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知らずに越えた大分水嶺

--- 20a. 善知鳥トンネル ---
(長野県)
1961年夏

初稿作成:2024.02
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00−20a.善知鳥トンネル(長野県)

 善知鳥(うとう)峠、難読地名の一つだろう。前項、塩尻峠の西方約4.6Kmの地点にある。国道20号塩尻峠を過ぎて市境ともども少し西へ振ったところで大分水嶺は市境を離れ、塩嶺高原別荘地の北側を通って善知鳥峠へ向かう。善知鳥峠では国道153号が峠を越え、中央本線(旧線)がトンネルで抜けている。
 この峠と私自身とのつながりは、後述するように旅の帰途夜行列車でトンネルを通過しただけの話である。それだけの事実で一項を設けるにはあまりにも話が大げさすぎる。どうしたものかと悩んでいのだが、いろいろと調べていくうちに、地元塩尻市がこの峠が大分水嶺に位置することを前面に押し出し、分水嶺公園を整備していることなどを知り、20aとして一段下げた形ではあるが一項設けた次第である。
 ちなみに、私が行き遭った《大分水嶺を越える峠道》で、その事実を明示していたのは、この”善知鳥峠”と、岐阜県の”ひるがの高原”だけである。


20a-1.  善知鳥峠  
みどり枠部分の拡大地図が下にあります。

 大分水嶺の下を”善知鳥トンネル”が抜けている。またそれと並行する形で国道153号が峠を越えている。前述したように私はこの峠を知らない。とりあえず全体の姿を見てみようとストリートビューで走ってみた。確かに両側山の中である。しかし、正直にいって峠という印象はない。ストリートビューは超ワイドの世界である。ワイドレンズは勾配感の表現には弱い。そのせいかと考えたが、あながちそれだけではなさそう。例えば善知鳥トンネルの南側入口近くにある神社近くの三角点に870mとある(ピンク透明)。峠の標高は889mという。関西でいえば比叡山848mより高い。でありながら両者(トンネル入り口と峠の最高点)間の標高差20m弱。ちょっとした坂を登るのと同じである。そんな峠でありながら塩尻市では分水嶺公園を設置して「水の別れ」をPRしている。

20a-2 「善知鳥峠分水嶺公園」入口の案内板

   善知鳥峠と分水嶺公園
 ここ善知鳥峠(889m)は、本州のほ
ぼ中央に位置しており、太平洋斜面の南へ
流れる天竜川と、日本海斜面の北へ流れる
信濃川との分水嶺である。古来この地を
「水の分れ」と呼んでいる。峠道は古代東
山道として開かれた。近世からは中山道の
脇往還として伊那街道・三州街道と呼ばれ
中馬等(*)の往来も多く交通の要衝であっ
た。
 山ひだをぬうこのような地形のところを、
東国の方言で「ウトウ坂(峠)」と呼ばれ
ていることから、善知鳥の地名になったと
考えられる。また、海鳥の「うとう(善知
鳥)をこの山に葬ったことからこの地名が
生まれたという伝説も語り継がれている。
 この分水嶺公園は、昭和49年6月竣工
し現在に至っている。――
 *中馬(ちゅうま)→ 江戸時代、信州の
農民が行った馬の背を利用した荷物輸送業
のこと。 十七世紀、伊那地方の農民が農閑
期の副業として数頭の手持ちの馬で物資を
目的地まで運送したのに始まる。



20a-3 赤地に白の幟?

 ”山側やまがわ”というサイトに”長野県塩尻市の善知鳥峠/赤い看板に導かれて”というページがある。トップの写真が秀逸。峠の立ち枯れた木立の中で青空に立つ1本の電柱。赤地に白抜きで「分水嶺」の幟。その見事な長方形。完全な無風だったのだ・・・とよく見ると、風になびくはずはない看板だった。
 公園内には南北に分かれていく水路を形造ったモニュメントもあるという。



20a-4. 判りにくい大分水嶺  

 この善知鳥峠付近の大分水嶺は判りにくい。前項、国道20号塩尻峠を越えて少し南下したところで、大分水嶺は市境から分かれて西へ折れる。その後塩嶺高原別荘地の北側を経て善知鳥峠に至るのだが、そのあたりの分水嶺は非常に読みにくい。正直いって国道と大分水嶺のクロス位置が読めない。右の地図はとりあえずヤマ勘で峠の場所を決めたが、これが間違いなしとは言いにくい。1つの話として、私が導き出した峠マークの場所から南へ150mほど下ったところに記念碑のマークがあり、水源地らしいマークから南北に分かれるような流れが示されている(赤丸印の中)。これは分水嶺公園の中の水源碑と「水の分かれ」の場所のようだ。これは多分この場所に、このような施設があるのだろうが、この場所が等高線を見た場合はどうも首を傾げたくなる。難しい峠である。



20a-5. JR中央本線・善知鳥トンネル  

 1961(昭和36)年8月7日、「12.アプトで越えた旧国鉄信越本線・碓氷峠」を訪ねて」の帰りである。小海線経由で中央東線へトラバースした。15時25分、小諸発、小淵沢行き。17時31分、野辺山着。カラマツ林の中を散策して、19時08分、野辺山発。これが小淵沢行きの最終列車である。小淵沢、20時ちょうど。木曽福島をさらに小型にしたような町で駅前には細い白樺の木などがあって、山のムードが漂ってくる。
 21時18分、新宿発松本行き。それに併結された半両の名古屋行き。・・・客車1両の半分が荷物車で、客席は半分。空いていてほっとする。しかし、それもつかの間、富士見、茅野あたりから、霧ヶ峰帰りがどっと乗ってきて、通路もいっぱいになる。塩尻で1時間の待ち合わせ。4時38分、名古屋着。以上、野辺山高原から名古屋までの旅程である。
 この地図はたまたま我家に残っていた1960(昭和35)年帝国書院発行の『新詳高等地図』より、当該の部分(中央本線・小淵沢〜塩尻間)を切り取ったものである。偶然にも、私がこの間の中央線の列車に乗った年(1961年)の前年の発行となっている。これがこのときの状況である。小淵沢から下諏訪までは北西へ、これはいいとして問題はそこから塩尻までである。中央本線塩嶺トンネルはまだなかった。ご覧のように下諏訪から諏訪湖を半周しご丁寧に辰野まで南下、そこから一転塩尻まで北上するのである。そしてこの辰野・塩尻間にある善知鳥トンネルが大分水嶺の下をくぐっていたのである。
 1961(昭和36)年の夏、小淵沢から乗った半両の名古屋行き客車の中でうつらうつらと居眠りをしながらこのトンネルを抜けた。もちろん大分水嶺なんて考えてもいない。いや、そんなところを大分水嶺が通っているなどこれっぽっちの知識もなかった。


20a-6. 通らなかったJR中央本線・塩嶺トンネル  

 そうして今、もう1本この大分水嶺の下をくぐるトンネルがある。いまの世の中いくらなんでも岡谷→辰野→塩尻はないだろうということで、もう1本岡谷から塩尻へ抜けるまっすぐなトンネルが開通した。それが中央本線の「塩嶺トンネル」である。それの開通日が1983(昭和58)年7月5日。いまとなっては結構古い昭和の話である。となればあのとき通っていたかもしれないな。東京へ行くのに大糸線に乗ってやろうというのである。 C56の顔を見るために。そして穂高の碌山美術館にも寄って・・・。そのとき塩尻から中央本線経由で・・・。塩尻からすんなり下諏訪、茅野・・と走った記憶がある。多分このときに塩嶺トンネルをくぐっているはず。で、あれはいつのことだったか。
 調べてみて驚いた。なんと1971(昭和46)9月の話だった。塩嶺トンネル開通の12年も前の話。これではどうしようもない。何の記憶もないが、律儀に辰野回り、善知鳥トンネルをくぐっていたのである。そのあと何かのときに、この塩嶺トンネルを通っていないかあれこれ考えてみたが、どうもご縁がなかったようである。
 ということでこの中央線”善知鳥トンネル”は、上りと下り各1回づつ縁があったことになる。




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