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S02.落合川流域

S0202B. 広野川をさかのぼる・B

取材:2017.01
初稿UP:2017.04.05


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地図002B.落合川流域地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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 広野川もほとんど終わり、すぐそこが長寿寺というところである。左の地図で、川の先端近くで末梢血管のように左へ分岐していく赤い川である。実はこの川については、地図を見ている段階では大して意味はなかろうと無視するつもりでいた。ところが、ふとしたことから、集落内に「明治42年 54号指定」という”土石流危険区域”の標示を見た。川の名称ははっきり読めなかったが、どうやら、「広野川支流」と読める。そんなことで、大した距離でもなさそうだしということで歩いてみることにしたのである。
 歩いてみて驚いた。その流路の勾配の大きさ、その先にそびえたつ砂防ダム。その流路から見える三上山の風景。慌てて、別項を設定することにしたという次第。







地図006.A川流域地図  (GoogleMapに加筆)
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 「分岐B2」と表記した場所が、写真051の「T字分岐」。そこから棚田を横切って「農道橋」に至るまでについて、写真051〜054でレポートしている。次の写真055が地図の「勧請吊広場」から「農道橋」を見たところである。その農道橋のたもとで「A川」と別れ集落のメイン道路沿いに出る細いB川がある。





5.分岐B2から源流まで
写真051.T字分岐
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 写真には見えないが、竹藪沿いの流れが広野川。左上の棚田ののり面から勾配が読める。もちろん広野川の流れは右上から棚田を下るように流れ落ちてくる。それに対してもう1本の川(A川)が棚田を横切るような形で左からT字型に合流してくる。







写真052.分岐した川
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 分岐した川を、分岐点から上流向きに見たところである。段々畑を横切る形で流れているのだが、それでも随分急な勾配である。下から上を見ているわけで、左上にある家屋を例に勾配を感じてもらうしかない。






写真053.上流側から
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 橋へ戻って同じ川を上流から見たところ。勾配を感じてもらえるかどうか。右手前の小さな水門とハシゴが、上の写真の左上に写っている。その部分をアップしたところ。








写真054.上流側
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 上の写真は棚田の中央農道から下流側を見たところ。この写真は同じ橋の上から回れ右をして上流側を見たところ。普通の川とは思えない落差。滝である。左上の民家のブロック塀が写真052の上端に写っている。その部分を拡大







写真055.A川の名は
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 地図の「勧請吊広場」から農道橋に向かってA川がまっすぐに流れ下っていくところである。写真で見ると特別何も感じないが、下から見上げると写真054に見るように増水時にはさぞやとと思わせる勾配である。実はこの川は、先ほどの分岐からここまでで終わりにしようと考えていた。ところが本気になって地図を読んでみると、前項の広野川よりはこの川の方が奥が深いのである。その状況はこのあとレポートしていくが、そうなってくると問題はこの川の名称である。地図では仮に「A川」としているが、全く手掛かりがない。




写真056.上流側
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 それで悩んでいるときに妙な場所で”土石流危険区域”標識が見つかったのである。勧請吊広場から坂道を100mほど下ったところで、ご覧のように、まともに読めるのは「危険」の2文字だけだけれど、その気になって見れば、「広野川支流」と読めないこともない。だとしたら、「広野川支流」とはどの川を指すのか。すぐに思いつくのが「A川」である。しかしその標識の場所がどう考えてもとんちんかんなのである。




写真057.明治42年54号指定
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 あれこれしているうちにその標識の後ろ、民家の壁沿いに幅1mちょっとの小川が流れているのに気がついた。一見溝にも見えるが、流れは溝ではない。これは撮っておかなければと標識に近寄った。撮った時には気がつかなかったか、帰って子細に見てみると、脚の部分に「明治42年 54号指定」とある。?・・・・、これは「A川」の話ではない。A川はそんなに古いものではない。おそらくここ10年か、なんぼ古くても20年ぐらいのものだろう。このA川がなかったときの水路がこのB川だったのだろう。その川に関する今の”土石流危険区域”に相当するものに指定されたのが、明治42年だったのだろう。もちろんそのころにいまのA川はないから、「広野川支流」は、この裏を流れるB川そのものだったのだろう。
 しかし、いまは明治ではない。この溝と間違うような川が「広野川支流」であるはずはない。A川が第2広野川支流の座についたと考えるのが妥当なところだろうけれど、それを裏付けるものが何もない。場合によってはこのA川も「広野川」なのかもしれない。どちらでもいいのだが、レポートを書く立場からすると、はっきりした名前がないと何んとも書きにくい。ひょっとしたらこのあと何かのときにそれが分かるかもしれないが、それまではとりあえずA川のまま行くしか他に方法がはい。




地図007.A川流域地図  (GoogleMapに加筆)
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 勧請吊広場から上流の砂防ダムトップまで。図中の番号は当該写真番号。















6.勧請吊広場から砂防ダムまで
写真058.上流へ
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 A川が勧請吊広場の下を暗渠でくぐって上流側へ出て来たところである。このあと攻守立場を替えて、向かい側の柵の外から上流側を見たのが左の写真である。相変わらず大きな落差工が続く。同じ場所から段々畑の方を見たところだが、全く段々畑に見えないのだから難儀なものである。





写真059.さらに上流へ
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 上の写真奥に見える暗渠をくぐったところから上流を見たところ。川は柵の左側を流れ下ってくる。落差工がある。大げさな言い方をすれば、これが次から次へと現れる。だから明治時代にすでに”土石流危険区域”に指定されていたのであろう。







写真060.振り向いて
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 振り向いて驚いた。ほんの2,3分歩いただけなのに、集落が下に沈んで、三上山がグーンと伸び上がって見えた。そういえば、勧請吊広場から見たとき風景を塞いでいた工場も屋根の一部が見えるだけになっている。







写真061.細い川合流
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 竹藪が終わって川の向こうが民家の石垣になる。石垣の上端の線が水平のはずだから、川の勾配のほどが見て取れる。手すりの柵が右上に消えるところに白いガードレールが見える。これが川と直角に走る道。流れは2つに分かれる(実際は合流)。左から細い流れが合流してくる。目にした限りでは水は流れていないように見て取れるが、これが一旦ことが起これば、これぐらいの対策が必要だということなのだろう。
 さて、A川は右上へ上って道をくぐる。




写真062.棚田
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 道に上りついて、イノシシ除けのネット越しにその上の棚田を見たところ。一番上の日の当たっているところは池のはず。ここら辺りのネットには鍵がかかっていて、よそ者には勝手に通れない。直接上れないので、裏から遠回りをしてみたが、池の一部が見えただけで手の出しようがなかった。





写真063.上流側
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 道を渡った上流側。再び現れた竹やぶに沿って左へ大きなカーブを描きながら急勾配を上っていく。川の底には小石が並べられており(もちろんコンクリートで固められている)、水に対する抵抗を大きくしているのだろう。







写真064.古民家を見上げる
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 ほんのわずか進んだだけだが、雲の動きが早く風景が変わる。古い民家が近寄ってきて、トタン屋根を見上げる形になる。上の写真にも竹の葉と重なって見えていたのだが、存在感はなかったもの。小石の河床をもう1枚。







写真065.落差工
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 1mを超す落差工である。上を竹が覆っていて、なんとなくここらで突き当りとの感が強くなる。引き返そうとしたとき、草付きの斜面にステップが切ってあるのに気がついて、そこを上ってみた。







写真066.三上山 
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 その斜面は、身長よりは高かったから2mぐらいだったろうか。先ほどの民家の向こうに三上山が見えた。左へ左へと回り込んだから、見える見えないよりも、存在そのものを忘れていたのだが、それが古民家と並んで見える。思っても見ない風景だった。







写真067.林道
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 ちょっとした空き地を抜けると驚いたことに舗装道路が現れた。立派な林道である。すぐ手前の道は左へ曲がっていくが、そこからまだまっすぐ続く道が見える。引き返すどころの騒ぎではない。
 あとで分かったことだが、この舗装道路は長寿寺の前を通って阿星山へ入る林道だった。この道を途中まで入ったところに駐車場があり、そこから登山道が頂上まで続いていた。1997年というからもう20年も前の話だが、『近江富士遊々』の取材で2,3度上ったことがある。いまはこの写真067を左へ曲がったところで通行止めになっている。豪雨被害で道路崩壊によるという。



写真068.さらに上へ
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 林道を進む。左への別れまで上って振り返ると、先ほどの古民家が小さく離れて、逆に三上山が伸び上がっている。こんなところにこんな風景があったとは。まさに驚き。A川を歩かなければ一生見ずに終わったであろう風景である。







写真069.砂防ダム
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 巨大な砂防ダム。写真067で林道が左へ分かれているあたりから見た上流側。この構造物はどう表現すればいいのか。まるで要塞。なるほど下流も勾配は大きい。しかしそれを知っていたとしてもこの構造物の巨大さは想像できなかった。







写真070.流木捕捉工
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 何だろう、この巨大な三角形は。どこだったか、思川支流で見たような気がするが。これもオモチャのように写ってしまう。それはいいとして、とにかく正体を突き止めなければ。「砂防堰堤の下流に立つ、鉄製の三角形構造物」で検索してみた。これでちゃんと教えてくれるのだから、人間アホになる。「流木捕捉工」だという。なるほど・・・でも、タテに通り抜けたら?。実際にはいろいろな型があって、これなどは一番単純なもののようだ。いやいや勉強になりました。



写真071.堰堤直下
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 堰堤の半ばまでたどり着いた。普通の林道の上りだから、別に大した歩きではないのだが、そこから見上げるとまさに堰堤直下に立っているように感じる。林道はここまでで、あとはハイキングコースに見るような木の階段が堰堤のトップまで直登している。勾配はエスカレーターぐらい。上ってみても向こう側の砂地が見えるぐらいだけど、と、だいぶ思案したが、ここまで来たのだから登っておこう。やらなければ後で後悔する。上りついたところで道は終わっていた。  



写真072.ダムの風景
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 見えたのはお定まり、砂防ダムの風景だった。まあしかし、これに文句を言ってはいけない。とにかくこの堰堤自体がすごい迫力だった。









写真073.三上山
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 と、後ろを振り向て、オッ・・・これは。遥かなる谷筋の向こうに三上山が見えた。歩き出してから今のいままで三上山のことは忘れていた。というより見えるはずはないと思い込んでいた。それが見えたのである。世の中に神さんはいる、そんな思いだった。こんな狭い谷筋から見えたのは桑實寺以来二度目かな。桑實寺には電線があった。ここはそれもない。広い風景をもう1枚。別の日に撮影した明るい谷筋をどうぞ。





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