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N01.大山川流域

N0100A. 大山川をさかのぼる・A

取材:2012.11
初稿UP:2012.12.12


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地図01.大山川下流域地図・合流点から大山池まで
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 なかなか本論にたどりつけないが、分水界を見る前に大山川のルートそのものを見ておこう。すでに述べたように、大山川は希望が丘山中を水源とし、湖南市菩提寺の大山池を経て、国道8号野洲川大橋辺りで野洲川に合流している。本稿では、合流点から希望が丘までをさかのぼることにする。
 ここでは前半、合流点から大山池まで。







1.合流点から県道27号まで
写真01.大山川・野洲川合流点
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 国道8号野洲川大橋から見た大山川合流地点である。右の流れは野洲川。中央やや左、緑の堤防が野洲川右岸と大山川左岸がV字形に合するところ。そこから左が大山川である。河床のほとんどがヨシで覆われ水は見えない。実際の水がどこで野洲川に合流しているのか、それも判然としない。しかし、大水でも出た場合、2つの川の水がここで合流することは間違いない、そういう場所である。



写真02.合流点右岸から野洲川大橋を見る。
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 両川の合流地点右岸あたりから野洲川大橋を見たところ。この橋の長さを地図で測ってみると約430m、以前何かの時にこの橋の長さと三上山の高さ(標高432m)とが同じだと聞いたことがある。偶然の一致だが面白い。ただし、三上山山麓の標高がほぼ110mなので、実際の標高差は320mほどだが。遠景、左の方のピークが比叡山である。
  写真では右端(右岸)のほうが写っていない。





写真03.大山川・野洲川合流点
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 上と同じ場所から大山川河口を見たところ。こういう場所を河口といっていいのかどうか、要するに大山川が野洲川へ出ていくところである。画面左端から水平方向にに続いてくる緑の堤防が大山川左岸。その右のススキ(オギかも知れない)の穂が白いところは野洲川の河川敷である。アップをもう1枚。川幅は約40m。ヨシの中で流れが光っている。普段はこれぐらいの水量でしかない。




写真04.大山川河口と野洲川大橋
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 少し上流へ移動して下流を振り返ったところ。黒い影が左岸堤防。それが切れて野洲川へ流れ出る。遠景の山は比叡山から比良山(画面右外)へ続く稜線。








写真05.三上山
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 同じ場所から三上山を見たところ。上空の飛行機雲を撮ったので妙な構図になっているが、雌山が手前にあり、本体と重なる形でほとんど見えなくなっている。いわゆる三上山の正面。雨水の流れでいえば、右斜面は大山川へ、左斜面は家棟川へというところ。実際はそんなに簡単に振り分けられるものではないだろうが。





写真06.河川管理境界
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 さらに上流へ移動し、対岸(左岸)が完全に大山川堤防になったところ。堤防上に立っている「河川管理境界」の標識。上流が大山川(滋賀県)、下流が野洲川(国土交通省)。堤防上面、野洲川は舗装・大山川は地道である。






写真07.近江富士団地通学橋
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 対岸に近江富士団地の住宅地が見えるようになる。小さな橋が見える。大山川最下流の橋である。おそらく団地から三上小学校へのルートとして架けられたものであろう。そこから上流を見たところ。正面に菩提寺山が見える。対岸は桜並木である。







地図04.補遺:祇王井川が大山川をくぐる (国土地理院Web地図に加筆)
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 地図の中央に見える橋が上の写真07で見た橋である。今ここでは地図の赤い矢印と逆向きに、下流から上流へ大山川を遡っている。大山川に着目して堤防を歩いていただけでは何事も見えてこない。実はここにとんでもない事実が隠れていた。じつはここで大山川の下をもう一つの川、祇王井川がくぐっていたのである。
 祇王井川は白拍子・祇王が平清盛にたのんでつくらせたという伝説の川である。当時の取水口はもっと下流、国道8号と新幹線との間といわれているが、現在はここより上流の石部頭首工から取水している。その川が野洲川沖積平野へ流れ出るためには、どうしてもこの大山川とクロスしなければならない。ここに野洲川から流れ出た川が、野洲川に流れ込む川の下をくぐるというドラマが生まれたのである。
 祇王井川を歩くと、ここ近江富士5丁目で大山川を目の前にして祇王井川が忽然と消える。劇的なところである。もう1枚。つぎに現れるのは、大山川の向こう側である。
 「祇王井川探索マップ」あり。HPトップ・”野洲川物語/祇王井川探索”から入りなおしてください。



写真08.小富士橋 
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 小富士橋・独特のスタイルを持つ、自動車通行不可のしゃれた吊り橋である。団地の中央部に架かかる。対岸は日立ツール、シライ電子などがはいる工場団地である。もう1枚(写真08A)。この橋が開通したとき、これ(写真08A)とほぼ同じ構図の写真を撮った。真新しい銅鐸がキラキラ輝いて写真にならなかった記憶がある。





写真09.三上山
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 小富士橋の上流側から見た三上山。何とも不細工な写真だが、前出の「写真05」と比較して山の形がよく分かる。写真05では姿が見えなかった左の山がどこから出てきたのかと思う。写真05は三上山の山容を人間の顔に例えれば真正面から見たもので、鼻筋がもう一つはっきりしなかった。左の写真は、人間の顔の左前45度ぐらいの位置に回ってきた。雌山が主峰(雄山)の前に突き出ている。今見えている範囲に降った雨がこの大山川に流れ落ちることがよく分かる。



写真10.さくら橋
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 小富士橋の上流100mあまりのところに架かる。こちらは自動車通行可。左岸たもとに河川敷へ降り口がある。そこに立て看板があって、「イノシシ注意。朝夕・夜間は降りないように」との警告。住宅地内のこんなところまで来るのか。






写真11.小山川が合流する
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 さくら橋の手前で小山川が合流してくる。上の写真には写っていないが、さくら橋のすぐ下流右岸に小山川が合流してくる。本流が「大山川」、支流が「小山川」、ふざけたネーミングだが、分かりやすくていい。ついでに中山川もと思うが、残念ながらそれはない。
 大山川が菩提寺の大山池から流れ出し、小山川が花緑公園の桜池から流れてくることになっていたはずだが、今はうにゃむにゃと曰く言い難し。あとでもう一度出てくるので。
 右端に写っているのがさくら橋。正面から突っ込んでくるのが小山川。手前が大山川左岸、”夜は降りるな”という河川敷である。背後の稜線が天山。この山が横に最も長く見えるアングルである。



写真12.さくら橋から上流を見る
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 住宅地の中らしく、河床が整備され、その中を流れが蛇行していく。徒渉用の踏み石も作られている。車が走っている橋が県道27号・野洲甲西線。国道8号御上神社前から旧甲西町をつなぐ道路。野洲川右岸を走る1号バイパスとつながって、最近交通量が増している。ついでに下流側を1枚





2.県道27号から大山池まで
写真13.大山川橋
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 県道27号・大山川橋。南桜のほうから御上神社方面を向いて撮ったもの。黒い車は旧甲西町へ向かっている。右に見える山裾は三上山雌山である。もう1枚、この橋を大山川上流側から見たところ。画面左が南桜、右が御上神社前。







写真14.県道27号から上流側を見る
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 県道27号・大山川橋上から上流側を見たところ。左岸(画面では右側)がさくら緑地。最近やっとサクラが綺麗になった。
 余談だが、今年(2012)5月の金環日食の時は、ここを撮影場所に選んだ。車が止められ、高い建物がなく、おそらく人も少ないだろうということで。しかし快晴の空から、途中雲が湧いてくることまでは計算できなかった。



写真15.むかで退治タイル画。

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 さくら緑地に入ってすぐに見えてくるタイル画。俵藤太のムカデ退治伝説を壁画風にまとめたもの。
 三上山は雄山(主峰)から雌山(左に見える峰)までを真横から見る角度になる。右の山が天山。いま見えている範囲に降った雨はすべてこの大山川に流れ込む勘定になる。


写真16.さくら緑地沿いを行く
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 私が三上山の写真を撮りだした1970年代後半ごろまで、この大山川は鬱蒼たる堤防林に覆われ、流れを見ることなど想像も出来ない状態だった。その後河岸が整備され、今は南北桜橋のたもとまでが「さくら緑地」して整備されている。







写真17.三上山
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 ”南北桜橋”の近くから見た三上山。橋の名前が奇妙さを感じるが、三上山の山麓の集落が北桜、反対側の菩提寺山山麓の集落が南桜。その間を流れる大山川。南桜と北桜をつなぐという意味らしい。語感を無視して理屈だけで名付けるとこういうことになりますよ、という見本のような名前。
 三上山は紅葉真っさかり。これも30年前には考えられなかった話。最近ますます広葉樹化のペースが上がってきた感じがする。



写真18.南北桜橋から上流を見る
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 左岸(画面右側)は竹薮、右岸(画面左側)はさくら墓苑。今見えている直線河道は、河川改修時に付け替えられた部分で、以前は、さくら墓苑の外側を巻くようにほぼ半円を描いていた。それがこのような直線河道に生まれ変わった。






写真19.さくら墓苑から望む

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 かつて大山川の流路だったさくら墓苑の外周、その高みから見た大山川流域。右の山が天山である。三上山のすそに広がるのが北桜集落。圃場整備が行われる前、この農地を菩提寺山の中腹から見るときは、モザイク模様のステンドグラスを見るようだった。



写真20.小山川合流
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 南桜から湖南市菩提寺へ向かうバス道が、右折して名神高速道路の下をくぐる。その曲がり角の辺りで、直進する大山川に対して、右岸から小山川が合流してくる。と書くと、あれっどこかでそんな話があったぞと思われるかも知れない。その通り、近江富士団地内のさくら橋のところで同じように右岸から合流していた。ここで合流してしまったものが、下流の近江富士団地へどうして現れるのか。わけのわからん話である。これは項を改めることとし、まず大山川をトレースして・・・と行きたいところだが、実際にはここで山地と名神との間に入り歩くことも不可能になる。


3.大山池
写真21.大山池
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 さて大山池である。写真の対岸が名神である。三上山の右下に防音壁が見える。それが切れた右側、トラックが走っている下が暗渠になっていて、これが池から大山川への出口になっている。普段はなみなみと水をたたえているが、このときは水を抜いた状態だった。







写真22.大山池余聞・1
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 私は、長くこの池の名前が分からず、「名神高速道路菩提寺PA裏の農業用水池」などと長い呼び方をしていたが、『鈴木儀平の菩提寺歴史散歩』(儀平塾編)という本を読んでいて「大山池」との名であることを知った。この本は、菩提寺正念寺住職、芭蕉研究家の乾憲雄氏から頂戴した。色いろと示唆に富んだ本で興味深く読ませてもらっている。
 この写真は同書所載のもので、「大正時代の大山池の様子」とある。



写真23.大山池余聞・2
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 もう1枚、同書から拝借する。「現在の大山池」とある。名神を走るトラックやバスが見える。防音壁などはなく、おそらく名神開通後、初期の段階のものであろう。
 同書に次のようにある。
 ・・・明治21(1888)年に作られた当初の堰堤は「土」だけで作られていましたが、4,5年たった頃、地震でひび割れし、そこから水が漏れだしたので修復されました。そのとき、池の内側の水面のところまで石を貼ったのでその後は水が漏れることはなくなりました。左側に野洲市北桜と南桜の水門があり、用水に使われています。正面に名神菩提寺パーキングエリアが見えます。右側の名神の下をくぐったところに余水バケがあり、排水されています。大山池からあふれた水を流す余水バケです。名神高速道路を潜って、近江富士団地の中を流れる大山川を通って野洲川に流れ込んでいます。
 余水バケは、明治の初年に来日したオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導で、田辺朔郎が技術を受け継いで造りました。田辺朔郎は琵琶湖疏水や大津市上田上のオランダ堰堤を造ったことで知られています。水を一気に落とさないよう、1尺(約30cm)の石を積み重ねて階段状に落としています。
 戦後、団地が出来ましたが、大雨のたびに水があふれて、関西アーバン銀行あたりは海のようになり、子供が落ちこんで流される事故もありました。
 池は菩提寺の地所でありながら、水利権は野洲町(現野洲市)の南桜と北桜にあるため、「池の余水バケを1尺下げてくれ」と二つの在所に交渉しましたが、応じて貰えませんでした。やむなく幅15mだった余水バケが25mに広げられました。このとき、石材が石積からコンクリートに変わりました。現在も基礎部分に石積みの残っているところがあります。
・・・・
 三上山を撮りだして30数年。この池には、とくにフィルム時代、夏の夕方よく通った。今この文を読むとき、何も知らずにただ撮っていただけだったと恥じ入る思いである。
 写真23と同じ場所から、2012年11月版(写真23A)。(八田・注、本文には真正面にPAが見えますとあるが、PAは画面右外にある)
 ◆おまけ 関西アーバン銀行付近から見た三上山と天山(写真23B)。 (三上山の下に見える林の向こうが大山池。右に見える白い立方体が菩提寺PAの水槽。大山川は住宅地の向こうを流れている。)

 こうして読んでみると、「余水バケ」なるものが見たくなった。朔郎バージョンは残っていないとしても現代版はあるはず。大山川経由で野洲川へというわけだから、その位置は名神を潜ったあと、現在の小山川へ合流するまでのところのはず。写真20で、この間トレース不能としていたところである。
 そういえば写真20に小山川を渡る橋がある。以前、橋を渡ったところで通行止めになっていた。が、実際には立て札が立っているだけだから通れないことはない。貴重な社会学習のためだ、強行突破すればいけるだろう。・・・行ってみた。・・・「?」。橋そのものが通行止め(写真23C)になっていた。
 何もこんなに厳重に通行止めにしなくても、実際には、こんな橋、渡っても渡らなくても、日常生活には何の関係もないところである。例の「バケ」(意味が分からないが、要するに落差工のことだろう)にしても、人払いしなければならないほど秘密性の高いものとも思えない。それよりも何よりも、一日勘定しても10人も通るかどうかという場所である。何のための通行止めなのか。周囲の状況から考えて、どうもイノシシ様のための通行止めらしい。ということはかく申す私もイノシシに見立てられてるわけで。「山神橋」という立派な石標に笑われている思いだった。



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