13. 今回のルート
地図631.前項のルート
緑ヶ丘5の笹尾峠出入り口から笹尾峠へ。赤線で示したルートでP点までが前回のルートである。笹尾峠からP点まではほとんどが緩い下りの尾根道伝いである。すぐ近くに294mの標高点がある。その点のすぐ西を走る県道41号、ダム沿いの道あたりで253mぐらいであるから、約40mの標高差がある。上から谷間を見たときはもっと高さがあるように感じたが、実際に上り下りしてみると大して時間もかからなかったから、そんなものであろう。
地図632.今回のルート
前項でも述べたが、今回の試みは、クルマを置いた位置から歩き出し、適当な距離を往復して車に戻るという方法をとっている。車を置く場所は、公衆の迷惑にならない場所でさえあれば、位置は問わない。どこにおこうと要するに予定した距離を往復すればいいだけだから。今回は県道182号と42号の十字路の近くに置いた。そこからとりあえずP点まで歩く。そこから再び県道へ下って、鎌掛宿のはずれまで歩いてクルマへ戻る。その間撮影は原則としてP点から鎌掛宿までの間に行う。暇な話だけど、トシを食ってくるとそれが苦にならなくなるから不思議である。ということでレポートはP点から。
14. P点
写真751.P点
P点、もちろん私が勝手につけた地名である。笹尾峠から下ってきた尾根道の終点である。前回来たときはあまり深入りもせずここから引き返した。今回改めて来てみると尾根の先が2,3本に分かれていて、歩いてみるとそこだけで結構楽しいところだった。尾根はもうちょっと続いていたらしいが、現在は砂採場になっていて、下にはパワーショベルなどが見える。下を走る県道41号まで結構標高差があるように感じたが、地図で調べてみると40mほどだった。今回は下のダムサイトから登ったわけだが、思ったよりは簡単だった。なるほどな、40mくらいなら大したことないはずだ。
写真752.雪野山
紅白の鉄塔の右に雪野山が見える。いつか正法寺山の裏山へ上ったときだまされた山だ。三上山と左右完全にひっくり返したように見える。おかしいなとは思いつつそれが三上山だと思い込んでしまった。別のところに本物の三上山が見えたからよかったものの、それが見えなかったら、間違えたことに気がつかないという醜態を演じるところだった。
この日は決して天気は悪くなかったが、モヤがかかって見通しが利かなかった。撮影後コントラストを無理やり上げてこの程度。
写真753.三上山
雪野山の左45度ぐらいのところに三上山が見える。手前の尾根が邪魔をして難しかった。山の右半分しか見えないのである。いまこの状態で三上山を見つけられるのは、私意外にはいないはずだ。自慢しても何の足しにもならない話だけど・・・・。これも撮影後コントラストを上げてやっとの映像。ここまでしても、オリジナル原版で探し出してもらえるかどうか。おしいかなこの日天気はいいのだけど見通しは悪かった。もうちょっと右へ寄ればよかったのに。行けるものなら行っていますがな。
15. 斜面を下る
写真754.下りにかかる
さてこうして一通り楽しんでから下りにかかる。ちょっと下って左への下りの指示のところ。昔のルートはそのまま直進だったと考えられる。直進する先に砂採場が見える。遠くに見えるのが鎌掛の集落。
写真755.下り
上の写真の標識のところに立って下を見たところである。この写真が下りに見えるだろうか。ひよどり越えとは言わないが、これでも結構きつい下りなのだ。ところがそれが写真に写らない。世の中に絶えて斜面のなかりせば・・・。
写真756.下り
これはまだちょっと下りに見えるだろうか。まっすぐ上を向いて立っている木があればまだましなのだが。カメラを道に向ければ駄目なことはわかっているのだが。
写真757.倒木
倒木が見える。つい1時間ほど前、下から登ってきてここを見上げたのだが、いやなところだった。そこをいま上から見ているわけ。ちょっと段差があって、結構面白そうなところに見えるから難儀なもの。下から見れば斜面の中でちょっとつき出た尾根筋的なコブへとりつくところだったらしい。
写真758.この木もまた
何本かの木が倒れ、いま立っているこの木もまた倒れそうだ。それにしても交通事故でトラックがぶつかったようなえぐられ方。どうしてこのような状態になるのだろう。
写真759.斜面
きつい勾配を下る。45度とは言わないが、それに近い斜面である。峠から下ってきた尾根道が、下の砂採場で塞がれやむを得ず斜面を下ることになった。筋書きはそういうところだろう。もう1枚。
写真760.ダムが見える
ダムが見えて来た。こんなところで転げだしたら、木にしがみつくしかないな。水際がどうなっているのかわからないけど、おそらく柵などないのだろう。なんせ下が見えへんのやから。
写真761.堰堤
堰堤のそばを通る。
写真762.そして平地へ
そして平地へ。もちろん平地といっても山の中、ダムへの取付道路へ出たということだけど。例の標識には、曰く「至る鎌掛宿」、それはいいのだけれどかたや「急坂注意」。注意といわれても、登りたければ登らなければならないのだし。注意してもどうなるものでもなし。「急坂、いやな奴は帰れ」ぐらいの標識を誰か作らんかな。”注意しなはれや”なんていう標識は屁のツッパリにもならん。えらいおこってるけどホンマはどんな坂やったん?。まあこんなものかな。これが序ノ口いうとこかな。
ところでこの間のタイム。下り始めが12:53、ダムサイト、13:02。まあ早い話が10分。登りの記録はないけれど、そうべらぼうな差はないはず。15分はかかってないだろう。
写真763.県道41号へ
県道からダムへの取付道路。今はその逆を行く。落ち葉が降り積もって快適な道に見えるが、ところどころ泥が積もっていて、要注意。いやな奴は帰れといわれても、いま行ってきた帰りですねや。
写真764.御代参街道出合
「出合」という言葉、なんとなく懐かしさを覚える。山にはよくある言葉、「白出沢出合」だとか「滝谷出合」だとか。「出合」だったか「出会い」だったか。詳しいことは忘れてしまったが。「御代参街道出合」はそんなことをふと思い出して私が作った名称。エエ名前でっしゃろ。もちろん御代参街道と県道41号との合流点。県道側から見たダムへの道。
もう一度元へ戻って、標題写真、右側から出てくる舗装道路が県道41号。右が鎌掛である。例の標識はここで鎌掛から来た場合は左へ曲がるよう指示をしている。その道が、写真では手前を左へ入るように写っている。ところがご覧のようにその道を塞ぐようにロープが張ってある(御代参街道側から41号を見たところ)。このロープの意味が分からない。上でも書いたようにこのときは鎌掛の手前に車を置いてここまで歩いてきてこのロープを見た。常識では”進入禁止”ということだろう。帰るしか仕方がないのだが。ロープ以外は何の指示もないから、それをまたいで通り越しP点まで上って帰ってきた。その間何の支障もなかった。
例えば前回西瀬音から歩いたとき、P点で帰ったからそれですんだが、もしここまで来ていたら、誰が考えてもロープを越えて41号へ出る。峠道が通行禁止なら西瀬音側も封鎖しなければ意味がない。この峠道最大の謎がこのロープだった。誰かが張ったまま忘れているのか。そうではない。41号峠越えのところで書いたが、このときにはこのロープはピンと張りなおされていた。誰かが管理しているのである。余計意味が分からない。
16. 県道41号
写真765.県道41号を歩く
さて出会いを後に、県道41号を鎌掛へ。道は細いけれど特別勾配があるわけでもなし、クルマはめったに来ない。気楽な歩きである。
写真766.一本道
まっすぐな一本道。左側の木、すごいな。もしこれが葉をつけていたら、この下は暗かっただろう。
写真767.巨石が2つ
巨石が2つ並んでいる。自然にそこにあったものではなく、人為的に置いたものだろう。砂採場の入り口らしい。ここにもロープが張ってある。しかしこちらには可愛らしいSECOMの札がぶら下がっていた。
写真768.砂採場前
巨石の間を入ら中ればならないからトラックはいったん右へ寄る。そのあとが生々しい。画面左、でかい石の奥に何か表示がある。恐ろしい看板だ。はいハイわかりました。
写真769.杉林沿い
杉林沿いの直線道路。道路の規格をオーバーした車が通るため、両側の土を巻き上げて汚れてた道。早く通り過ぎるに限る。
写真770.例の標識
例の標識が立っている。現場はT字路だけれども「直進せよ」とそっけない。「直進せよ」というより「曲がるな」という意味の方が大きいのだろう。それほど曲がりたい条件がそろっている。写っている道が曲がった後の道だがこちらの方がムードがある。上の写真769の泥に汚れた直線道路よりこちらのえもいわれぬカーブ、これぞ街道。しかし「曲がるな」という。
写真771.道しるべ
後ろに石標が2本あって、小さいほうには「右前野、左土山」道とある。現在の国道1号、垂水斎王頓宮跡のすぐ近くの交差点が「前野」である。要するに今の県道41号沿いのルートだろう。そして「左土山」、「土」の字が読みにくいが古い「土」という字にはテンをつけたのが多い。その点が「土」の第3画とくっついて「出山」または「立山」と読みたくなるがしっかり見直すと「土山」である。ということで、これこそが笹尾峠を越えて土山へ、御代参街道そのものである。かつてはここがその分岐点だった。
この標識が立てられた年代は?。裏へ回ってみると「昭和3年・・」とある。月までは読めないが3年は間違いない。すくなくともこの時まではこのT字路を人は往来していた。御代参街道は健在だった。
右の石標は、この際直接関係がない。
地図633.砂採場付近地図 国土地理院web地図より
笹尾峠から尾根筋を下ってきたP点。そこから斜面を下りダム畔へ。県道41号を歩き、いま石標のT字路にいる。県道そのものよりはそこから分かれた「左土山」の道の方い魅力があった。しばらくそこを歩くことにした。
少し行くと砂採場が見えて来た。これは上から見ていたので予測通り。道が2つの分かれている。右は砂採場の現場につながっているように感じた。左へ取った。道がそっちの方がしっかりしていた。段々峠道から離れていく。こういう場合どこで引き返すか。その判断が難しい。このときは結局鎌掛池まで歩いてしまった。
17. 鎌掛池へ
写真772.砂採場
石標にいう「左土山」の道をとる。砂採場が見えてくる。ススキの向こうに車の運転席が見える。この車は確か上から見えていた。後で考えると、今写真に写っている道が「左土山」の道だったかもしれない。すなわち橋の手前で右へ分かれていく道だ。このときは砂採場へ入って行くように受け取っていた。砂採場をもう1枚。
写真773.川を渡る
二股を左へ取って川を渡る。地図で見ると鎌掛池から流れてくる川である。すぐ下流で南砂川に合流する。このときはそんな詳しいことまでわからない。とにかく橋を渡った。
写真774.山手へ
左の山手へ入っていく。どうやら思った道ではなさそうである。引き返す手もあるが、もうちょっとケリがつくところまで歩いてみよう。右手下方に砂採場が見えてくる。P点から見て反対側の山に入り込んだらしい。もう1枚。
写真775.堰堤が見えてくる
堰堤が見えてくる。確か地図には鎌掛池とかいうのがあった。どうもそちらへの道らしい。
写真776.鎌掛池
突き当りが鎌掛池だった。柵も新しい、最近改修されたらしい。振り向くと平成16年1月竣工の碑があった。それはいいとして、何でこんなところに。こんな大きな風景があるのだから、その中へ置いてやればいいのに。
写真777.見下ろせば
見下ろせば、1本の道が堤防の下を森の中へ消えていく。あれが旧笹尾峠へ続く道かと思ったが、地図で確かめたらそうではなく、近くで行き止まりの普通の林道らしかった。った。
地図634.砂採場付近地図 国土地理院2万5000分の1地図(昭和56年発行)より
念のためと思って昭和56年発行の2万5000分の1地図を調べたら、この砂採場が表記されていなかった。現在の県道41号沿いのダムもない。41号は記載されている。まあ言ってみれば、現在の1時代前の状態といえようか。「石標のT字路」という言葉は上の地図633で現場に立って実感したのを言葉に表した名前である。そこは確かにT字路だった。しかしその場所が1時代前にはT字路ではなかったのだ。
現場の石標は北の方(鎌掛方面)から南向きに進んで来ての右左である。その一番左、「土山」は、いまはない旧笹尾峠を越えて土山に向かうものである。地図では実線で表示されている。これは間違いはない。問題は「右前野」である。地図633では単純に県道41号だと考えたが、それ以外にもう1本あったのである。それが真ん中の道で、地図では破線で示されている。今回下ってきた道がそれに当たるわけで、鎌掛から南向きに来たとすると、この石標の分岐点で左から2番目の道(3本のうちの真ん中の道)をとって現在の笹尾峠付近に達し、そこから群境を越えて現在の土山町前野へ下る。もし、昭和3年の時点で県道41号がなかったら、まさに「左土山、右前野」の状況になる。
県道41号はいつ開通したのだろう。インターネットで検索してみたが、開通年は不明であった。近江文化叢書13・『近江の街道(1982年)』、(「図説近江の街道」とは別の本)に、”戦後開通した県道日野土山線は・・・・”という表現がある。昭和3年に県道が存在していなかったとしたら、一応のつじつまは合う。しかし、県道としての道はなかったとしても、人間が歩く道は存在しただろう。当時、新しい道を開くにあたって、前人未到の山野を切り開くことはなかっただろう。結局は既存の道を拡幅したはず。と、考えてみるとこの「三方別れ」は結局は謎である。
と、ここで矛を収めるつもりだったが、もう一度だけと「図説近江の街道」の地図を見直してみた。と、と、と・・・。真ん中の地図634で破線に当たる部分、すなわち今回私が歩いた部分が消えていたのである。この地図にも緑ヶ丘5は記載されているから、そんなに古いものではない。ちょっとした時代の差によって、表現が微妙に変わっている。厄介なところであるといえばいいのか、面白いところといえばいいのか。とはいえ、これ以上は私の能力では無理である。
こうなれば図説日本図誌大系の大正9年修正版ではどうなのかを読みたいのだが、残念ながら範囲が限定され、当該部分の記載はなかった。いやー、参った参った。地図によって全部表現が違うのだから。
18. 再び県道41号を
写真778.橋を渡る
さて、再び石標T字路へ戻って県道41号を鎌掛へ。すぐ橋を渡る。南砂川の上流である。橋から上流側を見たところ。峠から直線距離で1Km余りの所だけど結構大きな川になっている。反対の下流側。地図で見ると突き当り、山の麓で鎌掛池からの流れが合流して来る。
写真779.ある風景
川を越えて右を向いたところ。クリーム色の小さい小屋があって、数本の裸の木。いい風景だった。もう1枚。
写真780.山沿いの道を行く
左も右も山。いわゆる谷筋を行くのだが、道は左の山沿いにつけられている。右側は畑だけど、イノシシ除けのネットが延々と続く。もう1枚。
写真781.空色の倉庫
空色の大きな倉庫が見える。そういえば先ほどP点からも見えた(画面の真ん中辺、杉林の一番奥、木と木の間にポツッと見える)。ということはこちらからP点が見えるということだ。倉庫のそばまで行って、奥の山を見る。光が逆で見えにくいが、木と木の間に見える剥げた部分がそうだ。
写真782.里に近づく
道が穏やかにカーブするようになり、里に近づく。もう1枚。
19. 赤坂地蔵
写真783.県道182号との交差点
県道183号との交差点。これで出発点にもどったことになる。182号を赤いクルマがやってきた。だめだな、前半分を入れたつもりだったが。反対向き(峠の方を向いたところ)。例によって、大型車通行不可の表示。
写真784.赤坂地蔵
交差点の一角に地蔵さんが祀られている。明治3(1870)年、旧御代参街道の笹尾峠近くの赤坂というところに建てられたものだという。「赤坂の地蔵さん」として親しまれていたものを、平成8年春、ここへ移されたとか。説明文。
写真785.赤坂地蔵(正面)
妙な屋根がついており、なんとも撮影しにくい。行列の籠を表現したものといえば何んとかわかる気もするけれど。それにしてもこんな広い場所で窮屈なことだ。側面をもう1枚。正面図に側面図、設計図じゃあるまいし、何とも芸のない話だけど、これしか撮りようがないもので・・・・。
20. 鎌掛宿
写真786.河原口橋
鎌掛宿へ。入口で南砂川を渡る。橋の名は河原口橋。右手が上流。左、下流の写真をどうぞ。
写真787.集落入り口
鎌掛宿入り口。
写真788.地蔵堂
入ってすぐ、右側に地蔵堂が見えてくる。このときは気がつかなかったが、歩き終わって後で考えてみると反対側、いま立っているところを入り口とすれば、出口に当たるところにもよく似た地蔵さんが祀られている。どちらから入ろうとも地蔵さんを拝んで入る。一つの形だったのかもしれない。
地蔵さんの向こう側、雨戸が閉まっている建物が自治会館だったか。その前に「かハらぐちはし」との石標が立っている。先ほどの入り口の橋、いまは何気ない橋だけど、かつてはこのような標識が立つほどの名のある橋だったらしい。
写真789.角屋
かつての旅籠だという。実はこの角屋、T字路の角に立地して裏側に「御代参街道の名残」と題した次のような案内板がある。
----この岡氏の家を角屋と呼ぶように、鎌掛の街道筋の家々は今も多く古くからの屋号で伝えられている。これは江戸時代の脇街道であった御代参街道の宿場である鎌掛宿の名残である。このあたり鎌掛宿の中心地であり、現在でいう旅館や料亭や商店が軒を並べて賑わっていた。御代参街道は江戸時代初期延宝6年(1678年)に開かれ、その後湖東地方の人々の伊勢参りの道として多くの人に利用された。ここは大きな宿場町であった。----
写真790.石標
角屋の角に立つ石標。”左・村役場道 石楠花谷道/右・土山町ニ至ル”とある。”至ル”が”至れ”に見えるが拡大するときっちり”至ル”と読める。建てられた年月日を確かめるのを失念したが、「土山町」とあるから、さして古いものではない。写っている道が歩いてきた道。土山町への道である。
写真791.左・村役場道
左、村役場への道である。たぶん鎌掛村の役場だろうとは思うが、その役場がどこにあったのかもよそ者の私にはわからない。シャクナゲ道へは、いまは県道182号でつながる。182はバイパスで、昔はこの写真に見える道がメインだったのだろう。
写真792.鎌掛宿標識
ちょっとした広場があって「御代参街道・鎌掛宿」の標識が立つ。
写真793.珍しい仕様
駐車場に面して切妻面を見せる民家。その面の板張りはさして珍しくないが、屋根の断面の仕様が珍しい。幅が太く、そこへ細い板が縦方向・等間隔に打ち付けられている。この地域独特のスタイルか。あまり他では見たことがない。大きな家だけかと思ったがそうでもない。こじんまりとした家屋、ひさしに当たる部分までにも同じ形が見えたりする。
写真794.誓敬寺
集落の中ほどに誓敬寺という寺がある。大きな松の木が植わっていたり、避雷針付きの本堂など堂々たる風格である。そのそばの家の屋根にも例の仕様が見える。
写真795.例の道しるべ
どのあたりだったか、データの順番から見てお寺周辺だったはずだが、ちょっとした公園風の広場がある。そこに立つ道しるべ。極めて単純、ただ直線を示すのみである。
写真796.紺屋
玄関の軒先に大きなカメが2つ。標識には「紺屋」とある。染物屋さんだったのだろう。
写真797.カーブ
紺屋を過ぎたあたりから道がゆるーく左へカーブしていく。これぞ街道のカーブ。
写真798.岡清酒店
元XX屋が軒を連ねる中でこの店は現役。すごい。「一区」とあるバス停の前。現役名は「岡清商店」、鎌掛宿当時の店名は「清兵衛」。ほかの旧XX屋跡に見られる褐色の標識がこの店についていたかどうか確かめるのを失念したが、この店には電気照明の標識がついていた。現役を示す意味だろうか。
写真799.鎌掛宿終わり近く
岡清酒店の前を過ぎると突き当りが見えてきて、鎌掛宿も終わりに近い。
写真800.地蔵堂
地蔵堂の前で県道41号(鎌掛宿のメイン道路)は大きく右へ曲がる。曲がってすぐXX橋で北砂川を渡る。地図で見るとこの橋はすでにバイパスのようだ。御代参街道は細くなってそのまま直進する。
ところでこの地蔵堂、入口で見た地蔵堂とよく似ている。が、子細に見るとこちらの方が格調が高い。もっともこれは地蔵堂の外観だけの話であって、地蔵さんそのものに格調もくそもないのだろうが。宿場の両側にある地蔵堂、これに多少なりともレベルに差があるということは、御代参街道のころは、こちらが入り口で私が最初に見た土山側が出口という解釈があったのかもしれな。
写真801.付け足し
付け足しである。左の写真801とこの写真(801A)を比べてほしい。ムードがよく似ているから、うっかりすると同じ道が写っているように勘違いする。しかし地蔵堂を見れば分かるように、写真801は堂の真正面から、801Aは堂から見て左手に立って撮っている。すなわち、両者は90度食い違った立ち位置にいる。言い換えたら、写真801は県道41号から直進する道を見ており、写真801Aは、41号から見て、左へ曲がる道が見えていることになる。
くどいけれども、写真801に見える御代参街道は手前から奥へ。写真801Aでは右(地蔵堂の向こう)から左へ。どちらから見てもとにかく一直線、曲がったらアカンのである。ところが例の道しるべは地蔵堂の横で曲がれと指示している。 せっかくの標識が惜しい。何か仕掛けがあるのではないかと、興味半分で行ってみた。どう考えても私には間違いとか考えられない。関係者がなぜ気がつかないのか不思議である。
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