top

N07.野洲川源流域

N0701A. 野洲川源流を遡る/南土山→鮎河

取 材 日:2016.07
初稿UP:2016.08.15


前 項 次 項 中トビラへ


地図710.平子峠付近地図(国土地理院Web地図に加筆)
写真拡大

 前項の「頓宮越え」及び「笹尾峠」を大日川流域とすると、県境の御在所山までで野洲川流域から他の河川流域への峠道は、残すところ土山町大河原から日野町平子へ抜ける平子峠のみということになる。本稿では少し長くなるが、国道1号「土山支所前」交差点から県道9号沿いに青土ダム経由で土山町鮎河へ入り、そこから大河原へ、さらには国道477号沿いに平子峠を越え日野町蔵王の蔵王ダムまでをレポートする。








1. 国道1号から青瀬橋まで
写真701.平成万人灯
写真拡大

 国道1号「土山支所前」交差点にある平成万人灯である。交差点名、以前は「土山町役場前」だったけれども、例の合併で訳の分からない名前になった。
 ここをスタートとする県道9号は、すぐ上りになってちょっとした峠を越える。そして水月、和草野、平子などの集落を抜けて青瀬橋へ至る。と書いたが、これはバス停の名称を列挙したことで、実際の集落は少し西の野洲川沿い、かつての御代参街道沿いにある。
 それともう一つ、普通なら知らん顔をして通り過ぎればいいのだが、今回ばかりはそういうわけにはいかないことがある。実はこのレポートの標題が「平子峠」である。これを見て、”ああ、この近くの峠か”と思われると困る。実は平子峠の「平子」は、日野町・蔵王ダムの近くの集落である。
 実は、御代参街道を歩いた時にこんな道しるべを見た。「青土」はダムがあるのでわかるけれども、平子・音羽が分からなかった。いろいろ探しあぐねて、日野町の国道477号沿いにある平子・音羽を思いだした。しかしこんなちっぽけな道しるべにしては遠すぎる。不思議だった。いずれにしてもここでいうバス停の「平子」は、「平子峠」の平子ではない。




写真702.三上山?
写真拡大

 写真だけ見ると三上山だと思われるかもしれない。実はこの山、土山町平子にある山で名称はわからないが標高390m。その昔、『四季近江富士』を出版した後、一時期「野洲川渓谷」を集中的に撮っていたことがある。全山紅葉するこの山を見て(もうちょっと左から見ると全山紅葉するように見える)すごいなと見とれた記憶がある。御代参街道からもよく見えた。御代参街道の意味を知ってもらうために案内板を挙げたが、もうちょっと山を左へ置いておけばよかったと後悔している。で、案内板のない裸の姿をどうぞ。同じく御代参街道から。



写真703.妙楽寺
写真拡大

 青瀬橋のすぐ近くに建つ妙楽寺である。30数年前、背後の山に木が少なく岩が露出していた。写真で見る中国の黄山を思わせた。当時の写真をどうぞ。もう1枚









写真704.青瀬橋
写真拡大

 青瀬橋である。国道1号土山支所交差点からやって来た県道9号が野洲川を越えて山にぶつかるところである。親柱には菅笠をかぶって太鼓をたたいている(のだと思うが)人物をイメージした像が取り付けられている。何がこのイメージにつながるのかよくは分からない。







写真705.旧青瀬橋親柱
写真拡大

 この赤い橋も、私が野洲川源流へ通ていたころより後になって架け替えられた。「あおせはし」と刻まれた旧青瀬橋の親柱が、橋のたもとに保存されている。









写真706.巨岩立つ
写真拡大

 橋の上から下流を見ると、突き当りに巨岩が立ちはだかっている。秋の夕日を受ける風景は秀逸だった。冬の風景をもう1枚。左の現在の風景には岩の右上に短いトンネルが見える。古い写真を撮っていたころは岩をくり抜いただけのトンネルで、ほとんど目立たなかった。昔の2枚の写真は岩だけをモチーフにしているが、仮にトンネルが画面に入ってきてもほとんど気にならないぐらいだった。




写真707.青瀬橋から上流を
写真拡大

 青瀬橋から上流を見たところ。遠くは青土集落。よく見ると鮎釣りをする人物が見える。昔の写真をどうぞ

  写真708.現在のトンネルへ
写真拡大

 青瀬橋を渡ったところを左折して現在のトンネルへ向かう軽トラ。この道はこのままずーっと野洲川右岸を走り、国道1号白川橋畔へ出る。






写真709.音羽野城跡
写真拡大

 橋の手前右側に石碑が立っていて、「音羽野城址」とある。先ほど御代参街道にあった道しるべに”青土、平子、音羽”とあった。前の2つは分かったが、「音羽」が分からない。ひょっとしてこの「音羽野」と「音羽」が何か関係がありはしないかと国土地理院web地図を探す。と、北から流れてきて野洲川青瀬橋の下流へ流れ込む川があって、その上流に「音羽谷川」とある。音羽野があったり、音羽谷があったり、思わせぶりだが、きっちり「音羽」という地名は見つからない。

 どうも気色が悪い。もうちょっとはっきりした話がほしくて『近江輿地志略』をいじくりまわしてみた。「音羽野村、平子村の北東にある村なり」とある。スカみたいな書き方だけど、近江輿地志略にはこのような書き方、すなわちBはAの次なり。CはBの次なり式がよくあるから驚くほどのことはない。書き方はともかく、「音羽野村」という村があったことは確からしい。
 そしてその2行ほど前に、”古城跡”として「青土村にあり。相伝ふ頓宮因幡守隆政居城のあとなりと」とある。”青土村にあり”というのが気になるが、この”古城跡”は音羽野城址のことではないのか。
 ちなみに、現地案内板には次のようにある。
 ----文明年間(1470〜1486)、頓宮四方介利盛が音羽野村を領したのち築城して、頓宮城より移り住んだ。それ以来当城に住み、代々継いだが、元亀元年(1570)頓宮因幡守守孝の時、近江の守護佐々木六角氏没落し、織田信長に降りたが、天正13年(1585)豊臣秀吉に没収された。---

 頓宮XXの居城だったというのも一致している。となれば「音羽野」を「音羽」と短縮するのが慣わしだったと考えるしか解決の手はなさそう。だけども順番が納得できない。御代参街道にあった道しるべには”青土、平子、音羽”とあった。遠い順なら、”青土、音羽、平子”のはずだし・・・。もう一度確かめておこう、と写真を引っ張り出した。ナニッ!。現場で道しるべを見てから今のイマまでずっと「音羽」だとばかり思い込んでいた道しるべそのものが、「音羽ノ」だったのである。
 青土、平子、の各2文字に対して「音」の字は揃っているが「羽」の文字が上へ上がって、その下に「ノ」とある。こうして本来漢字であるべきところをカタカナや平かなに置き換える。道しるべなどではよくある手である。これに気がつかなかった。音羽野という地名があることが分かっていてはじめて「音羽ノ」が読める。分かるということは意識の共振である。順番の不思議さは未解決のままだが、・・・・。



2. 青土ダム
写真710.青土集落
写真拡大

 県道9号をさらに進む。途中から青土ダムへ向かって上り勾配にかかる。










写真711.青土ダム
写真拡大

 青土ダム、ロックフィル式ダムである。青土ダムの石標が、ダムのものにしては可愛らしいなと思っていたら、右岸駐車場横の公園にもう一つでかいやつがあった。ダムの竣工が1987年、私が野洲川渓谷へ通っていたころはまだ工事中だった。

  写真712.堰堤から下流を見る
写真拡大

 放流口は堰堤の左岸の方にある。その上から下流側を見たところ。右手に見える道が県道9号。








写真713.洪水吐
写真拡大

 水平方向にアサガオをタテに半分に切ったような半円形の受け口が出ていて、それに水が流れ込んでいる。そういえば、昔、男性用の小便器をアサガオと呼んだ時代があった。なるほどそういえば似ている。これなどはさしずめ神さん用の・・・。
 このアサガオ、専門用語では「洪水吐」というのだそうな。「頭首工」もそうだけど、我々素人には何ともなじみにくい。「神さん用の小便器」の方がよほどわかりやすい。そうか、それでは下流の人が納得せんか。そらそうだわな、のべつ幕なしに神さんの・・・を垂れ流しにされたのではね。
 上下2段になっていて、上の長方形のものも洪水吐なのだそうな。下段は常用洪水吐。上段が非常用だとか。そうかなー、非常時で慌てた場合、上まで行っている暇はないぞ。そういう場合はどこか野っぱらで・・・。いやいや神さんがそれをやるから洪水が起こるんですよ。



写真714.上流側
写真拡大

 ダムサイトから上流を見たところ。

  写真715.青土ダムエコーバレイ
写真拡大

 「関西最大級ダム湖畔のキャンプ場」とHPにあり。









写真716.県道9号
写真拡大

 ダムの左岸を走る県道9号。ダムが画面左外。バイクは下流へ向かって走っている。


写真拡大   写真717.さらに上流を

 さらに上流を見たところ。静かにに落ち着いたたたずまいである。







3. 鮎河
地図711.鮎河付近地図(国土地理院web地図)
写真拡大

 ダムの竣工が1987年、私が野洲川渓谷へ通っていたころはまだ工事中だった。青土から鮎河に至る県道も不完全なものだった。1回撮影して、次にもう一度行ったときには状況が変わってしまっているということがよくあった。だから残っているフィルムの撮影位置も、およそあのあたり程度の明確さでしかない。










写真718.鮎河橋
写真拡大

 谷筋が狭まり、両側から山が迫ってきたところに鮎河集落がある。蛇行する野洲川をまたいで県道9号が渡るところである。
  







写真719.下流側
写真拡大

 鮎河橋から下流側を見たところである。それに対してこんな昔の1枚がある。下流側から上ってきて、鮎河の集落に入る手前の橋の上から下流側を見て撮った記憶がある。状況としてはこの鮎河橋と同じということになるのだが、2枚は似ているといえば似ているし、違うといえば違う。左へカーブしているところは同じだが、カーブまでの距離が違うし、橋の高さそのものが違う。今画面の真ん中辺に何枚か板を打ち込んだような跡が見える。そこらが橋だった気がするが。



写真720.上流側
写真拡大

 と思って上流側を見ると、すぐ真下に橋脚のあとのようなものが見える。ここにも橋があったのだろうか。全く記憶とつながらない。









写真721.横尾橋
写真拡大

 野洲川の流れでいえば鮎川橋の上流の橋である。県道9号と直角に交わる道路に架かる橋で、いまのルートとは直接関係はない。画面に見える流れは下流(鮎川橋方)を見たところ。もう1枚上流側を見たところ







写真722.県道507号
写真拡大

 国道1号猪鼻交差点からやって来た県道507号にぶつかる。507号はここまで、県道9号が左へ曲がる
 その前に手前の橋を見ておこう。







写真723.松尾川橋
写真拡大

 橋の名前は松尾川橋。たとえばA川に架かる橋として「A川橋」という名がつくのはよくある。もしそうだとしたら、川の名称は「野洲川」だから「野洲川橋」ということになる。ところがこの橋は「松尾川橋」だという。
 実は、野洲川の国道1号白川橋あたり(田村川との合流点?)から上流を松尾川と呼ばれていた時代があった。そういう意味もあって青瀬橋と白川橋の中間にかかる御代参橋にも「野洲川(松尾川)」との表記がある。いまのこの松尾川橋を「野洲川橋」としたのでは地域性はなく、どこにある橋か名前からだけでは判断できない。そこへ行くとこの名称は地域性を含むいい名称であるといえる。
 この「松尾川」の名称であるが、たとえば土山宿の案内板には白川橋上流に「松尾川の渡し場跡」(画面左端)と表記されていたりして、田村川との合流点までと推測されるが、上流がどこまでなのか不明のままだった。いまこの橋の名称で、このあたりでも「松尾川」と呼ばれていたことがはっきりしたわけで、結果的には源流から田村川との合流点までということではなかったかと推測できる。なお、国土地理院地形図では、昭和26年応急修正版判まで記載されており、昭和45年編集版では消えている。




写真724.松尾川橋下流
写真拡大

 松尾川橋の下流、100mほどで壁にぶつかり、ぐっと右に曲がっていく。

  写真725.松尾川橋上流
写真拡大

 松尾川橋から上流を見たところ。遠く屋根がきらりと光る建物が鮎河小学校。ついでに上流左側、鮎川の集落を見たところ。





『・・・・・「松尾川」、源3つ。1つは思川の下流、詳に岩根思川の条下に記す。一は伊勢国菰野山に出で、西に流れ北に転じ、また西に折れ、大河原の坤を◇りて流れ曲折して前の村の東を過ぎ、田村川と合っし水口驛及び宇田村の南を経て横田川となる。一は、伊勢國於岐須山間より出て西に流れ鮎川村を経て一流となるなり。・・・・・』。さきほども”音羽野城跡”のところで引用した『近江輿地志略』の文章である。ビックリしたなー、素人がこのまま読めば、松尾川が伊勢国菰野山から流れ出て…ということになるが。どうにも読めない字が1つあり◇をもって代えた。あしからず。




写真726.鮎河集落への道
写真拡大

 一見すると県道9号を田んぼ側から見たところと読まれるかもしれないが、これは県道から見た鮎河集落への道。奥に見えるのが鮎河集落。その手前に橋が見える。野洲川に架かる橋で坊前橋。上で述べた松尾川橋の1つ上流の橋である。青土から工事中のダムの横を経て、集落の中を通って、この道へ出てくるのが当時のルートだった。先ほど見て来た鮎川橋や松尾川橋はまだなかった。坊前橋自体ももっとちゃちな橋だった気がする。




写真727.坊前橋
写真拡大

 現在の坊前橋である。しっかりした橋になっている。橋を通して鮎河集落を見たところ。一車線とは言わないが、これで対向車が来ればやはり緊張する。何でこんなことをくどくどと述べているのかというと、実はこの写真である。紅葉したケヤキ(だと思うが)の木が秋の夕日を受けている。この1本の木が、集落の背後の山裾に立つっていた。この近辺から撮っているはずなのだが確たる場所が分からない。この木も見つからない。
 ケヤキの奥に杉の木のてっぺんにぽつんと光が当たっている。これが消えるのを待って随分時間をかけた。結果はアウトだったが、三脚を立ててねばれるところはどこだったのか。どう考えても記憶が戻らない。それはそうだわ。30数年ぶりで行ったのだもの。
 30数年前、「鮎河」を「アイガ」と読むのだと知った。20歳代のころ見るだけでもいいからと憬れていた「アイガー北壁」にひっかけて憶えたので間違いはないはず。ところが今回、バス停の表示を見て驚いた。「あゆかわ」となっている。正直に読めばそうなんだろうけれど、どうなのかなー。



写真728.坊前橋下流
写真拡大

 坊前橋から下流を見たところ。すぐ前の橋は水道橋である。その向こう、左からうぐい川が合流してくるのが見える。

写真拡大

  写真729.坊前橋上流

 坊前橋から上流を見たところ。真ん中少し右に山峡が見える。この川はその間を流れ出てきたのである。県道9号は中央に見えている建物あたりから山峡へ入る。








4. うぐい川
地図711A.うぐい川流域図(国土地理院web地図)
写真拡大

 松尾川橋と一つ上流の坊前橋との間に合流してくる川である。「うぐい川」、漢字で書くとウオヘんに「成」という字。教えてもらって書けといわれればかけるが、読むことはできない。川岸に立つ標識にもカナがふってある。
 地図を見ると面白いことに気付く。このあたりまで来ると、流域は県境を分水嶺としているのが普通だが、この川は県境から少し離れた独自の流域を形作っている。大国に挟まれた独立小国家というところ。地図の緑の稜線に囲まれたのがその範囲である。




写真730.うぐい川橋
写真拡大

 うぐい川橋を渡る県道9号。車線だけでぎりぎりいっぱい。右側(うぐい川上流側)に歩道橋が見える。歩道橋から見たうぐい川橋。ここ(歩道橋)から見る桜は圧巻。








写真731.サクラゾーン
写真拡大

 歩道橋から上流側のサクラゾーンを見たところ。人出の春と違って無人の川原。シラサギが一羽、行ったり来たり。案内板があっていまから60余年前に三上六所神社の改築を記念して植樹されたのが初まりだとし、昭和55年からは小学校の卒業記念として植えられ現在に至っていると。
 ここ数年、桜の時期になると教室の誰かがここの桜を撮ってくる。案内板にいうとおり、県内屈指かどうかは別にして有名になったのは事実である。私が足しげく通っていたころは、川の名前も知らなかったし、そこに川があることすら意識していなかった。しかしその時すでに小学校の卒業記念にと、せっせと植えられていたのである。名所は一日にしてならず。
 とはいえ、ただひとつ言えることは、桜の時期にここへ来たことがあったのかということ。これはまず無理だった。学校勤めの春、3月末から4月初めの時期は年度替わり、日曜日も休めないのが当たり前、我が家から1時間以上もかかるここまでこれるはずはなかった。もし来ていたとしたら、当時の記録ぐらいは残していたはずだが。
 ついでにもう1つ。「黒川氏城址」として、ここ土山町鮎河地域が城址の密集地域であることを述べている。ここではそれに付された「鮎川地域に分布する城址図」を上げておく。




写真732.三上六所神社
写真拡大

 うぐい川右岸、県道9号沿いにある神社。ミカミロクショ神社と読むそうな。でも、こんなところになぜ「三上・・」なのか。おそらく縁もゆかりもない三上なのだろうが…。何か情報があるかもしれないと中へ入ってみた。本殿の写真をどうぞ。そばに由緒書きあって、へー、全く縁がいなわけではないぞ。
 由 緒
 吾が郷土鮎河は、古昔を尋ねるに荒漠たる原野にて、猛獣毒蛇が多く生息し、その被害にて人命を失い絶家するものあり、住民も極減するに至れり。ここにおいてこれは神のご加護に頼る外なしとして村人達念じたる処、そのご神徳現れ野洲の御上神社に奉仕する三上三郎氏なるもの、猟犬二頭を引きつれてこの地に現れ、村人の哀願により悪獣を退治し人命を助けこの地を守護し給へり。村人はこのご神徳と武勇に尊敬感謝し、三上三郎殿の奉仕せる御上神社のご祭神、天御影命、元正天皇に三上三郎殿御霊魂を併せ祭祀し、村の守護神として永くそのご神徳を崇敬奉賛するもの也。(原文に句読点加筆)



5. 山峡へ
写真733.山峡へ向かう
写真拡大

 鮎河小学校の横を通り、山間集落をぬけて上りに向かう。道路の左に見える白壁に窓がいくつか並んだ建物と、その手前の二重屋根の建物が、上の写真(坊前橋から上流)に写っている。

  写真734.山峡へ入る
写真拡大

 山峡へ入る。左右の山が迫って、一見谷底を走っているように見えるが、川はもっと下を流れている。








写真735.わずかに見える渓谷
写真拡大

 30数年前、よくここへ入っていたころは、まだまだ上から見て流れが見えた。鮎河からつぎの集落大河原まで山峡を走る距離は2Km足らず。その間上から見て流れが見えるのは今は2か所ほど、それもごくわずかな部分に過ぎない。






画面トップへ 中トビラへ