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S05.杣川流域

S0502B. 杣街道・(庚申口交差点〜矢川神社)

取材:2017.11
初稿UP:2018.01.10


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地図006.杣街道地図・2  (国土地理院Web地図に加筆)
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 左の地図の後半、国道307号との交差点・庚申口から県道を甲南町の天保義民メモリアルパークまでである。烏が岳の麓をまいて、水口町域へ入ってからは、岩坂・宇川橋・高山・三本柳と集落を尋ね歩くルートをたどってきた。ここからもそういうルートがあるのかないのか。地図で見れば、たとえば水口町杣中など、あるようなないような。とにかく県道を進む。




20.庚申口交差点


写真101X.庚申口交差点
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 庚申口交差点、南端から北を見たもの。右が水口市街地、左が信楽方面である。真正面に見える大きな家の右側の細い道が旧街道、前項ではそれを歩いてきた。県道は集落を巻くように「左へ回れ」の標識が見える。






写真102.庚申道碑
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 さてこのこの交差点がなぜ「庚申口」なのか。左の写真は交差点の北東側から南西側(信楽方)を見たところ(上の写真で信号待ちしている車のドライバーが右前方を見たところ)である。天理スタミナラーメンの店舗が見え、その右に松の木があって電柱が立っている。その奥に大きな石標が立っているのが見えてくる。高さだけでいえば、ラーメン店の店舗の倍近くはある。それでいながら目立たないことおびただしい。




写真103.庚申道碑
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 実はこの写真、昭和57(1982)発行の、近江文化叢書13・『近江の街道』に掲載されている写真である。上の写真でラーメン屋の奥に見える倉庫風の建物と右奥の山、この両者が上の写真102にも写っている。すなわち写真102と写真103はほぼ同じ場所から撮られたものであることが分かる。少なくとも昭和57年以前にはこの石標はこの交差点の一等地にあった。そこを通る車からはいやでも目に入る、そういう場所に立っていたのである。ちょうどいまの交差点のど真ん中に立っていたといえばいいのか。
 さて問題は、それがいつ移動したのかということである。石標の周りをぐるぐる回りをしていて、こんな埋め込みに気がついた。移動は昭和58年7月だという。なるほど、本が発行されたとき(昭和57(1982)年)、いや写真が撮影されたといはまだ旧位置にあったわけだ、つじつまは合う。
 私自身もずーっと昔、ここでこの石標を見た。普通車の運転免許を取った記念に一家で信楽へ行った。変わった形やなと思った記憶がある。以来いつの間にか記憶が消えていった。あの石標はどこへ行ったのか。石標がこの交差点から消えたと思い込んでいたのである。こんなところに隠れていたのか、という思いである。免許証を撮ったのは、昭和57年3月。理屈は合う。




写真104.正面から
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 さて、改めて正面から。「山中庚申道」と堂々とした字で刻まれている。右へ行けとも左へ行けとも書いてない。そんなこと書かなければわからんのかとどやされそうである。それぐらい迫力がある。それもそのはず建立が嘉永4年8月(1851)だという。”永”はすんなり読めるのだが、その上がはっきりしない。うんと拡大してやっと。エエ加減に見ていると何かのマークのように見える。ここらが文字彫刻の難しさ。
 そもそも山上とは今の水口町山上のことで、庚申山に立つ広徳寺をさすのだという。HP”山上庚申さん”によると、庚申山麓に住む農夫・籐左衛門が広徳寺本尊を深く信仰、文禄2年(1593)正月廣徳寺にこもり、断食祈願をしたところ、 満願の夜に、銅に亜鉛を混ぜる合金の法を伝授された。これが我国における真鍮精練の始まりと言われているとか。そうか、これが碑の上に誇らしげにある”日本真鍮祖神”の由来なんだ。




写真105.在横田河畔
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 とこれで一件落着やなと思っていたら、最後にもう一つ難題が。もともとこの碑は別のところにあったという。そもそも漢文なのか日本語なの、それが分からないうえに、字が半分読めない。もともとこの道標は、東海道の横田川畔にあったが、故有って大正8年に、当地に移動させたという。石標、碑の類は動く。これが動かないと信じるとひどい目に遭いますぞ。




写真106.右山上庚申道碑
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 おいおい、やっぱりあの大きな碑だけではアカンのと違うか。右も左も分からんやつがおぞ、という反省が出たのだろうな。”右山上庚申道”。おそらくどこか別のところにあったのを持ってきたのだろう。でも”左深川伊賀?”理屈は合っている。もう1枚。明るいほうの面には何と彫ってあるのかな。





21.高原鉄道交差


写真107.高原鉄道交差
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 庚申口交差点を後に県道4号を南へ向かう。信楽高原鉄道と交差。その間100m足らず、左側がコンビニの駐車場になっている。電車、じゃないな気動車だが、そいつがやってくると店の上を走るように見えるのが面白い。







写真108.杣川鉄橋
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 県道はずっと杣川沿いを走るが、このあたりでは少し離れている。その間400mほど。杣川鉄橋は2013(平成25)年9月の台風18号により、橋脚が流失する被害があり約1年2カ月におよび全線運休を余儀なくされた。今は穏やかな杣川。信楽へ向かう列車。





写真109.さらに南へ
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 高原鉄道のガードをくぐってさらに南下。一直線に続く道路。もう1枚。左の写真にも写っているが道端のケヤキの木が近づく。何回通っても印象に残る木である。どうしてこういうところに看板を立てるのかなあ。







地図006A.杣街道地図・2A  (国土地理院Web地図に加筆)
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22.滝川橋


写真110.交通安全地蔵
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 ケヤキの木を後にちょっと進むと右側に竹藪が見えてくる。その手前、以前は大きな木が生えていたというが、いまはその根っこに地蔵さんが一体。株の上に安置されているように見えるが、後ろから見るとしっかりした台の上に置かれているのが分かる。後ろに卒塔婆が立てられ交通安全とある。





写真111.水口町杣中
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 もう1枚、地蔵さんを後ろから見たところである。すぐそこに見える集落が現在の水口町杣中。これぐらいの距離なら旧街道が通過してもよさそうな気がする。地図を調べると、集落の中には筋の通った道が見えるが、その前後が何ともつながらない。といって現在の直線状の県道が旧街道だとも思えないのだが。




◇補遺

写真111A.浅間さん
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 写真110、”交通安全地蔵”について、知人の高田さん(甲賀町在住・このあと寺庄の近くで偶然に出合う)から、地元では「浅間さん」とよばれて大事にされているのだとメールをいただいた。後ろから撮った写真の卒塔婆に「交通安全」とあったので交通安全地蔵などと勝手なタイトルをつけておいたのだが、その卒塔婆の下半分に「杣中養寿会/冨士浅間講」とあるのを見逃していたわけ。もっとも気がついていても意味は分からなかっただろうけれど。
  浅間講といえば、新宇川橋近くで「浅間神社」碑を見た。そのそばにあった地蔵さんが、この浅間さんとよく似た雰囲気だった。富士信仰は17世紀半ばにはこの地方に伝わり、地元にあって登山と同じ利益があるとされる「富士垢離」行法も伝えられ、それがもっとも整った形で残されているのが水口町杣中の富士浅間講だとか。
  *写真111Aは高田さん撮影(2012年10月04日)。在りし日の巨木の姿が見られる。・・・以上補遺・ここまで・・・




写真112.滝川
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 安全地蔵のそばに竹藪が続く。その竹藪が滝川という川の堤防をなしている。実はこの滝川、いまこの段階ではただの小さな川であるが、あとで水口町と信楽町の境界の重要なポイントになってくる。






写真113.瀧川橋
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 県道4号に架かる滝川橋。昭和8年の文字が見える。










写真114.滝川合流
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 滝川が杣川に合流していく。











23.杣川大橋


写真115.杣川大橋
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 滝川橋あたりから上流側を見たところ。杣川大橋が見える。











写真116.杣川大橋
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 県道4号から杣川大橋を見たところ。右が上流。杣川大橋の親柱、ネームプレートをどうぞ。









写真117.上流側
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 杣川大橋から上流を見たところ。対岸は甲南町森尻。










写真118.下流側
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 下流側を見たところ。右岸は甲南町宝木。










写真119.メタセコイヤ
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 矢川橋近く。メタセコイヤが数本。











24.矢川橋


写真120.矢川橋西交差点
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 矢川橋西交差点。左折する。











写真121.矢川橋
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 矢川橋を行く。対岸右に「天保義民メモリアルパーク」のポールが見えてくる。左側の木の下を行くと矢川神社に至る。2000人を超す農民が決起した場所である。もう1枚。上流側歩道から。






写真122.西側を見る
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 矢川橋から西方を見たところ。











写真123.上流を見る
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 矢川橋から上流を見る。











写真124.下流を見る
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 下流側。突き当りの山が十二坊。その左に烏ヶ嶽涅槃像の顔の部分が見える。











25.天保義民メモリアルパーク


写真125.天保義民メモリアルパーク
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 矢川橋右岸(東端上流側)にある。左の写真を見ると石が倒れていて、公園が荒れているように写っている。撮影ミスである。実はこの倒れているプレートが、「天保義民に寄せて」という説明板である。






           天保義民に寄せて
  天保13(1842)年10月14日未明、早鐘を合図に矢川の社頭に集まった二千余人の農民は、怒涛の如く幕吏本陣三上(現野洲市)を目指し殺到した。
  この地は、天保一揆といわれる農民レジスタンス発端の地である。
  天保の改革と呼ばれた幕政の非道さと不条理な検地に対して真っ向から抗議し、民衆の人権を護り抜こうとしたこの大騒動は「検地十万日の日延べ」を勝ち取った。
  しかし加わった多くの人々は捕らえられ、過酷な拷問に絶命する人が相次ぎ、「江戸送り」となった人たちは幕政の糾弾に最後の力を奮い、ついに獄死するに至った。
  明治の世、これを讃えて天保義民という。
  この一大騒動は、幕藩政治の崩壊いにもつながり、近代国家への礎石ともなったのである。
 150年を経た今日、緻密な計画と確固たる信念のもと、悲壮な決意をもって決起した民衆の義挙を永く後世に伝え、郷土の永遠の繁栄を願って、この碑を建立する。
     平成3(1991)年10月吉日
                        甲南町長  木村泰治




26.矢川神社


写真126.矢川神社
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 矢川神社境内入り口。矢川橋東詰め。











写真127.参道
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 参道。200mにも及ぶ。太鼓橋に続く











写真128.楼門
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 急な石段の上に楼門が建つ。また、この神社はは雨乞いに霊験があるとされ「甲賀の雨宮」として有名。楼門も雨乞いの霊験に対する返礼として寄進されたという。楼門を通して本殿を見る。







写真129.本殿
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 上記、天保一揆発端の地として有名であるが、昨今は七夕祭りでにぎあう。近所の子どもたちが七夕の笹飾りが持ち寄り、境内は多くの笹で飾られるとか。 楼門の前から参道を振り返る











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