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御代参街道を歩く・K

11.日吉山王御旅所から建部下野町まで(別ルート)

取 材 日:2016.05.22(日吉神社まで)
      2016.06.23(建部下野町まで)
初稿UP:2016.07.18

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59. 別ルートのこと

地図A710.日吉山王御旅所〜河辺の森駅取付ルート図 (『近江の街道」所載ルート図・郷土出版社1994に加筆)
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 左は『近江の街道」所載の御代参街道ルート図のうち、前回のコース(建部日吉町〜建部下野町間)を切り取ったものである。本町商店街入口から途中県道建部日町交差点を経由して建部下野町までを歩いた。前半県道へ出るまで(赤のルート)は御代参街道そのものでまず間違いはないと思うが、後半は建部日吉町交差点から建部下野町まで、県道52号(黄色のルート)を歩いた。一言でいえば全く密度が異なる。後半、県道52号についてはほとんど何の雰囲気も感じられないのである。たった一つ、前項の終わりのところで触れたが、建部下野町の集落内に大小一組の地蔵堂が建っていた。その前の通りは集落内の里道だといってしまえばそれまでだが、見方によってはこれが御代参街道ではなかったかと思わす雰囲気を持っていた。ところがそれに至るルートはどうかというとただ単純な農地が広がるだけ。街道を感じさせるルートはどこにもない。
 当然のことだが、『近江の街道』はしかるべき専門家の著述によるものだし、地図もそれなりの根拠を持って表示されているはずである。この間の距離は約2Km。道幅拡張、圃場整備、条件はいろいろあろうが、旧街道のすべてが消えるということがあるのだろうか。   



地図A711.明治25年測量大正5年鉄道補入 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
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 そこで、以前にも土山の項で利用した日本図誌大系を確かめてみた。幸いにも該当する箇所が掲載されていた。いちばん古いので明治25年測量大正5年鉄道補入とある。近江鉄道が表記されていることに驚く(明治31[1898]年彦根〜八日市間開通・明治33[1900]年八日市〜貴生川間開通)。測量の時点では開通していなかったはず。大正5年に鉄道補入とある。そういう時代背景をもとに地図を見てみると・・・。
 前項で歩いた道路、現在の県道52号に当たる道路が記載されている。クルマが走れたかどうかは疑問だが、少なくとも現在の県道の原型と思われる道路は記載されている。と同時に現在の日吉山王御旅所の広場に当たるところから稲妻状の道(緑で示すルート)が北へ伸びている。現在の建部幼稚園前交差点(日吉神社前)までは直線道路の西側(近江鉄道側)、そして交差点を渡ってからは東側を北東に進んでいる。直線道路がいつできたのかは分からない。地図を基準にすれば少なくとも明治末期ないしは大正初期にはできていたことになるが、この道ができる前はこの緑のルートが御代参街道として歩かれていたのではないか。
 念のために昭和25年応急修正を見ると、緑コースが細くなっている。道そのものが細くなるということはまずないだろう。これは道の重要度が減少したのであろうと考えられる(道路の表記が重要度で変わるのも妙な話だが・・・)。そして昭和37年測量44年資料修正に至って緑コースの日吉山王御旅所〜建部幼稚園前交差点間がなくなっているのである。里道そのものがなくなれば生活が成り立たない。道がなくなったのではなく記載しなかったのであろう。『近江の街道」所載の御代参街道ルート図はちょうどこの時代の地形図が利用されているようである。
 緑のルートか赤のルートか、どちらが御代参街道であったかを判断する能力は私にはない。しかし県道コースを歩いてみてまったく旧街道の雰囲気を感じることはなかった。これは確かである。となればもう1つ別に考えられるルートを歩いてみなければ意味がないのではないかと考えた。



60. 建部幼稚園前交差点まで

地図A711X.ルート要所図 
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 分岐点は日吉山王御旅所の広場。そこを左に折れて民家が点在する農地を進む。最初のうちは単なる里道の雰囲気だが、後半、金賞寺の近くで道しるべや祠が現れ街道の名残が感じられるようになる。









写真1211.分岐点
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 日吉山王御旅所の広場。前回のレポートでは子供たちが水の掛け合いをして遊んでいたところである。
 地図でいえば、赤のコースから緑のコースへ「左折」するところである。






写真1212.農地へ出る
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 上の写真で家と家の間を抜けるとすぐに農地である。田植え終わったばかりの水田が見事だった。もう1枚。左の写真に見えていた集落に近づいたところ。






写真1213.太郎坊山
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 御代参街道とは何の関係もない。左側(西側)に山が連なって見える。その向こうに僅かにコブが見える。太郎坊山(左)と箕作山(右)らしい。八日市駅近くの松尾神社の鳥居から見えて以来である。





写真1214.集落へ入る
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 細い道が集落へ入っていく。


 写真1215.ぽつんと建つ祠
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 祠だけがぽつんと立つ。もう1枚。横から見たところ







写真1216.カーブを行く
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 集落の中をカーブして・・・・。もう1枚


 写真1217.金賞寺近く
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 お寺の屋根が見えてくる。  









写真1218.祠・常夜灯
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 金賞寺前の十字路。ちょっとした広場があってそこに立つ祠。小さな祠なのに、瓦だけは一人前。頭でっかちで何ともアンバランス。石製のものは真新しい。反対側からもう1枚
 こういう風景を見るとこちら(集落内の道)が御代参街道のように見えてくる。  




写真1219.右いせみち
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 祠に気をとられてうっかり見落とすところだった。反対側の角、それも民家の垣根の中に「右いせみち」の道しるべが立っていた。左の写真でいえば、正面の道を奥から手前向きに進んできて、左(画面上では右)へ折れたところに祠が建っている。歩いてきただけでは道しるべは見えない。歩いてきた人から見て右側(画面では左側)を振り返って初めて見える。もっとも今回ように五個荘へ向かって歩いてきた人間には意味のない道しるべではあるが。
 しかし、御代参街道が県道52号か、こちらの里道かどうかを判断しようとする場合、これは貴重な資料になる。これも五個荘から土山へ向かって歩く場合にはきっちり意味を持つからどこかこのあたりに設置されていたものだろう。住宅を建てるにあたって、この角にということになったのだろうが、今の場所をもう少し削って、下に見えるテラス状の場所へ置けなかったものか。いずれにしてもよく見つかってくれた。これを見逃していたら、歩いた意味は半減しただろう。



写真1220.寄り道
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 いまの道しるべの四つ辻を右へ行くと建部日吉町自治会館がある。左の写真はそのそばに立つ祠。大きな石の上の載っている。  







写真1221.金賞寺
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 金賞寺。何んとも結構な名前である。誰かがこの名前を付けたわけだが、勇気が要ったはず。まさかと思って地図を何回も見なおした。間違いない。門柱にもその名が見える。その前を大きく右へカーブして日吉神社参道へと向かう。






写真1222.祠
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 日吉神社への曲がり角にあった祠。









写真1223.日吉神社参道
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 祠を左へ曲がって参道へ出る。県道52号建部幼稚園前交差点から入る参道がT字型に交わる道である。


 写真1224.日吉神社前
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 日吉神社正面鳥居前。右が県道52号建部幼稚園前交差点。







写真1225.道が途切れる
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 神社の前を突っ切ると、52号から分かれて来た県道209号にぶつかる。そこから向こうは地道になる。江戸時代のままだといえばそれまでだが、これがそのままどこかへつながっているとも思えない。右折すると52号へ出るが、今回は日吉神社の前まで引き返す。




61. 建部上中町・南北十字路まで

地図A712X.ルート要所図
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 日吉神社前。県道の交差点名は「建部幼稚園前」となっている。前回は県道を赤のコースによって大塚古墳のカーブを経て建部下野町の入り口、近江鉄道「河辺の森駅」取付までを歩いた。今回は日吉神社前から県道を越えて、東側の農地に点在する建部上中町を縫うように稲妻状に行く里道(緑のコース)を歩く。






写真1226.建部幼稚園前交差点
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 県道52号建部幼稚園前交差点を日吉神社鳥居前から見たところ。前回は走っているクルマの向きに(飛び出し坊やの向きに)県道を歩いた。ここは点滅信号、園児のためにつけたものだろう。白熱灯だったが、点滅とクルマの通過を合わせるのが結構面倒。これでLEDだったら大変だった。





写真1227.T字路
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 県道を渡ってつきあたりのT字路を見たところ。昨夜の豪雨が止み、午後から晴れだしてきたところ。南の方は晴れていたが、東の方はまだ雲が厚かった。


 写真1228.建部上中町集落
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 T字路から行く手に建部上中町の集落を見る。






写真1229.近づく
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 上中町の集落に近づく。左に何か記念碑が。近づいてみると戦没者の慰霊碑だった。逆光で細かい字は読めなかったけれど、名誉の戦死華やかなりしころ、あったなあ、このように周りのポールを弾丸型にして。学校の忠魂碑なんかもこの形だった。両親がどんな思いでこれを建てたか。建てた親も、建てられなかった親も・・・いや、それはいうまい。親の思いはみな同じ。子供を戦死させて喜ぶ親がどこにいるか。




写真1230.集落の入り口
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 集落の入口。道がだんだん細くなる。2本目の電柱のそばに、サザエさんの家のような地蔵堂が見える。  







写真1231.地蔵堂寺
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 集落の入り口とは言えないが、広かった道が細くなっていくところ。地蔵堂が道を塞ぐ形で鎮座している。正面からもう1枚。名前を書いていたであろう板が架かっているが字は読めない。もう不感症になっていたが、例によって飛び出し坊やがすごい。たとえばこの画面にも3体見えている。





写真1232.祠の内部
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 格子にレンズを押しつけて内部を見る。小さな厨子があって、中央に釣り合いの取れない像が鎮座している。両側には赤鬼、青鬼。その横の地蔵さんをどうぞ。






写真1233.次の地蔵さんが
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 写真1231の地蔵堂の前から次の地蔵さんが見える。








写真1234.小さな祠
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 次の十字路に祀られる小さな祠。案内人は飛び出し坊や。上の写真に見えていたものである。この写真を撮って振り返ると10mほど奥に地蔵堂が見える。






写真1235.庚申堂
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 お堂は皆同じようなものだけど、こちらは庚申堂と銘打たれている。中を覗いてみると自然石に「庚申」と深い彫りの字が見られる。普通は庚申塚として村境などに立てられたというが。






写真1236.集落を抜ける
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 200m足らずで集落を抜ける。


写真1237.天神社遠望  
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 天神社の森が見える。目を右へめぐらすとこれから歩く道が右へ隠れていく。






写真1238.十字路へ出る
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 田んぼの中の十字路へ出る。1回めの左折場所である。なのだが右を見ると50mほど先のところに何かいわくのありそうなものが見える。見方によってはゴミ捨て場のようにも見えるし、もっと意味のあるもののようにも見える。こういう時はまず行くこと。行かずに後悔するより、行ってズッコケるほうが楽しい。





写真1239.これは解らない?
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 大したものではなかった。ゴミ捨て場とは言わないが、よく似た場所だった。で、気になったボードを見ると、これが分からない。「巨人3 阪神77」、野球のスコアではないし、どう考えても分からない。ボクは中学2年生、昭和22年、戦後プロ野球(当時はプロ野球という言葉がなかった。新聞のスポーツ欄に職業野球として、9回のスコアが載っているだけだった)が復活した時から阪神と付き合いをしている。阪神のことなら大概わかるはずだが、これはお手上げ。誰かに訪ねるにももちろん人はいない。



写真1240.太郎坊山
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 振り向けば光った屋根が見事だった。その上になだらかな稜線が流れ太郎坊山と箕作山のコンビが頭のてっぺんだけを見せていた。この2つのコブがどこからどう見えるかにこだわるのも面白そうだが・・・・。  





62. 建部下野町・河辺の森駅取付まで

地図A713X.ルート要所図 
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 日吉神社前。県道の交差点名は「建部幼稚園前」となっている。前回は県道を赤のコースによって大塚古墳のカーブを経て建部下野町の入り口、近江鉄道「河辺の森駅」取付までを歩いた。今回は日吉神社前から県道を越えて、東側の農地に点在する建部上中町を縫うように稲妻状に行く里道(緑のコース)を歩く。





写真1241.左折
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 さて改めて予定した左折ルートを行く。近づいた天神社が右に見えるようになる。


写真拡大 写真1242.天神社近づく

 田んぼの1区画分だけ進んで右折。正面に神社が見えてくる。




写真1243.正面の鳥居
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 正面、常夜灯のパレードである。左の写真だけでも3基見えるが、右を見るとまだ並んでいる。それ以外にも上の写真に見るように、「天神社」との標識の左側にもまだでかいやつがあったから、全部で何基になるのか。


 写真1244.自転車が
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 ふと見ると自転車が止まっていた。先ほどやってきた男性のものらしい。「車止め」のところでクルマを降りる。何とも律義なものだ。ワシなら絶対乗り入れる。その律義な男性の姿が社殿の左側に見える。



写真1245.集落が近づく
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 天神社を後にさらに進む。すぐに建部上中町北の集落に近づく。

写真拡大  写真1246.集落入口
 集落の入り口、例によって道が狭くなる。






写真1247.微妙なカーブ
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 微妙なカーブこれが旧街道の表看板。右の生け垣沿いに歩いていて、突然目の前に祠が現れる。奥の赤い屋根は前から見ていたけれど祠は全く見えなかったから驚いた。






写真1248.地蔵さんが見える。
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 赤い屋根の手前が十字路になっている。そこに地蔵さんが見える。

写真1249.近づく
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 十字路といっても路地のような細い道。その手前、民家の庭に石像が並んでいる







写真1250.可愛らしい
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 思わず中を開けてみたくなるような可愛らしい地蔵堂。石造りである。明治25年大正5年補の地図ではここで左へ折れるようになっている。集落内での左折である。左折する方向を見たところ。撮り終わってさあ出発と歩き出し、前方を見たら、オバちゃんが自転車に乗って。あわてて撮りたくなるほど普段人影は見えない。  



写真1251.何かある
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 右側に生垣が合って柱が2本見える。これは何かありそう。  


 写真1252.常徳寺
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 柱と見えたのは背の高いは門柱だった。見れば常徳寺とある。







写真1253.小さい地蔵堂
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 生垣の切れ目、隣の建物との間に小さい地蔵堂が肩身狭そうに建っている。常夜灯はその昔のガス灯のシェードのよう。見方によっては戦国時代の生首を置いたようにも見える。地蔵さん相手に不謹慎な連想だけど。地蔵堂をトップに生垣を振り返る。  




写真1254.T字路右折
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 すぐT字路に出て右折する。左側に駐車場が見える。ここから次の写真のように、建部下野町の弘誓寺が見えてくる。  


 写真1255.弘誓寺遠望
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 建部下野町の弘誓寺を遠望する。県道(白いクルマが走っている)を挟んで集落が向かい合う。  






写真1256.村はずれ
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 村はずれへ出て、ふと右を見ると何となく気になる小屋が見える。写真1250の地蔵さんのところで直進していたら、あの前の道へ出たはず。ということで、帰りにそちらへ回ってみた。ついでだからここで紹介しておこう。ご覧のような今までのとは趣きの異なるすべてオープンの地蔵堂だった。地蔵さんそのものをどうぞ。  



写真1257.広い十字路
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 十字路の手前がびっくりするぐらい広くなって、そこを左折。河辺の森駅への取付はすぐそこだ。  







写真1258.河辺の森駅取付
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 十字路へ出る。「河辺の森駅」への標柱が見える。左右に走るのが県道52号。前回はこの道を左から到着し、そのまま右へ抜けたわけだ。一言でいえば今回の方がはるかに密度が濃く歩いていて楽しかった。   






63. 建部下野町集落内を歩く

地図A714X.ルート要所図
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 前回歩いたときは、建部幼稚園前交差点から県道52号をストレートに歩き、ここ河辺の森駅取付もそのまま通過し、地図のB点で地蔵さんを見つけて左折、C,D点を経由してE点へというコース(赤線のコース)をたどった。
 日本図誌大系所載の明治25年測量大正5年鉄道補入地形図では、すでに現在の県道52号の原型のようなルートが示され、郷土出版社『近江の街道」所載ルート図でもこのコースが御代参街道として表示されている。が、現在このルート(いわゆる赤ルート)を歩いてみても旧街道らしい趣はどこいもない。初めからそういう状態だったのか、県道の拡幅などで当時のものが除去されたのか。いずれにしても赤のコースは面白くない。ということで、改めて緑のコースを設定し、歩きなおしたのが本項である。
 そして日吉山王御旅所広場から歩き出し、いまA点(近江鉄道・河辺の森駅取付)までやってきた。このあとE点までをどうつなぐかということである。現代の感覚では当然県道52号経由ということになるのだが、何度もいうようにそれは面白くない。多少距離は長くなっても建部下野町の集落内を歩いた方がそれらしい味が感じられるのではないか。今まで緑のコースを歩いてきて身をもって感じたことである。そのうえに、現前回歩いた時に、C点にある地蔵堂を見つけている。それを含めてできるだけたおやかな道を探して集落内を歩いてみよう。そう考えた。



写真1259.弘誓寺駐車場
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 と書きながら、いうこととやることが最初から矛盾するのだが、A点からF点(弘誓寺の駐車場)までは直線である。これは地図A711Lによると、A点からG点に向かって道がつながっていたようである。(写真はF点からG点を見たところ)。それが圃場整備か何かのときに、定規で引いたような線として引きなおされたのであろう。行く先は弘誓寺の駐車場。さらにその直線を進むと河辺の森駅入り口につながる。  



写真1260.弘誓寺横から
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 弘誓寺横からC点を見たところ。赤い防火用具入れのところに地蔵堂が見える。地蔵堂からE点まではすでに歩いているから、これでG→C→D→E点(黄色+赤色)は確認されたことになる。  






写真1261.弘誓寺山門
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 さて、緑のコースを進む。弘誓寺山門の前を通過。もう1枚


 写真1262.H点十字路
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 H点。弘誓寺の境内が途切れる。








写真1263.地蔵さん
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 生垣に隠れていた地蔵さんが姿を現す。もう1枚


 写真1264.天一神社の森
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 地蔵さんの前(H点十字路)から、天一神社の森を見る。さらに進んで森に近づく







写真1265.天一神社
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 天一神社の前を巻くように行く。もう1枚


 写真1266.天一神社
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 天一神社正面。社殿をどうぞ







写真1267.J点十字路
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 天一神社を後に、J点の十字路へ。


 写真1268.E点へ
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 E点が近づく。遠くから踏切の警報音が聞こえてきて、近江鉄道の電車が行く。さらに遠く新幹線。






写真1269.E点に出会う
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 E点に出会う。奥村分岐はすぐ目の前。
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写真1270.出合を振り返る
 県道からE点出会いを振り返る。  






写真1271.H点十字路
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 この日はクルマを日吉神社前へ置いてきていた。いわゆる往復システムである。E→J→I 経てH点十字路へ戻ってきたとき往路で見た地蔵さんが急に気になりだした。地蔵さんが十字路にある場合、何か意味がある。そのまま直進すれば元へ戻る。右は田んぼ、意味があるとしたら左しかない。集落の中へ向かう道だ。



写真1272.地蔵さん
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 微妙なカーブ。突き当りに地蔵さんが見える。








写真1273.若宮神社
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 上の場所からは樹木が邪魔をして見えなかったが、地蔵さんの奥にもう一つお宮さんが建っていた。大きさから言えば、今までの地蔵堂ぐらい。地図に記載されている若宮神社だった。なるほどH点十字路の地蔵さんはここへつながっていたのだ。上の地図でいうとH→Kの黄色コースだ。横から見たところをもう1枚。



写真1274.E点遠望
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 上の写真で左の建物が自治会館だった。そのはずれから見るとE点に立っていた緑の看板が見えた。白いワゴンが走っているのが県道52号。








写真1275.お使いは自転車で
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 先ほどの地蔵さんを横から狙っていたら、おばちゃんが自転車で出ていった。先ほど家から顔を出して不思議そうな顔をしていたおばちゃんだった。







写真1276.L点へ
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 地蔵さんの前をそのまま進めばなんとなく見覚えのある場所で出た。最初の地蔵さんの横、L点だった。もう一度大小コンビの地蔵さん。弘誓寺の壁が見える。




 日吉山王御旅所から建部下野町E点まで県道52号赤のコースと、集落沿いに歩く緑のコースの二通りのコースを歩いてみた。どちらのコースが御代参街道かと判断する能力は私にはない。しかし、どちらが楽しかったかと問われれば、迷うことなく緑のコースを上げる。建部下野町内はどう歩くか。BCLKを中心にお好きなように。狭い範囲だからどう歩こうと大差はない。


補遺

写真1277.屋根光る
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 日吉神社の近くまで戻ってきたとき、一軒の民家の屋根が見事に光っているのが見えた。見えにくいがトラックが走っているのが県道(バンは民家奥、会社の駐車場に止まっている)。右の森が前項で県道から見たとき、古墳のように見えた森




写真1278.前方から
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 民家の前方へ回ってみた。屋根が光るなどの現象は、特定の場所から見て光るだけで、位置が変わればわからなくなるものだが、このときは民家が一軒だったから見間違うことはなかった。






写真1279.空也堂玄関
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 玄関が両開きで花が飾ってある。扉の上に扁額がかかっていたり、普通の民家とはちょっと様子が違う。近寄ってみると「空也堂」と読めた。空也上人といえば、京都六波羅密寺にある口から阿弥陀さんが続々と出てくる例の像を思いだすが、ここにも何か縁があったのだろうか。





写真1280.県道から振り返る
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 県道へ出て、「ウェルネス八日市」の前から振り返ったところ。森の手前の木造家屋がそれ。






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