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御代参街道を歩く・I

09.見送り稲荷から旧八風街道T字路まで

取 材 日:2016.05.04
初稿UP:2016.07.18

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地図691.見送り稲荷から旧八風街道T字路まで
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 今回のコースは東近江市蛇溝町「見送り稲荷神社」から八風街道T字路まで。現在では近江八幡市から近江鉄道八日市線沿いに走り、小脇町交差点で右へそれ、栄町交差点を過ぎ三重県桑名に向かう国道421号を「八風街道」と呼んでいるが、往時は小脇町交差点からさらに直進する、左の地図の緑の線で示される道が八風街道だったという。その道が御代参街道とT字型で交わる。御代参街道から見た突き当りに「親玉本舗」という饅頭屋がある。その間の距離2.6Km、御代参街道主要部の前半に当たる部分である。



45. 見送り稲荷から玉緒街道交差まで

地図692.ルート要所図
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 御代参街道をさらに北上する。今回のスタートは三日溜池畔の「見送り稲荷神社」。次の信号が「今堀町交差点」。これは現在の県道45号、旧道のバイパスに当たる。もう少し進んでカギ型の交差点、「右玉緒」の石柱がある道が玉緒街道である。








写真1101.見送り稲荷を後に
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 見送り稲荷を後にさらに北へ向かう。池の向こうの森は見送り稲荷。池は三日溜。ついそこの案内板で仕入れた名称である。対岸の木々をもう1枚。


 写真1102.池のはずれから
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 池のはずれから見た県道45号。








写真1103.長谷野観音堂
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 何かいわれのありそうな建物だ。地図によると長谷野観音堂らしい。田んぼの中で進入路が分からない。探せば何とかなっただろうが面倒くさい。その場で遠景を。ズームの長所というか短所というか。じゃ、望遠がなっかたら行ったかどうか。要は自分の気持ち。




写真1104.田植え直前
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 野では田植え直前。








写真1105.今堀町交差点
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 すぐに今堀町交差点につく。今しがた向こうから来た軽トラが右折していった。シャッターを切った。軽トラは写っていたが、信号灯が消えていた(3色とも点いていなかった)。それからクルマはこなかった。しびれを切らしてあと4枚撮っておいた。点っていたのはこの写真1枚だけだった。LEDランプはこわい。



写真1106.地蔵さん
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 同じ場所。道を挟んだ向かい側に地蔵さんが並んでいた。カメラを向けていたら、トラックがやってきて、信号待ちで止まってしまった。行ってしまうまで待っていてもよかったのだが・・・、いけませんな、まだまだ修行が足りません。





写真1107.飛び出し坊や
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 今にして思う、恐怖の飛び出し坊やだったと。滋賀県が飛び出し坊やの発祥地らしいが、その中でもこのあたりが本家本元じゃないかと思うぐらい。それにしてもその飛び出し坊やを由緒ある道しるべにくくりつけてある。まいったな。それはないで。
 とびっくりしていたら、もっと驚く事実が・・・。2016年5月13日付の京都新聞に、「飛び出し坊やを探せ」という記事が載っており、琵琶湖博物館が県民調査をするという。そしてその坊やの発祥地が東近江市だとか。旧八日市市社会福祉協議会の依頼で、地元の看板業「久保田工芸」が考案したのが始まりだとか。これは知らなかったぞ。でもこの数は半端じゃない。やっぱり発祥地だったのだ。  



写真1108.右 玉緒市原道
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 「右 玉緒、市原道」とある。ところでこの「玉緒」というのは?。何かで聞いたことはあるような気がするが、国土地理院の地形図には近江鉄道の線路を越えて反対側(この道から見れば左側)にある布施山にカッコ付きで(玉緒山)とあるだけ。しかし淡い記憶は車で走っていてどこかで見たような。そう遠くの場所ではない。




地図692A.ルート要所図(マピオン地図に加筆)
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 さて、その玉緒とは。この石標の位置は、近江鉄道長谷野駅付近の蛇溝町交差点からまっすぐ進んできて今歩いている御代参街道にぶつかり、カギ型にずれて右へ伸びていく場所である(左図参照)。石標の位置が最初から変わっていないとするならば、右(東へ)へ伸びる道をたどればいいはずだ。
 現在は南を走る先ほどの今堀町交差点を通る県道45号(地図では布引街道と表記されている)がバイパスになっているが、この道しるべが生きていたころは、すぐ手前の細い道(地図でいう赤い線)が玉緒へ向かう道だったはず。それはやがてバイパスにつながる。ということは地図でいう「布引街道」が玉緒につながっているはずである。と、名神を越えた大森町の交差点(上の地図の外側)に「玉緒小学校」というのが見つかった。なんとなく記憶にあったのはこれだったのか。


地図692B.ルート要所図(地理院Web地図に加筆)
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 念のために、Wikipediaで確かめてみると、
 玉緒村(たまおむら)は、滋賀県蒲生郡にあった村。現在の東近江市中心部の南東一帯、近江鉄道本線・長谷野駅および大学前駅の東方一帯にあたる、という。昭和25年の町村合併により、八日市市になったとか。
 とすれば市原はどうなのか。石標の順序が玉緒・市原だったから、市原は玉緒よりさらに遠くと判断した。国道307号を越えてさらに奥に、やはり市原小学校というのがあった。小学校の名称は、旧地名を残す文化財である。たとえば旧野洲郡も野洲町と中主町が合併して野洲市になった。中主町の住所表示は消えたが、中主小学校、中主中学校の名は残っている。
 ついでに、この小学校名文化財。長谷寺地蔵堂の前にあった石標の地名で見当がつかなかった「いしとう・さくら谷」の「さくら谷」。同じ要領で周辺を探してみた。石搭寺よりさらに奥、307号中之郷交差点近くに「桜谷幼稚園」、「桜谷小学校」、東西2つの「桜谷郵便局」が見つかり、なるほどと納得した次第。しかし、なぜ桜谷が道しるべの対象になるほど著名だったのか、それはわからない。

 余談:現在の道路標識は、複数の地名を列挙する場合、遠い順に表記されている。私はあれが気になって仕方がない。近くから順にたどっていくのだから、近い順であるべきだと考える。




写真1109.左 八日市XX太XX
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 同じ石標の左面である。左、すなわち御代参街道を進めば「八日市」までは読めるが、その下が読めない。左の行は「太]までは読めるがあとは不明。これは多分「太郎坊」だとは思うが。





46. 蛇溝川まで

地図693.ルート要所図
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 石標「右 玉緒、市原道」を過ぎてさらに北上する。飛び出し坊やの中心的エリアの感あり。












写真1110.飛び出し坊や余聞
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 道はさらに北へ続く。広くなったり狭くなったり。この道などは遠近法で狭くなっているわけはない。たとえばトラックの少し手前など、明らかに狭くなっている。拡幅できたところ、できなかったところ。それぞれ事情があったのだろう。
 ところでここにも飛び出し坊やが2体見える。左のほう、カーブミラーの根元にあるものなど存在感が強い。これに見とれていて肝心なものを見逃すところだった。白いポールのすぐ左に常夜灯が立っているのだが、しっかり見なければ気がつかない。さらに進めばその横に地蔵さんも祀られている。
 余談になるが、私が普段気にしていることを、ここで実際に体験したような気がした。結論から先にいえば、この飛び出し坊やは交通安全に役立っているのかどうかということ、いやそれ以上に交通安全にはマイナスの作用をしてはいないかということである。
 たとえば上の写真1110を撮ったとき、どこかで話声が聞こえていた。あとの写真を見ればわかるように、坊やの後ろで道路の溝蓋を手入れしていたのだが、その姿はほとんど見えなかった。坊やの陰に隠れていたのである。地蔵さんが写ったほうでは、大人の男性と女性の姿が見えるが、実はもう一人中学生ぐらいの少年がいた。この少年は坊やの陰になってとうとう写真には写らずじまいだった。
 坊やを必要とするのは幼稚園児から小学校低学年までである。その子たちが坊やの陰に隠れてしまうのではないか。完全に隠れることはないにしても、運転者から見れば、坊やの存在感にまけて子供たちを見落とすことになりはしないかということ。そしてさらにそれよりもっと大事なことは、坊や自体が子供たちの視線を遮っていはしないかということである。
 反対側にあったペアーの地蔵さん



写真1111.さらに北へ
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 重量感のある民家が見える。


写真1112.太郎坊山
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 民家の屋根の上に見える太郎坊山。(左の岩峰、右は箕作山)






写真1113.緩い上り
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 道がわずかに上りになる(左の家屋の敷地と道路との差に道の傾きが見える)。川を越えるらしい。
 ところで右側の看板は何と書いてあるのだろう。現場では読めた。分かったつもりで写真に撮ってきたが、読みを忘れてしまった。間抜けた話である。  



47. 蛇溝川

写真1114.蛇溝川
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 左の写真はその勾配を上り切ったところである。白いフェンスの部分の下を川が流れている。右に見える標識に「御代参街道」とある。川の標識かと思ったら道路用の表示だった。川の名前はどこにも表示されていない。地図を調べたら蛇溝川とか。橋の名前は不明。名無しでは仕事に困るから、勝手に蛇溝川橋と命名。このWebページの中だけの名称である。  



写真1115.天井川
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 蛇溝川。御代参街道から下流側を見たところである。上流側ではバックが田んぼなどでそれほどのイメージはつかめないが、下流側では民家が近く天井川であることがはっきりする。それに川幅が思った以上に狭い。






写真1116.祠と常夜灯
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 街道沿いには祠と常夜灯がセットになって祀られていた。ここにも同じ組み合わせが。これは下流左岸の堤防上。ちょっと妙なアンバランスな組み合わせだが。特に常夜灯。柱がなくなって火袋だけが直接台の上にちょこんとのせられている。





写真1117.祠と常夜灯
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 これも祠と常夜灯だが、撮り方を間違ったようだ。左の瓦葺きの祠とその右下の小さな常夜灯がセット。台座に「村中安全」とある。右の「伊勢両宮」とある立派な方は別に独立したものらしい。下の題座には「従是いせ山田・・・」とある。最後のところが汚れて読みにくいが、拡大すると「・・・江 廿五里」と読める。念のためここから伊勢神宮までの直線距離が87Km。1里が4Kmだから、25里で100Km、そんなものだろう。1日8里として3日がかりだった。そんなことで左の1組は村内が対象、いわば地方区。それに対して右の伊勢両宮は全国区、当時としてはまさグローバルだったはず。



写真1118.はめ板
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 この部分、堤防より道路の方が低い。増水時には道路の部分から水が漏れる。そのときのために板をすとんとはめ込んで水があふれるのを防ごうという装置。こんな分厚さで大丈夫なのかと心配になるが、それは置いておくとして、その昔の石製のものが右岸(八日市側)上流側に残っていた。下流側は鉄製のみ



地図693A.ルート要所図
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 横道にそれる。以前、西の湖の近く、円山町・浅小井町あたりで、「蛇溝川」という標識を見て驚いたことがある。近江鉄道「長谷野」近く、県道13号の蛇溝町交差点は知っていたが、同名の川があることは知らなかった。恐ろしい名前の川やなと驚いた。おそらくそのあたりから流れてくるのだろう。へー、そうなのか。それはいいとして、その横にかかっている橋の川名が「長命寺川」となっている。オイ、どっちやねん。地図を見ると、蛇溝川が西の湖へ流れ込む。そしてそれの延長が長命寺川として流れ出る。2本の川は見方によっては1本の川とも見て取れる。解釈次第によっては蛇溝川が長命寺川にもなる。そのジャンクション周辺だけの特殊事情だろうが。
 ついでに上流側はどうか。前出の地図692Bに見るように、布引街道沿いに東進し、「玉緒小学校」のすぐ南を通り、国道307号瓜生津交差点を越えて「市原小学校」の南を流れる。まさに「右 玉緒、市原」をその流域としている。古く、人間の生活は流れに沿う。なるほどなー。



48. 畑街道交差点まで

地図694.ルート要所図
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 蛇溝川を越えてさらに北進する。約400mで八日市中野郵便局。そこを過ぎたところで片側2車線の立派な道路が右側からやってくる。T字路である。そこでいったん左へ振った後、緩い右カーブを経て畑街道との交差点に至る。









写真1119.さらに北へ
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 蛇溝川を越えて落ち着いた雰囲気の道がさらに北へ。


 写真1120.引接寺
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 珍しい名前の寺だ。「いんせつじ」と読むのだろうか。両側の白いライオン?は何だろう。本堂の見事な甍をどうぞ。反対側には荒れた小屋。すべてのものは常ならず。



写真1121.さらに進む
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 細い道。軽でも離合するとなるとお互いに緊張するはず。


 写真1122.日吉神社
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 ここは今崎町、日吉神社バス停。広場の隅に祠と常夜灯のコンビが見える。そして大概の場合、道を跨いだ反対側に小型の祠がある。ともすれば見落としてしまいそうな祠にも、このように生き生きとした花が供えられている。近所の方がたの心を見る思い。



写真1123.中野郵便局
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 八日市中野郵便局。街道には赤いポストがよく似合う。その向かいにも祠と常夜灯。前へ回って1枚。立派な瓦の屋根が重たそう。







写真1124.広い道路が
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 片側2車線の広い道路が右側からやってくる。いずれは方々へつながるのだろうが、いまは大凧通りまで開通しているだけ。左の写真は道路予定地から広い道路を見たところ。軽トラは御代参街道から広い道路へ右折していくところ。突き当り真正面に当たるところに新しく地蔵堂が建てられていた。まさかこれをつぶして道路にするとは考えられない。新しく作られる道路の中央分離帯になるのだろうか。まあとにかく一事が万事、地蔵さんと常夜灯の町である。



写真1125.太郎坊山
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 新しい道路の延長線、御代参街道から見れば左側が空き地になっていた。その片隅から見た太郎坊山(350m・左前の岩山)。右後ろの丸い山は箕作山(372m)。実際の高さは箕作山が20mほど高いが、太郎坊山が手前に立つため、両者ほぼ同じ高さに見える。





写真1126.緩いカーブ
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 広い道路を過ぎると、次の高札場の辻(下の地図参照)まで緩い右カーブを描く。何か意味があってのことかと思うが、にわか仕込みの素人にはまったくお手上げ。途中、民家と一体になったような地蔵堂も見える。屋根瓦の立派なこと。





地図694A.ルート要所図
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写真1127.カーブが続く
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 緩いカーブが続く。現在地「八日市市中野町」とある。ときどき踏切の警報音が聞こえて電車の音も聞こえるが、姿は見えない。







写真1128.高札場の交差点近づく
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 高札場の交差点。十字には交わらず、ちょっとねじり加減に交差する。交差する道は細い生活道路である。白い袋を持ったオバちゃんが自転車で通り過ぎていく。オバちゃんの向きに進むと県道13号「昭和町」交差点へ出る。





49. 畑街道交差点

写真1129.交差点から
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 オバちゃんが走っていった道を見る。県道13号の昭和町交差点方向。反対向き。大凧通りの方を見たところ。いずれにしても細い道である。昔の八日市は、広い道を調子にのって走っていると、急に細くなって驚いたものだが、いまもその傾向は残っているようである。




地図694B.ルート要所図
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 もちろん今どきの大きな交差点ではない。しかし地図で見ると何となく由緒がありそうな交差点である。当然、道しるべの1基や2基はあるだろうと期待をしていた。それがないのである。信号もない。期待外れ。
 その欲求不満は、このあと中野神社の境内で、ここにあったという道しるべを見ていくらかは解消した。この交差点の北東隅と南西隅にそれぞれ1基ずつの道しるべが立っていたという。道路の拡幅工事のため神社御境内に移されたとのこと。



写真1130.石標1
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 交差点の北東隅、現在の奥出酒店側に立っていたという道しるべである。現在は次の石標2ともども中野神社境内に移設保管されている。写真1128の写真でいえば、オバちゃんが走っていた道の右奥に立っていた。右へ行けば、永源寺へ通じるという。案内板によれば、オバちゃんが通った道を畑街道といい、永源寺への間道だったという。左はいうまでもなく多賀道。御代参街道で中山道五個荘小畑をへて多賀へ通じるという。



写真1131.石標2
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 反対側、説明板によればJA中野があったというが、私が行ったときにはそれはなく、住宅の駐車場になっていた。写真では「左 京武佐」とある。上の案内板にもあるが、「四ツ辻」なる地名が出てくる。地域独特の呼び名らしく部外者にはわからない。文脈から見て八風街道がらみらしい。現在は近江八幡から八日市・永源寺を経て石榑トンネルで三重県抜ける国道421号をそう呼んでいるが、当時の道が果たして今のルートであったとは思えない。地図を添えてくれるとよそ者にはわかりやすいのだが。



補記:地図699.「四ツ辻」のこと
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 上で「「四ツ辻」が不案内なことを述べた。これはまさに私の土地不安内。あとで国土地理院の地形図を見ていたら、何と、ちゃんと載っているではないか。近江鉄道八日市線、近江八幡武佐からやってきた国道421号が、太郎坊の手前で右へ分かれていくところ。現在の小脇町交差点のところである。「小脇町」とばかり思い込み、細部を見なかった私のミス。
 ついでにマピオン地図では、「四ッ辻」というバス停が示されている。さらに細かくなって、小脇町の交差点とは微妙なずれがある。バス停の名前も一つの文化財。



50. 栄町交差点まで

地図695.ルート要所図
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 畑街道交差点右奥が奥出酒店。その横に高札場跡がある(地図694B参照)。そのあと300m足らずで中野神社。そのあとすぐに栄町交差点に出る。国道421号と交わるところで、一般的には国道421号が八風街道と呼ばれている。








写真1132.さらに北へ
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 交差点を越えて次のエリアへ入る。歩いている向きから見て、右向こうの角に奥出酒店の建物(右手前に見える建物)があって、その向こうが高札場。右端、建物のそばに常夜灯のシルエットが見える。






写真1133.高札場
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 その昔ここに立札が立っていたのだろう。「高札場跡」の説明文がある。八日市市では大凧通りに「札ノ辻」の地名がある。そういえば、昔の京都市電伏見線に「札ノ辻」という停留所があった。






写真1134.カーブ
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 カーブ、といっても先ほどのゾーンのような一方的なカーブではない。右に左にこれぞ街道のカーブ。看板があって「高田 蛭子堂」という。意味不詳。







 写真1135.カーブ
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 カーブの道を自転車のおばちゃんが行く。バックの暗部にいれようとして小さくなった。もうちょっと早くてもよかったが。


写真1136.中野神社の前
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 中野神社の前を手押し車のおばあちゃんが行く。「お暑つうございます」。








写真1137.中野神社
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 実にシンプル。街道からじかに参道につながる。石灯籠を見ていて、どえらいものに驚いた。「国威宣揚」とある。裏面、「昭和12年7月 大日本突鼻会」。生まれてはいたが満3歳。盧溝橋事件のその月のはず。えらいものが残っていた。そもそも突鼻会て何やろね。聞いたこともないが。
 びっくりしたけれども、この神社の境内には、上で触れた畑街道との交差点に立っていたという道しるべなどが残されている。



写真1138.祠・常夜灯
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 中野神社の前にあった祠と常夜灯。火袋を通して「津島神社」の字が見える。現場を確認してこなかったので、詳細は不明だが、常夜灯の奥にもう1つ火袋があるように見える。いずれにしても、この常夜灯と祠の組み合わせには、津島神社、秋葉山、愛宕山などの名が見える。




写真1139.さらに進む
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 緩くカーブしながらさらに進む。「中将湯」・「順血湯」などの看板がガラス越しに見える。漢方薬などを扱っているのだろうか。







写真1140.栄町交差点近く
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 3階建てか、4階建てか。今までと雰囲気が異なるビルが見えてくる。栄町交差点(国道421号との交差点)に近づく。







写真1141.レンガのエントツ
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 と、前方に気をとられ、ふと左を見ると、お、これはすごい。道路沿いに空き地があって、その奥にレンガのエントツ。ゲートの上に標識があって「レンガのえんとつとまれ」とある。NPO法人がレンガの煙突を保存しているらしい。ゲートは鎖でふされており中へは入れなかったが、ゲートの前まで行くと、もっと整理された風景になった。エントツはかなり右へ曲がっている。現場で見たときは感じなかったが、写真で見ると、へー、こんなに曲がっていたかなと思うぐらい。最初ワイドレンズの歪みかとも思ったが、他の建物が歪まず、エントツだけが曲がっているから、やはりエントツそのものの歪みだろう。横にあった蔵にこんな看板がかかっていた。



51. 栄町交差点

写真1142.栄町交差点
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 そしてすぐそこが栄町交差点(国道421号との交差点)。左が近江八幡。右が永源寺、さらには石榑トンネルを抜けて三重県に通じる。左の写真1142の交差点右の駐車場から交差点を見たところ。向こう側に馬鹿でかい文具店がある。以前、永源寺へ行くときなど、信号待ちのときにこの文具店は記憶に残っていた。なるほどここだったのか。そして、駐車場のすぐそばのバス停は「御代参街道中野」。ちょっと長いが、歴史的に価値のある名称である。乗用車は永源寺方面へ向かう。



写真1143.笠屋地蔵堂
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 国道を越えたところに曰くがありそうな石標が見える。その前でオバちゃんが2人会談中。石標を覗きに行きたいのだが、割り込んで行くのも気が引ける。
 長かった会談がやっと終わって「じゃ、またね」。遠くから見ていた時には民家に見えたが、近寄ってみるとどうも地蔵堂らしい。その角に石標が立っている。地蔵堂よりその方が気になった。



写真1143A.右いせ道
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 角から見て右面に、「左 たか道」とある。左面は彫りが浅い上に陰になっていて読みにくかったが「右いせX」と読める。ふんふんと納得したが、何かおかしい。左右が逆になっている。建てる場所によってはそういうこともあるだろう。それはよしとして不思議なのは、この行き先である。どちらも御代参街道を指しているが、これだとその道は90度曲がることになる。しかしここは十字路ではあるが、街道としは直進するだけ、決して曲がるところではない。どこかから移されてきたのかもしれないが、この付近では街道が直角に曲がる場所はどこにもない。不思議。
 と、書いて来てふと中野神社にあった案内板を思い出した。後ろから4行目の「南井文具店の前の笠屋地蔵さんの角にも古い道しるべが立っている」との文章である。そういえばカメラの背後は文具店ではある。しかしその名前まではわからない。確認に行った。間違いなく南井文具店だった。だとするとこの地蔵堂が笠屋地蔵であって、この石標が案内板がいう「古い道しるべ」といことになる。上に火袋がついており確かに伊勢と多賀を示す重要な道しるべだったことはわかるが、どうも場所が合わない。どこかの時点で状況が大きく変わったのではないか。いろいろ推測してみたが、現時点では思い当たるふしはない。



52. 八風街道T字路まで

地図696.ルート要所図
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 栄町交差点(現在の八風街道・国道421号)から旧八風街道との交差点(親玉T字路)までである。南からやって来た御代参街道はここでいったん右折して数10m先にあるアーケード街を左折、さらに北進する。この区間(親玉T字路・アーケード街入口間)はいまでいう供用区間ということになるが、八風街道そのものは当初は近江八幡起点ではなく、愛知川宿を出発点としてここ八日市にいたり、そこから八風峠へ向かったとか、素人が簡単に云々できない一面もあるようである。



写真1144.さらに北へ
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 笠屋地蔵を過ぎてさらに北へ。栄町商店街の照明灯がつづき、「御代参街道」の表示が見える。土山町から日野町石原まで続いていた例の標識が消えてから、初めてみる「御代参街道」の文字。






写真1145.祠・常夜灯
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 祠と常夜灯、それはいいとしてクルマの後ろのでかいサイコロは何やろね。クルマのストッパーにしては大きすぎるし。







写真1146.おッ映画館だ
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 「おッ映画館がある」・・・・。タバコの煙がむんむんして、暖房も冷房もない場末の映画館。そんな空間を映写機の光が走った。アラカン(お若いの分かりますかね。嵐寛寿郎のことですぜ。ナニ?ワカラン。きみ何年生まれかな)が馬に乗って鞍馬街道を走ると満員の客席から拍手が起こった。しかしここは鞍馬街道ではない。天下の御代参街道。建物の名が「御代参歴史街道」。「史」の字がちょっとおかしいけれど。
 閉館中で中を見ることはできなかったが、左下に見える案内板「御代参街道と八日市市」。簡潔な文章でわかりやすい。略図が付されているのは親切である。右下に飛行機の前部が見える。100年前に初飛行したものだとか。「飛」という字が、「発」といいう字と混ざり合って何とも不思議な字なっている。飛行機の「飛」と発動機の「発」の合成文字だと考えれば楽しくなる。



写真1147.照明灯
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 御代参街道の照明灯が空をバックに並ぶところはないかと探していたが、この記念館の前がまさにそのポイントだった。先ほど通っていったおばあチャンが、手押し車をクッと左へまげてまさに消えようとするところ。散歩からご帰還というところか。





写真1148.水かけ不動
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 おばあチャンが入って行ったところの少し手前。薬師寺という表札に「水かけ不動」とある。あんまり関心はない。写真だけ撮って通り過ぎる。







写真1149.薬師寺
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 その隣が薬師寺というちゃんとしたお寺だった。先ほどのおばあチャンが境内をこちらへ帰って来るところ。てっきりおばあチャンが家へ帰ったところかと思っていたが、お参りやったのか。





写真1150.荒物屋
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 こういう店を確か荒物屋といったかな。タケノコをゆがく大きな鍋が積み重ねてある。タコ糸、灯油ランプ、あんどんまではわかるとして、「とうば」が問題が問題。「塔婆」と漢字が添えてある。ふりかなは分かるけれど添漢字ねえ。卒塔婆は聞いたことがあるが・・・・。調べてみたら、墓の後ろに立ててなんだかんだと書いてある薄い板だという。そんなものまで売っているのか。もう1枚。店全体をどうぞ。



53. 八風街道

写真1151.突き当り
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 そうして突き当り。「親玉本店」とある。昔、京都の河原町通りが塩小路通に突き当るところに「ドンツキ」という看板が上がっていた。それは靴屋だったが、こちらは何の店やろ。近寄ってみると饅頭屋だった。その右の路地に見える常夜灯をアップ




写真1152.左 いせ
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 御代参街道が親玉本舗に突き当たる。その左手前の角に「左いせ・右京」の堂々たる道しるべが立つ。写真は親玉本舗前から歩いてきた御代参街道を振り返ったところ(南方を見ている)である。左右は逆になって右角に道しるべが見える。





写真1153.八風街道
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 同じアングルで道しるべをアップしたところ。いうまでもなく町屋は御代参街道に面している。刻まれている文字は「左いせ」と大きく、その下に2行にわかれて「ひ乃/みな口」。「右京」が大きく、下に小さく「むさ/八まん」とある。
 「左いせ」面を正面に見たところ。さらに左の面がみえて「右多賀」と見える。下は小さくて見にくいが「ゑち川/ひこね」とある。  



写真1154.旧八風街道
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 旧八風街道を近江八幡の方へちょっとだけ歩いてみた。道が左右に分かれるところがあって、そこに立派な常夜灯が立っていた。








写真1155.常夜灯
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 木に囲まれて全体像を見ることは無理だったが、ご神木と並んで落ち着いた雰囲気を醸し出していた。後ろから階段の部分をどうぞ。








写真1156.パト電通過
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 と、突然踏切の警報機が鳴りだした。街道を歩いているときも、警報機の音や電車の警笛音を何回か聞いた。場合によっては走行音を聞くことも。しかし民家が視界を遮り電車そのものは見えなかった。しかし、今度は違う。遮断機が下りて、ストップした車が並びだした。今度は見えそうだ。やってきたのが有名なパト電。





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