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地図007.杣街道地図・3 (国土地理院Web地図に加筆) 結幸高架橋の下から寺庄の六角堂を経て、県道新杣川橋まで。前項の続きで、終始一貫杣川右岸を歩く。深川から寺庄まで街並みは途切れない。あえて言えば、野田橋あたりで途切れることもあるが、ごくわずかな間である。 36.結幸高架橋下 写真171.結幸高架橋下 本項の出発点。野田橋の少し上流にある結幸高架橋(県道127号)下である。新しい橋で県道4号の竜法師交差点からやってきて甲賀市小佐治の方へつながっている。手前左右の道がこれから歩く杣街道。右が寺庄に続く。 写真172.野田橋 同じ場所から見た野田橋。前項で大騒ぎした細い水路が手前に見える。右手遠方に見える高原状の山が三雲の烏が岳。例のビール腹である。 写真173.飯道山 視角を左へめぐらせて、川と直角方向を見る。左の方、大きな木の右に例のコブ。その右、高原状に一番高いところが飯道山。飯道山は修験者のイメージなどからもっと起伏が激しい山かと思っていたが、こちらから見るとなだらかな山である。 写真174.集落に入る 寺庄の集落へ入る。中心部まではまだ少しあるのだが、集落が街道に沿って伸びてきている。 写真175.川沿いへ街道は川から1本離れたところを通っている。ところどころこうした連絡道で川沿いへつながる。 写真176.川沿いの道 川沿いへ出る。まだ細い水路は続いている。しかし、水量が少なくなっている。前項で見た野田橋付近よりこちらの方が上流のはず。上流で少なく下流で多い。川の水量は必ずしもどこでも一定ということでもなさそう。 写真177.浅野川合流点 川沿いに出て少し下流へ進むと対岸に浅野川が合流してくる。甲南町上馬杉。下馬杉あたの県境を水源とする川である。写真で見ただけでは何が合流点なのかわからない。対岸のブロック壁がそうだけど、これは地図で予習していて初めて分かることだった。 写真178.街道へ戻る街道へ戻る。画面右端にイチョウの黄葉が見える。 37.稲荷神社 写真179.稲荷神社 イチョウが生えていたのは稲荷神社の境内だった。もう1枚。 写真180.なおも進む昭和初期に戻ったような住宅。ちょっとしたサラリーマン、高級?といえばいいのか、そのこのところは子供だった私にはわからなかったが、生まれ育った京都の伏見にも、こういうタイプの家はひときわ目立っていたものだ。 写真181.元茅葺屋根 と、今度は農家の造り。この家も茅葺屋根だったころはひときわ目立っていたはず。 写真182.金太橋へT字路があって、右へ進むと橋に至る。 38.金太橋 写真183.金太橋 金太橋、面白い名だ。下流を見たところ。真ん中アンテナの右が・飯道山、右、低く見えるのが烏ヶ嶽。 写真184.下流を見る手前の河川敷、相変わらず細い水路が続いている。 写真185.上流を見る 上流側、ちょっとしたダムになっていて、水は右端から流れ出ている。 写真186.取水口と、何の意識もなく小さなダムを見ていたのだが、左の写真のポイントへきて、ダムの意味が初めて理解できた。ここが細い水路の取水口だったのだ。まあ、要するに小さな頭首工。もう1枚。ここでも細い水路を跨いで杣川へ流れ落ちる流れが見える。 写真187.街道へ戻る もとのT字路へ戻る。 写真188.白壁土蔵白壁土蔵がよく似合う。 39.県道終点石標 写真189.県道終点石標 撮りにくかったので、カメラの向きが90度変わってしまった。手前が杣街道、その道を左から右へ向かって歩いている。それに直角に車1台分ぐらいの細い道が突き当たる。T字路である。電柱の右に少し離れて角柱が見える。何かありそうである。 写真190.こんな民家も ながく忘れていたけれども、京都の伏見でも、ちょっと田舎へ行くとこういうタイプの民家もあった。ベンガラ格子の民家が街道よりいくらか高くなっていて、そこのたたきに大根やネギなどが並べられていた。 写真191.やっぱりいた やっぱりいた。じつは金太橋から戻ってきたところで、後ろから来た車がスーッと止まった。交差点でもないのにと、不思議に思っていると窓が開いて、男性がニコニコ笑っている。一瞬意味が分からなかったが、よく見ると水口教室へきていた高田さん。イヤー、えらいところで会いましたな。何やかや、話しだした時に後ろからクルマが来た。狭い道だから、のんびりもしていられない。ほんじゃまた、ということで行ってしまった。 写真192.高田さん 「すみません、教室ちょっとも行けずに。寺やら宮さんやら役もたされて・・・その上に、いまこんなことやってますねん」。持ちだしたのが左のポスター。『引札』というのだそうな。明治・大正期の地元商店が節気の集金のときに、PRをかねてこういう印刷物をお客さんの家に置いていったのだという。 写真193.さらに進む 高田さんが行ってしまった後をのこのこと。 写真194.これは?これはまた、立派な建物だ。いまは使われていないらしい。銀行か何かだったのか。ボーリスさんの設計のようであるし、ちがうようでもある。通り過ぎて振り返ってみたところをもう1枚。 40.六角堂 写真195.六角堂 六角堂の広場へ出る。天明8(1788)年の建立だとか。 写真196.六角堂先ほどの高田さんの解説では、六角が2層で角が12になる。そこに十二支がはめ込まれている。それをちゃんと見てもらわんとということだったが、ネズミぐらいは何とか分かっても、ほかのやつはどれが何やら、さっぱり読めとれない。イヤー、難儀なものです。 写真197.千歳橋へ 歩いてきた杣街道を右(方向でいえば南西)へ折れると、すぐに杣川の橋が見えてくる。コーンがたくさん立っていて、工事中のようだ。 写真198.千歳橋橋は千歳橋という。クラシックで幅も狭い。その上に結構交通量が多い。両方からやってこられるとどうしようかと思う。 写真199.下流側下流側を見たところ。もう細い水路はない。 写真200.下流側から千歳橋 浮世離れをした懐かしさがある。そういえばかつて野洲川の北流や南流にかかっていた橋もこんな雰囲気だった。何となく近く架け替えが始まるような。 写真201.上流側堤防なのか河川敷なのか、素人には区別がつかないが。何か工事中の様子。もう1枚。ついでにもう1枚。左岸から六角堂の方を向いてみたところ。この道幅が何とも微妙。 写真202.街道へ戻る 街道へ戻る。お堂の右を渡っていくのが杣街道。 41.六角堂を後に 写真203.さらに進む 六角堂を後にさらに進む。しばらくの間は直線道路。旧街道らしくない。おそらく後の時代になって改修されたのだろう。それとも本来の道は消滅して、この道を便宜的に旧街道としたものか。しばらく行くと右へカーブ。左側に神社の鳥居が見えてくる。 写真204.日吉神社 見れば日吉神社とある。はは―これやな。この名前を見たのはもうずいぶん前。三本柳の集落の中だったか。七五三参りの幟に日吉神社とあった。まさか坂本の日吉神社ではあるまいし・・・と思っていたのだが。そのあと例の高田さんとの”交通事故”のおじさんが、「ここまっすぐ行くと左側へちょっと入ったところに日吉神社という宮さんがある。そこの宮司さんが歴史に詳しい。親切に教えてくれはるから・・・」。全部つじつまが合う。 写真205.日吉神社へ 妙に親近感がわいて・・・。少しはいると踏切が見えて来た。なるほど草津線だ。いままでの踏切は最近赤に塗り替えられているが、ここまでは手が回っていないようだ。昔のタイガースカラーのまま。そういえばあの赤色は広島カープの赤ではなくてジャイアンツカラーだ。JRXXの首脳部の某がジャイアンツファンで、現場の誰かが”忖度”して色を変えたという構図が見えてくる。以上、ちょっとした作り話。本気にしないように。 写真206.同じ写真が なぜ、同じ写真が…と思われたはず。はい、ここで写真のお勉強。もちろん2枚は別の写真。205を撮ってから踏切を越えてこの写真206を撮った。当然205の方が神社までの距離は遠い。でも比較してみるとごくわずか206の方が鳥居は小さく見える。これはズームレンズのいたずら。こういうレポートをするときは距離感がくるわないようにできるだけズームを回さないように心がけているのだが、今の場合は桜の木や両側の灯籠を入れたくなった。これが災いのもと。 写真207.日吉神社 で、いろいろありましたが日吉神社到着。当たり前の話だけど、宮司さんはどこにおられるかわかるはずはない。いやいや、初めからお会いしようとは思っていないのだから。 写真208.街道を進む 街道へ戻ってさらに進む。道は一直線である。新しく整備された部分だろう。前方に見える高架は県道4号。右の方で杣川の橋を渡ってから上りになり、左を走る草津線を越して右へカーブ、草津線に並行するようになる。 42.新杣川橋 写真209.新杣川橋 上の写真の高架の手前に右へ折れる道があり、それをたどると県道4号杣川畔へ出る。しかし竹藪が茂り絵にはならない。交通量が多くその上歩道もなし。こんなところで写真を撮っているとどやされそうである。橋の名も調べること能わず。地図で調べて新杣川橋とわかる。もう1枚。 写真210.上流を見る 上の写真の「杣川」との標識と親柱の間から体を乗り出して撮った写真。竹藪の間から新名神の高架橋が見える。 |
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