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S12.杣街道・続(余野越え)

S1202A. 杣街道・続(余野越え・余野公園〜天神橋)

取材:2017.11/12
初稿UP:2018.01.15


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地図011.杣街道地図・6  (国土地理院Web地図に加筆)
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 県道4号が甲賀町五反田の集落内のカーブを経て、南向きの直線コースへ入ると、あとは余野公園まで一直線である。塩野義製薬油日事業部敷地のはずれが滋賀・三重県境である。左側に碑が建っていて、彫りの深い字で「従是南三重県管轄」と刻まれている。車で走る限り、峠という感覚はないが、そこを「余野越え」とした。新海道は、そこで草津線をまたいで西側へ出るが、現実問題では横断禁止となっている。あとは三重県内に入るが、県境の分水嶺を越えたところを流れる倉部川が、実は淀川に流れ込む木津川の上流であったというドラマを生む。


71.県境
写真338.左カーブ
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 左にシオノギ製薬の敷地を見て直線コースを行く。行く手に緩い左カーブが見えてくる。そのカーブのはじまりのところが県境である。峠という雰囲気はない。









写真339.県境
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 シオノギのネットが切れたところに「従是南三重縣管轄」の石標が立つ。カーナビ付きのクルマで走っておれば「三重県に入りました」とコールするはず。車内のものは何の感動もなく、ああそうかと聞き流すはず。話に夢中ならそのコールがあったことすら意識しないだろう。それほど無意識に過ぎる県境である。





写真340.余野越え
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 側面には「伊賀國阿山郡東柘植村」、裏には「明治三十二年七月・・」とある。道路の向かい側には、「滋賀県甲賀市」の標識。言うまでもない走っているクルマは三重県から滋賀県へ。その後ろ(画面左上)には草津線架線の一部が夕日に光っている。標識を拡大して。
  このレポートでは公園の名前をとって「余野越え」とした。






写真341.左へカーブ
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 そして、左へ緩くカーブして・・・。









72.余野公園
写真342.余野公園
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 余野公園へ到着。ここはもう三重県である。甲賀町五反田に「余野」の地名(字名?)やバス停「余野口」などがあるから、余野公園は滋賀県の施設かと思っていたが、実際は三重県のものである。案内所のパンフレットもすべて三重県の発行である。
 公園のパンフレットによれば、昭和43(1968)年、鈴鹿国定公園特別地域指定を受けた。この公園は明治30年ごろから暫時整えられてきた。公園の奥は壬申の乱(672)の古戦場でもあるという。




写真343.三ッ頭?
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 冬場の公園は無人。正面に壁のように山が連なる。ずーっと右手の方に例の霊山が見えるから、いま見ている壁のような山は油日岳から続いてくる「三ッ頭」あたりではないかと思うが、ここまで来てしまうと油日岳そのものがどれなのかわからない。多分真ん中に見える白いポールの上の三つの峰が、三ツ頭らしいのだが、あまりにも大きくなり過ぎてイメージを越える。




写真344.案内板
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 現地の案内板である。これで分かるだろうと思ったが、さっぱり分からない。だいたいこういう案内板は現場を知っているものが描く。当り前である。ところが分かっているものが画いた案内板は、知らないものが見た場合ほとんどが分からない。たとえば今の場合、山の特徴を色々と工夫して描きいれている。それがかえって分かりにくくする。描く本人はいろいろな場所から山を見てその山の特徴を捉えている。それで描くから余計にわかりにくくなる。知らないものが見ていちばんわかりやすいのは、現場で撮った写真に山名を入れて、それを撮影現場に置くことである。




写真345.D51
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 公園の南端、草津線沿いの場所にD51が展示?されている。草津線にD51がいたのだろうか。結構高いネットで囲まれており価値半減。入口は通れるようになっており、ネットの中へ入れるようにはなっている。詩人・尾崎喜八に、”石仏は野に置け”という趣旨の文章があったが、これも同じ。野ざらしにせよとは言わないが、囲いにはある程度の広さが必要。機関車を見るには距離がいる。体がくっつくような距離では全貌は見えない。




地図012.余野公園付近地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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 余野公園付近をアップした地図である。赤で示した線が一応杣街道と考えられる線。不思議なことに草津線をちょうど裏返しに見たようなルートを通っている。それが交差する場所が、余野公園の入り口の前に当たる。「通行不可」と示した場所である。
  今回歩いてきた杣街道は、明治になってからの近代整備による「新海道」で、それ以前の「杣道」がどこを通っていたかは判然としないという。そして、現在の草津線(三雲以遠)の開通が明治23(1890)年であるという。と考えてみると、両者はほとんど同時に開通したといえる。どちらかが避けようとすれば避けられたであろうこのクロスはどんな意味を持っているのだろうか。草津線沿いで見られる赤レンガの隧道は関西鉄道開通当時のものだという。ここになぜ隧道がないのか。私の思考はここで止まってしまう。結局、山の中の道にまで隧道は必要なしということなのだろう。
  それといま述べた「通行不可」とは直接関係がない話だが、アップした地図で、いままで明らかにしてこなかった話が表へ出てきた。通行不可となっているところを挟んで、東西に道路が通っている。これの東側、すなわち公園側の道路は公園の進入路で明らかに三重県内のはずである。ところが国土地理院の地図ではその道路の南側を県境の一点鎖線が通っている。実情に合わない。また三重県が設置したと考えられる「是より南三重県管轄」碑の位置からしても塩野義製薬のネットの線が県境だと考えられる。




写真346.通行不可
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 両者クロスの現場である。「線路内立入禁止」の標識が立っている。もう1枚。ガードレールの上から覗いてみると、横断のあとはゼロだとは言えない。蒸気機関車時代にはおそらく踏切があったのだろう。
  ぐるっと迂回をして戻って来たところ。当り前のことだけど、レールをまたげばその距離数m。ちょっと小さいけれども、余野公園の入り口の門標が見える。もう1枚。ガードレールを外してみたところ。ガードレールのそばに置いてある板の台は何やろね。跨ぐための台かな。実際にまたいだことがないから何とも言えないが。もっとも実際にここを渡る必要のある人は1日に何人もいないはずだけど。




写真347.柘植へ向かって
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 本来ならば、線路をまたぎ向こう側の道をたどるべきなのだが通行止め。通行不可処をあとに県道4号をたどる。滋賀県から三重県へ入って県道番号が変わるのかと思ったがそうでもないらしい。しばらくの間は4号である。「ようこそ伊賀の国へ」というバカでかい看板。






写真348.右へカーブ
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 右へカーブする。道路そのものの高さはこのあたりが最高点であるが、草津線をオーバークロスするための高さである。
  橋上から草津線を見下ろす。左へカーブして柘植駅へ向かう。さらに少し進んでソーラーパネル群を見る。





写真349.下り坂
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 草津線を越えて下りにかかる。写真では水平の後、上りに向かうように見えるが、実際には下りのあと水平になるところ。途中左へ分岐(T字路)する道あり。それを左へ折れる。そこで杣街道(新海道)に出合う。余野公園前からここまでが迂回路というわけ。







写真350.草津線が行く
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 左へ折れた途端に上から見えていたソーラー発電のパネルが目に飛び込んでくる。その向こうを草津線の電車が行く。左方が草津。右が柘植である。杣街道はソーラーパネルの手前を左右に走る。左へとれば県道をくぐって先ほどの通行不可処へ。







写真351.パネルの横に
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 パネルの左端に小さな石標が見える。もともとここにあったような気もするし、別の場所にあったものが、パネル工事によってここへ移されたようにも見える。パネルそのものが新しい。おそらくもう1年も前にここへきていたら、以前の状況が見られたはず。残念。しかし、いずれにしてもよく残しておいてくれたと感謝。
  早速近寄ってみたのだが、ありゃー。これはどうだ。ネットに近すぎて、その影が映る。どないしようもない。ネットの様子を見ると、夕方まで待てば何とかなりそう。帰りにもう一度寄ってみることにする。




72.右山みち石標
写真352.右山みち
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 世の中は難しいものである。考えてみれば当たり前の話ではあったが、今度は西に回った夕日が真正面から照らす。影もくそもあったものではない。もとの彫りのところへ誰かが線を入れてくれているので分かりやすくなってはいるが、それでもこれはしんどい。で、自分の影で押さえて撮ったのが左の写真。しかし、「右山みち」楽しいね。こういう道しるべは。どこの山とも書いていない。山といえばわかっとるやろというところ。
  それはいいとして、右側の但し書き、小さな字で書いてやるやつ、”なんとかなんとか無用”とあるのだが。当時としては街道筋だから、人が通らなかったということはないと思うが、とにかくこのような山の中である。そんな場所でXX無用というそのXXは何か。いろいろと考えたが、・・・まさか”立ちXXX”ではないだろうし。
  この添え書きは意味が深い。この碑を建てた人はここを通る人に何を伝えたかったのか。どうしてもその意味を知りたい。こういう方面に明るいY氏を頼った。やや難読、といいながら次のように解釈された。

◆ Y 氏解読のこと
  最初の字は「此」だという。とすると「このへ」か「これのへ」・・・。「これのへXを」で我々素人はバンザイをする。Y氏はこう解釈した。「此」を一字で「この」と読む。そしてつぎの「のへ」を「野辺」と読むと「この野辺」となって何となくつながってくる。問題は次の字。これが難問。
  私にはこれが山のように見えて、その下に々があるように見える。ときどき「出」という字をこのように書く人がいる。しかし、ここで「出」が出てきてもどうにもつながらない。
  Y 氏はこれを「火」だという。
  勉強のため後で調べてみた。それらしい字が2つある。
  1つはそのものずばりの「火」、。もう1つは「悲、」。さてどっちだろうね、。話を聞いた時には判断のしようもなかったが、こうして比べてみると案外「悲」のようにも見えるのだが。まあ、要するに「火」だ。
  これを火だとすると、あとは何とかなる。

  此野辺火を付候事無用 (この野辺、火をつけ候こと無用)

  しかし、ちょっとまてよ。「候」てどこにある? 「候」は「付」の後ろの「ヶ」のような字だと。これもあとから調べてみたら、何でも適当にチョンと打っといたら「候」になったという。ふーんそういうものか。なるほどこの注意書きは、要するに「火の用心」だったのだ。   




写真353.左油日
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 左の方は何とか読める。「油日いちゐの土山」、こちらはちょっと右手の山の中へ入るコース。次の行は「すやま寺庄水口」。早い話が、新海道沿いだ。









写真354.柘植へ向かう
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 県道から坂を下ったT字路である。石標をあとに柘植へ向かう。左側がソーラーパネル。右は県道との間の杉林である。もう1枚









73.倉部集落
写真355.倉部の集落
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 倉部の集落が見えてくる。大津京のころには後のルートのことを「倉歴(くらふ)道」といったとのことだが、この倉部と関連があるのだろう。とすると、この「倉部」の読みは、「くらふ」なのかそれとも「くらべ」なのか「くらぶ」なのか。







写真356.集落が近づく
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 集落が近づく。よく見ると突き当りに踏切が見える。集落の中を鉄道が横切っている感じだが、集落が鉄道を越えて伸びてきたのかもしれない。手前の民家はさほど古いものではない。

  写真357.踏切
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 関西線の踏切である。柘植駅を出て、大きくカーブを描いて伊賀上野へ向かうところの。倉部踏切との銘がある。もう1枚








写真358.柘植方面
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 柘植方面への大きなカーブ。架線がないと風景が広い。もう1枚。伊賀上野へ。

写真359.さらに進む→

 踏切を後にさらに進む。改めて集落が近づいてくる。もう1枚



写真360.微妙なカーブ
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 細い道が微妙にカーブしていく。東海道や中山道のような情緒はないが、それでもこのカーブは絶妙。もう1枚

  写真361.倉部中心部へ
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 道は徐々に徐々にと左へカーブしながら、倉部集落中心部へ入って行く。もう1枚

  写真362.交差点
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 柘植駅の方からやってきた県道50号とクロスする。右折してくる車が柘植駅方からやってきた計算。

74.天神橋
写真363.虹色の橋
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 前方に虹色の橋が見えてくる。最初は何かと思ったが橋がこのように塗り分けられている。もう1枚。橋の名は天神橋。川はは倉部(くらぶ)川という。
  じつはこの「倉部」の読み方。”くらぶ”か”くらべ”か迷っていた。たとえば黒部川の例もある。何となく”くらべ”の方がしっくりくる。さらに、前出の『図説近江の街道』には、この街道が古く大津宮時代には、東海道がこのルート上に設定され、「倉歴(くらふ)道」と呼ばれていたとある。”歴”がどうして”ふ”と読めるのかが分からないが、”倉部”を”くらふ”と読めないこともなさそう。そんなことであれやこれやと悩んでいたが、この川の名ですべてが一挙に解決した。




写真364.地蔵さん
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 虹の橋を越えた左側に地蔵堂が建っている。それだけのことで何がどうということではないのだけど、この橋のインパクトで地蔵堂が特別なもののように見える。地蔵堂側から見た虹の橋。









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