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御代参街道を歩く・L

12.五個荘奥町から五個荘小畑町・中山道出会まで

取 材 日:2016.05.04
初稿UP:2016.07.18

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地図720.五個荘奥町〜五個荘小畑町ルート図 
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 建部下野町の町はずれから数10mで五個荘奥町への分岐である。仮に「緑のコース」を歩いたとしても、この間だけは県道を歩かなければならない。この分岐が多少わかりにくいが、下の写真に見るようにブルーのクレーンが見えるから、注意さえしていればやり過ごすことはないはず。あとは中山道まで一本道である。   





61. 奥村神社まで

地図721.ルート要所図
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 さて前々項では県道52号(赤ルート)経由で建部下野町E点まで、前回は下野町集落内を経由しておなじくE点までを歩いた。何度も書いたが、赤コースか、緑コースかどちらが御代参街道か判断することはできない。しかし、どちらが楽しいかといえば間違いなく緑のコースである。どちらのコースを歩こうとも、左の地図のE点に出てくる。ここから次の奥村分岐までは数10mだが、上で述べたようにこの間は県道を歩く以外手はない。
 「奥村分岐」というのは私が勝手につけた名前である。県道から御代参街道が斜めに分岐する。行政的にはまだ建部町の範囲だが、感覚的には次の奥村神社へ向かう分岐点という意味である。




写真1281.奥村分岐
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 さて、「旧の」というか、「本来の」というか。地図の上で旧街道かと思われる道に出る。分岐点は変則的な十字路だが、県道を走る場合、おそらく十字路自体を意識せずに通過してしまうだろう。この写真でいえば、青いクレーンと竹藪の間の細い道が御代参街道である。車が走っているのが県道52号。
 工場の敷地が終わると田園地帯へ出る。このあたりが建部下野町と五個荘奥町の境だが、標識もなく、素人には判断不能。右側のネットからテッセンが顔を出していた。



写真1282.奥
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 一旦停止の交差点へ出る。すぐ右が愛知川の堤防だった。竹ヤブでわかりにくいが愛知川沿いに堤防林の外側を歩いて来たことになる。橋があって堤防上が交差点になっていた。「奥」との名が。ということはここは「五個荘奥町」。上の写真の「奥村分岐」は建部下野町、この間の工場の敷地が終わったあたりが町境になっている。



写真1283.さらに進む
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 よく似たイメージの道をさらに進む。








写真1284.愛知川堤防
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 再び十字路へ出る。右を見ると愛知川堤防が見える。道幅が若干狭くなっただけで先ほどの堤防への道とほとんど同じ。元のところへ戻ったのかと訝るぐらい。堤防へ上ってみる。道路越しの河川敷が明るい





写真1285.観音堂
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 十字路に戻る。その隅に観音堂が見える。今までの地蔵堂と大差ないが、ここでは馬頭観世音との立派な石碑が立っている。観音堂としたのはその理由だけで、私がそれを見分ける能力があってのことではない。  





写真1286.観音堂
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 馬頭観音とは。名前はよく聞くがそれが何たるや全く知識なし。調べてみた。・・・六観音・八大明王の一。人身馬頭,または宝冠に馬頭をいただき,憤怒の相をした観世音菩薩。(大辞林 第三版)・・・とある。といわれると何となく見たような気もするが、もう一つよくはわからない。




写真1287.奥村神社
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 観音堂から100mちょっとで参道が左へ分かれていく。奥村神社である。昔は「奥村」だったのだろう。いまは「五個荘奥町」、しかし「奥町神社」とはいわない。もう1枚





写真1288.常夜灯
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 方々に大きな常夜灯が目立つ。境内もきっちり手入れされており、おらが宮さんを大事にされていることが伝わってくる。もう1枚







写真1289.もう1基
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 街道をまっすぐ進んだところに大きな常夜灯がもう1基。まだまだあります。街道との別れ、神社でいえば通用門に当たる位置にもう1基。







62. 五個荘・中山道小畑まで

地図722.ルート要所図
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 奥村神社をでると、中山道五個荘小畑までは直線距離で1.4Kmほど。ルートとしては御代参街道をトレースすることになるが、道路は拡幅されて2車線。今までの離合がやっとという細道とはイメージが違う。














写真1290.一路小畑へ
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 奥村神社を後に一路五個荘小畑へ。ここからはしっかりした道になる。歩道もカラー舗装。






写真1291.大木
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 目を見張るような大木だった。その下を軽トラがやってくる。後はプリウス。さあどちらにするか。普通ならプリウスだろうけれども、ここはやっぱり軽トラだろう。いえいえ、妙な意味ではありません。雰囲気の問題でして。ハイ。





写真1292.分岐点
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 と、余計なことを考えていたら、やってきました。もっとすごいやつが。威風堂々。


 写真1293.ほこら?
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 個人の家か、会社の事務所か。ちょっとわからないけれど、これ祠だろうな。中を確かめればいいのだけれど、失念。






写真1294.ドカーンと地上に
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 いろいろ風変わりなものに出会うので、手を休める暇がない。ぶら下がっているはずのものが、ドカーンと地上にアグラをかいて。







写真1295.五個荘小畑町
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 遠くを見て歩いていて、ふと上を見たら、「五個荘小畑町」。そうか今回の歩きの終着は、中山道と御代参街道との交差点ただ一点だと思っていたけれど、五個荘小畑町は面だった。今その面へ記念すべき一歩を記した。
 しかしまあ、こんな高いところへ標識つけるかー?。後ろから来たケイの屋根の上から出してやろうと思ったのだけど一瞬遅かった。情けないねー、指の動きが鈍くなって。  



写真1296.自転車は車道
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 向こうに新幹線の高架が見えて来た。先ほどから新幹線は何度も見えていたけれど少し遠かったりして絵にならなかった。ここらあたりからなら何とかなるか。と場所を定めると今度はなかなかやってこない。高校生が3人、ワシの道やぞといわんばかりに車道を並進。エエなー、こういう年格好のときは。

 実はこの日、五個荘からは電車で帰る予定を立てていた。東海道の土山宿から日野・八日市経由で約30Kmを歩いてきたのだが、土山から日野までの交通事情が悪く、クルマをしかるべきところに置き、予定した区間を往復するシステムをとった。能率は悪かったが同じところを2度通ることで収穫も多く、それはそれで楽しかった。後で考えれば日野からは近江鉄道と並行することになり電車の利用を考えるべきだったが、そこが年寄りの考えの固さ、最初のシステムが頭にこびりつき、当初のシステムのまま”見送り稲荷”まで来てしまった。
 1月から歩き始め、厳寒期を避けて3月から復活したが、4月、5月となると暑さがつらくなってきた。で、気がついたのが電車の利用。残りは8Km。2回のところを1回で終われるということである。今回は見送り稲荷の近くにクルマを置き、そのまま歩いてきた。帰りは電車で「大学前」まで戻る計画である。時刻表を調べると五箇荘駅発が毎時5分。これ1本である。
 上の高校生の写真を撮ったのが13時30分過ぎ。これからどうするか。2時に乗るか3時に乗るか。このまま行けばけ多分14時05分には乗れる。しかし余裕はない。よし3時にしよう。その代り14時05分発の電車を撮ってやろう。

 汽車通余談:「X時け?、XX時け?」
 高校生のころ(昭和20年代半ば)、滋賀県から通ってやるやつが何人かいた。授業が終わるとその中の誰かが必ず言いだす。「X時け?、XX時け?」。もちろん乗る列車のことだけれども、京阪電車で通っている私にはそれが不思議でならなかった。発車時刻ならXX時XX分だろう。X時の次が何でXX時なのか。それが今やっとわかった。「2時に乗るか3時に乗るか」、何の抵抗もなくその言葉を使っている。そうかあいつらは1時間に1本の列車で通っていたのか。もちろん蒸気機関車。正しくは「蒸汽」だけど。天下の東海道線にもそんな時代があったんだ。懐かしい話である。   



63. 一旦停止余談

写真1297.一旦停止?
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 と、暇だったものだから辺りをきょろきょろ見回していた。なに?、あれは・・・。遠くてはっきりしないけれど、「一旦停止?」。そう、普通の道路のトマレではない。あれは鉄道用だ。新幹線の下に近江鉄道の踏切がある。それをまさか、何でこんなところに。誰かがいたずらで移動させたのではないか。
 ・・・昔、京都で、バス停の標柱を闇にまぎれて毎晩ちょっとずつ自分の家の方へ動かしたヤツがいたとか。いまはどうか知らないが、以前は大きなコンクリートブロックを歩道に置いて、それに標柱が固定されているだけで、その気になれば動かすことができた。何10mか動いた時に交通局が気付いたという嘘みたいなほんとの話。まあ、バス停ならやっても意味はあるが・・・。以上余談。



写真1298.暇だったもので
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 新幹線は来ない。暇だったから見に行った。間違いなく鉄道の踏切だった。でもどこから来たのかこの線路は。







写真1299.廃線の風景
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 目を追っていくと近江鉄道の五箇荘駅の方から半円を描いてやってっくるようだ。反対側もまだずーっと続いていく。しかしどう見ても電車が走った様子はない。これは廃線跡だ。
 でも何のためにこんな線が。気になったので、「近江鉄道 五箇荘駅 引き込み線」で検索してみた。それによると、昭和18年ごろ、愛知川の砂利採取場への連絡線として敷設されたという。廃線時期は不明(しっかり調べればわかるのだろうが)。当初は愛知川の河川敷まで線路がつながっていたが、現在はその手前を走る県道52号で途切れているとか。電車の線路で堤防を切るわけにはいかないし(戦争中ならそれぐらいのことはしたかもしれないが)、堤防を乗り越えていたのだろうか。
 しかし面白いねー。新幹線を待って暇つぶしをしなかったら、こんな線は発見できなかった。人生は何が起こるかわからない。
 廃線の風景・航空写真(GoogleMapに加筆)



写真1300.電車通過   スライドショー
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 待つと決めてからが長かった。新幹線は何本も通る。これでも撮って時間つぶしをしなければ身が持たない。さて、警報機が鳴りだして、電車がやってくるよりも先にクルマがやってきた。当り前の話だけど、計算ができていなかった。電車通過。スライドショーでどうぞ。




写真1301.踏切
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 電車が行ってしまった踏切。当然クルマもいない。普通はこの調子。こんなところに車はが3台も4台もたまることはないのです。以上いいわけ。







64. 五個荘小畑町(中山道出会い)へ

写真1302.祠
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 踏切を越えてすぐ、祠が建っている。でも今までのものとは様子が違う。


 写真1303.弘法大師御旧跡
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 中を覗いてみると「弘法大師修行云々」とある。こんなところで弘法さんが修行したとも思えないが・・・。もっとも弘法さんの伝説は津々浦々どこにでもあるから、ここにあっても不思議ではない。



写真1304.細い道
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 新幹線の下をくぐると道が細くなる。旧来の規格に戻ったというところか。空地に灯油の看板が立っていた。うん、なるほどと通り過ぎたが何となくおかしい。気になるので戻ってみた。おせっかいだけど。「灯油1リットル55円」と読めばそれでいいのだろうけれど、何かおかしい。考えている間に訳が分からなくなる。暇な街道歩きにはもってこいのクイズ。



写真1305.細道地蔵
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 今度は普通の地蔵堂。しかしれっきとした名前がついている。「細道地蔵尊」。また風流な名前をつけたもんやなー。芭蕉さんがよろこぶぜ。街道が「細道」だと解釈したのだが、どうもそうではなかったらしい。もう1本左側に本当の細道がありました。





写真1306.中山道目前
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 突き当りが見えてくる。中山道だろう。それにしてもにぎやかだ。








写真1307.五個荘小畑町
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 中山道、五個荘小畑町着。”五個荘町小畑”の方が歯切れがいいのだが。それにしてもにぎやか。これを賑やかといわずして・・・・。どこから読めばエエのかね。そして全部読んでみました。御代参街道の「御」の字もありませんでした。






写真1308.左・御代参街道
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 左・御代参街道(いせみち)、右・中山道武佐(近江八幡)草津方面。








写真1309.左・集落内里道、右・御代参街道
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 左・集落内里道、右・御代参街道。なんだけれども、上の写真もこの写真も全く意味をなさない。実際に歩いてみて自分の目で見た経験者にはわかるけれども、そうでない人には意味をなさない。上の写真1308はまだしも、この写真1309においておや。




写真1310.正面里道・右斜め御代参街道
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 実は御代参街道は中山道に対して斜めに突き当たるのである。写真1308にしても1309にしてもそれが表現されていない。と考えて状況を整理して撮りなおしたのがこれである。手前の横線が中山道。左が愛知川、右が武佐である。それに対して垂直方向に(画面奥へ)伸びていくのが五箇荘駅への里道。斜めに入ってくるのが御代参街道である。
 現場の地図(北を上にした正式表示)。写真の表現と一致する(中山道が水平になる)よう、125度回転させた。五箇荘駅への里道が中山道に対して垂直。



写真1311.左 いせみち
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 御代参街道の終着点、五個荘小畑には風格がある石標が建つという。上の3枚にすでに写っているのが、分かってもらえただろうか。写真1308、御代参街道と中山道とに挟まれた角。ガードレールの向かうにひっそりと。これではわかるはずがない。
 ということでアップしたのがこれ。愛知川方面から上ってきて、左が「御代参街道(いせみち)ですよ」という配置である。



写真1312.右 京みち
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 それに対して、右へまっすぐ行くのが中山道、草津を経由して京まで。ついでに両面同時に。彫りの深い存在感の強い道しるべである。なお念のために「いせみち」の左面は空白である。




写真1313.ガードレール
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 あれこれと撮りつくし、最後に未練たらしく撮った1枚である。ガードレールにカバーされて何とも情けない姿である。うっかり見ていては碑そのものが見えない。そうかといって現状ではどうにもならないのも分かる。道路との関係もあるから他のコーナーへ移すわけにもいかない。住民と話し合い、了解を得たうえでこの一角をポケットパーク化してそこを安住の位置とすることができればベストだろうか。



写真1314.近江鉄道五箇荘駅
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 写真1310の真正面の道をまっすぐ200mほど進むと五箇荘駅。背後は新幹線、屋根の隙間を通過中。







写真1315.近江鉄道五箇荘駅
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 五箇荘駅着、このカットの撮影時刻14時34分。あとは15時05分の電車を待つだけ。

 普通の考え方であれば、このレポートは中山道小畑町へ着いたところで終わればいいのである(この五箇荘駅は不要)。しかし、このレポートを終えるにあたって、実際に歩いてみてじかに感じたこと、それがとりもなおさず五箇荘駅をここに置いた意味につながるのだけれども、それを最後に触れておく。その前に今回の御代参街道探訪の日程をまとめておく。

 2016年1月1日、土山宿をスタートして五個荘着が同5月5日。その間の区間割りは次の通り。
 第1日 1月01日 土山宿〜土山町西瀬音  2.2Km
 第2日 1月02日 土山町瀬音〜笹尾峠〜日野町鎌掛292m尾根 2.6Km
 第3日 1月03日 日野町鎌掛292m尾根〜鎌掛宿  2.4Km
 第4日 1月31日 鎌掛〜日野町伊勢道  4.4Km
 第5日 2月11日 日野町伊勢道〜石原宿  3.0Km
 第6日 4月09日 石原宿〜朝日大塚駅  3.6Km
 第7日 4月11日 東近江市朝日大塚駅〜東近江市蛇溝町見送り稲荷神社  4.7Km
 第8日 5月05日 見送り稲荷神社〜東近江市五個荘小畑町中山道出会い。 8.2Km
                            総距離   31.1Km

 重複区間(緑のコース)
 第9日 5月22日 日吉山王御旅所〜日吉神社  0.8Km
 第10日 6月23日 日吉神社〜建部下野町   1.9Km


 近江鉄道の存在は若いころから知っていた。山への途次、彦根駅あたりで見る電気機関車、電車の姿。もう50年以上も昔になる。その鉄道の存在は知っていたが、なぜそれが近江平野を横断する形で、八日市、日野を経由して貴生川に至るのか。それが分からなかった。仮に現在、新しくこの路線を計画しようとすれば、だれが賛成するか。どこかの項で書いたが、彦根・貴生川間の開業は明治33(1900)年と古い。御代参街道は江戸末期から明治初期にかけて最もにぎわったという。この開業の古さは、御代参街道の近代化だったのである。この街道を歩いてみればそれがよくわかる。
 上の日程の第5日以降、日野から五個荘(駅名は「五箇荘」)までは近江鉄道は御代参街道に並走する(御代参街道が近江鉄道に並走するのではない)。御代参街道が賑やかだったからこそ、当時の人々はそれに変わる新しい鉄道の必要性を感じたのである。その後、昭和初期にも路線をさらに南へ伸ばし、いまの近鉄(近畿日本鉄道)と結んで「お伊勢参り電車」を実現させる計画もあったという。
 Wikipediaによると、五箇荘駅は開業当時は中山道との交点付近に「小幡駅」として開業、明治43(1910)年に200mほど南へ移転「五箇荘駅」に改称された、とある。「中山道との交点」というのは、中山道と”近江鉄道”との交点であろう。文章だけの解説で詳しくはわからないが、少なくとも開業当時は御代参街道との分岐点に当たる「小畑」の地名が重視されていたのである。もう1つだけ付け加えれば、同じ項に・・・昭和57(1982)年、 老朽化に伴い駅舎解体。以後現駅舎完成(2000年)まで、駅舎と呼べる建物はが存在しなかった。・・・とある。御代参街道の盛衰を見る思いである。






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