top

S12.杣街道・続

S1201B. 杣街道(続)・上野〜五反田
===青野川沿いを行く道===

取材:2017.11/12
初稿UP:2018.01.15


前 項 へ 次 項 へ 中トビラへ


地図001.杣街道上流部地図・1  (国土地理院Web地図に加筆)
写真拡大

 S0504B. 杣街道・(大原市場〜上野)では、左の地図の県道135号、油日農協前交差点までをレポートした。その信号を越えて、農協の前を通って次の小さなT字路に祀られている金刀比羅宮碑のところが左の地図の赤線(杣街道)の始点である。三雲の天保義民碑近くの”新海道碑”で始まった杣街道は、両者一心同体で1本の道をたどって来たのだが、ここへきて、新海道はそのまま県道を直進し、杣街道は赤い線で示した、俗に言う”中道”を進むことになる。63.新海道油日上野(引札のことなど)で詳述。




1.中道(杣街道)を行く
写真293.金刀比羅宮碑
写真拡大

 油日農協前交差点を越え、JAの前を少し行くと左側に金刀比羅宮碑が立っている。読めるかなー、金刀比羅宮碑よりも麗々しく、金五拾圓、山下某氏の寄付。スゴイ額だったのだろう。
 碑の左側を家一軒分だけ鍵型に奥へ入る。そこを右折して旧街道につながる。これが杣街道である。おそらく当時はもっと滑らかにスーッと奥の道につながっていたのだろう。上の地図ではそう表現されている。





写真294.釣鐘堂
写真拡大

 金刀比羅宮から鍵型に奥へはいった道。江戸時代の街道なら枡形ということになるのだろうが、ここにはそんな気配はない。左手、釣鐘堂が見えてくる。次に出てくる極楽寺の釣鐘堂を遠望したものである。まさに丘の上というイメージ、釣鐘がぶら下がっていなかったら、台風のときには怖いだろう。






2.極楽寺
写真295.極楽寺
写真拡大

 お寺の名前が、ナント極楽寺。

  写真296.旅立ちの法然像
写真拡大

 浄土宗のお寺。本堂の前に「旅立ちの法然さま」という像が立つ。

  写真297.南無阿弥陀仏碑
写真拡大

 境内にも南無阿弥陀仏碑。







3.南無阿弥陀仏碑
写真298.南無阿弥陀仏碑
写真拡大

 門前の南無阿弥陀仏碑。

  写真299.右 す山あぶらひ
写真拡大

 南無阿弥陀仏碑の正面から見て右側面である。こういうのがスラスラ読めるといいのだけれど・・・・。京都新聞社発行、『近江の道標』には、「右 す山あぶらひ/左 わたごたんだ」だという。右はいいとして、左の”わた”が読めないし、その下は最後の字が”ざ”に見える。それが”ごたんだ”だとしたら、上から2文字目が”た”というのが分からないでもないが、なんでこれが”た”なのかが分からない。とにかく判じものである。




写真300.右 つげうえの
写真拡大

 同じ碑の左側面である。暗いうえに字が分からないと来ている。同書に、「右 つげうえの/左 かふとせき」だという。なんせこの日は光がむちゃくちゃ強かった。光がないのも困るが強すぎるのも苦労する。肝心のところだけを無理やりに調整した。これで何とか読めるかな。私の回答。”づげXへ/のかふくせさ”。”つ”の濁音はほったのではなく、後で付いたキズらしい。





4.す山はどこだ
◆写真297.さて「す山」とは?
写真拡大

 さてここでもう一度、「南無阿弥陀仏」碑を。正面に向かって右側の面に「右 す山阿ぶらひ」とある。”阿ぶらひ”は”油日”だろう。それはいい。しかし”す山”は? これが分からない。先走るが、実はこの”す山”なる地名がもう一つの石標にも現れる。このあと上でいう旧道(極楽寺の前の道)をたどって、五反田余野あたりで県道に戻る。その道端に立つ石標に”す山”が現れる。今度は”左 す山・右 油日”である。
  「南無阿弥陀仏」碑からすれば油日と同じ方面。次項に出てくる五反田の道端碑からすれば”左 す山・右 油日”だという。このような石標の行先表示は、近い順に刻まれている。ということはこの”す山”なる地名は、この石標が建つ地域の近辺だということである。地図で探してみたが見つからない。”甲賀市栖山”で検索しても見つからない。ふと思いだして、高田さんに質問してみた。




◆「す山」はここだ

  それに対して、高田さんは甲賀町上野在住の瀬古彰司氏が地元の史誌に発表された”さまよった道しるべ”という文章を送ってくださった。上で紹介した極楽寺前の”南無阿弥陀仏”碑の左右両面に刻まれた行き先についての疑問を解きほぐしていかれる過程を述べたものだった。その中で氏は「栖山」とは上野の中筋を表す地名で、江戸末期まで”栖山村”として使われていたと書いておられる。
  "中道”とは、いわゆる”新海道”(現在の県道4号)に対する道で、極楽寺前の道、かつての杣街道(現在の市道青野道路)をいうのだという。あまりにもあっけない解決で気が抜けたが、考えてみればおかしな話である。道しるべが自分がいま立っているここがが”す山”だと教えているわけだから。




◆道標と角屋半七

  「南無阿弥陀仏」碑の裏面には”安政三辰十月吉日 施主 栖山 角屋半七”とある。角屋が屋号、半七が名前である。この半七さんの後裔である油日郵便局長であった故瀬古末吉さんがある回想録の中で「道標と角屋半七」という文章を書いていおられる。そのなかで、この「南無阿弥陀仏」碑は五反田の余野あたりに立っていたという。現在の場所からすれば、市道青野道路経由で3.5Kmほど三重県側へ寄ったところである。瀬古彰司氏は”さまよえる道しるべ”のなかでその場所を明らかにし、それぞれの地名の行く先を確かめておられる。



写真301.さらに進む
写真拡大

 極楽寺の前から柘植の方を向いたところ。

写真302.一旦停止
写真拡大

 しばらく行くと道幅が広くなって一旦停止。右を見ると油日神社大鳥居。(次の写真)







  写真303.油日神社大鳥居
写真拡大

 あ、この鳥居だ。実は数年前、甲賀町和田の殿山展望台から三上山を撮った。そのとき、三上山に向いて右側に赤い大きな鳥居が見えた。プロパティを見ると2014年1月の撮影になっている。そのときは”でかい鳥居やな”ぐらいでさして気にもとめなかった。
 ここでふと気になった。極楽寺前の道しるべ。”左 わたごたんだ ”のところ。”ごたんだ ”は、このさき三重県境近くの地名である。で、”わた”がどこなのか不思議だった。和多、輪太・・・いろいろ考えて探してみたが、パシッと決まるものがない。”和田”なら”わだ ”と書くだろうし。いや・・・まてよ。”和田”を”わだ ”と決めつけるのは早計ではないか。写真教室に来ているMさんは湖北”塩津”の出身である。”しおづ ”ではない”しおつ”だと、ブログで声を大にしている。なるほど、ひょっとして。地名読み方辞典で調べてみた。ありました。甲賀町和田・こうちょうわ。「こうちょう」ではありませんぞ。




写真303X.愛宕山
写真拡大

 鳥居の写真ではない。「愛宕山」碑が主役。後日草津線の線路を越えた農地で、杣川が五反田川と分離するところを撮っていて、線路沿いの酒造工場へ迷い込んだ。目の前が線路で、その向こうに立派な石碑が建っている。上の写真を撮ったのが県道を越えた道沿い。そこに新築の民家が建っていた。言ってみればその民家の庭先のようなところ。でもしっかり見れば民家の敷地内ではない。道路から見れば裏向きに立っているわけ。県道側へ回ってみて、もう一回例の民家の敷地内でないことを確かめて・・・。そこまではよかったのだが、碑の半分が影。ものの5分も待てば影は消えただろうが、よそさんの庭先と間違われそうな場所だ。じっとしているのも妙な具合だし、何回も出入りするのも気が引けた。えーいままよと撮っては来たけれど、やっぱり駄目だった。要はこのあたりに愛宕さんの碑がたくさん建っていることを見てほしかったのだが。




写真303XX.県道終点標
写真拡大

 これも鳥居の写真ではない。鳥居にあやかって一票稼せごうというスケベ根性。県道終点標、慣れてくると分かってくる。肝心なところが汚れて読みにくいが、「県道神上野線終点」とある。標までは見えないが。甲賀町神、那須ヶ原山へ登ったとき大原ダムの横をから登った。たしかそこが甲賀町神だった。懐かしさについ。これが今の県道131号。杣川沿いの道路である。






写真304.さらに進む
写真拡大

 さらに進む。真正面に「三ッ頭」が見える。何というのかよくわからないが、鎌掛でよく見た民家の様式。









写真305.橋に出る
写真拡大

 スーッと上り勾配になって、橋に出る。その川が杣川である。
  杣川は、油日岳の北斜面を水源として流れ下り、油日神社の前を過ぎ岡崎集落付近を経て現在地に至る。このあと県道4号、JR草津線をクロスして、油日駅裏側柘植寄りの地点で、五反田方面から流れ下ってきた五反田川と合流する。





5.青野橋
写真306.一旦停止
写真拡大

 まっすぐ行っても橋、右に曲がっても橋。交差する道(車が走っている道)は県道4号のバイパスである。
 まっ直ぐ行って渡る川は杣川、橋は「青野橋」である。






写真307.上流側
写真拡大

 青野橋から見た杣川上流側。

  写真308.下流側
写真拡大

 すぐ目の前にもう1つ橋がある。これが右に曲がっても橋・・・の橋である。川の名は杣川。なんでそんなに川の名前にこだわるのか、くどくどと。まあそう慌てずに。川の名前は杣川。橋の名は「新油日橋」。何と立派な名だ。





写真309.下流側
写真拡大

 新油日橋から見た下流側。その新油日橋の左岸上流側に「杣川」との標識が立っている。うん、そうでしょ。川は「杣川」だ。それで何か問題があるの?。









写真310.青野川
写真拡大

 実はここでもう1本川が現れる。その名を青野川という。青野川?。さっき青野橋というのが杣川に架かっていた。そうその青野橋を別の名前にしておいてくれたら何も話が混がらないのだが。念を押すけれども、ここでは青野川に橋はかかっていない。写真が青野川である。







写真311.さらに進む
写真拡大

 さらに進む。立っているのは杣川に架かる青野橋の上。右に見えているのが青野川。正面に「三ッ頭」。

  写真312.整然とした
写真拡大

 墓地かな。何と整然とした。それにしても広い墓地だ。グランドゴルフなら十分。








写真313.退屈しのぎ
写真拡大

 解説必要なし。退屈しのぎ。

  写真314.次の橋
写真拡大

 次の橋が見えてくる。









6.行田橋
写真315.行田橋
写真拡大

 川は青野川。橋は”ゆきた橋”か。まさか”ぎょうでん橋”ということはないだろう。

  写真316.??おこな
写真拡大

 何!ナニ?、”おこないでん橋?”。びっくりしたな、何書いたるのかと思った。








写真317.上流側
写真拡大

 行田橋から見た杣川上流側。ちゃんと読めましたかな。”おこないでんはし”ですぞ。下流側

  写真318.さらに進む
写真拡大

 いい道路である。最近改修されたのだろう。クルマもほとんど来ない。「三ッ頭」、真ん中のピークがはきりしてくる。






7.青尻橋
写真319.青尻橋
写真拡大

 青尻橋か。まさか”あおいおしりはし”とは読まんだろう。”おこないでんはし”が読めないようでは”尻が青い”というわけか。しかし悩まされるね、橋名には。

  写真320.上流側
写真拡大

 青尻橋上流側。









写真321.四辻
写真拡大

 青尻橋を過ぎて、高台へ上がり切るとX字型に交わる四辻へ出る。”四辻”は正式名称ではない。名無しでは困るからと、勝手につけた名前。その場ではわからないかったが、GoogleMapには「歴史ルート公園鹿深の道」という長い名前がついていた。草津線を高架で渡り、油日神社の方へ向かう道である。杉林の間の暗い道を抜けていく。





写真322.細道別れ近く
写真拡大

 右に見える土壁の小屋の向こうから明りが差す。細道分かれである。これも勝手につけた名前。









8.細道別れ
写真323.細道別れ
写真拡大

 細い道が右斜めに分岐していく。どっちへ行っても元の道に戻るのだけど、こちらの細い道に民家があった。民家があったほうが旧街道らしくていいというのが判断理由。 細道へ入って杉林のトンネルを見たところ。だらだら下りに下がっていく。






写真324.左右の民家
写真拡大

 杉林を抜ける。左右に民家がちらほらと見える。もう1枚

  写真325.上り
写真拡大

 ちょっとした上り坂。

  写真326.もとの道へ
写真拡大

 坂を登って元の道に戻る。地図で「細道合流」としたところ。これも勝手な命名。




写真327.橋を渡る
写真拡大

 右へ曲がって橋を渡る。気がついたら、ここは以前三上山を撮るのによく来ていたところだった。そのころは何も気にしていなかったが、川は青野川の上流だった。
  杣街道を上流へ向かう場合、青尻橋で青野川を右に見るようになる。そのまま、近づいたり離れたりしながら、ここまでその関係を保ってきたが、ここで川が左へ出てそのまま源流域へと離れていく。
  油日岳の西斜面を流れ下って平野へ出ようとするところに、「高間みずべの森」という親水公園がある。この項では、とりあえず。県道4号の五反田までをトレースし、それが終わったところで、「水辺の森」に戻ることとする。



9.三上山
写真328.三上山
写真拡大

 ここから三上山が見える。右下の影の部分が青野川の上流である。まだイノシシ除けがなかったころ、ここからも何枚か撮った記憶がある。探してみたが見つからなかった。というのは、写真に見えている向こうの電柱の下で、もっと整理された風景が見つかったためである。そのころの写真(2012年2月撮影)をどうぞ。写真328、左の電柱のすぐ右に杉の木のてっぺんが見る。この木が2012年の写真では正面に見える。




写真329.森に入る
写真拡大

 ちょっとした森に入る。軽い上り坂。小さな峠を越え・・・て。

  写真330.右カーブ
写真拡大

 軽く右に曲がると・・・・。









写真331.県道に合流
写真拡大

 県道4号に合流する。突き当り、左右の道が県道。左折して県境へ向かう。このあたり正式名称は「甲賀町五反田」であるが、バス停には「余野口」などの名称が見える。「余野」などの字の名称が残っているのかもしれない。
 前出の『近江の街道』には、---- 余野から柘植への街道は、大化の改新時には「倉歴越え」として知られ、近江と伊賀を結ぶ重要な交通路であった。壬申の乱のときはこの付近で交戦があったといわれている。 ---- とある。



10.五反田
写真332.広場の隅に
写真拡大

 すぐに五反田(余野)集落内の右カーブ。外側にちょっとした広場がある。単なる空き地とも思えないし、といって駐車場かというと、そういった類のものでもない。GoogleMapを見て意味が分かった。もともと集落内の急カーブだったのを、内側に道を広げてカーブを緩和した。そのときにできた不要な部分をそのまま残して自由に使える広場として残したものらしい。そこの片隅に小さなな石標が立っている。




写真333.石標
写真拡大

 黒い舗装がその多目的広場。道は個人の住宅への進入路らしい。その境目に石標がひっそりと立っている。もう1枚








写真334.右油日
写真拡大

 字は何とか読めるが、部分的に分からないところがある。私には”右 池田いちいのX山”と読める。”池”の字は最後の画がくにゃくにゃとなっていて、おかしいなとは思うが、池田としか思い浮かばなかった。が、その池田の地名がない。
 京都新聞社刊、木村至宏著『近江の道標』のお世話になる。
 右は”油日いちいの土山”だという。”油”は言われたら読めなくもないが、”日”は”田”としか読めない。”土”は読めないぞ。最後にチョンがついているものな。
 左は”す山寺庄京”だとか。これを見たときには”す山”が分からなかったが、これは前項で高田さんの力を借りて、意味が分かった。ここでは左、すなわち新海道沿いに行けば”栖山”へ行ける。もちろん、右のコースいま歩いてきた逆を行けば栖山へ行けるわけだが、字数の関係で左へ入れたのだろう。
 そして最後の”亰”についてだが、同書では次のようにある。・・・・県内では京を示す道標で、最南端に位置する。伊勢・伊賀から倉歴(くらふ)峠を越えて近江に入った人々は、最初に「京」の字を目にする道標であった。おそらく多くの人々は、この道標を見て京都を身近に感じたことだろう。・・・・とある。




写真335.地蔵さん
写真拡大

 左側に地蔵さんが立っている。実は写真332の右端にも同じ地蔵さんが見えている。上の道しるべのすぐ近くである。









写真336.地蔵さん
写真拡大

 これは同じ道案内でも、人生の道案内。おじさんがお花の交換中だった。

  写真337.一直線
写真拡大

 あとは県境まで一直線である。左側には塩野義製薬油日事業所の敷地が広がる。








11.高間みずべの森
地図011.高間みずべの森地図

写真拡大










写真T01.高間みずべの森全景
写真拡大

  みずべの森上流の砂防堰堤から全景を見下ろしたところ。流れ下っていくのが青野川。両岸が公園になっている。遠くい見える水平な白い線が、新名神高速道路の高架線。視界がいい日には、中央に見える大きな屋根の向こうに三上山・菩提寺山のコンビ、さらには比良連峰がが見える。




写真T02.水辺のすべり台
写真拡大

  水に滑り込む。夏は子供でにぎあうが、いまは初冬。人の姿なし。

  写真T03.初冬の公園
写真拡大

  モミジの向こうをすべり台が流れ下ってくる。すべり台は上下2本に分かれている。右下の航空写真にその様子が見える。







地図012.”高間みずべの森”全景航空写真(Google Map)

写真拡大









写真T04.流れとクロス
写真拡大

  手前から奥へ自動車道が走る。河道の部分が低くなって右から左へ青野川が流れている。サッと水をはねながら車が通り過ぎる勘定。右上の航空写真で、左下から来て左上の駐車場で向かうとき、青野川と道がクロスしているところ。





このページトップへ 中トビラへ