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N07.野洲川源流域

0700B. 田村川合流点/白川橋→青瀬橋

取材:2020.12
初稿UP:2022.02.26


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地図001.田村川合流点地図 1  (国土地理院Web地図に加筆)
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 鈴鹿峠から国道1号とつかず離れず下ってきた旧東海道が、田村神社前で、道の駅”あいの土山”の南側へ回り込む。(田村神社と道の駅”あいの土山”は、国道を挟んで向かい同士である)。そのあと約2Km余り、昼間、天気がよければ、国道を走るクルマからは絶えず車窓左側に、旧街道沿いの集落の屋根が光って見える。その旧東海道が、南土山交差点で国道に合流して来る。そして100mほど一緒に走ったと、今度はさらに右側(北側)へ離れていく。ところどころで見る国道の重複区間と同じ理屈である。南側を走っていた旧東海道が北側へまわったことになり、国道からは光る屋根は見えなくなる(北側へ離れていく旧東海道。画面左、電柱と重なって旧東海道のプレートが立っているが、不明瞭でよくわからない。プレートを拡大表示)。
 このあと、国道は白川橋で野洲川を渡り、次の前野交差点(新名神土山ICへのT字路)を過ぎると、南側に再び屋根が光りだす。先ほど北側へ分かれていった旧東海道がいつの間にか南側を並走しているのである。


 国道1号を草津に向かって走る場合、旧土山宿のはずれで旧東海道を右に分かれた後、次に現れるのは野洲川を越えた頓宮跡あたり。そこでは何事もなかったように左側(南側)へ出てくるのである。この間旧東海道は消える。何度も書くが手品を見る思いである。
 不思議なのは土山宿のはずれで右に分かれていったあの道である。あの道はどこへ行くのか。歩いてみるしかない。300mも歩くと広い十字路に出た。GoogleMapなどでトラバースロードと表記されている道路である。「トラバース」、山へ行っていたころよく使った言葉で懐かしかった。山ではたとえば縦走路などでちょっとしたピークがあるとき、それを避けて回り道をしながら水平な道を行く(ピークを巻くとも言っていた)ようなときに使っていたが、一般道ではどうなるのだろう。バイパスとどれだけの違いがあるのか。
 ハイ、脱線をした。そこに例の案内板があって、その下に何かついている。近寄ってみると、注意書き。この先は野洲川が渡れないから、いったん国道へ回って「歌声橋」を渡れという。横にもっと大型の案内板も添えられている。これは親切。そうかこれで分かった、右へ消えて、左から出てきたわけが。さすが忍者の里・甲賀市である。しかし、この看板を見た人は、その場で回れ右をして、左右を逆にイメージして進まなければならない。そこのところだよ、本当のサービスは。


1.田村川・野洲川合流点
写真666.歌声橋
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 手品の種明かしは後回しにして、先に、野洲川と田村川の合流点を見ておこう。
 1980年代の半ばごろ、野洲川渓谷の撮影によく国道1号を走った。白川橋から見る野洲川下流側の風景が秀逸だった。特に左岸の木々が秋の夕日に照らされるのが美しかった。気になりながらいつもそのまま通り過ぎるのが常だった。
 そのころ、いま歌声橋がかかっているところには、両岸に橋の基礎が残るだけで橋はなかった。そうこうしているうち旧く残っていた基礎に橋が架けられた。最初は何かの災害で流失してしまっていた旧東海道が復活するのだろうと思った。しかし、そのような雰囲気の橋ではなかった。しまった工事が始まる前に写真をとっておくのだった、と思った時は遅かった。そのあと、橋に覆いがついた。多分通学路に使われているのだろう。そうでなければ”歌声橋”なんて名前は付けないだろう。
 さて上の写真が”歌声橋”である。国道1号白川橋のすぐ下流に架かる橋である。橋の上からはすぐ上流の国道1号・白川橋が見える。ワイドで遠くに見えるが、肉眼で見るともっと近くに感じられる。下流側、その昔、白川橋から見た風景がよみがえる。左下から合流するのが田村川。




写真667.田村川合流
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 歌声橋から見た田村川合流点である。その水と砂の美しいこと。しかしこれも今の世にあって、当時では考えられない高みに立って見るからこそである。国道1号の南を走る旧東海道が、そのまま東へ進んでここに至ったとしても、この谷の深さを見れば、橋を架けることなど夢のまた夢、手の下しようがなかったはず。
 ここに合流する2本の川。手前(北)から右上(南西)へ流れるのが野洲川。左(東)から合流する田村川、野洲川の左岸には合流点を睨む虎かライオンか。



地図607.大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
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 『日本図誌大系』(近畿U・朝倉書店1973)に、当該地域の古い地図が載っていた。明治25年測量、大正5年修正。宿場内は旧街道のままだが、街道の前後は拡幅が進んでいることが分かる。この道が現在の旧街道ということになるはず。なお右の地図で、”松尾川”というのが現在の野洲川上流部の古い名称である。また、南西方から蛇行してくるのが田村川である。
 西からやって来た旧東海道が、いまの歌声橋のところを橋で越えて、まさに宿場につながろうとしている。あの深い谷に橋をかける。当時としては画期的なことだったはず。1980年代半ば、私が見た橋のない両岸の基礎部は、ひょっとしたらこのときのものだったのかもしれない。と同時に江戸時代から明治まで使われていたであろう北へ迂回する半円形のルートもまだ残されている。
 綿谷雪著『考証東海道五十三次』(秋田書店・1974年)に、====明治13年の新国道(地図に拡幅表記されている道。現在の旧東海道(国道1号ではない)。)が開通するまでは、このあたりは道も橋もなく林木叢生の地で、”白川”の北を通る半円形の細い道が、まさにその林木叢生の地を避けて通る迂回路であったという(八田意訳)====。この地図はまさにその時の状況を物語っている。
 現在、国道1号を走るとき、南側に続く旧東海道の屋根の輝きが、南土山交差点⇔前野交差点の間で途切れるのは、その間、北へ回って川幅が広く瀬が浅い野洲川を渡るルートが採られていたことによる。これが先ほどの手品の種明かしである。




写真665.松尾川の渡し場跡
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 旧松尾川渡し跡への現在の道である。そのまま進んでも松尾川の渡し場(地図左端)で行き止まりとの表示がある。でもとにかくそこまで行ってみよう。途中、大木の下に地蔵さんが祀られていたが(写真左)、そこまでだった。あとは細い道が川原へ続いているだけ。







2. 御代参橋のこと
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 いまから40年ほど前、1982年秋から3,4年間、野洲川渓谷の写真を撮っていた。そのころ、よく国道1号白川橋から、県道5号、青瀬橋まで野洲川右岸を走った。そのころ、この付近で野洲川を渡る橋はその2つだけだった。ところが何時のことだったか、ひょんなことからその中間点辺りにもう1本新橋がかかっていることに気がついた。平成5(1993)年竣工。名称は『御代参橋』という。
 御代参街道は、東海道土山宿から笹尾峠(右の地図の左上、「緑が丘5」住宅地の近く、黒字はかつての峠、赤字が現在の峠の位置)を越えて日野町鎌掛宿に至り、そのあと中山道愛知川宿近く(東近江市五個荘小畑町)までを結ぶ脇往還(東海道・中山道とをショートカットするバイパス)である。
 江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へこの道が利用されたことから「御代参街道」と呼ばれるようになったとか(現地土山町の案内板より)。
 私は、この「峠道探訪」で笹尾峠を越え、興味を感じたので五個荘までの全コースを歩いた。(別項「御代参街道を歩く2016」をUP)。鎌掛から日野町内を近江鉄道日野駅近くまで。そこから五個荘まではずっと両者並行する。近江鉄道が御代参街道の近代化を狙って開設されたことを実感する。残念なことに、開通したころには御代参街道のブームは下火になっていた。



写真683.御代参橋
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 今の世の中では当たり前だろうが、しっかりした橋である。親柱には「御代参橋」とある。レリーフ入りの派手なものだが、周囲がどないしようもない。全く絵にならず。そこへいくと橋の半ば、欄干にある”御代参行列”のレリーフはまだ見やすい。しかし車で通り過ぎる人の何人がこれを見るのか。
 ところでこの御代参橋、平成5年9月竣功”とあるから架けられたのはもう20年以上も前の話だ。この”竣功”の文字、よく使われるが本来の意味は”竣工”だろう。それはいいとして、橋などの場合、もうちょっとしっかり区別した言葉があってもいいと思うのだが。というのは、たとえば今回の例のように、いままでまったく橋はなかったそこへ新たにこの橋を架けた。もちろんこれは”竣工”だ、が、以前かかっていた橋が古くなったので新しく架け替えた、この場合もやはり”竣工”だ。これを区別する言葉があってもいいような気がする。
 いまのこの「御代参橋」、名前から判断すると御代参街道華やかなりしときからかかっていたようにも受け取れる。でも、私が知る限り、この橋が架かる前、ここには橋は架かっていなかった。すくなくとも私が野洲川渓谷の写真を撮っていた1980年代半ばにはここに橋はなかった。



写真684.松尾川
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 川の名は野洲川とあるが、松尾川との付け加えがある。野洲川のこの部分白川橋から上流部分は、現在ではすべて野洲川と統一されているが、以前は「松尾川」と呼ばれていたらしい。たとえば上で見た地図607(大正9年修正版)には、はっきりと「松尾川」とある。ちなみに左端、右文字で”横田”とあるのは「横田川」。現在の野洲川・白川橋(田村川合流)から横田橋(杣川合流)までの古称である。
 さらに日本図誌大系 近畿U(朝倉書店1973)所載の地図を調べてみると昭和25年修正版にも松尾川とある。ただし、前述の横田川は「野洲川」に変わっている。ここらが名称変更の時期に当たっていたのかもしれない。(ちなみに「水附」は「水月」に)。
 そのあと昭和45年編集版では当該部分へ川名の記載は消える。そういうことで、昭和30年前後まで松尾川は使われていたのではないか。それが平成5年9月竣功のこの橋にカッコつけで松尾川の名を入れさせたのだろう。




写真684A.板の橋
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 左の写真は1980年代半ばの野洲川の写真である。撮影場所は、上流にある青瀬橋と国道1号に架かる白川橋の間であることは確かだが、その間のどこかといわれると返事のしようがない。現在でもそうだけど、川原への下り方は難しい。ぽっと出の素人では道が分からないのである。そのとき知っていたのは、青瀬橋から右岸を下って小さなトンネルを抜けて道が左へ曲がり始めるところ、そこが唯一の下り道だった。考えられる場所としてはそこしかあり得ないのだが、そんな不確かな写真をなぜ持ち出したのか。その当時の一つの記録として、写真の奥に見える”日本昔話”に登場するような橋を見てもらいたかったからである。




地図610A.松尾川
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 野洲川渓谷の写真を撮りに通っていたころ、青瀬橋から白川橋まで橋はないと考えていた。しかし上の写真に見るような板の橋が架かっていた。そういう目でもう一度地図を見ると、橋は架かっていたのである。もちろん地図で表示された橋が写真に見るような板の橋だったかどうかはわからない。たとえば左の”明治25年測量大正5年修正版”には、なんと瀬ノ音から松尾の渡しまで直線距離で2.2Kmの間に、計6本、距離でいえば400〜500mおきに橋が架かっていたのである。要するに生活の範囲が狭かった。向こう岸へ行くのに、何Kmも遠回りは考えられなかったのだろう。その形は昭和25年修正版でも変わらない。この間戦争々々で庶民の生活状態は変わりようがなかったのだろう。
 そのあと昭和45年になると田中・野上野間の1か所に減少する。なるほど、なるほど、さもありなん。広い野洲川の川原をつらい目をして歩かなくても、ちょっと遠回りをすれば、クルマで行ける社会になったのだ。と納得して昭和55年版を見ると、なんと、45年版の橋がまだ残っていたのである。
 とすれば、写真684Aの板の橋はこのうちの1本か、ということになるが、どう考えても記憶の場所とかなり違うのである。これに関しては迷宮入り。解決の手立てはない。

左・地図610B.御代参橋 明治25年測量・大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
右・地図610C.御代参橋 発行年不詳 (図説近江の街道・郷土出版社1994)

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 左の地図は明治25年測量のものである。御代参街道はまだ現役だったはず。土山宿から北へ伸びる街道(赤線で示した)がそれだろう。松尾川(野洲川)には橋が架かっている。まさか上で見た板の橋ではないだろう。すくなくとも行列が通れるぐらいの橋だったはず。
 右は、郷土出版社版・図説『近江の街道』、「御代参街道」の項につけられた御代参街道全コースのうち当該の部分のみを切り取ったもの。明治25年測量のものと比較して、微妙な違いはあるものの、ほぼ同じコースをたどっている。




左・地図610B.御代参橋 明治25年測量・大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
右・地図615.御代参橋 国土地理院web地図

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 左の地図は上と同じ。右が国土地理院web地図である。地図というのは厄介なもので、公開されたときにはすでに古くなっている。現場に変化があって、それが記録され地図が改定される。変化の時点から公表までの時間差だけ、すでに古くなっている。しかしそんな面倒なことを言わなければこれが現段階での最新のものであろう。
 さて、この項は国道1号土山宿旧追分旅館前T字路をスタートし、御代参橋まで歩いてきたところである。20数年前にはなかったこの橋が復活していた。基本的に地図のベースが異なるので、正確には比較することは無理であるが、ほぼ同じ場所であることが分かる。




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