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S12.杣街道(余野越え)

S1202B. 杣街道・(天神橋〜上柘植村道路元標)

取材:2017.11/12
初稿UP:2018.01.15


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地図011.杣街道地図・6  (国土地理院Web地図に加筆)
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 さあ、最後の詰め。天神橋そばの地蔵堂から東柘植村道路厳標まで。距離にして500mそこそこ。あっという間に上がりだとノンキに構えていたが、世の中はそんなに簡単ではない。とんでもないことが隠れていたのである。地蔵堂の目の前の倉部川、これがどこへ流れていくのかとトレースしていて、あとは本文でどうぞ。







75.倉部川
写真365.倉部川
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 倉部川。虹の橋(天神橋)の上流。見えている橋は、先ほどの交差点から伸びた道、ということだが、これはもう三重県の川である。
  と、一言ですますはずであった。がここで先ほどの余野公園付近の地図をまとめたとき、県境のすぐ近くを流れていた川が倉部川であったことを思いだした。そのときに直感的に感じたことが、妙な流れ方だなということだった。何が妙なのか。この倉部川は油日岳山頂直下を源流としているが、余野公園あたりへ流れ下るまで県境と並行に流れ下るのである。普通、川は分水嶺と直角方向に流れ下る。これが普通である。それと並行に流れ下る川などめったにない。




地図013.倉部川源流付近地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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 そしていま、私は倉部川にかかる天神橋の上に立っている。このレポートの終着点、”東柘植村道路元標”まで500mの地点。野洲川流域としての杣街道の範囲はとっくに過ぎた。もう付録、2,3枚の写真を連ねて終わりというところである。ところがここへきて、とんでもない大きな話が待ち受けていたのである。
  左の地図で現場を確かめていただこう。画面左下、天神橋である。問題は倉部川である。源流は油日岳から流れ下る滋賀・三重県境の南側。そこから県境とほぼ並行に流れ下って、余野公園の南端をかすめそのまま南西へ。柘植駅から出て大きくカーブを描いて南西へ向かう関西本線とほぼ並行に流れ下る。この南西向きが理解できないのである。
  地図を準備するまでもないと思うが、鈴鹿連峰は南北につながっている。そこから三重県下へ流れ下る水は伊勢湾へ流れ込む。当然、川は東へ流れる。これが当たり前だと信じ込んでいた。ところが倉部川は西へ流れる。川はこのあとどこかでUターンして東へ向くのではないかと、地図をたどってみた。何となんと、このあともずっと西へ西へと流れ下る。そしてだんだん大きな川に流れこんでいくのである。柘植川となり、名張川と合流して木津川になる。そして手品のようなあの狭い府県境を通り抜けて京都府へ入る。そして、例の三川合流点を過ぎて淀川へ。ということは・・・野洲川の水が琵琶湖へ流れ込み、瀬田川を経由して宇治川へ、あとは言うまでもない。倉部川源流と杣川源流(青野川)とは境を接している。油日山山中を源流として大阪湾へ流れ込む、まさに兄弟川だったのである。




地図014.関西地方大分水嶺略図  (国土地理院Web地図に加筆)
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  左の地図、赤い線は大分水嶺である。この線の北側へ落ちた雨粒は日本海へ流れ込む。南側は太平洋へ。これが大分水嶺の定義である。ところがここへきて、もう一つややこしい問題が割り込んでくる。紀伊半島である。伊勢湾か大阪湾か。両方とも太平洋でつながるのだから、とやかく言わなくてもということも言えるが、たとえば四国地方、太平洋か瀬戸内海かと考えるとそんなにのんびりもしておれない。その線が黄色の線である。第2大分水嶺とでもいおうか。
  以上、こんな面倒くさいことが私の頭で考えられるはずはない。堀公俊著『日本の分水嶺』からの(山渓文庫)の受け売りである。要は、”鈴鹿山脈の東側の水は全部伊勢湾へ流れる”は半分正しく半分間違いだったのである。
  そんな事情で三重県の西へ張り出した部分(黄色の線で分断された部分)では、水は西へ流れ大阪湾にそそぐことになる。倉部川はその中で滋賀県に一番近い川だったわけだ。




地図015.油日岳付近分水嶺略図  (国土地理院Web地図に加筆)
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  野洲川流域の分水嶺は油日岳を通るが、大分水嶺は那須ヶ原山から油日岳へ近づいて、その直前で南へ分岐する。地図014ではいわく言い難い。拡大図で見てもらおう。滋賀県側の”野洲川流域”は、了解済みということだが、三重県側の木津川流域、これは私が勝手につけた名称である。木津川といえば京都府南部というイメージが強いが、もとはといえば三重県に端を発する川だったのである。
  ついでに余談を一つ。私がまだ小学校へ入学する前、昭和13年か14年の夏。木津川に水泳場があったという話である。当時の奈良電(現在の近鉄京都線)の木津川鉄橋上に臨時停車場ができて、そこから階段で川原へ下りるとそこが水泳場だった。白い砂浜がまぶしく目が開けられなかったし、その砂がべらぼうに熱かった。太平洋戦争が始まるとすぐに廃止になったような気がするが、もう一つ京阪電車の木津川鉄橋の下。ここにも水泳場があった。これは開戦後も1,2年は開設されていたのではなかったか。さすがにこれは臨時停車場はなく石清水八幡宮前(今の八幡市)駅から歩いてということだった。とにかくどちらも砂州がきれいだった記憶がある。その川がどこから流れてくるかなど考えても見なかったが、今になってその源流に出会うとは。



76.岩不動
写真366.小さな峠
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  倉部川を越えてさらに進む。小さな峠を越える。左側の小山の裾をまたぐ感じである。

  写真367.幟が見える
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  しばらく行くと左側に幟が立っている。









写真368.不動明王
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 近寄ってみると成田山不動明王だとか。桜の木が植わっていたりしてちょっとした公園の様子。正月にはお参りの人も多いのだろう。すぐそこだろうと登り始めたのだが・・・・。

  写真369.岩不動
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 これはどのあたりだったか。これが不動さんかと思ったら、どなたかが人生の何かの記念に建てたものらしい。石段の写真ばかり並べても仕方がないので止めるけれどもといいながら・・・。




写真370.椎の木
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 でかい木がある。説明板があって750年を越えるという。本能寺の変の際に徳川家康が伊賀越えで三河へ帰る途中、この山麓の徳永寺で休息、そのときこの木のそばに見張りを立てたとか。文章がアチコチするがよろしく御判読を。






写真371.御神体
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 これがホンマのご神体らしい。帰ってから地図を調べたら、標高245mの山頂らしかった。山麓が220mぐらいで、たかだか20mちょっとの登りだけれど、結構登った気にされる。直登の石段だからか。






写真372.下り坂
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  緩やかな坂を下る。遠くに何か案内板。









77.歴史資料館
写真373.?横光利一
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 歴史資料館。その横の”横光利一”の名がなかったら寄ろうとはしなかっただろう。しかし、何でこんなところに横光利一なのか。

  写真374.歴史資料館
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  この建物が歴史資料館らしい。文学碑は「この右丘の上」との案内がある。若い人は横光利一を知らないだろうし、年寄りは行けないし。結局、行く者はいなくなるぞ。






写真375.文学碑
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  ここまで来たのだからと登り切る。木の影が妙に絡んで・・・。無理を承知で撮ったのがこの写真。
 帰ってからインターネットで調べてみた。
  -----横光が生前に最も好んでいた自筆の句が、川端康成によって選出され、
   
    臺上に餓えて
    月高し

                   と刻まれた、-----とあった。



写真376.顕彰文
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  そばにあった川端康成による顕彰文である。「横光利一(1898〜1947)が柘植の古い友にあてた手紙によっても、横光の心の故郷は母とともに少年期を過ごしたこの柘植である。・・・・」。そういうことだったのか。だけど、ワシは横光利一の何を読んだのだろう。考えてみたけれど結局何も読んでいない。代表作といわれる『旅愁』という題名に読みもせずに郷愁を感じていただけだったのかもしれない。1947年没、中学校2年生だもんな。
 そこでふと思いだした。知り合いの西本梛枝さんの『鳰の浮巣』、滋賀県にまつわる文学の現地探訪評論集だが、その第一作が、横光利一『覚書』より”琵琶湖”となっている。
 その書きだしが、
 ・・・・知り合いの高校生に横光利一の話を始めたら、「リーチって何?」と聞かれたときの驚きは・・・。この高校生よりは多少はましだが、五十歩百歩。名前を知っていたというだけだもんな。で、横光と滋賀県との関係は?、少年のころと結婚直後の2度、大津に住まいしていたのだとか。こんな受け売りを書いているとどんどん話が離れていく。



写真377.岩不動山
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  文学碑に向いて真正面に小山が見えた。どうやらそれが先ほどの不動さんの山らしい。いやいや、上ったり下りたり大変だった。

  写真378.柘植の街並
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  右の方を見た柘植の街並み。









写真379.芭蕉像
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 建物の中は1階が公民館、2階が歴史資料館らしい。これは一階の廊下にあった芭蕉のからくり人形。電動。びっくりしたなー。この人形が首を振ったりして動くんだもんなー。何となく気色が悪い。若くてイメージが合わない。

  写真380.霊山
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 会館を出た正面の駐車場。霊山が目の前に見える。三上山を撮った時は確か向こう側から登ったはずだ。









写真381.天神社跡
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 歴史資料館から坂道を下ったところ。史跡天神社跡の碑が建つ。柘植町役場跡の碑も。で、今は何やねということだが、たしかコミュニティーセンターだったかと。









写真382.油屋
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  さて、油屋さん。広告が電柱に貼りつけてある。このあたりではガソリンスタンドのことを”油屋”さんと呼ぶのかと思っていたら、”油屋さん”というお菓子屋さんだという。世の中いろいろありまして。そういえば、うちのヨッチャンが、この店で何か買ってきたぞ。何だったかは思い出せないが。





78.大和街道上柘植宿
写真383.十字路近づく
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  十字路近づく。一見、三階建てに見える民家。ここらあたりが柘植の中心街だったのか。

  写真384.広場
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  ちょっとした石畳の広場。”徳川家康ゆかりのお寺”、”大和街道上柘植宿”との表示がある。突き当りの蔵はカラオケ屋さん。








写真385.東柘植村道路元標
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  広場の隅に立っている”東柘植村道路元標”。これが新海道と直接つながるものではないとは思うが。光が乏しく彫りがはっきりしない。下から狙ってみた。多少はましか。

写真386.家康ゆかりの寺

  本能寺の変のときの徳永寺の話。先ほど石不動の椎の木の話と略同一。



写真387.大和街道上柘植宿
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  旧い家の窓が開いて、向こうの風景が見えているのかと思ったが、大和街道の大々的PRだった。まあ、それはそうだろうな。それにしても新海道も少しはタッチしてもよさそうなものだが。
  いま歩いてきた杣街道の続きが”大和街道”としてつながっている。ということは杣街道が大和街道に名が変わるのかというとそういうわけではない。大和街道は右手からやってきて、右へ曲がったわけ。じゃ右手からやってくる前はというと、ちょっと行ったことで左へ曲がってきていたわけ。大和街道はここでいわゆる枡形をなしていたわけ、なんだけどこの地図は大和街道だけ馬鹿でかく描き、杣街道はノータッチ。こんなもんだな昔の地図は。 


79.徳永寺
写真388.徳永寺
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  さてその徳永寺である。歩いてきた新海道から見て、いま立っている広場を左へ折れる。真正面に見えるのが徳永寺。近づいてもう1枚

  写真389.釣鐘堂
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 山門の左、境内から離れて釣鐘堂を見る。背後のケヤキが見事だった。







写真390.歩き終わって
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 歩き終わって帰り道。先ほどの天神社跡、その下手に空地があって、そこから眺めた山蔭に沈む徳永寺、もう一つの姿



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