00.このとき越えた大分水嶺
地図00-18..和田峠(長野県)
大分水嶺は、ほとんどが県境と共通のルートをたどってきたが、八ケ岳連峰の赤岳で県境を南に分けてからは、ずっと単独のコースをたどっている。これは長野県を南北に2分するルートであって、白樺湖・大門峠を越えてから和田峠までは、長野県リゾート地域の中心地(蓼科・霧ヶ峰)の西半分を横断する形になる。ビーナスラインに代表される地域であるが、車山・霧ヶ峰などよりも少し北側のルートをたどる。
01.分水嶺の流れ
地図 1.白樺湖から和田峠まで
大門峠から和田峠まで、直線距離で約9.0Kmである。なお、大門峠はともかくとして、和田峠は旧中山道、旧国道、新国道と時代とともに変遷を重ねている。距離の測定に当たっては、国土地理院Web地図にある、旧国道の”和田峠北口”を基準とした。左の地図に見られるように、八島湿原を越えてから和田峠までの区間で大分水嶺とビーナスラインのコースが曲がりなりにも一致しているといえる。
この区間の主役はやはりビーナスラインだろう。この計画が発表されたときには、反対運動もあったと聞く(私が通読していた山の雑誌『アルプ』誌上でもかなりその動きがあった)が、人間は楽な方へ流れる。私も何回走ったか。しかし、人間、楽して得たものは身につかない。いまだにこの地域の細部はわからないのである。
a. 車山高原
大門峠を越えて大分水嶺は西へ向かう。車山スキー場の北側を経て、車山、車山湿原をかすめる形で北へ折れ、八島ヶ原湿原へと向かう。
前出のヤマケイ文庫、堀公俊著『日本の分水嶺』には、――車山(1925m、日本百名山)は霧ケ峰高原の最高峰ながら、山頂部には、――云々とある。そうかなるほど・・・と、深田久弥著、『日本百名山』の目次を調べてみると、霧ヶ峰はあるが「車山」はない。その”霧ヶ峰”の項を読めば、・・・霧ヶ峰の最高峰は車山であるが・・・と。一事が万事この調子である。若いときから、地図を持って自分の足で歩いた山は形ぐらいは頭に入ったが、車で走ったところはダメだった。運転しながら地図がゆっくり読めるはずはない。
最後の切り札と、霧が峰”で検索すると、トップには何となんとエアコンのページが。それを辛抱しながら探っていくと、「長野県中部の茅野市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町にまたがる火山」とあり、「車山を中心にその外輪山と白樺湖、ガボッチョ、強清水、和田峠などに囲まれた台地」とある。そうか・・・しかし、火山といわれてもな…外輪山というからにはカルデラか・・・と、もうひとつ分かったような分からないような。川口邦雄(写真家)の『日本の山100』を読んでいて、――視界の3分の2は空。あとの3分の1は草原と灌木の緩やかな起伏といった地形である。これはアスピーテ(楯状火山)という成因から来るのだが、何とも明るい。――と。そうかアスピーテか。なるほど、・・・そういわれたら、納得。ちょっとは分かったつもりになっていた。
が、別の項では、トロイデ(鐘状火山)、コニーデ(成層火山)、カルデラなど、上のアスピーテなどもそうだが、このような形状による分類は、日本では特に地理分野で広く使われたが、海外では過去においてもほとんど使われていない。この分類は成因をまったく考慮せずに、そのときの地形だけで定義したものであった。火山の研究が進むにつれて、形成過程がまったく違うのに侵食などによって同じような地形になってしまう例が次々発見され不都合であることが明らかとなった。日本の火山学、地質学においては、1970年ごろからほとんど使用されないようになった。ただし、地理の分野では、現在でも使用例があり、観光地の看板などにこれらの名称が残っている場合があるので、完全に死語となっているわけではない。――なるほどそういわれて見れば・・・何とまあ難しいものだ。
あれはいつのころだったか。1990年代の末、ひょっとしたら2000年代になっていたかもしれない。車山の西方ビーナスラインを走っていて、山の斜面の中ほどに白い球形の構造物が見えた。ふと見るとその山への登り口のような道が。時間があったので、あのボールのところまで登って見ようか。道が曲がるたびに、右へ行ったり左へ来たり。山の中腹に見えたそのボールは、結局はその山の頂上に鎮座していた。そのルートがいま上の地図で見ると画面左下に見える赤矢印の蛇行したルートだったようだ。その山は車山、山頂の白いボールは気象観測用レーダーだった。そこから北の方を見れば、大分水嶺が見えたはずだが、そのときはそんなことつゆ知らず・・・。
b. 八島ヶ原湿原
八島ヶ原湿原は車山の北西に位置する。その間大分水嶺は北へ上がり西へ折れる。ビーナスラインを走って、この八島ヶ原湿原のふちを何回通ったことだろう。いま、このビーナスラインと大分水嶺が最接近するところの距離を測ると125m。日本列島を太平洋側か日本海側かの見方をすれば、この125mは0に等しい。何も知らずにその脊梁の上を走っていたのである。
前出のヤマケイ文庫、堀公俊著『日本の分水嶺』には次のようにある。
――車山の裾野の草原台地を散策しながら、八島ヶ原湿原を目指して行く。このあたりは穏やかな草原の中を大分水嶺が通過しており、日本を2つに分断している脊梁を歩いているという実感はまるでない。同じ高原でも八ケ岳高原のようななだらかに傾斜ししている火山の裾野と違い、空へと続く伸びやかな大地の広がりが、いかにも霧が峰らしいところだ――略――12,000年もの時間をかけてつくられた泥炭層は、尾瀬以上ともいわれている。湿原内には、八島ヶ池をはじめとする小さな池が点在し、その水は高原を流れ落ちて諏訪湖にそそぎ、やがて流れの激しい天竜川となる。――
02.知らずに越えた分水嶺・和田峠
右の地図は、和田峠付近の拡大図である。新トンネルが文句なしに長い。私はこのように新旧を2つ並べて、どちらでもどうぞといわれたら反射的に旧道をとる。
写真01.旧道トンネル(旧中山道・和田峠)
中山道・和田峠、現在は右の地図のように新旧2本の国道に分かれているが、2本とも大分水嶺をトンネルで抜けている。左の写真が旧和田トンネル下諏訪側入り口。トンネル内は1車線で、時間差通行になっている。信号待ちの何台か。こんな時間があるから写真が撮れる。
写真02.和田峠接待
|
|
|
|
|
接待(永代人馬施行所跡) |
永代人馬施行所 [看板を拡大] |
接待内部 |
接待付近の旧中山道 |
上のいちばん左の建物が”接待(永代人馬施行所跡)”である。この辺りのことが、中西慶爾著、1976年・木耳社刊、『巡歴中山道』に詳しい。
和田峠は中山道最難所の一つであった。頂上付近の急坂。下諏訪宿までの長い上り下り。冬場の降雪。幕府当局もこれに苦心した。江戸日本橋の綿糸問屋中村有隣が、冬期旅行者の困難を和らげるために一千両を寄附した。幕府はそれを紀州候に預けて、その利息百両を二分し、五十両を碓氷峠の坂本宿へ、五十両をこの和田峠へ分与して・・・・。
――およそ一里足らずで、”接待”と大きく書いたバス停に出た。ここは上記中村有隣の篤志にかかる”永代人馬施行所”のあとである。
いま、この接待所のあったあとは林新之助さんが住み、その向かいに別棟を建て、ささやかな茶屋を営んでいるが、その店の真ん中に、「御免/永代人馬施行所」というかつての堂々たる看板がデンと置かれて光を放っている。”永代”というのは千金の重さである。五十年間の長きにわたって施行され、なお時代が変わらなければいつまでも続けられたであろう五十両の力の偉大さがしみじみと感じられる。有隣の慈悲は無限である。それにしても、ここのバス停に「接待」という名の残っているのは何とも嬉しい。こういう地名こそ永代に残したいものである。
この茶店、今は休み客もなく、人語も聞かぬ。あたりに民家はない。ただ二軒だけの前にバスが停まり、やがて発車する。――、
ということであるが、この文章にあることと私が訪れたときの様子とはちょっと異なっている。接待所跡に林新之助さんが住まいし、向かいのに別棟を立てて茶屋を営んでいたように書かれている。そしてその茶屋に”永代人馬施行所”の看板が置かれていたと。私が行ったときはこの接待所の表につりさげられていた。そしてこの接待所に人が住まいしているようには思えなかった。時代とともに変化していく様子が感じられる。『巡歴中山道』の発行が昭和51(1976)年。実際の踏査はそれより数年前のことだろう。私がこの地を訪れたのが1993(平成5)年だから、変化があって当然であろう。
上の地図は、国土地理院のWeb地図をベースにしている。当然のことながら、新旧国道のほかに旧中山道のルートが破線で示されている。それをもとにして緑色の線を引いた。ご覧のように滑らかな線である。これは本当だろうか。旧国道の方がはるかに旧街道に見える。旧国道信号待ちの写真があるので新国道を走っていないことは確かだが、この時、旧中山道と旧国道とどちらのルートを走ったのか、いまとなれいば何の記憶もない。旧国道のトンネルをくぐって、そのまま旧国道を走ったのだろう。旧中山道の峠を越えなかったことは確かであるが。接待の位置は峠のすぐそばだったと記憶にあるが、中西氏の文にもあるように峠から4Kmも離れていたという。自分自身の記憶が恥ずかしい。
写真04.信定寺山門
前出の『巡歴中山道』に次のようにある。
――宿の中央辺りに由緒ありげな奥ゆかしい信定寺(しんじょうじ)がある。武田信玄と戦って戦死した和田城主・大井信定・信正父子が葬られているという。山門は上に鐘楼を載せて、この種のものとしては均整の撮れたいい姿を見せているが、梵鐘は戦争中に供出されたままなので、何となく間が抜けた感じである。こういう寺々に元のように鐘がかけられ、朝夕”寂滅為楽”と響くようにならなければ大平洋戦争は終わらない、というものだろう。――
はて、私が行ったとき梵鐘はどうだったろう。撮るときにそんなものまで意識していないから、見えるような見えないような。もう1枚真正面から撮ったのがあったので、それを部分伸ばしして、間違いなく梵鐘は所定の位置に収まっていた。しかし、こんな重いものをどうして山門の上まで。クレーンがあるとはいえ、屋根が邪魔になっただろうに。
写真05.「是より和田の里」碑
中山道「是より和田の里」碑。これほど位置がはっきりした碑はない。ただし、この碑は、東から来て和田宿へ向かう位置の「是より」である。このとき、私は下諏訪から東へ走った。和田峠を越えて、和田宿を抜けて次の長久保宿へ向かう場所。和田宿への「別れ」の碑である。だからこそ、その場所をはっきりさせておきたかった。
ストリートビューはそういう意味であり難い。場所はすぐにわかるだろう。と探し出してまる2日。それが見つからないのである。国道142号が新旧2本に分かれていたり、旧中山道と国道が一緒になったり別れたり、確かに複雑なところではある。でも2日もかかれば、何ぼ節穴でも見つかるだろう。長久保から和田へ向かう途中で、ストリートビューがストップしてしまうところがある。ストップする最後の写真はいつも同じものだ。単なるアクシデントではないらしい。本家本元のプログラムの問題らしい。
ということで、これの位置確認はできていない。もう1回行けばいいじゃないか。私はクルマをやめて1年を越えた。
|