top

 

知らずに越えた大分水嶺

--- 17.白樺湖・大門峠 ---
(長野県)
1965年夏

初稿作成:2022.10
初稿UP:2024.03.20


前 項 へ 次 項 へ 目 次 へ



00.このとき越えた大分水嶺
地図00-17.白樺湖・大門峠(長野県)

 ◆赤岳(八ケ岳連峰の最高峰)で県境と別れ、大分水嶺は八ヶ岳連峰の稜線を北上して長野県分断コースを進む。3分の2を過ぎたところが麦草峠。そのあと、最北端は双子山かと思っていたが、念のためと検索をして見たら蓼科山だという。この山は八ヶ岳連峰から見るとちょっと西へ寄っていて、どちらかといえば霧ケ峰高原のエリアだろうと思っていたのだが・・・。今回はそのうちの白樺湖までである。なお、”大門峠”は、白樺湖の北岸で大分水嶺とクロスする国道152号の峠である。



01.分水嶺の流れ
地図 01.麦草峠から白樺湖まで

 ◆横岳。麦草峠を越えて大分水嶺はさらに北上する。鞍部の勾配を登り切ったところが茶臼山(2384m)。そのまままっすぐ北へ向かって縞枯山(2403m)、さらに北上して西へずれたところが横岳。赤岳の近くにも同じ名前があったので、こちらは北横岳と呼ばれることが多いとか。地図を拡大してみると一見して火山のイメージである。しかし素人の私にはにはその形式までは読み取れない。
 ◆Wikipediaによると、――(北横岳は)八ヶ岳火山列の北端部に位置し、厚い溶岩流と溶岩円頂丘からなる、東西4Km,南北2Kmの小規模な火山である。2016年から数えて約900-700年前に噴火しており活火山に指定されているという。ワタシらが小学生のころには、休火山というジャンルがあって、たとえば富士山は休火山と習ったものだが、それがいつしか消えて、900年前でも活火山というらしい。山頂は南北に分かれ、標高は南峰が2472m, 北峰が2480mである。ただし三角点が南峰にあるため、低い方の南峰の標高をもって横岳の標高とされる場合が多い。――とある。溶岩円頂丘は、噴火口の中心近くにあるオムスビ状に表現されているヤツだろうか。あくまで素人目で見ての話である(カシミールで作画して見たが、もう一つはっきりしない)。

 a, 間の抜けた話。
 北に向かっていた大分水嶺が双子山のあたりで、西へ向きを変え始める。そこに”大河原峠”とある。ふんふんとうなずきながら,郷土出版社『信州百峠』を見ると、副題として、――車で行ける佐久平一望の峠――とあり、続いて”大河原峠は、蓼科山と双子山の間にあり、佐久と諏訪を結ぶ重要な古道である”と。文章を読みながら地図と照らし合わせると、概略は納得できるのだが、1つだけ不思議なことがある。車で行けるというその道が南側へ抜けてから消滅してしまうのである。
 おかしいなと思って、当該部分の地図を拡大してみると、”車で行ける”という道は、蓼科スカイラインであって、その部分だけが大分水嶺のごく近くを並行に通り、その道の最高点が”大河原峠”だったというわけ。”蓼科山と双子山の間にあり”などとあったものだから、てっきり大分水嶺を越える峠と早合点をしてしまった。何ともハヤ間の抜けた話ではあった。もっと若いときからこのことを知っていたら、クルマに乗れていた間にここまで見に行っていたのだが。いや、ひょっとしたら何も知らずに行っていたのかもしれない。

 b. 白樺湖まで?
 さて、そのあとは、毎度おなじみの蓼科山と八子ヶ峰を過ぎると白樺湖である。
 本シリーズは『知らずに越えた大分水嶺』である。ということで、”麦草峠”は分かる。しかしなぜ”白樺湖”なのか。そこのところがすぐには納得できない。なぜ”湖”が分水嶺にあるのか。
 白樺湖は人造湖で水面標高は1416m、その中央を大分水嶺が通過している何とも不思議な人造湖なのである。


02.白樺湖
地図02.白樺湖(大分水嶺)

 さて、前述のように、白樺湖は大分水嶺上にある。と同時にこの”みずうみ”は、人工の池だという。初めは農業用水池として造られたとか。1965年初めてここを訪れたときには、いやそれからもずっと、今回このレポートを書くまでは考えても見ないことだった。
 ◆「白樺湖観光案内サイト」に概略次のようにある。
 ――白樺湖は国定公園八ヶ岳(北八ヶ岳蓼科山)山麓に位置し、昭和10年代中頃に着工し、昭和21年に完成した人工湖です。当時、この下の地域の水田に流れ込む水は大変冷たく、そのため稲の生育が悪く農家の悩みの種でした。そこで、この蓼科山と車山の間に堤防を作り、水を温め下流に流し収穫を増やそうと計画されたのです。当時は太平洋戦争中でもあり、多くの女性もこの重労働に参加、すべて手作業で大変だったそうです。
 池は、長い年月をかけ完成し、「蓼科大池」と名付けれ、稲作の水源として重宝に利用されました。当初は、池の中に白樺が散在し、人々に親しまれ、いつしか「白樺湖」と呼ばれるようになり、今の観光地になりました。――とある。
 私は1934(昭和9)年の生まれである。物心がついた時には支那事変(日中戦争)が始まっていたし、1941(昭和16)年、小学校2年のときに太平洋戦争が始まった。そして1945(昭和20)年、同じく6年生のときに終戦。その後、戦後の混乱。この時期が、ちょうど白樺湖の建設時期と一致する。大変な時期にこの世に生まれてきたことに、本当にいとおしい思いである。

 上の地図02は、その上の地図01に見るように、大分水嶺が双子山から蓼科山を経由して、この地図の南東方面から八子ヶ峰へとつながってくる。A点からD点までの赤色の線は、茅野市と北佐久郡蓼科町の”市郡境界線”に沿っている。ただし、BーC点間は市郡境界線は直線になっているが、地図の等高線を読むと少し西側へ緩く弧を描いている。その後、白樺湖を横切ったりするので、明らかに人工的に作図されたものと考えられる。



03.白樺湖(高校の修学旅行)

 1965年夏、私が勤めていた高校の修学旅行である。この大分水嶺巡りとしては、07、渋峠、08.白根火山の前段に当たる。旅行としては第2泊目。まさに大分水嶺の真上での宿泊だった。


写真.暮れゆく山々(左・蓼科山/右・八ヶ岳、いずれもバスの中から)

 左・蓼科山、右・八ケ岳連峰、何も考えずにただ山が見えたから撮っただけである。その写真をいまこうして並べてみると、八ケ岳連峰の稜線はまさに大分水嶺そのものだし、蓼科山の頂上も大分水嶺が通過している。そして、もし蓼科山の手前の稜線が八子ヶ峰に続く稜線としたら、この2枚の写真はすべて大分水嶺を見ていることになる。


写真.白樺湖・池の平ホテル着

 白樺湖へ着いたときには、すでに湖岸にたそがれが迫っていた。霧ケ峰高原はシルエットに沈み、空の明るさだけが湖面に映えていた。月齢2日ぐらいの細い月が西の空に架かって、すぐ山の端に没していった。それは一つの絵であり詩であった。これは思ったよりいいところではないか、そう思った。



 a.白樺湖の朝
写真.朝の湖畔

 一夜明けて、湖は朝の太陽に照らされた。それを見たとき、私は少なからず失望した。あまりにも湖岸に人工的なものが多すぎたからである。しかしその失望を、多少なりとも小さくしてくれたのが、湖の向こうに見える明るい山々だった。車山を主峰とする霧ヶ峰高原の一角はどこまでも明るく健康的だった。(左端の写真、湖を越えた中央のピーク・車山1925m)
以上:高校生の修学旅行”白樺湖:大分水嶺の部了”



04.大門峠

 白樺湖のすぐ北側に位置し、標高1、441m。中央分水嶺を越える峠である。茅野市側に降った雨は天竜川(太平洋)へ流れ、長和町側に降った雨は、信濃川(千曲川)へ合流、日本海へ流れる。1市2郡の交点にあり、大分水嶺を挟んで太平洋側が長野県茅野市・北佐久郡立科町。日本海側が小県郡長和町である。国道152号が通過し、諏訪地域と上田地域を結ぶ大門街道の最高所にあたる。大分水嶺上の峠でありながら信号が設置されている。極めて珍しい例だろう。これは国道152号とビーナスラインとの交差による。
 また、郷土出版社版『信州百峠』には、次のようにある。――古く、武田信玄はこの峠を越えて、東信・北信への侵攻に利用したり、徳川秀忠も上田で戦ってこの峠を越えて関ヶ原へ向かった。――とある。
 桐原書店版・『日本百名峠』には、田中澄江が次のように書く。――最近秋に二度続けて、八子ヶ峰の花を見に行く機会があった。北を望めば、眼下に大門街道が見え、浅間、妙高、黒姫、戸隠などの北信の山々も見え、信玄もこの稜線を歩き、北に信濃路を、東に佐久平を仰ぎ見ながら、その経路を練ったことがあったに違いない。自分の死後には、すべてがむなしく崩壊することを知らず、息せき切って戦いに次ぐ戦いに終わった一生がふと気の毒になった。――


補遺:『蓼科山中腹から見た北アルプス』---さて、この写真の撮影場所は?

 アルバムには”蓼科山中腹から”として北アルプス遠望の写真(写真左)が残っている。いくつかの稜線が重なっているが、いちばん奥に北アルプス”槍・穂高連峰”が見える。この日の日程は、浅間山経由で万座温泉までである。大門峠を越えて国道152号を北へとるものと考えていたがそうではなかったらしい。蓼科山へ寄っていたのである。

 さてこの写真(上の高校生2人が写っている写真)の撮影場所である。撮ったことすら覚えていないのだから、撮ったところを覚えているはずはない。しかし、”蓼科山中腹から”とあるじゃないか。確かにその通りである。だが私としてはそれでは満足できない。その蓼科山中腹の何処かということである。地図の上で”ココだ”という点がはっきりしないと満足できない。

 上で見た写真をじっと睨む。いろいろな山が見える中でいちばん目立つ山はどれか。皆さんはどう思われるだろうか。私は、中央のちょっと左、上から3段目の稜線(カゲになっている)に見える横に広い山形のピークを選んだ。「三峰山」と銘打った山である。裾の広い山であるがピークはたった1点、はっきりしている。さて、いまやろうとしているのは、この三峰山と後方に見える北アルプスの山々との位置関係が写真の通りになる点を探そうというのである。”写真の通り”といっても意味があいまいである。 この写真を見ていただきたい。三峰山とあるピークから上へ伸びる赤い線を見ればおよその意味は分かってもらえるだろう。三峰山のピークといちばん奥の北アルプスの峰の位置関係を調べようとするのである。

 いま上で、この写真として挙げた写真は、上の高校生が2人写っている写真から白い破線で囲まれた部分を切り取ったものである。
 三峰山山頂からタテに伸ばした赤線は、いちばん上(奥)の北アルプス涸沢岳の右斜面を横切っている。
 右は上の白文字の文章を地図で表現したものである。いちばん奥が涸沢岳(赤線の左端)、中ほど少し右に三峰山。(涸沢岳ー三峰山間の距離45.7Km、松本市街地を挟む。意外と距離があるのに驚く)。そして右下端に撮影地。これが蓼科山中腹という勘定。
 撮影地は一口に蓼科山中腹といっても山の中ならどこでもいいというわけではない。基本的に大型バスが走る道がなければならない。この条件だけで場所は限定されてくる。1965年当時の地図があれば道路はもっと限定されてくるのだが。撮影地点の地図で、大型バスが走れそうなところといえば、"白樺高原国際スキー場”付近か、それより少し標高が高い「御泉水自然園」付近ということになる。

 このとき、大門峠を越えなかったことははっきりした。それはいいとして別の問題である。この蓼科山中腹までの道がその時点で開通していたかどうかということである。1965年時点での道路地図があればまだ何とかなるかという話である。実際問題としては無理な話。近くに「御泉水自然園」なるものが目についた。検索してみると”明治100年を記念して長野県が・・・云々」と。明治100年ていつだった?。調べてみると1968年だという。この撮影場所がその自然園だったとして開園の3年前。この風景が一般に知られていたとして、観光バスを連ねて行ける状態だったかどうか。そういえば、その場所は砂利を敷いただけの広っぱという感じのところだった。当日は文句なしの好天にもかかわらず、他に団体がいたわけでなし、北アルプスひとりじめの状態だった。ひょっとしたら、そこが御泉水自然園予定地だったのかもしれない。いまとなってはこれ以上の詮索は不可能である。

 ◆余談:「三峰山」のこと 上で北アルプスの撮影位置推定に一役果たした三峰山のことである。正直、いまの今まで”三峰山”という山は知らなかった。位置的には、霧ヶ峰あたりから、松本平野へ出るまでの間だろうと推定して、そのあたりをしらみつぶしに見ていったら、意外と簡単に見つかった。それはなんと大分水嶺上に位置していたのである。白樺湖から八島湿原を抜けて和田峠へ至った大分水嶺が、そこから北西へ向かったあと西へ折れるところにあった。
 堀公俊著、『日本の大分水嶺』(ヤマケイ文庫)には、次のようにある。――三峰山からの展望は、360度遮るものがなく、間近には詩人・尾崎喜八が「世界の天井が抜けた」と表現した美ヶ原の広大な大地が広がっている――とある。

 下の「写真.北アルプス遠望」は、もう1枚撮っていた木の右側の写真と合わせて北の白馬岳から南の槍・穂高連峰までの1枚に合成したものである。下のカラー版は、カシミールによる作図。


写真.北アルプス遠望
(データの横幅は1700pxです。拡大してから可能な範囲で横幅を広げてご覧ください。)
赤丸印は、私にとって思い出の山。
これら山はいかにも大分水嶺が通っていそうに見えるが、残念ながらすべて無関係。
大分水嶺上にあるのは▲の三峰山だけ。ただし三峰山は北アルプスの山ではない。



このページのトップへ