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S01.宮川流域

S0102A.五軒茶屋越え・A

取材:2016.11・12
初稿UP:2017.01.22


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地図012.名神野洲川橋付近地図  (マピオン地図に加筆)
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 野洲川沿いで栗東市と湖南市との市境は、農業用水の分岐点から500mほど下流の名神高速道路あたりである。その上に非常に複雑な絡み方をしており、国土地理院のWeb地図で見てもよくわからない。いろいろ地図を見比べてみて、一番わかりやすかったのがマピオン地図だった。その地図を拝借して加筆したのが上の地図である。もっとも”分かりやすい”ということと、”正確である”ということとは同じではないが、仮に正確であったとしても、分かりにくければ地図としての価値は半減する。
 その市境、名神の道路に絡んで、あっちへ行ったりこっちへ来たり。まさかそのたんびに市境の標識は立っていないとは思うけれど、もし立っていたとしたらドライバーが目を回すのではないか。あれはどこだったか、岐阜県と富山県との県境で、飛越峡合掌ライン(国道156号)が橋を渡るたびに富山県と岐阜県を行ったり来たりするところがある。あれは庄川が県境になっており意味はわかるが、こちらはそういうものは一切ない。ひょっとしたら小川ぐらいはあったかもしれないが、昔の畦道を境にしたのではないかと思えるような場所である。たかだか5、600mほどの間に市名が5回変わるのである。こんなややこしい話はない。
 野洲川の左岸を走る国道1号から500mほどの地点を最後に市境は名神から離れていく。ここらまで来るとちょっとした小山があり市境としての形は整っては来る。すごい名人芸だ。無調音楽から音を探りだして調性音楽に持って行くようなものだ。結局は逆算なのだろう。どこか分水嶺であることがはっきりした山の中、たとえば阿星山あたりから北東へ向かう分水嶺をたどる。あとで詳しくレポートするが県道113号とクロスするあたりで多少政治的なものもありそうだが、結果的に市境は分水嶺をたどる。そうして下ってきたところがここだったというわけ。そして最後の最後に来て、世の中にはいわく言い難い話があって、その結果がこの迷走市境となったのではないか。  



1.五軒茶屋のこと
地図006.五軒茶屋橋  (国土地理院Web地図に加筆)
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 前項「宮川をさかのぼる」で触れたように石部宿からほんの少し草津寄り、現在の1号バイパスの少し上流、旧東海道沿いに、「五軒茶屋橋」という橋がある。歩いていて、この橋の名を見つけたときは嬉しかった。旧東海道沿いにお休みどころが5軒並んでいたのだろう。古き良き時代の地名である。
 余談だが、私宅の住所は「三上」であるが、自治会名は「四家(ヨツヤ)」というややこしいところである。地区の真ん中を旧中山道が通っている。『近江輿地志略』に、「四家村」として、・・・往古はこの辺郊原田畑にて僅かに往還のみあり。其時こゝに民家たゞ四軒ありて旅人に茶をうれり、因って四家と号するといふ。実にこの如き類多し。・・・とある。中山道沿いに四軒の茶店があって「四家」の地名になったという。それならば東海道に「五軒茶屋」があってもおかしくはない。が、柳の下にドジョウはいなかった。『近江輿地志略』を調べてみたが、どこにも記載されておらず。いまの地図にはどこを探しても「五軒茶屋」という地名はない。「五軒茶屋橋」という橋がある。しかし地名はない。どう考えても不思議な話ではある。




地図013.五軒茶屋ランプ (マピオン地図に加筆)
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 どこを探しても見つからない「五軒茶屋」という地名が、あっと驚くところで見つかったのである。新しく開通した1号バイパスに「五軒茶屋ランプ」なる表記がある。左の地図でバイパスと名神が接近するあたり。何でこんな山の中に出入口がと思うようなところである。しかも上り下りどちらに行ってもすぐに石部ランプがあり、小野ランプがあるところにである。
 そして何よりも道路企画者が困ったはずである。オイ、このランプの名前はどうする。まさか山の中ランプでもあるまいし。そして探し当てたのが、もうその名称自体が消えかかっている「五軒茶屋」。エエ名やな。ヨシ、これで行こう。そんな状況が目に浮かんでくる。




地図014.五軒茶屋 (国土地理院25000分の1地形図)
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 どこを探しても見つからないなどと大口をたたいたが、エエ加減なことを言うものではない。その気になって探せばあれこれと出てきた。「五軒茶屋」という地名そのものが。それも平成11(1999)年4月発行の2万5000分の1地形図というのだから、そんなに古いものではない。石部宿から旧東海道を草津に向かうとき、1号バイパスの手前で五軒茶屋橋を渡り、600mほど山の中へ入ったところである。まさに上で述べた「山の中」ランプの近く。「五軒茶屋ランプ」とはいみじくも名付けたりというところ。しかしこの地名は平成17年では消えている。両者比較。ちなみに5万分の1では、平成9(1997)年発行では記載され、同20(2008)年では消えている。いずれにしてもこの名前が消えたのはそんなに古い話ではない。(地図と年号の比較は、私の手元にあるものを調べてのことである。さらに細かく調べれば、何年に消えたと特定できるかもしれないが。)




地図015.五軒茶屋 (『今昔東海道独案内』掲載・国土地理院25000分の1地形図)
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 左の地図は、次に述べる『今昔東海道独案内』に掲載されている地図の当該部分である。このあたりでは名神高速道路の開通が1963(38年)年、本の発行が1974(昭和49)年であるから、1970年前後の地図ではないかと考えられる。言うまでもなく「五軒茶屋」の地名はある。この地図を見てもらったのは、地名もさることながら、「ロ」の字型の中の地形である。この地図では言うまでもなく自然に近い。その後40数年、上の2枚と比べると、その変化の大きさに驚く。



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 さて、『今昔東海道独案内』である。今井金吾著/1974(昭和49)年・日本交通公社出版事業局発行。「今昔」とあるように古くは1600年代からの参考文献を駆使して街道の今昔をまとめている。「独案内」というタイトルに牽かれて買った本だが、出版当時の「今」はすでに昔、いまを生きる我々にとってはこの本自体がすでに街道案内の古典というべき本である。
 この本に次のようにある。なお文中[改元]とあるのは『改元紀行』。以下、[大全]→『伊勢参宮細見大全』、[巡覧記]→『東海道巡覧記』、[図会]→『東海道名所図会』を示す。

 ・・・「山の前に川あり。橋を渡りて山の間を行き、松の並木ある所に出ず」と[改元]にある通り、小さな川を渡ってすぐ、左に入る小道が昔の東海道。続けて「是本街道にして、八十年あまり以来開けし道なり。橋を渡らず山を左にして川を右にして行くは、野道とて脇道なり。人夫などこの脇道を便として、多くはこの脇道を行くものあり」[改元]とある。この本街道に入るとしばらくは農家が点在し、やがては山間の道となる。そして名神高速道路をくぐってすぐ右に曲がり、草津線の手前でまた左に曲がって「金山村」[巡覧記]に出るのである。
 ところで[改元]にいう、川を右にしていく脇道のことを[大全]では、「右山下近道有。街道の右を横田川流る。末にて野洲川と成。其近道は昔の本街道也。然るに横田川満水のとき通り難き事有しより七十年来、左の方の道開たり。下道八丁近し。」と説明しており、[図会]ではこの本街道を「上道」、右の横田川沿いの道を「下道」と名付けている。・・・・

 実はこの文章、東海道の石部宿から草津宿へ向かうとき、いまの状況でいうと1号バイパスの少し手前、五軒茶屋橋からから名神を越えるあたりまでの間、草津線沿いの道であるが、この間だけはおよそ旧街道としての風情はない。そのエリアが採石場に当たるということや、鉄道沿いということが影響したのかと思っていたが、どうもそういうことではないらしい。これは旧街道の”脇道”だったのだという。




五軒茶屋道と古道
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 そうして、だんだん様子が分かってきた。こういう取材は1回では終わらない。必ず撮り忘れもあるし、知らなかったことが分かってきて、その写真をもう1枚ということもある。その2回目の取材のとき、あったのである。五軒茶屋橋のたもとに。左の写真、「五軒茶屋道と古道」の標示が。
 せっかくの表示であるが、西縄手公園にあったのと同じステンレス製で光って読みにくい。こういう遊びをやっていろいろな表示物に出会うが、基本はまず反射しない材質であること、これを第一としてほしい。写真は拡大しても読みにくいので、念のためその内容をここに挙げておく。

・・・・ 天和2年(1682)8月出岩地先で大洪水により東海道が流出して河原となる。天和3年4月18日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約2倍の2キロメートルの距離となった。
 新道が山の中を通過するために安全を願って元禄2年(1685)五軒の茶屋が石部宿より移転することになりました。
 明治4年(1871)には新道の距離が長いために旧道が整備されていままでの東海道が復元された。・・・・とある。
 *八田注:文中、元禄2年(1685)とあるが、元禄2年は西暦1689年、1685年は貞享2年である。話の流れとして五軒茶屋の移転は1685年(貞享2年)であろう。(日本文化総合年表による)。なお、元禄2年は松尾芭蕉・奥の細道の旅の年。いずれにしてもそのころの話である。




地図016.甲賀坂 (国土地理院Web地図に加筆)
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  上の話で野洲川が氾濫を起こした「出岩地先」というのが分かりにくいが、おそらく左の地図で「狭隘部」としてある部分、JR草津線や国道1号などが、ぐっと野洲川へ張り出して川幅が狭くなったところだろうと推定できる。

 ちょっとも話が進まない。どうせ進まないのなら、ついでに、そういえばそんな話もあったなー・・・という余談である。
 北周り大山川流域のところで仕入れた話であるが、いまのハイウエーサイドタウンから希望が丘南ゲートへのアプローチを古くは「甲賀坂」と呼ばれ、中山道の前身である東山道がここを通っていたのだという。『鈴木儀平の菩提寺歴史散歩』によればそのころ(中山道の前身・東山道のころ)はいまの野洲・守山あたり(いまのテーマの石部あたりより下流に当たる)では、野洲川は湿地が多く徒渉には困難をきたし、瀬田から丘陵地伝いに今の伊勢落あたりへ達したあと、野洲川を渡り菩提寺村を抜けて甲賀坂を経て希望が丘南ゲート辺りを経て近江八幡へと向かっていたという。
 時代も違えば、地域も違う、しかし相手は野洲川、なんとなく似たような話だなと思う。



2.五軒茶屋道
写真101.宮川沿いを行く
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 石部宿から草津に向かって旧東海道を行く。左が宮川、右はちょっとした空地を挟んで草津線・国道1号、その向こうが野洲川である。道を行く白い軽自動車の左に五軒茶屋橋。光線の加減で陰になり分かりにくいが、左へ向かって上り勾配になっているのが見える。遠くに見える高架橋が1号バイパス。






写真102.五軒茶屋橋
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 旧東海道を横切って草津線との間の空き地から五軒茶屋橋を見たところ。『今昔東海道独案内』で、”小さな川を渡ってすぐ、左に入る小道が昔の東海道”とあるところである。対岸の建物と見比べて橋自体が上り勾配であることがよく分かる。もう1枚。クルマが走っているのが旧東海道。五軒茶屋橋とそれに続く上り勾配。橋の左手前の細いポールに重なって見える金色のボードが、上述の「五軒茶屋道と古道」の案内板。表面がピカピカ光って読みにくいこともさることながら、立ち止まって読むことすらはばかられるその場所。もうちょっと考えられなかったか。




写真103.五軒茶屋への道
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 橋を渡って五軒茶屋へ向かう。右が(株)ゴーシューの社屋。『今昔東海道独案内』で、”この本街道に入るとしばらくは農家が点在し、やがては山間の道となる”というところである。もちろん民家は見当たらない。
 1600年代末から約200年間、この道が本街道だった。それに対して「川を右に見ていくは脇道なり」という。この川は横田川(野洲川)のことで、いまの国道1号や草津線はなかったから、「川を右に見ていく」ということになったのであろう。




写真104.上り勾配 
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 道はずーっと上り勾配。もちろん写真では表現できない。ゴーシューのフェンスが少しずつせり上がっていく。もう1枚

  写真105.右へ曲がる
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 ゴーシューの敷地を過ぎ右へカーブ。ところどころに民家が見える。地図に「五軒茶屋」の文字が見えるあたりかと考えられる。






写真106.曲がり切る
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 右へ曲がり切ったところ。畑の向こうに1号バイパスが見え、その向こうに白い煙突を持つ建物が現れる。あとで栗東市環境センターの建物とわかるが、これ位置確認のポイントになる。









写真107.静かなたたずまい
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 何となく旧街道を思わすたたずまい。不満があるといえば、旧街道特有の、あのえもいわれぬカーブが見えないこと。長年積み上げて来た旧街道と、災害対策工事で一気に造り挙げたルートとの違いなのだろうか。もう1枚







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