穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・24---
錦秋の西穂高

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その1へ・その2



 5.これはたまらん!

 13時40分、バスプール着。何じゃ?これは。さして広くもない上高地渓谷の、どこからこれだけのひとが出てきたのかと驚く。案内のスピーカーが乗車整理券をとれとわめく。
 びっくりしていても始まらない。とにかく整理券を・・・。 3556番。・・・ウン、それで?。いまの乗車番号は?24XX番です。ちょっと待てよ。バス1台に何人乗れるの?、係員はこいつアホかというような、哀れみの表情で、50人です。そらそうやろ、100人も乗れるバスが来るはずないわな。あの釜トンネル通って来るんだもんな。ダイヤ無視のピストン運転だが、釜トンネル付近の渋滞で、それも思うに任せぬという。
 これはえらいこっちゃで、なんせ、バスプールに人があふれて、バスが1台もいないのだから。その後も続々と整理券をもらう人の列。

 今晩の白骨温泉の宴会はアウトやな、・・・と、あきらめかけたとき、誰かが、15時50分に、白骨温泉行きが1本だけあるのを探し出してきた。「よし。それや」、もう一度整理券の並び直し。

 整理券がとれてしまうと、今度は退屈になる。たしか、カラ松林の中に、遭難慰霊碑があって、そこに尾崎喜八の詩があったぞと、出向いてみる。写真左、遭難慰霊碑。写真右、慰霊碑のレリーフ(穂高連峰の地形を形取っている。手前の谷が上高地渓谷)。

 お互い、気の長さを感心し始めたころ、バスは20分遅れでやってくる。そのときの松本行きの乗車番号は、3200番台。これで不満が爆発しないのは、万博で鍛えた忍耐力のたまものか。もっとも爆発さしたところでバスが来るわけでなし、この後、あれだけの人はどうなったのだろう。

 やっとの思いで乗ったバスは、大正池畔をあっという間に通過する。これが現代の別れ。

 6.白骨温泉

 いまの地図を見ると、国道158号から白骨温泉へは立体交差になっているが、そのころはどうだったのか、全く記憶にない。とにかく上高地線から分かれた白骨への道が、かつての上高地線を思わす細い道だったこと。それがぐんぐん高度を上げていくこと。これだけが遠い記憶に残っている。
 そして忘れもしない車内の悲鳴。あと少しで白骨へ着くというところで、川沿いに走っていた道が山に向かって直角に曲がるところがある。曲がったバスが上り勾配で止まったあと、すーとバックし始めた。後は谷底である。後部座席から「キャー」とも「ワー」とも、得体の知れない悲鳴。運転手はと見ると、にやにや笑っている。
  「あー、びっくりした。窓から下を見たら、谷底まで何もないのやぞ」。後輪より後の車体が完全に断崖の外に出てしまったのだという。断崖の端に車止めはあるのだろうが。運転手にしてみたら、そこで一騒ぎさせるのが、楽しみだったのだろう。 多少怖い目をしても、上高地で、いつ来るやらわからんバスを待っているよりはエエわな。

 白骨温泉着。17時半。夕闇迫るころだった。ぷーんと硫黄のにおいが鼻につく。少し坂を上って、白船荘新宅旅館着。

 帳場の女将さんが、「ベツヨンゴへご案内」という。それを聞いて、「別館の4階5号室やな」。「4階建ての建物などどこにもなかったぞ」、「どこか別の場所にあるのと違うか」とひそひそ。お婆ちゃんが出てきて「いらっしゃいませ、ご案内いたします」。
 渡り廊下を渡る。別館はどこにあるのかときょろきょろ。
 「こちらでございます」、通された部屋は1階。
 「お婆ちゃん、5階と違うの」、
 「いえ、こちらでございます・・・」。
 部屋番号は?と見ると、「4」。館の4号室のことやったんか・・・と、勝手に納得していると、「2階にもう1部屋とってございます」。
 「・・・・?」。
 「お婆ちゃん、もう一部屋て、5階じゃないの?、さっき、女将さんがベツヨンゴいうたよ」。
 「いえ、それはゴカイです」。
 「そうか、ゴカイか、誤解でも5階でもエエけど。ウンそれで、2階の何号室?」、
 「5号室でございます」。
 「お婆ちゃん、それをはよゆーてーな」。
 結論は、館の号室・号室のことでした。イヤハヤ。

 

 ゴカイついでに誤解のないように、上の文章は、昭和40年代半ばの話。現在の様子はこちらをどうぞ

 追記:このあとかなりたってから、理科の教員仲間で、この新宅旅館に泊まった。経緯は忘れたが、そのとき当時のK校長も同道した。さらにその後、何年かして、K校長があの白骨温泉はよかった。もう一度行きたいという。めぼしい連中に声をかけて、宿泊の予約もした。ところが、その旅行を前にして、一行の内の一人T氏がガンで入院してしまった。わしらだけで行くわけにもいかんわな、ということでそのプランはお流れになった。
 その後、T氏はあれよあれよという間になくなってしまった。いまから10年近く前のことである。「とうとう白骨へは行けなんだな」、そういって残念がっていたK校長も、つい最近(2008年9月現在)なくなった。世は常ならず。


 7.白骨温泉から松本まで。

 昭和47(1972)年10月11日(水)

 

 目が覚めると雨。昨日一日の好天は貴重だった。
 写真左、タクシーは別のお客さん用。奥の建物が別館。どう見ても4階ではない。ゴカイのお婆ちゃん元気でな。
9時過ぎ、旅館のマイクロバスでバス停へ。9時40分発のバスは、もう待っていた。暖房された車内が心地よい。60%ほどの客を乗せて、昨日の道を下る。黄葉がガスにけぶる。


   

 さて、沢渡。昭和30年頃、上高地線のバスが、エンジン冷却のためと称して小休止したところである。左がこのとき1972年現在の写真。右が1969年の写真である。左の写真に写っているトラスブリッジは、昭和30年頃には、木製のつり橋だった。建物と橋の関係は昔ままであるが、これが果たして同じ場所なのか。また、69年に撮った写真が1955年頃と同じ建物なのか。すべてが謎である。

 奈川ダム。前回来たときには未完成だった道も、完全舗装成って、快調にとばす。
 10時50分、新島々バスターミナル着。雨は小降りになる。

 松本電鉄のホームに無蓋貨車の「ト」が止まっている。難儀な性分で、こういうのを見ると楽しくなる。無蓋貨車では、「トム」というやつが有名だが、「ト」というのは珍しい。貨車は、「ト」が無蓋車、「ワ」が有蓋車、などと形式が定められており、それに積載量の多寡で、「ム・ラ・サ・キ」という記号がつく。「ム」が積載量が少なく、「キ」が大きい。「ム」より小さいやつは、何にもつかない。だから「ト」というのは、「トム」より小さい。珍しい貨車である。京都あたりではほとんど見たことがない。

 ホームへ上がって驚いた。片方の扉がぱたんとホーム側へ倒されて、貨車そのものがホームの代わりをしているのである。連結器もついたまま。邪魔になればさっと引き上げるのだろう。誰が考えたのか知らんが、スゴイね、この発想は。XX庁やYY省の役員も、こういう発想を見習らへよ・・・。

 11時15分の電車で松本へ。考えてみれば、この線に乗るのは、昭和30年、初めて西穂高へ来たとき以来。その後は木曽福島へ出るか、飛騨側へ下っていたことになる。駅前で、昼食。乾杯。乾杯は昨夜終わったはずやけど。まあエエ。ゴカイのお婆ちゃんいつまでも元気でな。

 8.松本から

 松本13時13分の名古屋行き。

 小降りになったとはいえ、奈良井までは雨。ところが鳥居トンネルを抜けたトタン、驚くような晴天になる。こういう変化が見られるから、旅は面白い。
 写真左、薮原駅(鳥居トンネルを抜けて初めての駅)で。名所案内に「薮原駅海抜492m」とある。自分の駅を名所案内に乗せるやつがあるか?。それもトップやでー。この写真、拡大して見てもらうと、下から2つ目に「境峠」とある。この峠は何度か書いたが、山からの帰り、最後の白樺が見えるところだった。懐かしい。
 それともう1つ上の鳥居峠。このとき天気を分けた峠だが、鉄道も国道もトンネルで抜ける。その上を旧中山道が峠で越える。分水嶺である。一度行ってみたいと思いつつ、いまだに行けていない。心残りである。

 写真左、木曽福島。夏なら、白装束に杖を持った行者さんでいっぱいだが、いまはひっそり。
 写真右、窓から乗り出して、夕暮れ近く、何かないかと探していいたら、D51が単機で回送されてきた。ヘッドライトの明かりが印象的だった。窓が開かないいまの電車では、こんなアホな写真は撮れない。寂しい限り。  


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