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地図011.杣街道地図・6 (国土地理院Web地図に加筆) さあ、最後の詰め。天神橋そばの地蔵堂から東柘植村道路厳標まで。距離にして500mそこそこ。あっという間に上がりだとノンキに構えていたが、世の中はそんなに簡単ではない。とんでもないことが隠れていたのである。地蔵堂の目の前の倉部川、これがどこへ流れていくのかとトレースしていて、あとは本文でどうぞ。 75.倉部川 写真365.倉部川 倉部川。虹の橋(天神橋)の上流。見えている橋は、先ほどの交差点から伸びた道、ということだが、これはもう三重県の川である。 地図013.倉部川源流付近地図 (国土地理院Web地図に加筆) そしていま、私は倉部川にかかる天神橋の上に立っている。このレポートの終着点、”東柘植村道路元標”まで500mの地点。野洲川流域としての杣街道の範囲はとっくに過ぎた。もう付録、2,3枚の写真を連ねて終わりというところである。ところがここへきて、とんでもない大きな話が待ち受けていたのである。 地図014.関西地方大分水嶺略図 (国土地理院Web地図に加筆) 左の地図、赤い線は大分水嶺である。この線の北側へ落ちた雨粒は日本海へ流れ込む。南側は太平洋へ。これが大分水嶺の定義である。ところがここへきて、もう一つややこしい問題が割り込んでくる。紀伊半島である。伊勢湾か大阪湾か。両方とも太平洋でつながるのだから、とやかく言わなくてもということも言えるが、たとえば四国地方、太平洋か瀬戸内海かと考えるとそんなにのんびりもしておれない。その線が黄色の線である。第2大分水嶺とでもいおうか。 地図015.油日岳付近分水嶺略図 (国土地理院Web地図に加筆) 野洲川流域の分水嶺は油日岳を通るが、大分水嶺は那須ヶ原山から油日岳へ近づいて、その直前で南へ分岐する。地図014ではいわく言い難い。拡大図で見てもらおう。滋賀県側の”野洲川流域”は、了解済みということだが、三重県側の木津川流域、これは私が勝手につけた名称である。木津川といえば京都府南部というイメージが強いが、もとはといえば三重県に端を発する川だったのである。 76.岩不動 写真366.小さな峠 倉部川を越えてさらに進む。小さな峠を越える。左側の小山の裾をまたぐ感じである。 写真367.幟が見えるしばらく行くと左側に幟が立っている。 写真368.不動明王 近寄ってみると成田山不動明王だとか。桜の木が植わっていたりしてちょっとした公園の様子。正月にはお参りの人も多いのだろう。すぐそこだろうと登り始めたのだが・・・・。 写真369.岩不動これはどのあたりだったか。これが不動さんかと思ったら、どなたかが人生の何かの記念に建てたものらしい。石段の写真ばかり並べても仕方がないので止めるけれどもといいながら・・・。 写真370.椎の木 でかい木がある。説明板があって750年を越えるという。本能寺の変の際に徳川家康が伊賀越えで三河へ帰る途中、この山麓の徳永寺で休息、そのときこの木のそばに見張りを立てたとか。文章がアチコチするがよろしく御判読を。 写真371.御神体 これがホンマのご神体らしい。帰ってから地図を調べたら、標高245mの山頂らしかった。山麓が220mぐらいで、たかだか20mちょっとの登りだけれど、結構登った気にされる。直登の石段だからか。 写真372.下り坂 緩やかな坂を下る。遠くに何か案内板。 77.歴史資料館 写真373.?横光利一 歴史資料館。その横の”横光利一”の名がなかったら寄ろうとはしなかっただろう。しかし、何でこんなところに横光利一なのか。 写真374.歴史資料館この建物が歴史資料館らしい。文学碑は「この右丘の上」との案内がある。若い人は横光利一を知らないだろうし、年寄りは行けないし。結局、行く者はいなくなるぞ。 写真375.文学碑 ここまで来たのだからと登り切る。木の影が妙に絡んで・・・。無理を承知で撮ったのがこの写真。
写真376.顕彰文 そばにあった川端康成による顕彰文である。「横光利一(1898〜1947)が柘植の古い友にあてた手紙によっても、横光の心の故郷は母とともに少年期を過ごしたこの柘植である。・・・・」。そういうことだったのか。だけど、ワシは横光利一の何を読んだのだろう。考えてみたけれど結局何も読んでいない。代表作といわれる『旅愁』という題名に読みもせずに郷愁を感じていただけだったのかもしれない。1947年没、中学校2年生だもんな。 写真377.岩不動山 文学碑に向いて真正面に小山が見えた。どうやらそれが先ほどの不動さんの山らしい。いやいや、上ったり下りたり大変だった。 写真378.柘植の街並右の方を見た柘植の街並み。 写真379.芭蕉像 建物の中は1階が公民館、2階が歴史資料館らしい。これは一階の廊下にあった芭蕉のからくり人形。電動。びっくりしたなー。この人形が首を振ったりして動くんだもんなー。何となく気色が悪い。若くてイメージが合わない。 写真380.霊山会館を出た正面の駐車場。霊山が目の前に見える。三上山を撮った時は確か向こう側から登ったはずだ。 写真381.天神社跡 歴史資料館から坂道を下ったところ。史跡天神社跡の碑が建つ。柘植町役場跡の碑も。で、今は何やねということだが、たしかコミュニティーセンターだったかと。 写真382.油屋 さて、油屋さん。広告が電柱に貼りつけてある。このあたりではガソリンスタンドのことを”油屋”さんと呼ぶのかと思っていたら、”油屋さん”というお菓子屋さんだという。世の中いろいろありまして。そういえば、うちのヨッチャンが、この店で何か買ってきたぞ。何だったかは思い出せないが。 78.大和街道上柘植宿 写真383.十字路近づく 十字路近づく。一見、三階建てに見える民家。ここらあたりが柘植の中心街だったのか。 写真384.広場ちょっとした石畳の広場。”徳川家康ゆかりのお寺”、”大和街道上柘植宿”との表示がある。突き当りの蔵はカラオケ屋さん。 写真385.東柘植村道路元標 広場の隅に立っている”東柘植村道路元標”。これが新海道と直接つながるものではないとは思うが。光が乏しく彫りがはっきりしない。下から狙ってみた。多少はましか。 写真386.家康ゆかりの寺本能寺の変のときの徳永寺の話。先ほど石不動の椎の木の話と略同一。 写真387.大和街道上柘植宿 旧い家の窓が開いて、向こうの風景が見えているのかと思ったが、大和街道の大々的PRだった。まあ、それはそうだろうな。それにしても新海道も少しはタッチしてもよさそうなものだが。 79.徳永寺 写真388.徳永寺 さてその徳永寺である。歩いてきた新海道から見て、いま立っている広場を左へ折れる。真正面に見えるのが徳永寺。近づいてもう1枚。 写真389.釣鐘堂山門の左、境内から離れて釣鐘堂を見る。背後のケヤキが見事だった。 写真390.歩き終わって 歩き終わって帰り道。先ほどの天神社跡、その下手に空地があって、そこから眺めた山蔭に沈む徳永寺、もう一つの姿。 |
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