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S03.独立小河川流域

S0302A. 由良谷川をさかのぼる・A

取材:2017.02
初稿UP:2017.09.01


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地図001.由良谷川流域地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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 さて由良谷川である。家棟川の東の流域から流れ出て、旧東海道とJR草津線との間で家棟川に合流している。しかし、つい最近までは旧東海道やJR線はその下をトンネルでぬける天井川であり、何度か折れ曲がりながら市街地の東端をかすめるように流れて甲西橋のたもとで直接野洲川へ流れ出ていた。















1.廃川跡をたどる
地図002.由良谷川流域地図  (国土地理院25000分の1地形図)
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 昭和52(1977)年3月発行の国土地理院地形図である。長く折り曲げたままだったので変色している。タキイ研究農場の東斜面から流れ出て旧東海道をまたぎ、稲妻型に屈曲しながら流れ下る。当時の国道1号(現県道4号)は橋で渡っているが、それまでの広域農道(断続的に未開通部分あり)とJR草津線は川をトンネルでくぐっている。








写真001.河口
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 甲西橋左岸畔の河口である。橋の上流側にクルマが3,4台止められる空き地があり、そこから小道を下るとこの川のふちへ出る。甲西橋へは下流側の甲西大橋を前景とした比良山の撮影ポイントとして、毎年冬になると足を運ぶ場所である。橋の上から見下ろすこの流れには以前から親しんでいた。これがもと由良谷川河口だったところである。板の橋がかかっているのが左の写真の撮影現場。奥の建物は甲西高校の校舎である。いまは後述するように旧東海道近くで、家棟川に合流している。もう1枚、本流への合流点。甲西高校の開校は昭和58(1983)年。上の地図002発行の時点(昭和52年)には学校自体が存在していない。



写真002.上流側
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 上の写真の撮影現場から上流側を見たところ。竹藪のふちを巻くように結構しっかりした流れが見える。由良谷川は中流部で家棟川に合流し下流部は廃川になっていることは当然知っていた。しかし、この河口部ではまだこれぐらいの流れがあるのだと勝手に判断した。しかしそれが間違いであることはすぐに気がついた。由良谷川は甲西高校と市街地の間を野洲川と直角方向に流れ下ってくるはず。この写真でいえば、画面右外から流れ込んでくることになる。いま見えている流れは甲西高校裏を野洲川と並行に流れ下ってくる。これは由良谷川の河口ではない。
 先ほど見た小川の流れも過去にはその河口であった時代があったかもしれないが、現在では由良谷川の河口ではなかったということになる。



写真003.甲西高校前の道
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 甲西高校前を旧由良谷川跡に沿って、県道4号(旧国道1号)に対して直角方向に進む道。道の正面には涅槃像が見える。水が流れていないだけで、川の姿はそのままに残っている。橋は甲西高校正門への道。ガードレールの単純な橋だが、「由良谷川橋」とのネームプレートがついている。橋の上から由良谷川跡(上流側)を見たところ。正面は阿星山。





写真004.甲西高校前
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 由良谷川橋を通して甲西高校の校舎を見る。


  写真005.県道4号に近づく。
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 甲西高校前を過ぎて県道4号(旧国道1号)に近づく。










写真006.振り返る
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 県道4号(旧国道1号)から由良谷川跡地を振り返る。水が流れていないだけで川としてのスペースがそのまま残っている。奥の山は十二坊。








2.旧流路・県道4号
写真007.県道4号
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 県道4号(旧国道1号)に出会う。写真は三雲方面を見たところ。反対、石部側を見る










地図003.旧由良谷川流路跡  (国土地理院Web地図に加筆)
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 河口からここ(県道4号交差)までは、旧流路跡も平地化されてそのままの姿で残されている。左の地図にもいかにも川が流れているかように表記されているが、実情は川はなくてその跡地だけが残っているという状況である。
 県道を越えた後からはその気になって見ると何となく以前川であったらしいと感じられるところや、全くそのあとも見えないところなど、状況はまちまちであるが、何度か屈曲しながら旧東海道由良谷川隧道付近へ達する。
 地図002・003両者比較






写真008.県道を越える
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 県道を渡ると旧流路跡は埋め立てられ姿を消す。(県道4号の上流側)。


  写真009.埋め立て跡を行く
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 平地より一段高い埋め立て跡を行く。県道から100mほど進んだところで道は左へ曲がり勾配を下りだす。この時点ではまだ涅槃像は正面に見えている。







写真010.旧河道堤防を下る
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 下り勾配の途中から平地を見たところである。涅槃像は右へ移動し視界から消える。途端に旧流路が分かりにくくなる。うっかり見ていると再び右へカーブする道(道端に荷物が置いてある道・草津線と直交している)が旧河道のように見える。しかし、地図004Aによれば、最初の左カーブでもう少し大回りしながら、左の写真の十字路(地図004AのA点)あたりで、ごみの道と直角に交わる農道につながる(JR草津線と平行になる)。一言でいえば、旧河道は上の写真で左外へ向かう。




地図004A.由良谷川旧河道  (GoogleMap航空写真に加筆)
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 白い破線が旧河道。A点が最初の左カーブを直角方向まで曲がり切ったところで、草津線と平行になっている。次に曲がるのはB点、草津線のトンネルに向かう位置である。このあたりのことは国土地理院のWeb地図にも明示されていないし、GoogleMapにも明記されていない。航空写真に切り替えるとその表記が見える。
 この点では、現状の記録の方が大事だと考えられるから、ナマの航空写真との対比を示すこととする。  地図004(航空写真オリジナル)・004A両者比較








写真011.B点
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 B点。A点から草津線と平行に200mほど移動したところである。画面右外からやってきたのがその農道。河道はもちろん堤防、ここで再び右へ90度カーブして、草津線と直角方向に進んでいた(再び涅槃像が正面に見えてくる)。正面の工事現場が草津線トンネル跡。草津線電車が田んぼに沈み込んでいる。




3.草津線トンネル
写真012.草津線トンネル
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 この写真の撮影は2014年1月16日。撮影場所は上の写真011の草津線を越えた向かう側。草津線と旧東海道の間を走る広域農道から撮ったものである。当時は、トンネル遺構としてよりも、三上山の風景の添景物と捉えていたので、必然的にこのアングルとなった。天井川そのものは姿を消し、トンネルといえるのかどうか、草津線を川が橋で渡るイメージの遺構が残ってた。それまで石部・三雲間で草津線が何本かの天井川の下をくぐることは知ってはいたし、旧東海道をクルマで走ったこともあったが、天井川のトンネルを実際に見て回ることはしていなかった。このとき、ふと思いついて広域農道を走ったのが最初だった。目的もあくまで三上山の撮影だった。だから撮影方向も三上山をバックにしたものに限られる。




写真013.草津線トンネル
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 もう少し右へ寄った。三上山は遺構の右へ。221系が台車の部分を沈ませて通り過ぎる。上流から流れてくる水位、これを上げることは不可能。その下を電車を通すためには、電車そのものを下げるしか方法はなかったのだろう。もう1枚。パンタグラフを限界ぎりぎりまで下げて通過する113系青大将。




写真014.撤去後
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 2014年12月30日。ふと思いついて、あのあとはどうなったかと尋ねてみた。遺構はきれいさっぱりなくなっていた。残っていたのはちょっとしたプラットフォーム様のレンガ土台と橋の前後を抑えていたトラス様の梁だけだった。






写真015.ブロック小屋
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 手前の支柱2本が川の前後を抑えていたものである。その間の線路沿いの構造物が川の土台。すなわちこのトラス上の梁の間を川が橋で越えていた勘定になる。そしてここでこの位置を示す貴重な生き証人を一つ。ネットが切れたその向こうにブロック造りの小屋が見える。何のためのものかよくわからないが、いまとなればこれが唯一の場所のアリバイになる。





写真016.E点から
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 さてここで上の地図004AのE点へ移動する。山間から流れ出た流路が旧東海道を越えて右へカーブしてきたところである。付近を歩いてい見るとカーブの内側と思しき小道が工場の壁沿いに見える。それから考えるとこの道はカーブの外側だったかとも考えられるが、草津線のトンネル遺構から見ると、ここが中心より若干内側へ入っていたところかとも考えられる。(下の地図005参照)。
 視点は、上流から下流を向くわけであり、前方の視界は180度転換して十二坊が正面に回ってくる。左、甲西高校の校舎の手前、線路ぎわにブロック造りの小屋が見える。もうちょっと進んでガードレールの切れ目あたりから見たところ。前のT字路が広域農道。左端、高い電柱の左にブロック小屋。




写真017.広域農道交差
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 広域農道に出会ったところである。T字路のようでもあり、十字路のようでもある。渡り切った向こうは狭い農道。このときは通行止めになっていた。道の向こうの赤いブロックのタンク様のものは、農業用水の調整池か何かかと思うがよくはわからない。石部から吉永まで一定間隔で設置されている。このときは何か工事が行われていて、現場事務所風の建物が設置されている。





写真018.農道通行止め
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 渡り切って通行止めの農道の前に立つ。画面左端ぎりぎりに例のブロック小屋が見える。線路わきにネットが張られており、新しい電柱がひときわ高い(道路沿い、トランスを積んだ黒い電柱ではない)。写真015に見えるトラス状梁がついた電柱はない。それが2本撤去されて背の高い1本に置き合えられたとしたら、常識では撤去された2本の中間に新しいのが立てられるはず。それがとりもなおさず旧由良谷川堤防の中心点ということになるのだが。




写真019.青大将通過
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 青大将がやってきた。由良谷川の下をくぐっていたころ台車が田んぼの面に隠れるほど沈み込んだ軌道上をパンタグラフを限界いっぱいまで下げこんで通過していた。いま、架線は改修されたが、軌道はそのまま、ぐっと沈み込んで通過していく。もう1枚








地図005.草津線トンネル跡  (GoogleMap航空写真に加筆)
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 以上のようなことをもとに、もう一度航空写真を見直してみると、写真015に見えるプラットフォーム状の土台が写っている(白い矢印で示す。=状に線路を挟んでいる。赤い矢印が例のブロック小屋)。これをベースに左図のように改めて線を引きなおして見た。川そのものは草津線以前からあったはずだし、それと川とがきっちり直交していたとも思えない。また図のCDE間が必ずしも直線であたっとも思えないが、もしそうであったらこの状態であっただろうという想像図である。






4.広域農道
写真020.平松橋から
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 さて、改めて家棟川分岐から新由良谷川を遡る。平松橋から上流を見たところ。正面にホトケさんの顔。


  写真021.分岐
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 何度も書いたが、さかのぼる立場から見て分岐である。実際は画面左から由良谷川が合流してくる。









写真022.管理橋・竜頭橋
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 すぐに橋が2つ見えてくる。手前が管理橋。上の写真021にもその一部が見えていた。何の管理をするのかは分からない。予算が余ったからもう1つ造っておこうかというようにしか見えない。自転車道が渡っていた。







写真023.管理橋から下流を
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 管理橋から下流を見たところ。すぐ目の前が合流点。その向こうが家棟川の平松橋。左上、うんと遠くに菩提寺山とそれに重なる三上山が見える。「由良谷川」の標識。名無し橋で苦労した者にとってはなんともあり難い。







写真024.竜頭橋
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 竜頭橋から上流の「みまつ橋」を見る。この間、ほぼ30m間隔で3つの橋がかかっている勘定。どう考えても不思議。なんでやろね。








写真025.みまつ橋
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 草津線甲西駅の山側(野洲川の反対側という意味だけど)ロータリーから伸びてくる幹線道路。といっても旧東海道を越えて少し行ったところで狭い道路につながる。将来的には伸びていくのだろうが、今のところはたかだか500mあまりの道路。







写真026.何だろう
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 素人には意味が分からない構造物。みまつ橋の下流にあった。橋の上から単純に撮っただけなので、立体感もなく余計に訳が分からなくなっている。重機などを河床に下すスロープだろうか。それなら、さして広くもない川だから、片側にだけあれば用は足りるはずだし。川の流れは奥が上流。





写真027.針中央橋
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 欄干は、縦に細い筋が並ぶ。ちょっと規格が違う橋である。市街地ほうを見ると平和堂の看板が見える。県道4号(旧国道1号)針交差点からまっすぐにやってきた道だ。その昔、美松台住宅地へ行くのに利用していた道。ここを通っていたわけだ。同じトレースするにも、道と川とでは全くイメージが違う。
 この橋の親柱。針中央橋を見てびっくりした。これは違うぞ。左の写真は最初に挙げたように縦に細い線が続いている。ところがいまの親柱に続く欄干にはそれがない。何か間違っているぞ。これは念押しをしなければ・・・。もう一度写真を見直してみた。平和堂の看板が見える写真。左側の欄干は縦の細い線、親柱に続く右側は横線の太いやつ。左右で欄干の種類が違っていたのである。(写真027そのものでも、よく見ると手前と向こう側とでは欄干のデザインが異なる)。こんなけったいな橋あるか?。勝手にせい!。




写真028.仲之道橋近づく
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 右岸を行く。仲之道橋が近づいてくる。その向こうのなすびをタテに切って置いたようなイメージだが、三雲の烏が岳である。これも何となく涅槃像に見える。左の小さいのが顔に当たり、右のでかいのが腹に当たる。ビール腹である。







写真029.仲之道橋
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 仲之道橋。下流側を見たところ。遠くの橋は先ほどの針中央橋。この間100m。











写真030.上流側
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 上流側。川はわずかに右に振るため、三雲・烏ヶ岳の涅槃像の頭は見えなくなりビール腹だけが左に見える。右手前の山は飯道山の前山。
 堤防の様子が今までと異なる。この写真の中心部を拡大すると旧河道跡が見えてくる。拡大画面右端、陰になって見にくいが旧東海道隧道が見える。絶対的な旧河道のアリバイである。右端の民家の屋根の上に天井川堤防の線が見え、そこから左の白い砂山まで続いているのが見える。そこから旧河道は(下流に向かって)右へカーブして分かれていく。と考えてみると、このあたりの堤防は新しく作られたところで未完成なのだろうか。




写真031.こののり面は
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 対岸ののり面。素人にはその意味が読めない。石が何かで埋め込まれている。砂なのか、土に何かが生えているのか、細部は分からない。
 対岸の向こうに阿星山の涅槃像が見える。







5.新旧河道出会い
写真032.澤橋下流側
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 「澤橋」に至る。新しくつけられた旧東海道の橋から数えて、すぐ下流の橋である。下流に向いて真正面に菩提寺山と三上山のコンビが見える。


  写真033.上流側
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 新河道、左端が旧河道堤防跡。民家の右、白い山に見える部分が現段階での旧河道の末端である。









写真034.上流側
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 左岸へ寄って旧河道の部分を見たところ。旧河道はその左に見える新しい2軒の民家の手前あたりを流れていたのだろうと想定できる。もし、いま旧堤防が存在していたら2階の窓からすぐそこに堤防が見えた計算になるのだろう。







写真035.旧河道のカーブの内側
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 旧河道のカーブの内側、これが難題である。左側は地図005に大和川紙工滋賀工場とある。これは地図002.由良谷川流域地図(国土地理院25000分の1地形図)にも記載されている。道の状態、右側の畑の様子などから想像して、これが旧堤防跡だと思われるのだが、地図から想定する旧河道の中心から考えるとどうも広すぎる気がする。おそらく難所だったろうから、何度も補強されて幅が広くなっていたと考えられはするが。




写真036.上流へ
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 同じような状態が続く。逆光で見にくいが、旧河道を横切る方向に工場風の建物が建っている。これは地図004A.由良谷川旧河道に見える。旧堤防が撤去された後に建ったと考えれば不思議ではないが、それにしてもその建ち方が不自然である。
 そのまま進むと、左からやって来た舗装道路に出る。この舗装道路は旧河道が現役時代からのものであろう。




写真037.舗装道路
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 上で見えていた舗装道路に出たところ。木が生えているのが旧堤防の末端である。


  写真038.上流へ
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 道路は旧堤防に並行する。









写真039.旧堤防末端
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 上の写真で右の広場へ回り込む。旧堤防の末端が見える。

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  写真040.旧堤防末端

 末端を回り込んで新由良谷川の方へ回り込んだところ。もう1枚。堤防の外側・舗装道路側が見える。




写真041.旧東海道に近づく
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 旧堤防末端を新由良谷川右岸から見る。画面右端に新しい由良谷川に架かる東海道の橋とそれに続く隧道が見える。


  写真042.旧東海道
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 新しく架けられた旧東海道の橋。左の陰に隧道が見える。右石部・草津。左水口。











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