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S05.杣川流域

S0501A. 杣街道・(三雲〜湖南・甲賀市境)

取材:2017.10・11
初稿UP:2018.01.10


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地図005.杣街道地図・1  (国土地理院Web地図に加筆)
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 さて、杣街道歩きである。左の地図005で西の方からやって来た点線が旧東海道。荒川橋は現在(2017年9月)拡幅工事中。それを越えて三雲駅前に達する。その付近が田川村といって東海道の立場(”たてば”と読んで、江戸時代、街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所)だったという。東海道はこのあと渡しで右岸へ渡る。そのあとを受けてそのまま左岸(下流を向いて左側の岸)を行くのが杣街道ということになる。
 そんなことでどこまでが東海道で、どこからが杣街道かというとこは、現実問題としてはいろいろな考え方があるようである。そんなことは簡単じゃないか。横田の渡しの常夜灯があるわけだから、そこまでが東海道で・・・・。理屈の上ではそういうことだろうが、それも実際問題としてはそんなに簡単な話ではないらしい。常夜灯そのものが移動しているとかいうのだから。ここでそれをいちいち書きだすときりがなくなるので、とりあえずJR草津線三雲駅前ということで話を進めることにする。



1.杣街道、さて出発
写真001.三雲駅前
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 JR草津線・三雲駅前通りと旧東海道との十字路である。まっすぐ行けば三雲駅。左右の通り(通りには見えないが)が旧東海道。写真では駅前へは通行止め。クルマは1台たりとも通さんぞ、いかついガードマンが立ち尽くす。
 上の地図005ではここから右(石部側)が東海道、左(上流側)が杣街道ということになるのだろうが、実際問題としてはそんなイメージはどこにもない。




写真002.天保義民碑へ
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 三雲駅前の東海道を左へ進む。雰囲気は東海道まま。道がぐっと上りになる。細い川があって堤防への上りである。橋の手前の細い道を右折してすぐに草津線の踏切を渡る。出発の前に、天保義民碑を見ておこう。







写真003.だらだら坂
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 だらだら坂を登る。

  写真004.県民花の森
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  「県民花の森・天保義民の丘」というモニュメントがある。”県民の森?”かと思ったら、花の森だった。







2.「新海道」碑
写真005.「新海道」碑
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  左へ進めば天保義民碑、まっすぐ行けば駐車場というT字路。そこに「新海道」なる碑が建っている。ただし書きも解説もないので、予備知識がなければ、「新海道」て何やろなというのが正直なところ。実は、この新海道なる言葉、前項地図001のところでも述べたが、明治20年からの近代化政策重要施策として行われた道路整備のうち、三雲柘植間のいわゆる「杣街道」につけられた名称である。
  もともとはその街道の起点として旧横田橋の南端(左岸・三雲側)に建てられていたというが、現在はこの場所に移されている。かつてこの碑が建っていた場所には、いま、それを示す案内板が立っている(詳細後述)が、いまこの場所には、この「新海道」碑が建っているだけで何の説明もない。これを見て素直に解釈すると、この場所が新海道のいわれの地のように感じられる。この碑にもにも何らかの説明が必要だろう。
  振り向けば、三雲の街並みの向こうに三上山。




写真006.義民碑への道
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 新海道碑のところで左折して、さらにだらだら坂を登る。

  写真007.天保義民碑
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  天保13年(1842年)、不正な検地に抗議するため、旧甲賀郡・野洲郡・栗太郡の農民約4万人が一斉に蜂起した、いわゆる”近江天保一揆”。検地を中止させ「十万日延期」の目的を達したが、リーダーの庄屋クラスの農民達の払った代償も大きく、土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲者の魂をなぐさめ、その義挙を後世に伝えようと建てられたのがこの碑である。建立明治31年。碑に添えられた説明板。街道沿い常夜灯のそばに置かれた義民碑案内板



写真008.三上山
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  義民碑広場は木立に囲まれ展望は利かないが、市街地に向かって左側へトラバースしていくと、木立が切れて三上山・菩提寺山が並び立つのが見える。

  写真009.街道を横切って
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  天保義民の丘を下り、街道を横切って小川沿いに下る。川の名は不明だが、地図で見ると烏ヶ岳中腹から流れ下る2本の川が合流したもので、結構、急流である。

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  写真010.野洲川の岸

 50mちょっとで野洲川の岸へ出る。→



写真011.対岸を見る
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 対岸は横田橋の右岸である。いろいろ写っていて訳が分からないが、左の上下2本のうち、下に見えるライトブルーの橋が横田橋。対岸が朝国。そしてそれをまたぐ歩道橋。その上が右の方、泉交差点から岩根へ抜ける国道1号バイパス。これは道をまたぐだけで川は跨がない。ことほど左様にこの間は狭い。手前の常夜灯から対岸の1号バイパスまで300mほどである。川は左が下流。



3.常夜灯
写真012.常夜灯
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 東海道・横田の渡しの常夜灯。安永8(1774)年建立という。建立当時は現在位置より200mばかり上流に立っていたという。そばにある案内板を読んでみると、いろいろと気になることが。まずタイトルに「東海道五十三次石部宿」とある。このあたりはまだ”東海道”と考えているらしい。それはいいとして、”石部宿”とはどういうことか。石部からは7Km離れているのに。
 そんなことを考えていたら前へ進まない。まあ、とにかく出発。




写真013.ちょっと進んで
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 左手は野洲川の川原。右は草津線。その奥が山。何も目印がない。ちょっと進んでというしかない。








写真014.泉林道踏切
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  振り返ると草津線の踏切(だと思う?)が見えた。言ってみればこれが一つの目印だけど、これがどこか、地図に明示されていないから目印を探すための目印がいる。地図005で、「新海道道標跡」の少し手前であることは確かだが。
 考えてみるとJR三雲駅あたりからここまでの間、野洲川の流れとしては両側の間隔がいちばん狭いところである。川に何かこと起これば真っ先に通行困難に陥る場所である。場合によっては迂回路が必要になることもあっただろう。当然それは山手。三雲駅あたりから山手をトラバースしてこのあたりへ出てくる道があっても不思議ではない。石部の宮川のところでも五軒茶屋の迂回ルートがあった。そこも川幅が狭いところだった。こういうことを考え考え歩くのも結構楽しいことではある。




写真015.新海道石標跡
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  陰になって見にくいが、右側の立札が新海道石標跡である。場所は旧横田橋南端跡だという。対岸の東海道横田渡常夜灯と対をなす位置である。
  対岸にある「横田橋の歴史」説明板。一部、読みにくい箇所あり。明治24年に架けられたという板橋の写真あり。






写真016.真正面から
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  立札を真正面から見たところ。すぐ後ろを草津線が通っている。文章は簡潔、分かりやすい。一か所だけ、”新海道と呼ばれていました”ではないかと思うが。なぜ、天保義民の丘の方に、この説明がないのか。
 なお、”新海道石標の字は巌谷一六さん作のものです”とある。天保義民碑の説明のところで、後ろから5行目に”文字は巌谷修氏の書です”とある。実は巌谷一六と巌谷修は同一人物。「修」が本名、「一六」が号。天保5年2月8日(1834年3月17日) - 明治38年(1905年)7月12日)、滋賀県出身の政治家、書家。なお巌谷小波(文部省唱歌『ふじの山』、『一寸法師』等の作詞者)は一六の三男。




写真017.南へ
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  新海道碑跡を越えてさらに南へ下る。もう間違いなく杣街道のはず。草津線は道より一段高い所を走っている。電車を待ったが…来ない。









4.園養寺
写真018.園養寺前
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  草津線が下ってきて、道が少し広くなる。線路を越えた右側(山側)に園養寺が建つ。先ほど常夜灯のところにあった説明板によると、野洲川を渡る人を監視していたとか。








写真019.竹藪の向こう
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 竹藪を通して野洲川を見たところ。ヤブは何とでもなっただろうから、確かに野洲川は見える。園養寺から野洲川を渡る人を監視していたというが、”渡し”はもう少し下流。野洲川という川は大雨が降った時以外は水は少ない川だから、昔の人ならちょっとその気になれば歩いて渡っただろう。監視されるような人がわざわざ正直に寺の前で渡ったとも思えないが。





写真020.園養寺入口
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 踏切を渡る、とは言えない。「鉄道用地内に入らないでください」とある。入りたくはないが通らなければ行けないもので。お寺参りが目的ではないが、”野洲川が見える”というのだから・・・。
 ◆園養寺寸描





写真021.園養寺境内
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  線路を渡るとすぐ境内。

  写真022.三雲古墳
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  立派な石標があって”三雲古墳”とある。確かめてみたい気もするが、こちらの持ち時間も限りがあるので。









写真023.石段を登って
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  地図の上ではもっと長い石段かと覚悟していたが、石段と表現されていた部分の半分ほどが水平な道だった。

  写真024.山門前
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  思ったより楽に山門前到着。作業中の様子。










写真025.本堂
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  本堂。山斜面のちょっとしたテラスに建つ。正面のマークが何と立派な、ちょっと見ない様式である。

  写真026.木のもとに
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 事情は分からないが、芭蕉の句碑が立っていた。なんで「耳」が「に」と読めるのだろう。







写真027.牛馬の労を
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  牛が祀られている。何でこんなところにと思ったが、最澄が牛馬の労を云々のことらしい。

写真028.野洲川が
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  牛馬の労より、こちらは野洲川が見えるかどうかの方が気になる。と、”見えた!”、というほどではないのだが、とにかく木の枝を通して見えた。葉の多い時期だったら見えたかどうか。





写真029.釣鐘堂
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  テラスのような場所だから奥へは伸びられない。境内は横へつながる。釣鐘堂が見える。

  写真030.城山
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  釣鐘堂への途中だったか。水口の城山が見える。そうだわな、川の向こうは水口町だ。見えてもおかしくない場所だ。







写真031.合流点?
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  鐘楼は本堂よりちょっと高くなっていた。それよりも何よりも、鐘楼は本堂に向かって右側に位置していた。いまの場合それで効果があった。野洲川が真ん中向こうの竹藪の背後から流れ出て、右手前に流れ下り(木が邪魔をして見えない、)そこで方向転換して左手前へ流れ下ってくる。太い杉の木の右側から杣川が合流してくるはずだが。




5.合流点
写真032.合流点
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  なんや?、上と同じ写真じゃないか。まあまあそうおっしゃらずに、しっかり見てください。左手から下って来る野洲川に対して、右の方からやってくる杣川が・・・紅葉の上にほんのちょっと。鐘楼の台地の端の端まで行って、身体をぐっと左へ寄せて、やっと耳かきの先のような杣川が見えた。黄葉している葉が落ちつくすとさらにもうちょっと見えやすくなるのだろうが。とにかく分岐点(水の流れから言えば合流点)が見えた。上ってきた甲斐があったというものだった。しかし、見えますかな、杣川が。
 その昔に読んだカメラ雑誌にいわく。撮ったときの苦労話は意味がない。写真はできた作品が勝負。ハイ、よくわかりました。おっしゃる通りで。




写真033.草津線
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  帰り石段を下っているとどこかで電車の音が・・・聞こえているようないないような。それが結構長く続いて、急に驚くような音に変わったと思うと轟音とともに先頭車がが飛び出してきた。谷筋によって音の伝わり方が変わるのだろうが、普段耳にしない音の響きだった。
 ◆園養寺寸描






写真034.さらに南へ
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  園養寺を後にさらに南へ工場や倉庫が立ち並ぶ中を進む。










写真035.市境
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  建物がふと途切れたところで、市町境標が立っている。地図005で”市境”としたところだ。逆光で見にくいが、よく見ると「水口町」とある。さきほど園養寺から城山を見て、川向うは水口町だと感じたが、川のこちらも水口町だったわけだ。などと納得しながらふと反対側を見ると「湖南市」。・・・?、何となくおかしいな。相手が湖南市なら、反対側は「甲賀市」のはず。湖南市には石部町や甲西町の体制が残っていないのに対し、甲賀市では地図001のように水口町・甲南町などの体制が残っているのかもしれない。だから「甲賀市」に換えるよりも「水口町」で残しておく方が現実的なのだろう。




写真035X.合流点付近
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  後日、野洲川・杣川合流点付近へ川原をたどったが、偶蹄類(シカかイノシシか判断できないが)の足跡が見えただけ。考えてみれば当たり前の話。こういう大きな川の合流点は上から見てこそ見えるもの。横から見えるはずはない。左の写真は離れて野洲川の新柏貴橋(合流点上流約900m)から見たものだが、合流する姿はどこにも見えず。せめて園養寺のお堂だけでも見えないかと画面を拡大して探してみたが、それも見えなかった。バックの山は三雲・烏ヶ嶽の裾。園養寺は突き当りの右、竹藪の向こう。上空から見た合流点(カシミール3Dによる作図)。



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