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三上山物語

Vol. 05 041〜050



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041

 ■あれっ?

掲載日:2009.04.22

  大津市雄琴6丁目
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 ここは大津市雄琴港。船着き場のほうから防波堤の付け根当たりを見たところである。
2月のある日のこと。空には雲が多く暗い朝だった。東の方、わずかに見える雲の切れ間を頼りに、とにかく行ってみようと出かけてきた。着いてからも状況はほとんど変らず、雲の切れ間を太陽が通らないかと待ちかまえたが、気配を感じさせるだけで、何事も起こらなかった。撮っても仕方はないのだがと、気のないシャッターを切って帰路についた。
 帰宅後、データをパソコンに移して驚いた。撮ったはずもない三上山が写っている。なに?よく見れば雲だった。30数年三上山を撮り続けてきて、山と同じ形をした雲は初めてだった。それも本物の真上に同じ大きさで。
 雲の下の暗い三上山はたしかに撮った。しかし雲は勝手に写っていただけ。バランスの悪さはそのせいである。   目次へ戻る



042

 ■フェノロサも見た

掲載日:2009.04.29

  大津市上山町
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 少し詳しい地図を見ると、大津市山上町に、「フェノロサの墓」という表記がある。大津市役所背後の高台、法明院の境内である。
 アーネスト・F・フェノロサ。1853年、アメリカ、マサチューセッツ州生まれ。1878(明治11)年に来日,東京大学で哲学を講義するかたわら、日本美術に関心をもち,東京美術学校の開設に参画,自ら美術史を講じた。1890(明治23)年ボストン美術館東洋部長に就任のため帰国。1896(明治29)年再来日、仏教に帰依し、三井寺、法明院で受戒。1908(明治41)年、ロンドンで急死。生前の願いのもと、分骨された遺骨が法明院に眠る。昨年が没後百年であった。
 庭園からは、眼下に琵琶湖が広がり、対岸に三上山が見える。法明院の茶室で寝起きしたという夫妻は、朝な夕なにこの風景を目のあたりにしたことだろう。高層建築がなかったそのころ、眺めはもっと広大だったに違いない。   目次へ戻る



043

 ■山の彼方に

掲載日:2009.05.20

  近江市百済寺町
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 石坂洋次郎原作の映画『山の彼方に』。同名の主題歌もヒットした。昭和20年代半ばのことである。姉妹曲の『青い山脈』が明朗快活なのに比して、どことなく哀愁を含んだこの曲が好きだった。とくに「行こうよ緑の尾根越えて」というくだり。
 幾重にも重なる山の果てに、頭だけがチラと見える。それでいて、見えたとたんにすぐそれと分かるのがこの山の特徴でもある。ここは湖東三山の一つ、百済寺の駐車場から北へわずかの山中、ふもとの集落が眼下に見える。三上山(432m)からの直線距離約24Kmの場所である。
 その手前、頂上がほぼ同じ高さで横に広がる山が鏡山(385m)。標高は50mほど低いのだが、まさに屏風のように立ちはだかる。この大きさには勝てんなー。ため息混じりのある日ふと思った。鏡山から見たらどう見えるのか。そうかそういう手があったか。行こうよ緑の尾根越えて…。   目次へ戻る



044

 ■夕日の彼方

掲載日:2009.05.27

  野洲市・竜王町鏡山
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 鏡山、滋賀県野洲市と竜王町の境に位置する。標高385m、高い山ではないが、すそが南北に広がり存在感の強い山である。ふもとの鏡の地は、「あかねさす紫野行き…」で名高い額田王の出生地だとされる。いまは国道8号沿いの道の駅「竜王かがみの里」が連日にぎわう。
 山頂は樹木が茂って見通しがきかないが、北西へ100mほど尾根をたどると巨岩の露頭があって、そこから三上山が見える。累々と続く緑の向こうに、すっくと立つ姿は感動的ですらある。
 右側、沈み行く太陽の下、淡い琵琶湖のすぐ上、いちばん低いところが、「これやこの…」蝉丸法師の逢坂越え。そして、?…その向こうにもう一つ山並みが見える。これはどこだ。調べてみると京都・大阪の府境、ポンポン山あたりである。ということはポンポン山から三上山が見えるということだ。そうか、これは面白い。つぎはポンポン山へ行くぞ!。   目次へ戻る



045

 ■ポンポン山から

掲載日:2009.06.03

  京都市西京区大原野小塩町
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 いざポンポン山へ。標高679m、三上山からの直線距離40Km。山頂から京都方面の眺望佳良という。遊龍の松で有名な善峰寺から登り出す。途中、出会った男性が、「何か撮るものあるんですか」。そういわれると返事に困る。三上山といっても信じてもらえないだろうし。
 と、登り着いた頂上。「あ、アアーッ!」、三上山と重なって何本もの高圧線。珍しい話ではない。これには何度も泣かされてきた。しかし、よりにもよってこんなところで。ということで、この写真は山頂への途中たった一箇所眺望が開けたところから。よく見ればそこはくだんの高圧線の真下だった。神様も皮肉なことをやる。
 見えている市街地は京都市南部。左から続いてきた東山が2つに別れ、手前が稲荷山。奥は一段低い逢坂峠から音羽山へ。その間が山科盆地。三上山の背後、画面いっぱいにすそを広げる鏡山。百済寺はそのはるか彼方である。   目次へ戻る



046

 ■花脊から

掲載日:2009.06.17

  京都市左京区花脊
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 琵琶湖大橋を西へ向かうとき、前方真正面稜線上にアンテナが一本見える。地図を調べて驚いた。なんとそれは京都の花脊峠の近くに立っていた。
 今回ほぼ10年ぶりにそこへ行ってみた。撮影を終えて峠へ帰ってきたとき、そばへ車を止めた初老の夫婦。「以前、花脊から琵琶湖が見えると聞いたんやけど、ほんまですかいな」という。「見えますよ、そこのアンテナから。ボクはいま三上山を…」、「三上山?、どんな山ですねん」。撮って来たばかりの写真を見せると、「なんや、近江富士やんか。これ何かに発表しゃはるんですか」。「朝日新聞の…」、「うちも朝日やけど」、見れば車は京都ナンバーだった。残念!。
 いちばん奥、右端の低いところが鈴鹿峠。そこから左へ、一、二、三、3つ並んで三つ子山。その手前、三上山の背後に大きく十二坊山。30年前その尾根を走る林道からの眺めは秀逸だった。次はそこから見た幻の風景。   目次へ戻る



047

 ■十二峰挽歌

掲載日:2009.06.24

  湖南市十二峰林道
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 湖南市岩根・十二坊山頂から見たとき、夏至の日の太陽が三上山に沈む。さてその十二坊、『甲賀郡誌』によれば、「伝へて曰く、和銅年間大寺造立、十二支坊を有せしが元亀の兵火に罹り僅かに一宇を存すと、山頂に今尚十二坊の名あり」とある。
 三上山を撮り始めて間なしのころ、山頂から北西に伸びる尾根づたいに林道工事が行われていた。山の名は十二坊だが、現場の表示には「十二峰林道」とあった。その名のひびきもさることながら、道そのものが三上山の展望台だった。とくに夏至前後、太陽が三上山に落ち行くさまは壮観だった。
 写真は1977年6月の撮影。太陽のすぐ右に、小さくアンテナが見える。そこが前回の撮影地・京都市花脊である。このときはまだ、そこから撮影することがあろうとは、夢にも思ってもみないことだった。爾来30余年、万物常ならず、樹木が伸びて林道からの視界絶無。山腹の十二坊温泉が名高い。   目次へ戻る



048

 ■ゾウがいたころ

掲載日:2009.07.01

  湖南市岩根
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 滋賀県湖南市、野洲川・甲西中央橋のたもとに「足跡化石メモリアルパーク」という小さな公園がある。いまから20年ほど前にこの付近の河川敷から、日本で初めてゾウやシカの足跡化石が多数発見されたのを記念したものである。高校教諭田村幹夫さんが、増水に洗われた地層に直径30cmほどのくぼみを発見したのがきっかけだったとか。その化石群、いまから200万年ほど前のものだという。人類が地球上に現れるはるか以前の話しである。
 一方、琵琶湖はいまから500万年ほど前に、伊賀上野あたりに生じ、徐々に北へ移動、いまの位置になったのは20〜30万年前だという。とすればそのころの琵琶湖はいまよりもっとこの地に近く、辺り一面に散在する湿地、沼地、乾燥地、それをぬうように流れる水。まさに動物たちの楽園だっただろう。そこに残した足跡が200万年たってよみがえる。彼らの目に、三上山はどう映っていたのだろうか。   目次へ戻る



049

 ■弥生のクニ

掲載日:2009.07.15

  守山市下之郷1丁目
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 滋賀県守山市下之郷町、三上山の西北西約4.7Km、市街地の中に発掘作業事務所があって、「下之郷遺跡…ここが2100年前、弥生のクニの一中心地だった」との標識が立てかけられている。昭和55(1980)年以来50次を越える発掘で、この付近一帯が、弥生時代中期の巨大な環濠(かんごう)集落跡であることが明らかにされてきた。
集落の規模は近江地域最大、東西670m、南北460mにおよび、三〜九重におよぶ濠が取り巻いていたという。写真は国指定の史跡となったのを機に整備された公園の入口である。この散策路を左へ曲がると、土塁や環濠の一部が残されている。
 …古く、野洲川はいまより南へ流れ、烏丸半島はその堆積州であるとか。いまここから見て、三上山は川向こうにある。しかし弥生のそのころは、地続きではなかったか。見上げる山はクニの神奈備、祭祀の中心であったろう。…以上、素人のたわごとである。   目次へ戻る



050

 ■御上神社

掲載日:2009.07.23

  野洲市三上
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 御上神社、国道8号をはさんで三上山と対座する。両者一体、神体山信仰の対象であって山頂に奥宮がまつられ、こちらは里宮に当たる。
 社伝によると「いまから2200余年前、孝霊天皇6年、三上山に天之御影神(天照大神の孫)が降臨されたのをうけて、神職・御上の祝(はふり)はその山を神体山として斎きまつった」という。孝霊天皇は神武天皇から数えて7代目、神話の時代の話しである。なお、『古事記』・開化天皇の段には天之御影神を祖とする土地の豪族・安直(やすのあたへ)についての叙述がある。現在地への創建は、養老2(718年)年、藤原不比等によるという。
 祭神はもちろん天之御影神。境内の主要な社殿は、鎌倉時代後期に建てられたとされ、本殿は国宝に指定されている。いま境内からは生い茂る森に隠れて、三上山はほんの一部しか見えない。写真は拝殿横からわずかに見える山頂。雨後の雲が沸き立つ。   目次へ戻る





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