天下、見えている橋は下田橋である。

  写真030.下流側
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  下田橋から下流側を見たところ。琵琶湖近くでは橋は堤防に架かっている(平地より高い位置)、ここではこれが平地のレベルである。

  写真031.上流側
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  上流側を振り向くと落差工が見える。






10. J 点付近
写真032.不明橋
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  右側に山が近づいてきて陰の中を進む。と、向こうに明るい森が見え、手前の影の中に橋がかかっている。今様のガードレールを欄干にしたようなエエ加減なものではない。親柱もしっかりしていて、名称も記されているはずだが、草が生い茂ってちょっと手が出ない。

  写真033.下流側
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  下流側に水道橋がかかっている。これが川と直角方向。手前の橋は斜めに渡っている。








写真034.上流側
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  上流側に段差があって、川幅を等分して、高さを変えてある。このときは右側の高さが低いほうだけ水が流れていた。水量が増えると川羽幅いっぱいい流れるのだろう。芸が細かい。こういうのを見ると楽しくなる。







写真035.昭和十五年
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  秋の日暮れは早い。いつまでもうろちょろしている訳にもいくまい。と、よく見ると「十五」という字が見えた。確かめると「昭和十五年十月…」と読める。十五年?1940年、いまから80年前、私が小学校へ入学した年である。”サイタ サイタ サクラ ガ サイタ ”の最後の年代。翌16年に太平洋戦争(当時は大東亜戦争)が始まり、私の個人的な歴史でいえば、昭和20年の集団疎開で6年生が終わる。翌年の旧制中学校の入学試験は面接だけだった。
  それにしても80年、よう頑張ってくれた、と、感じ入ってよく見ると、?・・・どうも字のバランスがおかしい。昭和十五年で、小学校入学に直結したのだが、”昭和”と”十五年”の漢字の間にもう 1 字ないとおかしい。そこだけ間が抜けている。大きく伸ばしてよく見ると、横棒が見える。?、ひょとすると一十、しかしそんなけったいな表現はあり得ない。よく見るとその下に穂の部分と重なってもう 1 本横棒があるような。だとすると二十?、それだとしても昭和の”和”と”二”の字が空きすぎる。よく見るともう 1 本穂と重なって横棒があるような。・・・・三十?。
  昭和25年の日本で、この山の中にこのレベルの橋をかける必要があったかどうか。クルマも日常的でなかったこの時代に、社会的にも、経済的にもこの橋は無理だったろう。考えてみれば15年でも同じこと。支那事変が泥沼化し、太平洋戦争に発展しそうなその年である。35年でなければ無理だ。いやいや厄介な勘違いでした。




11. K点付近
写真036.三差路
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  少し行くと三叉路に出る。”T”字路ではなしに”Y”の字。写真は”Y”を上下逆に見たところである。このまま進むと櫟野ダムへ出る。片道1.5Kmほど。道は狭い。多少の勾配はあるにしても、70歳台のころなら、何の躊躇もなしに歩いたはず。でも80歳代の半ばを越えて、病後の現在ではこれは無理だ。ぐるっと回って引き返すことにした。木の間にちらっと見えるピークは、道路の向きから推定して那須ガ原山である。




写真037.コスモス畑
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  櫟野寺から東河原橋を渡ったところで、櫟野川の左岸を遡上した。そして昭和三十五年橋で右岸へ出た。そしてそのまま三叉路を左へ取って帰ることにした。すぐに信号に出た。走っているときはどこをどう走っているのかわからない。帰って地図を調べたら、県道131号だった。右へ曲がれば大原ダムの方へ出る。このときは曲がらずに直進した。
  とすぐにコスモス畑が現れた。写真のように『かむらのコスモス』とある。これさえ確かめておいたら、場所は地図で調べればいい。そのまま帰ってきた。”かむら”を探した。いくら探してもない。大原ダムのあたりが”甲賀町神”と言ったはずだ。それが古い呼び名で”神村”、なまって”かむら”かなと思ったがちょっと遠い。
  あれこれ探しているうちに、信号の十字路のとことい”櫟野上の組”というバス停があるのに気がついた。”上の組”では話が通じないが、つながるものとしてはこれしかない。コスモス畑もう1枚




地図004.櫟野川上流源流域地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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  私の勝手な思いであるが、甲賀町櫟野の集落を出はずれたあたりから櫟野ダムあたりまでを上流部、そこから上流那須ガ原山頂上直下あたりまでを源流部とした。この川の谷筋を見るとき、この川の水源に対応する稜線は、那須ガ原山から油日岳の少し手前までかと考えられる。





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