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三上山物語

Vol. 06 051〜060



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051

 ■甲山古墳

掲載日:2009.07.29

  野洲市辻町
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 高校の日本史の授業が新鮮だった。国民学校での国史はイザナギ・イザナミで始まっていたし、中学校は戦争直後の混乱期でまともな歴史教育なし、そんな中での日本史だった。石器・縄文・弥生…、古墳・銅鐸…、すべてが初耳だった。
 滋賀県へ引っ越してきて間なしのころ、ふと手にした『古代の日本・近畿編』(角川書店)という本に、銅鐸出土地として滋賀県野洲町(当時)云々とあるのに気がついた。さらに読み進めば、周辺には古墳群が。いまは、銅鐸出土記念碑も建ち、近くに銅鐸博物館もある。しかし40年近くの昔、そんなものは皆無。教科書の中のものだと思っていた歴史遺跡が、我が家から徒歩圏内にあった。二度目の驚きだった。
写真、新幹線の向こうの森が桜生(さくらばさま)史跡公園。運転席のすぐ上、鍋を伏せたように見えるのが甲山(かぶとやま)古墳、6世紀後半の円墳で、直径30m、高さ10mという。   目次へ戻る



052

 ■古代峠

掲載日:2009.08.12

  野洲市北桜
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 三上山のふもとにある近江富士花緑公園。丘陵を巡る遊歩道の一角に、巨石を積み上げたトンネル状の不思議な石組みがある。名付けて「古代峠」。標高200m前後、はるかに琵琶湖も見えようという高みである。それにしても、こんなところに何のために?。公園長のOさんは、「古墳だとは思いますが…。ロマンを感じますね。公園を整備したときの命名でしょうね…」。
 念のため銅鐸博物館のSさんに聞いてみた。分厚い資料と地図を照合しながら、「古墳ですね。石室の奥壁が崩れてトンネルになったのでしょう」という。写真は、石室内部から崩れ失せた奥壁の方を向いて撮っている勘定になる。年代的には前回の甲山古墳よりはあとだとか。時代が下がると数が増えるかわりに規模が小さくなるのだという。渡された地図には、妙光寺山と三上山のはざまだけで、60を越えるドット(古墳の位置を示す)がゴマをまいたようだった。   目次へ戻る



053

 ■和邇川デルタ

掲載日:2009.08.26

  大津市八屋戸
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 JR蓬莱駅前から八屋戸の集落を抜けて、湖西道路を渡ったところに「小女郎池から蓬莱山へ」との道案内がある。イノシシよけのネットに沿って、少し登るとY字形の三差路に出る。休憩用の東屋があって、そこから琵琶湖が一望できる。
 画面右寄りの2本の広告塔は和邇駅前のスパー。琵琶湖に突き出た岬は和邇川デルタ。湖西では安曇川のそれについで2番目に大きい。このあたり一帯が古代和邇(わに)氏の拠点であり、対岸三上山周辺の安(やす)氏、湖北の息長(おきなが)氏などと深いつながりをもっていたという。
 一方、『京都滋賀・古代地名を歩くU』(吉田金彦著・京都新聞社刊)によれば、「ささなみの志賀の大わだ」などとして万葉集に出てくる「大わだ」は、湖岸線の屈曲を表すという。一方、アイヌ語でワニは「湾曲した土地」を意味するとか。そういえば、「志賀の大わだ」、見事な湾曲だ。   目次へ戻る



054

 ■青く暮れる

掲載日:2009.09.09

  大津市花園町
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 びわこローズタウンの南西部に曼陀羅山という小さな山がある。標高164m、山頂に金比羅神社が祀られており、その境内に立つと琵琶湖大橋越しに三上山が見える。和邇川右岸からこのあたりまで、おおまかにいってローズタウンの北半分が「小野」と呼ばれ、遣隋使・小野妹子を初めとして、小野篁、小野道風などの出身地として名高い。
 私たち戦中の小学生には小野道風がいちばんなじみ深い。例の「柳にとびつく蛙」の話である。この話が出てきたとき、教室中がどっと湧いた。「トーフ、とーふ、豆腐」、だれも「とーふー」とはいわなかった。道風は小野篁の孫だとか。小野篁神社には、「わたのはら八十島かけてこぎ出ぬと 人には告げよあまの釣船」の歌碑も。ローズタウン内にある小野妹子公園。妹子神社があり、背後の唐臼山古墳は妹子の墓だとも。公園内の展望台からも三上山が見えるが、絵が単純で写真にはなりにくい。   目次へ戻る



055

 ■油日の里

掲載日:2009.09.16

  甲賀市甲賀町油日
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 油日岳(694m)、鈴鹿山系最南端の山である。古い昔、この山頂に油日大明神が降臨し、そのとき大光明を発したので、「油日」の名が起こったという。山頂に祀られている「岳大明神」を奥宮とし、ふもとの油日神社を里宮とする山岳信仰の山である。創建は古く聖徳太子によるとの伝承も。
 さてその油日岳。地形的には山頂から三上山が見えることは間違いないのだが、実際に展望がきくかどうかは、登ってみなければ分からない。さてどうしたものか。何か情報がないかと、知り合いのKさんのHPを開く。「低山歩きのKEN」、滋賀周辺の山歩きのページである。その中で、油日岳の登山道から三上山が見えるという。
 現場は、油日神社の裏手から林道を2kmほど入った杣川源流沿い、直線距離28・3Km、標高400mぐらいの場所である。谷筋を通して遠く可愛く見える。三上山のすぐ手前、右へだらだら上りの山稜は十二坊。   目次へ戻る



056

 ■三成は見た

掲載日:2009.09.23

  彦根市古沢町
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 「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」といわれた佐和山城。JR琵琶湖線の上り電車が彦根駅を出てすぐ、右側に山を背にした風格のあるお寺が二つ見えてくる。清凉寺と龍潭寺、それらの背後、標高233mの山が城址である。龍潭寺の裏から、普通に歩いて20分だという。
 登りついた本丸跡、広場には、黒い大きな羽に黄色い紋をつけた蝶が乱舞していた。見渡せば市街地の向こうに大きく繖山(きぬがさやま)。いわずと知れた観音寺城址である。その右の小高い山が安土城址。そして、両山の鞍部・北腰越の向こうに、淡く透き通るような三上山。
 家康との決戦を前に、三成はすでに滅びた両城跡を眺め、歴史の流れに思いをはせたに違いない。落城は関ヶ原の二日後、父正継・兄正澄ら一族自刃して果てたという。いま本丸広場には色あせたベンチが二つ三つ。城跡には夏草がよく似合う。   目次へ戻る



057

 ■山城晩夏

掲載日:2009.09.30

  近江八幡市安土町石寺
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 繖山(きぬがさやま・433m)、別名観音寺山とも呼ばれ、観音寺城址として知られている。近江守護職佐々木氏の居城で、六角・京極の二流に分かれた後は、六角氏の本拠となる。隣の安土山とは比較にならない大きな山である。
 勉強不足の私は、観音寺城はこの山のどこかにぽつんと一つあったのだと思いこんでいた。ところがそうではない、山全体が城塞化された日本屈指の山城だったという。安土城が司令塔としての性格を有していたのに対し、この山城群は天険を利用した闘う城であった。正確な築城年代は定かでないが、室町時代、応仁の乱において、すでにこの城での闘いがあったという。
 下って永禄11年(1568年)、信長に攻められた六角義賢・義治父子は甲賀の三雲城へ脱出。皮肉にも「闘う城」は無血開城。城主不在廃城となる。
写真は観音正寺の前庭から。左手、竹と重なるのが鏡山。   目次へ戻る



058

 ■文晁が描いた

掲載日:2009.10.21

  守山市水保町
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 江戸時代後期の画家・谷文晁(1763〜1840)が残した『日本名山図会』。写真右下の絵はその中の三上山である。初めて見たときは、これが三上山だとは思えなかった。しかし、でたらめでは描かないだろう。だとしたらそのスケッチ場所はどこか。
 左が三上山主峰、まん中が雌山、いちばん右のちょっと高い峰が菩提寺山と仮定し、それらの間隔の比を読む。ほぼ2対1。現実の風景で三者がその割合で見え、かつ雌山より菩提寺山が高く見える場所を探す。絵の右下に見える堤防を含めて考えると、旧野洲川南流が候補地に。ここは南流跡地で整備中のびわこ地球市民の森。   目次へ戻る



059

 ■矢橋帰帆

掲載日:2009.10.28

  大津市丸の内町目
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 草津宿から京へ向かう旧東海道。矢倉2丁目に「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船渡し」との道標が残っている。矢橋道への分岐点である。
 矢橋・石場間、船路一里(4Km)。古く室町時代には湖上水運の不安定さから、「急がば回れ」といわれたが、江戸時代に入ると、「勢多に回れば三里の回り、ござれ矢橋の船に乗ろ」と歌われるようになる。三上山を背に白帆が行くさまは幾多の画家の筆になり、近江八景の一つ「矢橋帰帆」として今に名を残している。
 近江大橋西詰に「帰帆」と名付けられたモニュメントが建っている。帆掛け船の帆を型どったJ型の石像である。写真はその横から。対岸の橋が湖岸道路の矢橋帰帆南橋、左は人工の島・矢橋帰帆島。かつての船着き場は、橋をくぐった島の向こう。石組みの船寄せや常夜灯が残されているが人家に埋もれて目立たない。草津市街地の高層ビルがまばゆい。   目次へ戻る



060

 ■石場の常夜灯

掲載日:2009.11.11

  大津市打出浜
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 東海道・石場の常夜灯。びわ湖ホール横の広場に建つ。創建は幕末の弘化2年(1845)。当初、今の大津警察署駐車場付近にあったが、昭和43年に琵琶湖文化館前へ、さらに平成17年に現在地へと移された。高さ8・4m 、そばを行く人が小さく見える。
 野洲市が市民からの寄贈品として、吉村孝敬筆「近江八景図」屏風(1799)を展示公開した。その中に石場の船着場風景が描かれている。東海道沿いの波打ち際に、細い一本柱に火袋を載せた常夜灯。銅鐸博物館学芸員のYさんは今の常夜灯建立以前の姿を知る上で興味深いという。
そういう話の中で知人のMさんが、「一本足の常夜灯なら近くにもう一基ありますよ」という。大津市中央4丁目、小舟入の常夜灯、こちらは文化5年(1808)の建立、石造の一本足である。ともに江戸時代には、対岸矢橋と結ぶ湖上交通の拠点として、上り下りの旅人でにぎわった。
 夜明け前、湖上はるかに三上山。   目次へ戻る





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