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N07.野洲川源流域

N0701B. 大河原→分水嶺・平子峠

取材日:2016.07.
初稿UP:2016.08.15

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地図712.大河原付近地図(国土地理院web地図)
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 鮎河からの山峡を抜けると土山町大河原へ出る。三重県との県境・武平峠を越えて下ってきた国道477号が野洲川を渡って日野町との市町境・平子峠の方へ向かう。
 ただし、今回のレポートについては一旦477号をくぐり、大河原温泉かもしか荘の前へ出て、宮下橋を渡り国道へ通ずるいわゆる旧道コースをたどることとする。









6. 土山町大河原
写真736.国道477号
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 山あいが広がってきて、目の前に橋が見えてくる。国道477号である。山間が広がったところで急に現れるので、目に入った瞬間は圧倒される。









写真737.国道477号を反対側から
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 上の写真で、477号の下をくぐり、すぐに右折してランプウエー経由で橋にとりつけるが、今回はそのまま県道を直進し、かもしか荘前の旧橋を渡ることにする。左は写真736の裏側から橋を見たところ。「左折/四日市」は、一旦停止のところを左折して、ランプウエーへ入ることを意味する。橋そのものが傾斜していることが読み取れる。





写真738.かもしか荘前
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 かもしか荘前である。以前は確か国民宿舎だったが、いまは「大河原温泉かもしか荘」になっている。食事つきのゲートボールが人気だとか。この日も昼間から駐車場にはたくさんのクルマ。もう1枚







写真739.旧橋
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 かもしか荘前の旧橋である。欄干が白く塗られて真新しい感じ。橋脚は古いタイプだからリニューアルしたらしい。以前は国道の橋はなく、日野へ抜けるにはこの橋を渡るしか手はなかった。早い者勝ちの一車線。これを渡って対岸の国道へ出る。
 橋の改良によって親柱が1本なくなっている。そこに正式名称が表記されていたらしい。橋の名前は「みやした橋」としかわからない。拡大、たぶん「宮下橋」だとは思うが。




写真740.渡り切って
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 渡り切って振り返ったところ。川の流れは左から右。手前が右岸、対岸が左岸である。

  写真741.旧橋から上流を見る
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 みやした橋の上から上流側を見る。川遊びの家族づれ。もう1枚







写真742.国道と出会う
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 国道477号とのT字路。左が武平峠、右が平子峠である。

  写真743.国道俯瞰
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 野洲川を渡る国道477号を俯瞰。向こう岸の山蔭の道が鮎川からの道。







7. 平子峠へ
写真744.平子峠への上り
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 平子峠への上り道。もう1枚。「土山町大河原」の表示。ここはまだ平子峠への手前である。










写真745.松の木2本
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 峠への手前。背の高い松の木が2本。もし平子峠との正式名称がなければ「松の木越え」とでも名付けたい所である。この峠を自転車で越える人がいた。実は別の日にこの峠を撮影した。午後遅くで夕日が前から射し込んでいた。どうしたものかと思案しているところを自転車の男性がゆっくりと通り抜けていった。松の木は完全な逆光で、どうなるものでもあるまいと思っていたが、失敗のはずの逆光の方が松の木の印象が強い。男性の後ろ姿と共に捨てるにしのびずというところ。



写真746.平子峠
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 二本松のカーブを曲がったところが峠だった。「日野町」の標識があって前を行くクルマが沈み込んでいく。「平子峠」の標識はない。きっちりした名称をつけ、野洲川と日野川との分水嶺であることを明示すれば、関心を持つ人もいるはずだが。







写真747.国道477号反対側
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 松の木が逆光の日、反対側から見るとスカッとした光線だった。日野町側から土山町側へ抜けるバイクが通り抜けていった。もう1枚








写真748.旧道?
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 ふと土山町側の山手を見る。・・?。何んとなく道のような雰囲気が感じられる。ひょっとしたら旧道ではないのか。旧道の峠道。枯れ木の枝が転がったりしているが、道の部分は少なくともほったらかしではない。新道開通後も住民みんなで手入れをしてきたのではないか。私の勝手な想像である。もう1枚





写真748B.平子へ下る
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 峠を越え平子へ向かって下る。標識は日野町平子。野洲川流域(土山町大河原)から日野川流域(日野町平子)へ越えたことになる。写真としてつらいのは、この道が一向に下りに見えないこと。どうしようもない。







8. 平子集落
写真749.平子集落
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 峠を日野町側へ下る。初めての集落が平子である。屈曲した道に民家が寄り添う。”お互いに譲り合います狭い道”との表示がある。









写真750.竹垣
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 集落の周囲にはぐるっと竹の垣がめぐらされている。もう1枚。これだけの柵を張り巡らすのだから並大抵のことではない。その労力たるや・・・・。









写真751.垣根の補修中
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 折しも道路沿いで補修中。この炎天下、ひょっとしたら案山子かと思ったが、目を凝らすと間違いなく、お祖父ちゃんと孫さんらしい。








9. 徳本上人名号碑
写真752.澄禅上人旧跡
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 平子峠から下ってきて集落を通り過ぎたところ、ガードレールの外側に1本の碑が建っている。ここに碑があることを意識したのは、今回の取材のときが最初だった。それまで何回通ったか分からないが無意識に通り過ぎていたのである。この写真では「澄禅上人・徳本行者旧跡澄禅山」と読める。実はこの写真は3回目の撮影である。この碑が北を向いて立っているために、光線がいうことをきかない。たとえば1回目のときには肉眼でも読みにくく、「徳本行者」を「信字行者」と読んでしまった。何とも情けない。そんなことで全く意味が分からないまま橋を渡った



写真753.徳本行者
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 近づいてよく見ると、オヤ?。徳本さんやんか。懐かしかった。こんなところで出会えるとは思ってもいなかった。御代参街道を歩いた時に初めて出会った。最初は三十坪近くの田んぼの中、2回目は鋳物師交差点、これが徳本(トクモト)ではなくて、トクホンないしはトクゴーと読むのだという。信州島々から上高地へ抜ける峠道・徳本峠(トクゴ―峠)はその名にちなむという。そして今回が3回目である。
 本稿巻末に「徳本上人名号碑」の解説あり。



写真754.澄禅寺
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 横に「澄禅寺」との説明板がある。古びてしまって現場でゆっくり読める雰囲気ではなかったが。
 ----この山の一峰に澄禅寺があり、ここは同寺の裏参道入り口である。江戸時代中期の元禄時代ここの山中に聖僧澄禅寺和尚が草案を結び、約100年の後の享和3年(1803)に紀州出身の徳本上人が澄禅の跡を慕って寺を開いたのがこの澄禅寺である。徳本上人はここを拠点に盛んな教化活動をし、多くの念仏講を各地に組織されている。鈴鹿山中の静寂の地に建つ幽玄の聖域を求めて参詣者は絶えることがない。----  日野観光協会・西大路公民館
 「絶えることがない」といわれても、その案内板はすでに参拝者が絶えてしまったことを示していたが、そばに置かれたブルーのバケツが、どなたかが細々と世話を続けておられることを物語っていた。   




写真755.澄禅寺のいま
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 そして案内板ではここ(徳本行者の碑の場所)が「裏参道入り口」だという。しかし、どこをどう見まわしても参道のような道はなかった。と、その時別の場所で「澄禅寺」という名を見た記憶がよみがえってきた。平子峠から下ってきた集落の中ほど、左へ分かれる小道があった。今まで普通の寺の案内だと思っていたが、ふと気になりだした。その寺は徳本行者が開いた寺だという。




写真756.澄禅寺のいま
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 以前は「澄禅寺」という大きな文字がしっかりと読めた。”道場長の本あります”とのPRも、”セミナーハウス”と称する禅道場も活発に運動している様子が見て取れた。しかしこれは以前のことで、それがいつしか色褪せたまま放置されている状況だった。






写真757.田んぼの中を行く
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 左へ分かれ小た径の田んぼの中の登り口に、ぽつんと石碑が立っていた。また徳本行者かと思わせる雰囲気だった。しかしそれは普通の「南無阿弥陀仏」の碑だった。








写真758.澄禅寺P
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 かなりの急坂を上る。澄禅寺Pの看板が立っている。しかし辺りは草原で、少なくとも最近使われた様子はない。禅定林と銘打った建物があったが、活動は止まっている様子だった。








写真759.行き止まり
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 まだ何かありはしないかと上ってみたが、駐車場からしばらくで行き止まり。なにも見えてこなかった。
 ということで最初はこちらに澄禅寺そのものがあるのかと思っていたがそうではなかった。誰かが「禅定林」という禅道場を開いたりして教化活動をおこなっていたが、それも何時しか途切れてしまったということらしい。それにしても案内板の大きな「澄禅寺」の文字、中腹で見た「澄禅寺P」の標識は何を意味するのだろう。




地図713.平子付近地図(GoogleMapに加筆)
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 平子付近のGoogleMapである。国道477号の南方山中に「澄禅寺」とある。平子川沿いの徳本行者・名号碑のすぐ上の山頂である。----この山の一峰に澄禅寺があり、ここは同寺の裏参道入り口である。----という案内板の文章はこれを意味しているらしい。











地図714.平子付近地図(国土地理院Web地図に加筆)
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 改めて国土地理院Web地図を見直してみた。GoogleMapにある澄禅寺の位置に卍マークがあって建造物を示す表記もある。これが澄禅寺であることは間違いない。問題は駐車場の標識。「禅定林P」ではなく「澄禅寺P」となっていることである。
 左の地図では徳本行者名号碑(南無阿弥陀仏碑)から山頂への道が記されている。私はその道を確かめることはできなかったが、すくなくともこの道は存在したのだろう。ただしこれは裏道だという。表はどれか。これこそ国道沿いに立つ「澄禅寺」の案内板からの道だろう。こちらの方が勾配がわずかに緩い。私が何かないかと上ってみた道である。駐車場は「禅定林」の少し上にあった。禅定林の駐車場として使われたのだろうが、そこから西へ山道を造れば本物の澄禅寺への登山にも使える。そのための「澄禅寺P」だったのではないか。残念ながらその道があったのかなかったのか。Web地図には、もう少し下の方からの道しか記載されていないが。



10. 落合橋
写真760.平子川
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 平子川、日野町・土山町境から流れ下り、平子集落あたりでは国道477号とほぼ並行に流れ下る。少し上手に見える橋は、いま述べて来た徳本行者・名号碑へ渡る橋を横から見たところである。







写真761.落合橋
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 国道と並行に流れ下る平子橋、それに対してY字型に合流する川、これが日野川である。そして橋が「落合橋」。竣工が大正15年2月だという。ガードレールの外にある澄禅山の石標が大正15年10月建之。大正15年、いまから90年ほど前の話だけど、このあたりが一番元気があった時代ではなかったか。





写真762.地蔵さん
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 下流側から見て、橋の手前左側に立派な石造りの祠が建っている。祠の奥には地蔵さん、外側に首から下の小ぶりな像が置かれている。遠目に見るとキリスト教の殉教者の像にも見えて、人里離れた場所だからひょっとしてとも思いにとらわれたが、よく見ると仏像だった。







写真763.宝暦
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 近づいてみると両側の柱に当たる部分に字が刻まれている。右側には宝暦ナントカとある。2文字とも旧字体だから、若い人には読みにくいだろう。宝は「寶」、暦は木が2つ並ぶところが「禾」が2つ・・・。
 地蔵さんの祠に年号が刻まれていること自体が珍しい。調べてみると宝暦元年は1751年。ざっと250年ほど前のものらしい。




写真764.日野川源流
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 落合橋のたもとから見た日野川源流。山に囲まれた段々畑。その上に茅葺屋根(実際はトタンぶきだろうけれど)の民家。丘をまいて流れる小川。日本昔話に出てくるような風景である。カメラの左が地蔵さん。日野川は下をくぐって平子川にY字型に合流する。







写真765.ケヤキの木
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 平子集落のはずれに立派なケヤキの木が立つ。道路の縁に余裕があるので、そこへ車を止める。行くたびに見え方が変わる。写真A写真B、そして去年の秋、霧にたたずむ1枚。これは今回の取材とは無関係。たまたま通りかかって・・・。







11. 蔵王ダム
写真766.蔵王ダム
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 蔵王ダム、野洲川の青土ダムと同じロックフィルダムである。


  写真767.国道側から対岸を見る
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 南側から対岸を見たところ。奥の山は綿向山らしい。「らしい」というのは綿向山は近すぎるため頂上は見えない。見えているのはその支峰らしいという意味。もう1枚写真拡大




  写真768.見上げる→

 ダムの正面へ回り込んで下から見上げたところ。



12.徳本上人名号碑
写真769.山の神
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 里へ出るところに金峯神社という小さな氏神さんがある。その横に公園を兼ねたような駐車場がる。その片隅にあった山の神碑。「山の神」という碑も、どこにでもあるというものではないが、ときどき山と里との境あたりに見ることがある。後ろには村人の作品がぶら下がっている。







写真770.徳本上人名号碑
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 山の神の写真を撮って、ふと横を見ると、生垣の上に碑の頭が見える。向こうにも何かあるなと近づいてみると、なんとまた徳本さん。御代参街道のときもそうだったが、今回も近くに2基が。1回見たら忘れない字だから間違いはないが、念のため下についているサインのところ
 その横に、「徳本上人名号碑(とくほんしょうにんみょうごうひ)」と銘打った案内板が立っていた。締めくくりのその全文を掲げておく。
 ----この石碑を徳本上人名号碑という。日野町内の約10基あるうちの一つで、嘉永3年(1850)8月に蔵王村の徳本講が建立した。文化2年(1805)と7年の2回にわたって当時高名な念仏行者徳本上人が平子の澄禅上人の遺跡を訪ねて巡錫し、徳本の高弟本応が澄禅寺を開いたことにより、日野谷各地に専修念仏の徳本講が結成され、徳本の筆によるこの六字名号碑が没後遺筆として各地に建立され、名号の霊徳を人々は崇めた。----  日野観光協会・西大路公民館


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