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御代参街道を歩く・F

06.石原宿から

取 材 日:2016.02.11(石原宿のみ )
取 材 日:2016.04.09
初稿UP:2016.07.18

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地図661.石原宿から岡本宿まで
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 石原宿から岡本宿まで、間に挟む鋳物師集落を含めて3つの集落を直線で貫く街道を歩く。この道は以前は国道477号だった記憶があるが、もう1本西側に国道477号が開通し、いまは県道になっているはず。直線距離で1,6Kmほど。距離的にも近い。
 石原宿と岡本宿は互いに規模が小さかったことから、両者合わせて一駅とする合い駅で、上りは石原宿、下りは岡本宿が人馬継立を行っていたと伝えられている。



29. 石原宿から鋳物師交差点まで

地図662.ルート要所図
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写真921.石標
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 標識「石原宿」のそばにある石標。光線状態が悪くて読みにくいが、読めないのはそのせいばかりではない。基本的に読めないのだからどうしようもない。「従是」はともかくとして、右の行。一番上の字が読めず、その下が「の永げんじ」だとおもうが、一番上が読めないから意味が分からない。たしか土山の石標に「高野の永源寺」というのがあった。一番上が「高」だとすれば、一応のつじつまだけは合うのだが、さてこの字が「高」だといえるのか。左の行は下4文字は「佐くら谷」らしいが、その上が読めない。
 この「さくら谷」というのは、当時の石標によく出てくる。日野町近くの小さな地域のことらしいが、現在の事情を考えると、どうして当時道しるべになったのか、もう一つよくわからない。



写真922.細い道をぬける
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 バス停前の細い道を行く。100m足らずで集落を抜け田んぼへ出る。そこで左折せよとのお達し。気持ちのいい麦畑に見えとれていると、その十字路を曲がらずに突き進んだところに曰くのありそうなお寺が見える。





写真923.潮音寺
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 門柱に「福寿山潮音寺」とある。「滋賀県黄檗宗教務所」との銘も。門前にいかめしい「葷酒山門に入るを・・・」の碑。ホンマかな、中には守っている人もいるにはいるだろうけれど。


 写真924.細い道を行く
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 元に戻って微妙にに蛇行する道を行く。左前に石の柵が見えてくる。石原神社である。






写真925.石原神社
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 神社としてはちょっと変わったイメージである。ふつうは入り口に神社の名を示す碑が建っていて、鳥居にも神社名を示す扁額が上がっているのものだが、ここにはそれがない。そして「祇園社」との説明板。あれっここは石原神社ではないの?。別の場所にある「石原神社記」を読んでやっと話がつながる。面倒な話である。



写真926.左折
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 石原神社を過ぎたところで街道に沿って縦に長い集落が途切れる。そこで左折。


 写真927.右折
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 県道を渡ってすぐの十字路を右折する。








写真928.十字路の角
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 その十字路の左手前の角に例の道しるべがあって、その下に石標が建っている。大きく深い彫りで「左いせみち」とある。あれ?、右折じゃなかったの? と早合点をしてはいけない。いま歩いているの伊勢から五個荘へ向けて。”いせ”は後ろである。「左いせみち」は逆に歩く人のためのものである。





写真929.県道と合流
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 右折してすぐ県道と合流する。合流点に縦書きで「御代参街道」標識が立つ。後で分かったことだが、この標識はここが最後だった。なんだかんだとケチをつけたが、それ以上にお世話になったとの思いが強い。ここまで道を間違えずに歩いてこれたのも、この標識によることが多い。





写真930.県道を歩く
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 歩道のない県道を歩く。


 写真931.誓善寺
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 街道(県道)に面して建つ誓善寺。








写真932.近江鉄道
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 誓善寺の前から見た近江鉄道朝日野駅付近。陸橋の向こうが駅。写っているのは朝日野駅発車直後、日野駅へ向かう電車。






30. 鋳物師集落を行く

写真933.鋳物師交差点
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 すぐに鋳物師交差点につく。”Imonoshi”とローマ字が付されている。読んで字の通りだから何の不思議もない。ところがいつごろだったか、初めてこの交差点に出会った時、ローマ字は”Imoji”だった。あれ?、読み間違えたかなと思って見直したから間違いはない。いま、念のためと思って『図説近江の街道』(1994年発行)で確かめると、これにも「いもじ」とルビが打ってある。いつのころからか正式な読み方が変わったものらしい。漢字からすれば、確かに"いもじ”はおかしい。しかしこういう地方独特の読み方も一つの文化財なのだが。


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写真934.南無阿弥陀仏碑
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 交差点の一角にでかい碑が建っている。後ろが工事の現場事務所で落ち着かないことおびただしいが、それはいいとして、何気なくその文字を見て驚いた。ついさっき、近江鉄道の踏切を越えたところで見たあのゲテモノとうり二つだったのだから。碑の全体像に若干の相違はある。しかし刻まれている文字といいその配置といいまさにそっくり。文字の明瞭度はこちらの方に軍配が上がる。「南無阿弥陀仏」もその下の「徳本」の文字ももはや疑う余地はない。
 もう一度しっかり見直した。やっぱりゲテモノだとは思う。しかし、そのゲテモノが2つ揃うところに何かの意味はありそうだ。物は試しと”南無阿弥陀仏 徳本”で検索してみた。そうしたら出てきたのである。
 たとえば”わかやま観光情報”には、
 徳本上人(とくほんしょうにん)として
 ------徳本上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者で、上人の書かれた「徳本文字」、想像を絶する「荒修行」が特に有名です。信者は近畿、東海、北陸、信州、関東地方にも及び現在でも「徳本講」は引き継がれ、清貧の生き方は今なお人々に影響を与えています。----とある。
 そうか自分が知らなかっただけか。これは罰当たりなことを書いてしまった。これはとにもかくにも謝る。それしかない。ところが驚きはそれでは終わらなかった。びくりしたのはその読み方。私は当然「とくもと」だと思っていた。それが「とくほん」だという、さらに驚いたことに別のサイトでは”「とくごう」と読まれることもある”という。ナニ!、トクゴウ?。早よう言え、それを・・・・。
 信州島々から上高地へ越える峠を徳本(とくごう)峠という。深田久弥も『日本百名山』でこの峠からの穂高の眺めを絶賛している。山へ行きだしたころ、この読み方が不思議だった。それから60年、いまの今まで事情が分からないまま、皆がそう読むから「とくごう峠」なのだと思ってきた。これは「徳本上人」にちなむのではないのか。槍ヶ岳も播隆上人によって開かれた。山岳修験者が山の地名に名を残す。よくある話である。
 「徳本峠」で検索してみた。消えた峠だと思っていたのだが、思いもかけず「徳本峠小屋(峠の宿)公式ホームページ」がヒットした。バスで入るのが常識の世の中で、峠は生きていた。その中で、峠の歴史については諸説ありとしながらも、その中の一つとして”徳本上人がこの峠を越え、峠路の開発にあたった”という説をのべていた。



写真935.交差点を振り返る
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 交差点を渡って振り返ったところ。現場事務所の前で前かがみに立つ徳本碑。「日野町」の標識が立つ。そういえばここが日野町と東近江市との境。でも「東近江市」の標識はなかったぞ。





写真936.鋳物師集落へ
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 鋳物師集落へと向かう。


 写真937.児童公園
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 すぐに児童公園に出会う。上の写真で桜が咲いているところである。公園の半分が小さな神社の境内になっている。名前を調べてくるのを失念。大木の横に祠があるが木ばかり目立って祠には目が行かない。



写真938.灯籠が時計に
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 驚いたのは灯籠が時計になっていたこと。なんとすごいアイディアだ。子供が登校時の集合場所にもなるのだろう。遊ぶときにこれを見て時間励行。しかしもう12時?、そんなことはないだろう。自分の時計を見ると11時半をちょっと過ぎたところ。
 祠を撮ったり、桜を撮ったりして、もう一度灯籠の時計を見た。まだ12時。やっとおかしいことに気がついた。紙が破れているのか、破ってあるのか。遠くから見るとそれが時計に見えたわけ。人騒がせな。



写真939.街道独特のカーブ
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 街道独特のカーブを行く。もう1枚


 写真940.鋳物師バス停
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 鋳物師バス停。奥の大きな建物は鋳物師公民館。もう1枚。びっくりするような立派な建物である。 写真拡大




 写真941.朝日野郵便局

 朝日野郵便局。もうすぐそこが町はずれである。 雪野山が近づいてくる



31. 岡本宿を行く

地図663.ルート要所図
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写真942.JA蒲生町西
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 朝日野郵便局から250mほど、町はずれの道を過ぎて、ここはもう岡本宿への入り口。JA蒲生町西の建物が見えてくる。右側の建物は交番。


 写真943.東近江市社会福祉協議会
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 その隣に東近江市の社会福祉協議会云々という建物があって、その前の桜が見事だった。






写真944.梵釈寺
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 近江鉄道が行く。日野町三十坪、現在の御代参街道が国道477号とクロスするあたりから街道につかず離れず近江鉄道が走っている。クルマで走っているときには、電車に出会うことはめったにないが、こうして何Kmかを歩いていると、忘れたころに電車がやってくる。そうして撮った1枚だが、この風景にはちょっと思い入れがある。それならもっとしっかり見極めて撮るべきだったと今になって反省しているのだが、実は画面真ん中少し左、大きく写っている電柱と重なって山寺の山門が見える。梵釈寺という古刹である。梵釈寺そのものとは今の場合直接深い関係はないのだが、実はその近くから見ると、三上山と比叡山との頂上が重なって見える。その条件を「地球はやっぱり丸かった」で利用した。そんなことでこのあたりはなんとなく懐かしい。



写真945.集落に入る
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 岡本宿の集落に入る。新しい石標が建っていて、ここは「屋根屋」跡だという。集落の中ほど本陣跡と称するところに「江戸時代の岡本宿」という案内板があって、当時の様子が細かく表示されている。それによると屋根屋・檜皮屋根職村田平兵衛とある。案内図アップ。右端の方、集落への入り方が現在とは変わっている。図では左折して入るようになっているが、現在は右の方から直進して入る。
 たとえばもう1枚。「樽屋」とある。現在も酒屋さんらしい。案内板には「樽甚」・図司甚蔵とある。多分これが正解だと思うが、案内板にはもう1軒、安井又兵衛(酒類販売商)というのが並んでいて、さてどちらかなということになる。



写真946.T字路
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 集落へ入って100mほど進んだところで右側からちょっとしっかりした道が合流していくる。左の写真は合流する道から街道を見たところである。参考のため、街道側から合流してくる道を見たところ。その部分だけを見るとT字路になっており(全体的に見れば変則的な十字路に見える)突き当りの倉庫風の建物の横に「橋本屋」の石標が建っている。



写真947.枡形
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 上のT字路を右に折れて、街道を見たところ。すぐまたT字路になっていて、左折する道がある。普通の宿場町だと、枡形は主たる街道が折れ曲がるはずだが、こちらはそれにクロスする道が折れ曲がっている勘定になる。






写真948.京街道分岐
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 カーブミラーのところからT字分岐する道を見たところである。ただの道である。現在のGoogleMapでは県道41号になっているが、私が使っている昭文社の2006年版マップル滋賀版では国道477号になっている。477号のバイパスができて、管轄が変わったのだろう。
 古い道標では「左いせみち」、平成版の新しい道標には「京街道」とある。伊勢道は早い話が今歩いている御代参街道のことだから、それはいいとして、京街道はどこへどのようにつながるのか、土地不安内の素人にはさっぱりわからない。しかしこのT字路が昔は交通の要所だったことが分かる。



写真949.枡形
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 同じ道標を、上の写真と反対側から撮ったものである。写っているのが県道41号、いわゆる御代参街道。右画面外が日野(近いところでは鋳物師交差点)。オバアチャンが横断しているのが、先ほど写真946で右側から合流してきた道路。
 古い道標では「右水口いがみち」とある。とにもかくにも右へ行けば水口へ行くのだろう。問題は新しいほう。上の写真と2面併せて「京街道起点」とあるだけで、3本あるうちのどれが京街道なのか全く不明。こちらが勉強すればいいのだろうが。



写真950.道標整理
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 新旧2本の道標の左右両面を見たところである。正直のところしっかり意味が分かるのは、「左伊勢道」だけ。大きな意味で地理的感覚がなく、現在の感覚でしか考えられない。難しいところである。特に「京街道起点」、新しい道標とはいえ、江戸末期の時点でのことを現しているはず。素人には難しい。



写真951.高木神社
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 T字分岐した道(かつて国道477号だった道・現在の県道41号)を100mほど進むと右側に高木神社が見えてくる。勧請吊りがかかっていたりして地域の人たちが大切にされている意識が伝わってくる。社殿の様子






写真952.神社の前から
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 高木神社の鳥居前から集落を見たところ。車が走っているのが県道41号(御代参街道)、右が日野方面。
 右側に見える土壁の建物、切り妻部の軒端に鎌掛型(私が勝手に使っている言葉・正しくは何というのか知らない)が見える。




写真953.県道41号を進む
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 県道へ戻ってさらに進む。蒲生岡本の標識の下に地蔵さんが2社。一社は木製の本造りだが、もう1社はコンパネを使った手造り。







写真954.本陣跡
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 ちょっとした広場があって、本陣跡だという。(岡本宿中心部略図)。現在は駐車場になっている。中へは入らなかったが、観光用の”どうぞご自由にお駐め下さい”というようなものではなさそうである。
 いま歩いてきた石原宿とこの岡本宿との距離は、中心部どうしの直線距離で約1.6Kmと近い。『図説近江の街道』によると、当時は石原宿と岡本宿は合せて一宿とされる合い宿で、上りは石原宿、下りは岡本宿が人馬継立を行ったとされるとか。本陣跡近くに立つ高札場跡碑




写真955.ガリ版伝承館近づく
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 左前方にガリ版伝承館が見えてくる。と思ってライトグリーンのしゃれた建物を見ていたら、ネコが道を横切った。真ん中あたりにいたときに切りたかったが。こういうのは気がついた時には大概手遅れ。
 さて肝心のガリ版伝承館。岡本宿略図にも大きく表示されている。「明治27年堀井新治郎謄写版発明」とある。



写真956.ガリ版のこと
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 私もガリ版にはお世話になった。いや、お世話に…なんてものじゃない。メシのタネそのものだった。毎日毎日せっせとガリ切をやった。ワープロを使いだしたのがいつごろだったかいまとなっては思い出せないが、仮に50歳(1984年)として、20歳代から40歳代終了までの30年間、ガリ版にお世話になったことになる。
 その1984年は、ガリ版発明・明治27(1894)年から90年目に当たる。90年間の3分の1の年月、そのガリ版にお世話になった。考えてみればご縁の深いことだった。ガリ切をやらなくなって30年になる。右手クスリ指にはつい最近までガリダコが残っていた。私の勲章だった。それもいつの間にか消えて今は、ない。30年かかって作ったタコが、30年かかって消える。人生の摂理を見る思いである。



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