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S08.磯尾川流域

S0805C. 分水嶺・旧伊賀街道内保越え

取材:2018.04
初稿UP:2018.05.15


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地図001.伊賀街道(深川〜内保越え)地図  (国土地理院Webに加筆)
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  水口を出て伊賀上野を目指す伊賀街道。この項ではそのうちの杣街道別れから内保越えまでをレポートする。
















地図004.伊賀街道(磯尾柑子線〜内保越え)地図  (国土地理院Webに加筆)
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  磯尾柑子線を越えると内保越えまであと1Kmほどである。2,3軒の民家があるが、あとは森の中。磯尾の明王寺への石標があったり、石仏が残っていたりして、往時の面影が残っているが、県境の寂しさを感じるところである。


















8.磯尾柑子線を渡る
写真058.橋を渡る
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  橋がかかっている。下は川ではない。立派な道路である。以前、磯尾柑子線を走ったとき、峠を登り詰めたその上を越える橋があった。なんでこんな山の中にと驚いたが、その橋がここだったのだ。そして、その峠を越えて”何やこれは”とさらに驚いた。そこは釣り堀だった。驚いたのはその人の多さである。釣り堀には、いつもこれぐらいの人間がいるのだろうか。





写真059.釣り堀
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  その釣り堀がきょうも見える。あの日ほどの人はいない。あの日より、きょうの方がはるかに釣り日和、だと思うのだが。あの日は大会か何かがあったのだろうか。

  写真060.なおも南へ
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  なおも進む。









写真061.昌峯大明神
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  鳥居が並ぶ。よく見る風景だ。鳥居には”昌峯大明神”とある。

  写真062.奉納大乗妙典
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  左の方に石標が建っている。ものの本には大乗妙典供養の石標だというが、もっといろいろ字は並んでいる。普通の字のはずだが、それが読めない。何とも情けない。右上をよく見ると、「江州甲賀郡云々・・」とある。ここまでが精いっぱい。



写真063.生活の音
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  上の写真を撮っているとき、どこかからTVのものらしい音がかすかに聞こえていた。左の民家かららしい。この塀のはずれまで進んだ時、右の建物から出てきた若奥さんらしい女性が、「こんにちは」と声をかけて家の方へ消えていった。このコース中、お互い言葉を交わした唯一の人だった。





9.385m峰
写真064.385m峰
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  女性に会ってから100m足らず。右前方に385m峰が見えた。このコース、結構高いところ歩いているのだが、とにかく森が深い。展望は皆無といっていい。その中での遠望、おお!385だと懐かしかった。山というのは不思議なもの、一度顔を覚えるとちらっと見ただけで分かるようになる。この山の場合、右下のチョボがポイント。もちろん方向が変わればだめだが。案外に近いルートを歩いていたことになる。関係地図




写真065.再び森へ
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  展望が開けたのもつかの間、再び森へ入って行く。

  写真066.左側の展望
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  と、今度は左側(東側)の展望が開けてきた。しかし、385m峰のような顔なじみはない。









写真067.石標が見える
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  右側に石標が見えて来た。その向こうに東海自然歩道の道標も見える。

  写真068.磯尾不動
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  近づいて見るとマンが悪く木の下の陰に建っていて、道路の左側が開けてその明るさが真正面から当たっている。右の面は明るさを調節すれば「甲賀准四国第廿三番明王寺」と読める。”准四国”の意味がもう一つしっかりとは分からないが、まあいいだろう。
  問題は正面の読みである。一番上の”い”の字と下3文字の”とう道”は読めるが、その間がどうにもならない。特に2文字目。”我”のようにも読める。そうかといって”い我(伊賀)"でもあるまいし・・・。そして次は”を”だろうと考えて、よく見ると”我”のような字と”を”の字との間に”同じ”を意味するてんてんのようなのが見える。い我がを”ではますます訳が分からない。
  こうなれがシラミつぶしで行くしかない。”我”のような字の下にちょんちょんがついた字を探すことにした。そして見つかったのが”楚”の字。である。だとすると、上3文字は”いそを”となる。4文字目は何とか”ふ”と読める。続けると”いそをふどう道”。なるほど磯尾不動道か。磯尾不動とは?。”明王寺”そのものが”磯尾不動”ではないのか。東海自然歩道の標識にも”明王寺0.4Km”とある。これで決まったようなものだけど、念のためインターネットで調べてみた。滋賀県観光情報HPに”・・・明王寺は、弘仁2年(811)円瑞の開基と伝え本尊は、伝教大師最澄の作という不動明王である。”とある。”磯尾不動と呼ばれている”との言葉はなかったが、まず間違いないだろう。




写真069.磯尾不動道
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  新旧”道しるべ”の真ん中を明王寺へ向かう道。この先400mという。もう1枚

  ◆番外編:明王寺寸描







写真070.さらに進む
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  さらに進む。

  写真071.石仏
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  ツツジの花の向こうに石仏が見える。もう1枚









10.内保峠へ
写真072.森の中を行く
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  木漏れ日の森を行く。

  写真073.峠
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  影の濃い森の中。この写真は往路、単に逆光の若葉が美しかったとの理由だけで撮ったものである。それにしては大したものではないが。しかしあとで気がつけば、ずっと緩い上り坂だった道が、いつの間にか下りになっていた、そういうところだった。復路に上り坂を歩くときに、足の運びが軽く感じるところはどこかと気をつけていた。それがこの辺りだった。上から垂れさがっている新緑の小枝、これが目印だった。言ってみれば今回のコースの峠がこのあたりだった。
  写真のこの場所が峠だということはできるが、この場所が地図のどこかと同定することはできない。もしそれをやるとすればGPSを使う以外手はない。




写真拡大 写真拡大 写真074.右カーブ

  ガードレールがあって、道がくっと右に曲がる。

写真075.合流点近く→

  そのガードレールのそばに立って、木の間越しに新道が見える。合流点が近い。




写真076.内保越え
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  新道と合流。内保越えである。県境の標識が立つ。ただし例によって北面しており、普通に見たのでは見えない。標識だけアップして明るさ調整、それでぎりぎり読めるというところ。

  写真077.県境の石標
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  歩いてきた向きから見て右側の山ぎわに県境の石標が建っている。大正7年3月、三重県によって立てられたものである。正面には例の文章の下に、阿山郡玉・・と続く。多分、”阿山郡玉滝村”だろう。ここから南へ2Kmほどのところにその地名が見える。

  ◆番外編:玉瀧寺寸描


写真078.佐那具
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  右面は上部が木で隠れている。読める範囲では”佐那具へ三里九町”とある。佐那具という地名になじみがなかったから、地図で検索してみたら、JR佐那具駅がヒットした。関西線の伊賀上野駅の1つ東(名古屋寄り)の駅である。ここ(内保越え)からの直線距離が9.2Km。たしか一里が4Kmのはずだからそんなものだろう。それはいいとして、それなら伊賀上野とすればいいではないか。その方がはるかにわかりやすい。しかし何かそうしなかった意味があるのだろう。江戸時代ではない。大正の話である。大正時代のことが分からなくなってきている。




写真079.内保越え
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  三重県側から見た滋賀県側。左側の細い道が歩いてきた道。山蔭に県境の石標が見える。右に見える白いクルマで分かるように、自動車道はここが峠である。しかし、歩いてきた細い道はここから300mほどが上りになり、そこで峠を越える。この場所の標高は240m、細い道(県道133号)の峠は、ここから300mほどのところ、標高は452mほどである。






写真080.鞍部
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  上の写真は合流した新道方向の視線で県境部を見ている。峠である。白いクルマは滋賀県側から坂道を登ってきて三重県側へ越える。逆に茶色のクルマは滋賀県側へ下っていく。
  左の写真080は、同じ峠を撮っているが、少し視線を変えて稜線方向の視線で見ている。右側から下ってくるのが東海道自然歩道の階段。(階段全体を細い道側から見たところ)。稜線を歩く立場からすると鞍部である。階段を下り、道を横断して、細い道(県道133号)を上りなおしていく。ここも切通しの感あり。




写真081.内保越え立体図E (カシミール3Dによる作図)
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  新名神から内保越え周辺あたりまでの丘陵ルートを東方上空1000mぐらいの位置から見下ろしたところである。広域農道と平面交差したあと標高220〜250mぐらいの高原状の尾根道を行く。




写真082.内保越え立体図S (カシミール3Dによる作図)
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  東方から見た場合地理的な関係は分かりやすいが、高原状の尾根道が分かりにくい。それで改めて南方から見たところを作図してみた。広域農道交差の標高が210mほどである。最高点のそれを仮に250mとして、約40mの標高差があるが、ほとんど登り感じさせない不思議な道である。  





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