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地図005A.上磯尾付近地図 (国土地理院Webに加筆) 国土地理院のWeb地図で下磯尾付近を見ていると、小さい川に”鴻川”との名称が麗々しく表記されている。いま目的としているのは野洲川流域分水嶺の峠越えであって、この川などはほとんど意味を持たない川であるが、なぜこの川に大きな名称が付けられたのか不思議だった。磯尾川のつけたしとして尋ねてみた下磯尾川だったが、さらにそれのつけたし。しかし判然としなかった”山伏の里”が見つかったり、結構楽しい探索だった。 1.D橋まで 写真001.鴻橋 鴻橋である。鴻川の一件は前項で述べた。川は下磯尾川である。右が上流、左は例のS字カーブを経て出頭橋へ至る。道はこのまま進むと上磯尾に至るというところである。すぐそこ、画面真ん中の電柱のところを右折すると次の写真のような一直線の農道へつながる。 写真002.一直線一直線の農道。例によって両側はネット張り。カーブしていくところで橋が見える。上の地図005AのD橋である。 写真003.D橋 D橋である。鴻橋からここまで100m余り、流れる川は鴻川というのだから話がややこしい。実はこの川は画面左手方の山手から流れ下って来て、右手の山蔭のところ(赤い花の向こうの森の下)で山の向こうからやってくる下磯尾川と合流している。 写真004.合流点下磯尾川と鴻川との合流点。残念ながら近づくこと不能。そこから画面右へ続くネットが下磯尾川(画面右外に鴻橋)。 2.浅間像 写真005.浅間像 D橋のたもと左側に浅間像が座す。頭は鳥の立ち寄り所らしい。 写真006.享保十八年 このような上からの光のときは下から見上げたほうが字が読みやすい。こういう文字、慣れた人なら何でもないことだろうが、こちらはとことんど素人。どうも”享保”なんとかとあるようだ。問題はその下。くさかんむりの下に”木”のような、”永”のような。その下が”葵丑”らしい。問題は”くさかんむり”のところだ。その部分だけ馬鹿に字が大きい。念のためにと、上で見た鳥の立ち寄り所をもう一度見直してみた。”茶”のようでもあるが、”十八”とも読める。”くさかんむり”に見えたのは偶然に”十”の字が左にもう一つ重なって見えたためらしい。享保十八年を年表で調べてみたら、間違いなく”葵丑”だった。ちなみに享保18年は1733年。いまから285年前の像ということになる。 写真007.サクラ 橋を越えると上りになる。先ほど棚田の上に見えたサクラ(何桜というのかな、ソメイヨシノでないことだけはわかるのだが)が同じ高さに見える。 3.山伏の里”野路” 写真008.山伏の里”野路” まとまった雰囲気のところへ出る。落ち着いた看板があって『山伏の里”野路”』とある。ここだったのか。実は県道49号、下磯尾入り口に同じ内容の看板が立っていた。こちらは矢印つきだったが。 写真009.谷が迫る 山伏の里を過ぎてさらにのぼる。谷が迫ってくる。 写真010.桜が満開我が家近辺ではサクラは散り終えていたが、こちらは満開。ちなみにこの日、2018年4月16日。 写真011.小さな橋可愛い橋を渡って道は続く。 4.砂防堰堤 写真012.砂防堰堤 橋の奥の砂防堰堤。竣工プレートが埋め込まれていて、”鴻川荒廃砂防工事”とある。”鴻川”であることは間違いない。しかし”おおとりがわ”か”こうのがわ”かの結論は不明。多分、前者であろうと思われるが。 写真013.振り返る砂防堰堤から先ほどの可愛い橋を振り返る。もう1枚。 写真014.D橋を望む 橋を渡って対岸を下ってきたら、下磯尾集落をバックにD橋を見下ろす場所で出た。浅間像が小さく見える。すべてがネット越しだ。 5.石仏広場 写真015.石仏広場 桜の木の塚があってその横の草つき広場に石仏が数体半円状に並んでいた。 写真016.宝篋印塔中心の位置を占める石塔。例の”一字一石経塔”かと思ったが、普通の宝篋印塔だった。 写真017.浅間像? 浅間像らしき像も見えるが当方知識乏しく意味不明。残念。 |
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