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御代参街道を歩く・D

04.鎌掛から伊勢道まで

取 材 日:2016.01.31
初稿UP:2016.07.18

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21. 今回のルート

地図641.鎌掛宿から伊勢道まで
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 鎌掛宿地蔵堂前(県道41号分岐)から日野市街地「伊勢道」までを歩く。地蔵堂は前項でもふれたように、鎌掛宿の南北2か所にある。こちらは北側のもの。宿場内を通過する41号は北へ抜けるが、御代参街道はそのまま直進し、須原橋で北砂川を越える。そのままのどかな農地の中を北上し青木原橋に至る。そのまま進むと日野川本流にぶつかる。以前はここに橋があったというが今は通行不能。迂回路を経て茶屋町に至る。迂回路は東西2本が考えられるが、東回り、県道41号を通ると日野川を渡る橋が「御代参橋」と名付けられている。なお、現場では西回りのルートを指示している。
 茶屋町からしばらくの間、日野川に沿って進むが、やがて西進する川と別れ、日野水口グリーンバイパスを越えると、広い田んぼの中を農道に沿って進み、日野市街地の主軸道路「伊勢道」に至る。



22. 鎌掛宿から青木原橋まで

地図642.ルート要所図
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写真811.石標
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 「右 御代参街道」、立派な石標である。日野市街地からやってくる県道41号が182号シャクナゲ渓谷へつながる道を分かつところに立っている。「左」を指示する面が黒くつぶれて分かりにくいが、「楠」の字が読めるから、多分「石楠花谷」とあるのだろう。




写真812.地蔵堂
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 さて前回の終着点、鎌掛宿の地蔵堂である。この前を県道41号が右へ分岐して、約250mで上の石標が立つ交差点に達する。こちらはそのまま御代参街道を直進する。道幅が狭くなる





写真813.分岐
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 150mほどで左へ大きく曲がる、と思っていたら、物陰に例の標識が立っていて、右折だという。うっかりこれを見逃そうものなら大変だ。なるほど、そういえば細い道が右へ続いている。





写真814.竹ヤブを抜ける
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 すぐに竹藪に入る。ものの2,3分で向こうが見えてくる。その明るさがまぶしい







写真815.北砂川
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 橋の欄干かと見えていたのは単なるカーブの防護柵だった。それにしても何と情緒がある。ふつうは白いガードレールだが。
 橋はその向こう。北砂川だという。市町境・笹尾峠あたりから流れ下り、鎌掛集落の南西を流れるのが南砂川。集落の東の山地、石楠花渓谷あたりから集落の北側を巻いてくるのが北砂川。ついこの下流、山の手前で南砂川に合流する。橋から見た上流側をもう1枚。真正面にあって、ひときわ目立つぴょこんと飛び出たピークは猪鼻ガ岳らしいが、地理不案内でよくはわからない。



写真816.綿向山
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 右を見ると、段々畑ののり面が重なってみる。その上にうっすらと雪をかぶった綿向山。







写真817.広域農道と交差
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 広域農道と交差する。地図で見ると県道183号下駒月あたりからやって来る道だが、クルマで走ったような走っていないような、よくわからない。写真はその農道側から例の道しるべを見たもの。歩いている道は道しるべと並行に右から左向きである。





写真818.階段を下る
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 農道を越えて少し行くと、小川を越える。農業用水らしい。それが段々畑に右へならえをして、階段状の水路を飛び跳ねるように下って来る。森の手前の電柱の並びが県道41号。






写真819.高圧線鉄塔をまく
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 道が妙な具合に曲がっている。地図で予習をしたとき、この曲がりを見て何かあるなと予感したが、意味までは読み取れなかった。実際の現場に立てば何でもない。高圧線鉄塔だった。圃場整備をしたときに、すでに鉄塔は建っていて、これはちょっとだけ曲げしゃーないな、ということだったのか。それともあとから鉄塔が割り込んで、まっすぐついていた農道を曲げさせたのか。



写真820.橋が見えてくる
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 高圧線鉄塔を巻いてさらに進む。左側から南砂川がぐっと張り出してくる。つぎの橋が見えてくる。と書いてこの川は南砂川でよかったなのか気になりだした。南北両砂川の合流点は過ぎている。だとするとこの川は何川か。Google Mapでは日野川となっている。しかし本当の日野川は日野川ダムの方からやってくる川で、それとの合流点はもう少し下流だ。さあ困った。



写真821.青木原橋
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 上の写真820で見えていた橋である。例の道しるべがあって、左折するよう指示がある。この橋の標識を読めば川の名前は解決する。撮っていなかったかな、データをひっくり返して探してみた。橋の名前は撮っていたが、川の名前は撮っていなかった。不覚。ちなみに、この写真は上流側。真ん中に下半身だけ見せる高圧線鉄塔が、写真819の鉄塔。そこから続く道を今歩いてきたことになる。
 須原橋からここまでほぼ直線状に進んで来たが、このまま進むと右手からやってくる日野川本流にぶつかる。以前はそこに橋があったらしいが今はない。どちらかへ迂回せざるを得ない。現場では左折の指示が出ている。なお、右折して41号をとると、日野川本流を渡ることになる。その橋が御代参橋と銘打たれている。名前だけのことであるが、そちらを回るのも一興。



23. 青木原橋から茶屋町まで

地図643.ルート要所図
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写真822.直線道路
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 さて、指示に従って左折する。橋を渡ると日野川左岸の幹線道路まで長い直線道路。地図で測ると400m足らずだけど、両側がイノシシ除けのネットで圧迫感を受けるから、それ以上の長さに感じる。まさに阻害されているは人間。もう1枚





写真823.地蔵さん
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 幹線道路とのT字路に地蔵さんが祀られていた。傍らの標識に”鎌掛かやの森、石楠花と日野菜の郷”とあったが、地蔵さんと直接関係はなさそうだった。----しっかり読んでくださった方は「野」の字が一字不足に気がつかれたと思うが、これは表示同通り。遊びだろう。----
 それよりモダーンな雰囲気に、中がどうなっているか気になった。覗いてみると、ちょっとしたトルソのような、超モダーンというか、反対に古代の偶像崇拝の対象というか。・・・・でありながら、壁に描かれた陳腐な絵。とにかく不思議なモノでした。



写真824.T字路
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 T字路から今来た道を振り返る。まっすぐな直線道路である。現代の農道。農地が標高を上げた分綿向き山が高くなる。もう1枚。左が歩いてきた農道、車が走っているのが突き当たった幹線道路。奥が鎌掛方面。何度も言うが、この標識は日野方面から土山向きに歩くことを前提として立てられている。これなどもその例。



写真825.T字路
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 T字路を右へとる。道端に雪が残っていた(撮影年月日:2016.01.31)。何の変哲もない直線道路である。







写真826.ふたをされた道路
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 つぎのT字路へ出る。例の標識の歯切れが悪い。プレート全体に対する御代参街道の文字もバランスが悪い。これの意味は、要するに”曲がるな、まっすぐ進め”という意味だが、今まので正常な表示では直進の場合は、御代参街道の文字の上に左右に1本直線が入れられていた。今回ように右端に上下に表示されていることはなかった。これは左折を指示していたものを取り外して直進に変えたのだろう。見れば農道そのものにふたがされ、タケで完全に締め切られている。今までのように開けたら閉めてくださいという生易しいものではない。こういう処置をする以上反対側も完全に締め切られてはいるだろうが、、ここから出ようとやってきたりしたらえらいことだ。



写真827.道普請
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 作業しているのは2,3人だけど、止まっている軽トラの数を見ると、隣組総出で道普請らしい。







写真828.曰くがありそうな
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 何か曰くがありそうな十字路が近づいてきた。例の標識が立っている。直進の指示である。右へ行けば鎌掛宿。まさにその通りである。左へ行けば?・・・ちょん切られたままである。これはいかに???。よく見ると・・・離れた端の方に右折の指示があって「茶屋町」。参ったな、これ。ここを歩く人は標識を見逃さない、どんなに小さくても必ず見る。制作者は絶対の自信を持っている。これを見逃すような奴は歩くなッ!。そうです、文句は言いません。これがあるから安心して歩けるのです。



写真829.安土橋
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 指示に従って右へ曲がる。下り坂になっていてすぐ目の前に橋が見える。クルマ一台のこじんまりした橋である。親柱には堂々と日野川の表示。橋の名は安土橋






写真830.上流側を見る
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 日野川の上流側である。現場は確かめられなかったが、地図で見るとこの少し上流側で、日野川ダムからやってくる本流と南北両砂川とが合流していることになる。下流側をどうぞ





写真831.橋を渡って
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 橋を渡ると寺尻集落である。三叉路になっていて、1本は奥の県道41号へ続いている。確かここで左へ曲がるはずだけど、例の道しるべがない。しかしまあ、ここらあたりまで来れば、人間いかに間抜けでもちっとは事情が分かってくる。逆向きに歩いてきたと考えたら、大概はそこにある。いまの場合も右側のイノシシネットの裏に隠れていた。



写真832.寺尻T字路
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 T字路を逆から見たところである。右が安土橋、左が県道41号である。厳密に言えばこの道を越えて堤防の上を奥へ続く道があるのだが、それが合流してくる日野川本流で途切れることになる。標識をアップすると事細かに説明がある。いまさら書いてもらってもしゃーないのだけど。それにしてもこの写真は失敗。標識で肝心の道を隠してしまった。



写真833.堤防林
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 寺尻集落への入り口から日野川堤防林を見上げたところ。その昔の野洲川堤防を思い出す。こんなケヤキの木がそびえていた。






24. 茶屋町

写真834.茶屋町
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 さて茶屋町である。どう考えても名前と周囲の雰囲気が一致しない。里道の突き当りに地蔵堂が見える。その地蔵堂も左に見える白い建物に食われて目立たない。それよりも何で「茶屋町」なのか。





写真835.茶屋町
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 ちょっと近づくと白い面が右へ動きだした。よく見るとどうやらシャッターらしい。この白い面は地蔵堂より後ろにあったのだ。上の写真ではそれらが並んでいるように見えた。白い面のこわさだ。





写真836.地蔵堂
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 カメラが右へ寄ったことにもよるが、やっと白いシャッターが隠れた。それはいいのだけれど、今度はそれで地蔵堂の前の石段が歪みだした。広角のこわさだ。
 さて話をもとに戻して、なんでここが茶屋町か。お堂に張り付けられた説明板がるる述べている。
 ----大字寺尻のこのあたりを茶屋まち(という)。これはここを通るこの道が、江戸時代の国道でもある御代参街道であり、東海道土山宿を経て伊勢参りをする旅人が毎日多くこの道を通った。そんな旅人のために、街道筋に旅館や料亭が設けられていたのでこの名が生まれた。明治以降は年ごとに通行人も減り、茶屋も姿を消していった。今は道中安全のこの地蔵堂や、道標などが僅かに昔の面影をとどめている。----
 簡潔でわかりやすい文章だ。しかし、茶屋が立ち並んだのが、なんでここなのか。京立ち守山泊りが一般的だったという当時の人にとって、土山から10Kmあるなしのここで、なぜ茶屋が繁盛したのか。それを書いてもらうとさらに納得度が上がるのだが。



写真837.左 たが北国道
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 お堂正面の石段、向かって左側に道標が立っている。「左 たが北国道」。普通なら私の能力では下3文字は読めない。しかし、これはどこかで見たぞ。土山宿、この街道の始点にあたる沓掛の道標にこの字があった。それには「北国たが街道」」とあって、今度の「たが北国道」と文字そのものは同じだ。というよりもオリジナルが同じものらしい。



写真838.文化四丁卯歳
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 後面には「文化四丁卯歳三月」とある。上の件があったので、念のためと思って土山沓掛道標の建立年を読んでみた。完全に一致した。この2本の道標は同じ年に文字も同じ現本を使って彫られていた。「街道」という文化の面白さを見た思いだった。
 同じ道標にある「右 長徳寺」は、地図で調べると地蔵堂の北200mほどのところに現存する。くやしいがその下が読めない。「なんとか観音」とあるような気もするのだが。その左の行「ひのかち道」の「かち」が分からない。まさか「ちか道」ではなかろうし。



写真839.茶屋町標識
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 お堂の左、すぐのところに「茶屋町」の標識が見える。








写真840.茶屋町標識
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 御代参街道茶屋町の標識が立つ。下に説明文がつく。 文章は前後3段に分かれていて、第1段は、地蔵堂の壁面にあった説明文をさらに簡略化したもの。第2段は当時の伊勢参りの風習について述べたもの。これは野洲川流域でもほぼ同じ話を聞いた記憶がある。さて私が興味深く読んだのは最後の第3段。現在の御代参街道のことに触れているわけだが、ルートそのものについてはいま歩いてきたことの復習に過ぎない。興味深いのは川の名称である。第3段には次のようにある。
 ----ここより日野川に沿った竹藪を抜けると鎌掛方面から流れる南砂川との合流点があり、当時は土橋がかかり南砂川右岸へと通じていた。現在は橋がなく安土橋を渡り旧道へと迂回し鎌掛宿に向かう。----
 実は、現場でこの文章を読んだときは意味が分からないかった。自分がこれから歩こうとする下流へ向かっての文章だと解釈したから、全く意味が通らない。ところがいまこうしてレポートを書いて来て、この文章を読むとよくわかる。実はこれは上流へ向かう人のための文章だったのだ。



地図643A.要所模式図
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 標識の上の文章を模式図で示すと次のようになる。文章は茶屋町から上流へ向かう向きに示されている。カタカナで示した文章を図に従って、上から順に読むと上の文章になるはず。ただし”旧道”という言葉が分かりにくい。ここでいう旧道とは、御代参街道のことであり、もともとそれをテーマにしているわけだから、わざわざ旧道と表現する必要はない。だから模式図ではそれを省いている。それで意味が通るはず。
 これが理解できたことで、写真820で感じた疑問も解決した。問題は南砂川に北砂川が合流したあと、それが日野川に合流するまでの間、この模式図でいうA点からB点までの間の川の名称である。Google Mapでは日野川と記載されているが、果たしてそれが正しいのかという疑問である。道標の文章では、”日野川と南砂川との合流点”との表現、土橋を越えた場所を”南砂川右岸”としているから、AB間の川の名は「南砂川」であることが分かる。正式な河川名かどうかはともかく、現地ではその間も「南砂川」と呼ばれていることが分かる。



25. 茶屋町からグリーンバイパスまで

地図644.ルート要所図
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写真841.竹薮沿いに
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 竹薮沿いの道を行く。目の前が竹藪だから、標識の「日野川沿いの竹薮云々を」これからの行く先だと勘違いしてしまった。間抜けた話である。


 写真842.竹薮が切れる
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 竹藪が切れる。歩いているのは堤防だが、琵琶湖に近い下流部ほど高くはない。







写真843.直進
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 路面を見れば無意識に右折してしまう。そういう場所である。ところが例の標識があって、「直進」だという。これはありがたかった。


 写真844.日陰げを行く
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 曲がりたくなる気持ちをぐっとこらえて、堤防林の日かげを行く。






写真845.森蔭の水路
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 地図で見ると道とほぼ並行に流れて来ていたらしいが、森に隔てられて気がつかなかった。
   緑の森のかなたから、陽気な歌が聞こえましょう
    あれは水車の回る音、耳を澄ましてお聞きなさい・・・
 もう60年も前のラジオ歌謡を思い出すような流れだった。



写真846.直線水路
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 上の小川とほぼ直角方向から流れていくる水路。気持ちのいい直線である。ところどころ段差がある。周囲は一見水平な農地に見えるが、何といっても山に近い。目に見えない勾配があるのだろう。遠くの山については、土地不案内、登山経験もなし。様子が分からないが、地図で見ると日本コバあたりらしい(左の山)。もう1枚



写真847.日野川へ
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 上の水路が日野川に注いでいる。橋の上から写真846を撮って、回れ右をして左の写真を撮ったのだが、川幅が広がっている。現場では全く気がつかなかった。どうなっていたのだろう。手品を見る思いである。御代参街道とは何の関係もないことで笑い話にしておくが、もしこれが水路がテーマだったら罰金もの。なお、左から流入する水路は写真845、森の水車の水路。



写真848.日陰の道
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 また日陰の道。


 写真849.明るい疎林
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 すぐに竹薮が切れて、明るい疎林が近づく。日野川に架かる橋が見えてくる。







写真850.橋のたもと
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 橋のたもとに例の道しるべがあって、ここで右折だという。道しるべの前から、歩いてきた道を振り返ったところ。橋はやはりクルマ一台。ネームプレートがついているのに、確かめてこなかった。関係ないといえばないのだが、やはり気色が悪い。




写真851.上流側を見る
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 こういう場合、やっぱりXX橋の上から・・・と行きたいところだが、名前確認ができていず歯切れが悪い。川の手前半分のところで、流れそのものも歯切れが悪い。肝心の流れは対岸近くを流れている。






写真852.下流側
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 下流側。通行量の多いしっかりした橋が見える。ということは日野水口グリーンバイパスしかありえない。そうかもうそんなところまで来ていたのか。






写真853.雨引神社
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 橋の手前に鳥居があって「雨引神社」だという。なのだが不思議なことに社殿がない。鳥居の位置からすると社殿は流れの中だ。洪水で流されたのか。何か説明板はねえかと探していたら、判じ物のような代物が見つかった。きっちり判読するつもりはさらさらないが、社殿云々については何も触れられていないようだ。
 後日、Google Mapを見ていて、川を渡った向こう側(日野川左岸)に「雨引神社」なる記述が見つかった。どうもこれが社殿のようだ。現場は確かめていないが、道路や鉄道で鳥居を社殿とが隔たってる例は方々で見るが、川で別れ別れという例はほかには知らない。下流ならともかく、こんな山間地で流れがむちゃくちゃ変わることもないと思うのだが。




写真854.木津集落へ
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 雨引神社の鳥居を後に木津集落へ向かう。先ほどまでの薮の陰の道とは違い、しっかりした道になる。神社の説明文にもあったが、木津というのは切り出した木を送りだす港云々という文章があった。京都府南部の木津も同じ意味。すぐそこが集落の入り口である。




写真855.綿向山
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 農地の向こうに綿向き山がきれいに見える。しかし、ここへきてこの山が意味を持つわけではない。ただきれいに見えていましたというだけの話。
 足元へ目をやると屋根付きの地蔵さんが一体。上の道路の写真で、手前から2本目の電柱に下に忘れものの荷物のように見えているのがそれである。




写真856.これぞ鎮守
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 右手から小川が流れてきて、道をくぐったところに建つ八幡神社。まさに生活の中に神社と見える。これぞ鎮守。







写真857.グリーンバイパス
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 広がった道がスーッとカーブして、グリーンバイパスにぶつかる。下をくぐるのかと思っていたが、何のなんの、信号もない平面交差。堂々たるものである。






26. グリーンバイパスから伊勢道まで

地図645.ルート要所図
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写真858.グリーンバイパス交差
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 広い農地である。グリーンバイパスと平面交差。それを越えて直進。この農地を上野田というらしい。単純に”かみのだ”または”うえのだ”だと思っていたら、”こうずけだ”というのだと。まいった。越えたところから振り返ると、綿向山が高い




写真859.左折
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 上の写真で道を塞ぐように見えるガードレールが見えるところである。左折の指示がある。土山から歩いてきて、このように素直に標識が見える向きに立つのは珍しい。画面右端に三上山、左端に十二坊が見える。





写真860.右折路
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 突き当りにガードレールがあって、そこに例の道しるべ。上の写真と同じパターンである。と、これは歩いてきて、振り返って撮ったものである。実際にはが画面左からやってきて、右折をしてきたところ。標識を横から見るいやなパターンである。




写真861.307号交差
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 グリーンバイパスも307号だけど、バイパスでないほうの307号、これを横断する。田んぼの中の十字路である。角に例の道しるべが立ち、「石原宿まで4.3Km、土山宿まで11Km」とある。






地図645A.ルート要所図 昭文社ライトマップル滋賀県道路地図2006年発行より
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 地名の確認などに使っている昭文社のライトマップルである。10年ほど前の発行で古いといえば古いが、明治大正のものではない。その地図に多分御代参街道だと思われるルートが表示されていた。左地図で、赤い線に置きなおし「御代参街道」と加筆したのがそれである。いわゆる圃場整備がいつ行われたかだが、それまでは街道そのものが残っていたということだろう。この地図で見ると国道307号と北の方のいわゆる日野中央線・近江八幡土山線との間の農地では、御代参街道を境として、南西側は圃場整備が進み、北東側は未着工という状況のときらしい。
 画面中央に「いせの」という地名が見える。周りの地区の範囲に比べると極めて小さい。その間の事情は分からないが、これが今回の目的地「伊勢道」に関係することは想像に難くない。下の写真862はその「いせの」集落に近づいたところである。




地図645B.ルート要所図 国土地理院25000分の1地形図「日野西部」昭和48年1月発行より
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 グリーンバイパスを越えてから「いせの」までの広い農地を行く。道しるべに従って、農道を直角に折れ曲がっていくだけだ。しかし10年ほど前に発行された道路地図に”直線直角”でない御代参街道が残っていた。とすればいわゆるカーブが連なる御代参街道は遠くの昔に消え去ったものと思い込んでいたが、どうもそういうことでもないらしい。で、国土地理院の古い地形図を引っ張り出してみた。昭和48年発行の「日野西部」。グリーンバイパスはまだない。と同時に木津集落から伊勢道に向かう曲線の御代参街道が残っていた。
 地図645Bと地図645Cを並べて表示




地図645C.ルート要所図 大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
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 同じ大正9年修正版である。カーブの表現のデリケートさは昭和板にくらぶべくもないが、大筋ではほとんど同じである。御代参街道は明治の中期までが全盛期だったという。とすればこのルート図はまさに全盛期の姿ではないか。それが昭和40年近くまで残っていたことになる。次に見るいせの集落へのカーブなど、まさに御代参街道の本当のカーブだったのだろう。






写真862.いせの集落近づく
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 道が微妙にカーブして「いせの」の集落に近づく。ここまでの幾何学的な農道とはイメージが全く異なる。上の地図645Aでもそれが読み取れる。よくぞこのカーブを残してくれたと思う。 写真拡大

写真863.S字カーブ
 もう一度大きくS字にカーブして「いせの」の集落へ入る。




写真864.集落への入り口
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 「いせの」集落への入り口である。十字路になっている。例の道しるべが、電柱にくくりつけられている。それも細い針金1本で。大丈夫かな。誰かがくるっと回せばおしまいだけど。下司の根性でついしょうもないことを考えてしまう。





写真865.細い小路
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 細い小路、というよりは路地に近いが、車1台分の道路がまっすぐ続いている。


 写真866.地蔵堂
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 地蔵堂が建っている。鎌掛宿にあったのとよく似ている。こうして集落の入り口出口に地蔵さんを祀っていたのだろう。もう一枚






写真867.細い小路
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 さらに細い小路が続く。もう1枚


  写真868.街道独特のカーブ
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 道が緩くカーブしだす。街道独特のカーブである。もう1枚







写真869.伊勢道常夜灯
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 伊勢道バス停につく。右側に「伊勢道」の常夜灯が建つ。そばに「いせみち(御代参街道)」と題した案内板がある。歯切れの悪い文章だけど、街道の分岐点に当たるこの地に、常夜灯が立てられたことで、いつの間にか「伊勢道」という地名になった経緯を述べている。





写真870.伊勢道常夜灯
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 日野中央道から見た常夜灯である。手前の道路、左奥が日野町中心街へ、右が近江鉄道日野の駅へ。右奥へ入っていくのが御代参街道である。常夜灯には御代参街道に面して「伊勢両宮・右いせみち」、通りにして、「常夜燈・中村當主願」との文字が見える。常夜灯の部分アップ





写真871.”右 いセみち”碑
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 常夜灯の裾に接して立つ道しるべ。”右 いセみち”とある。上の写真870で日が当たっている面である。左の道路が日野中央道。右奥が日の中心街。それに対して右へ曲がれば伊勢への道(御代参街道)という意味だろう。





写真872.ひの山王宮
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 ”右 いセみち”碑の正面道路側。3列の記述があって、右端の行は、□□神社 二十丁とある。水垢がついて分かりにくいが、「馬」の字が見えるからたぶん「馬見岡綿向神社二十丁」だろう。中央は「左 ひの山王宮 十丁」、綿向き神社までの距離の半分ぐらいのところに南山王宮日枝神社というのがある。多分これを指すのだろう。左の行は「いセみち通りぬけ」とある。




写真873.右ハいせ
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 道しるべについては上で終わり。あと2基は付録みたいなものだけけど、そのうちの一つ。「右ハいせ」と刻まれているのだと思うのだけれど、「ハ」のところがはっきりしない。それはいいのけれど、これが立っているところである。御代参街道が日野中央通りにぶつかって、向かい側の右角に立っている。どう考えても現場と指示内容が一致しない。もっとも、このような道しるべはいまでは道は公園のアクセサリーのようなもので、その内容まで読見込んでとやかくいうことはなくなってはいるのだろうが、どうも気色が悪い。




写真874.”たが”碑
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 ちびた消しゴムのような石標である。このような石造道しるべも交通事故に遭ったりするらしい。これも何かの都合で折れたのだろう。意味が通る部分だけでも見せておけやということらしい。お伊勢参りに対する多賀参りの道標だろう。けつまづく人がいなければいいが。






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