00.このとき越えた大分水嶺
地図00-14.八風山トンネル(長野県・群馬県)
碓氷峠があまりにも有名すぎるため、そのあたりの長野・群馬県境を越える峠は全部《碓氷峠》で一括りにされているが、碓氷峠は北から読めば、旧中山道、国道18号旧道、旧信越本線碓氷峠(いわゆるアプト式電機が越えていた峠)の3本で、これらについては前項・碓氷峠として触れた。本稿ではさらに南へ下がって、国道18号新道(入山峠)、さらには上信越自動車道(八風山トンネル)をとり上げる。
さて、八風山トンネルであるが、入山峠(国道18号新道)を越えてしばらくしたところで、大分水嶺は西へ少し変移する。そうしてもう一度南へ向き直ったところで上信越自動車道が大分水嶺をトンネルでくぐる。これが八風山トンネルである。通ったのはたった1回、佐久で泊まって妙義山へ行くのに時間稼ぎをした。このときの一回だけである。
碓氷峠を越えるときですら、大分水嶺を越えることなどの意識はなかった。ましてやこの八風山トンネルくぐる、このときはただ高速道路は走ればいいだけの感覚になっていた。
01.国道18号新道・入山峠/上信越自動車道・八風山トンネル
地図01.碓氷峠・入山峠・八風山トンネル
国道18号は、信濃追分駅と中軽井沢駅との中間点あたりで、新旧2本に分かれたあと、旧道はすでに述べた碓氷峠で、新道は本項で述べる入山峠で、それぞれ大分水嶺を越えたあと、横川駅あたりで1本にもどる。実は、私はこの新道は一度も通っていない。通るとすれば、旧道を選んでしまう。深い理由はない。あのアプト線に近いほうというだけの理由である。
入山峠(いりやまとうげ)、地図に見る通り、碓氷峠の1つ南の峠である。国道18号新道が大分水嶺を越えている。標高は1,038m。ストリートビューで見ると、上り2車線、下り1車線の単純な構成である。峠を越えるところで、2車線、1車線が入替る。峠道全体の名称は「碓氷バイパス」。それでいて越える峠が「入山峠」だとは誰も思わないだろう。
古代の東山道はこの入山峠を通っており、当時の碓日坂とは入山峠をさすと考えられている。
1955(昭和30)年、入山峠から祭祀に用いた幣(ぬさ)や多数の石製祭器が出土し、1969年には碓氷バイパスの工事に先立つ発掘も行なわれ、入山峠が古代の碓日坂であることが確かめられたという。
だとすると、方々で見てきた日本武尊が乙橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで「吾妻はや」と歎いたという伝説も、ここが本家だということになる。神話時代の話だから、それがどこであってもとやかくいうことはないのだけれど。
02.泊まったホテルは・・・・
実はこの日、長野県佐久市で一泊して、翌日、妙義山へ寄って帰宅をした。その佐久市でのホテルでの夜。地図を見ながら翌日の予定を考えていた。妙義山までのルートとして、上信越自動車道を走るのがいちばん能率的だということが分かってきた。当時の記録として”横川SA”でのスナップが残っている。そして高速を降りたところは”松井田妙義IC”で、これははっきりしている。問題はどこから入ったかということ。といっても二者択一、”佐久IC”か、”碓氷軽井沢IC”かということである。
「そんなこと、どっちでもいいじゃないか」とおっしゃるはず。そう確かに。しかし、この場合1つ大きな問題が絡んでいた。”佐久IC”からでは、八風山トンネル”を通り、ここで大分水嶺を越える。しかし、”碓氷軽井沢IC”とすれば、そこへ行くまでのどこかで大分水嶺を越えることになる。越える大分水嶺の位置が変わるのである。皆さん方は、「そんなことどうでもエエがな」とおっしゃるはずだが、私としては大問題。さあ、どちらから入ったか。
アホみたいな話だけどもうちょっと。記憶ではホテルからICまでは何の苦もなく行けた。だから、たぶん、佐久ICであることはほぼ間違いはないのだが、その裏付けがない。ホテルの名前が思いだせない。場所は、そこそこの大通りを北上して、右折、すなわち東へ少し走った左側だった。”佐久IC”の近くで、そんな条件のホテルを探す。まる2日、そんなことで時間つぶしをした。ヒマな話だ。何となく妙な名前のホテルだった。しかしそれ以上の記憶は戻らない。
もうこれでやめようとしたそのときに見つかったのである。けったいな名前のホテルが。小海線の北中込駅の近く。『佐久一満里温泉ホテル』、北向きの道から東へ折れてとばかり思っていたところが、何のことはない北向きの片側2車線の道に面していた。この”一萬里”が何を意味するのか知らない。その昔、”ここはお国を何百里・・・”という歌があったが、そこから佐久ICまでは4Kmほどの距離だった。
03.いざ妙義山へ
A.八風山トンネル(大分水嶺)
ホテルの場所が分からなかったのは、10年以上たったいまの話で、そのときの現場で苦労したわけではない。数分で佐久ICへ。あとは高速を走るだけ。Wikipediaによると、――上信越自動車道・松井田妙義IC−佐久平PA間は上り線は10本のトンネル・下り線は9本のトンネルが連続しており、八風山トンネルはその中で最も長いトンネル(全長約4Km)である――。このトネル」は、佐久ICから2つ目のトンネルだが、それをくぐったという印象は何もない。大体その時点では”大分水嶺”そのものに対しての意識がなかったのだから、ほかのトンネルと区別がつくはずはない。さらにもう一つ、このトンネル内に上信越道の最高地点があり、標高は932mだとか。
さて、その大分水嶺であるが、国道18号新道が越える入山峠を過ぎて八風山トンネルまで上の地図に示す通りである。東北東からトンネルと並行に進んできた大分水嶺が、トンネルのちょうど真ん中あたりで、向きを南に変えトンネルとクロスする。その曲がり際に立つのが八風山である。大分水嶺をトレースしていて、オッ!、大分水嶺上じゃないかと、目を丸くしたのだが、拡大して見るとそこから続く、佐久市と軽井沢町(いずれも長野県)との境界線上を320mほど離れたところが頂上の位置だった。
佐久ICから松井田妙義ICまで33.7Km,いまその記憶をといわれると、佐久ICから松井田妙義ICまでの全体的な印象として、道そのものが大きく曲がっていたことと、やけにトンネルが多かったということ。その間に妙義山らしい独特の山塊がトンネルの合間々々に見えて来て、走るにつれてそれに近づいていることが認識できたことだった。
・・・大分水嶺との関わりはここで終わり。以下つけたし。・・・
B.横川SA
どこに何があって、どこから見れば何が見える。しっかり予習をしてきたわけではない。とにかく妙義山をゆっくり眺めてみたいというただそれだけだった。以前どこからだったかはっきりした記憶はないのだが、とにかく遠望して、次は・・・心つもりをして佐久まで来た。が、何がどうなっているのか、台風が来るという。そのときはそのまま逃げて帰って、今回が2度目。
さて、”横川SA”である。クルマから下りて、とにかく収めた風景がこれ。走るクルマの中からちらちら見るだけでは欲求不満。とにかくカメラに収めなければ・・・。そんな思いの一枚である。
峠の釜めし本舗”おぎのや”(荻野屋)だという。びっくりしたなー。京都駅は”はぎのや”(萩乃家)、オギとハギ。漢字で書くとよく似ている。そう、「荻」と「萩」である。うっかりすると読み間違える。荻野さんと萩野さん、よほど注意しないと…。そんなことから、勝手に解釈して、ハギとオギはよく似た花やろうぐらいに思っていた。
もうかなり以前の話だが、野洲川の河川敷の写真に「河川敷のススキ」と書いたら、ある人から、「あれはススキじゃない、”オギ”だよ」と教えていただいた。「オギはハギによく似た花と違うのですか?」とは言わなかったがびっくりした。河川敷のようにどちらかといえば水分の多い土地で、根で広がって面となって広く咲くのがオギ。それに対してススキは比較的乾いた土地で、直径1mぐらいの丸い株になる。ポコンポコンとグループをなして広がっていくという。荻と萩は漢字から、オギとススキは姿から、忘れられない思い出である。
このとき、ここが”横川SA”だということを全く意識していなかった。とにかくクルマから降りて、どこそこに見える特異な山稜を写真に収めること。それだけが目的の場所だった。とりあえずその目的を果たした後、土産物売場を歩いてでかいディーゼルカーが展示れているのを見た。何で、こんなところにこんなものを。”碓氷峠鉄道文化むら”そのものの存在も知らない、世に疎い老人になり下がっていたのである。
C.妙義山
(1).その成り立ち
私は、地学的なことを云々する能力はない。以下、「妙義山観光ガイド」・Wikipedia=「妙義山の成り立ち」をもとにして、でっち上げたものである。
妙義山とは、白雲山・金洞山・金鶏山を合わせた総称であり、特に、妙義と呼ばれる山はない。このことは、妙義の名が古来からの名称ではなく、ある時代から何らかの影響により、妙義と呼ばれるようになったことを物語る。
元来日本人の信仰には、奇岩・巨石・湖沼などの自然信仰とともに、山上他界の信仰があり、近くに名山があればその山上は祖霊降臨の山として信仰し、麓の人々は山上を遙拝する場所を集落内に設け、そこを里宮として祀ってきた。妙義山とてもまた例外ではなかった。――「妙義の古名は波己曽」――文・近藤義男氏より。
妙義山はカルデラを持つ火山で、名のある峰がその外輪山を形作っていたという。しかし、残念ながら、そのカルデラを地図の上ですぐに読み取ることはできなかった。たとえば、白根山、四阿山、浅間山など、このシリーズで見て来た火山のカルデラはすぐに地図の上で読み取れた。しかし、妙義山のカルデラは、ちょっと地図を見ただけでは読み取れない。火山活動が終わってからの時間が長く、浸食により山の形が崩れているためである。
妙義山はデイサイト溶岩(火山岩の一種・以前は石英安山岩と呼ばれていた)、凝灰岩(火砕岩の一種。主に火山灰がかたまってできた岩石)、礫岩(礫が続成作用により固結してできた岩石。堆積岩( 砕屑岩 )の一種)で出来ている。この火成岩のもとになる火山活動は約600万年前から300万年前ぐらいまでと考えられている。富士山は、約40万年前に火山活動を開始して、いまに至っている(現在も活動中)。そういう意味で、妙義山は富士山よりずっと古い火山である。火山は通常、活動開始後100万〜200万年で活動を停止する。妙義山の火山活動はずっと昔に止まっている。そして、その後の長い年月のあいだ雨風に浸食され、現在の奇妙な形になり、耶馬渓(大分県)、寒霞渓(香川県小豆島)と併せて日本三大奇景の1つに数えられるようになった。
妙義山も風化によって削られる前は、富士山のような形をしていた時代があったのかもしれない。とはいえ、妙義山の生い立ちの詳しいことはまだわかっていない。古い火山の多くは雨風に浸食されていく。妙義山が今でも山の形が残っていることも分からないことの1つだという。ほかにも、妙義山の奇岩のなりたちなど、まだまだ不明なことが多いという。
(2).美術館前コスモス畑
松井田妙義ICで降りる。どこへ行こうという計画はない。ビューポイントだとか、展望台とかにはあまり関心がないから特に予習はしてきていない。これだけの山だから、どこへ行っても見えるだろう。とにかくどこかクルマが留められそうなところへ。
適当に走っていて、コスモス畑が見えたのでそこへ入ってみる。幟があって、『美術館前コスモス畑』とある。地図で調べてみると、さして遠くないところに美術館が2つある。さあどっちだ。ストリートビューでは、道路から離れた建物は見えない。航空写真に切り替えて、八角形の建物を探し、『富岡市立妙義ふるさと美術館』だと分かる。
コスモス畑は中庭の花壇に植えられたものだったが、そこからも山が見えた。それぞれ名称はあるのだろうが、私にはわからない。もう1枚。
(3).道の駅「みょうぎ」
どういう加減だったのか、ここもがら空き。手前の山の向こうに峨々たる山が。よく見ると中腹に小さく白い「大」の字が見える。
「大」の字は白雲山の中腹に江戸時代建立され、妙義神社の妙義大権現を省略し、「大」としたものであり、妙義神社にお参り出来ない人のため中山道の安中・松井田宿から大の字にお参りしたといわれている。江戸時代に建立された大の字は、ワラ束を糸で巻き、上州特産の養蚕飼育の無事を祈ったご紙束をつけた竹串をワラに刺したものであるが、現在は時代の変遷により鉄製となっているという。
(4).妙義神社石段下
道の駅「みょうぎ」から白雲山の「大」の字を正面に見て、右の方へ進むと、妙義神社参道へ出る。右上の地図で見る通り、参道と「大」の字戸はほぼ一直線に並んでいる。石段下に立つ「妙義神社」の石標のほぼ真上に「大」の字が見える。もう1枚。
上の写真では何とも思わない「妙義神社」の石柱は、近づいて見るとべらぼうに大きく写る。にもかかわらす、山の上の「大」の字の大きさはは変わらない。石柱までの10mやそこらの距離は、山の上の「大」の字までの距離に比べれば、何の意味も持たないということである。もう1枚。
(5).波己曽神社/1
「妙義神社」の石柱を横目で見て境内へ入った。ちょっとした階段を上って社殿の前へ出た。”ああ、これが妙義神社か”と思ったかどうか。そこのところが怪しい。もともとが罰当たりな人間で、神社へ行っても柏手を打って、大層なことをした記憶はない。適当に写真を撮って帰ってきた。石段のところの石柱の文字は読んだはずだから、”そうか、これが妙義神社か”ぐらいは意識していたかもしれない。
10何年かを経て、いまこれらの写真の整理をしている。自分が撮って来た写真と、そのとき買って来た案内書や、インターネットで検索したものなどを重ね合して・・・・。と、この神社はどうやら”妙義神社”ではないらしいということが分かってきた。このとき私が撮ってきたこの社殿は”波己曽神社(はこそ・・)という神社で、妙義神社はここからさらに長い石段を登らなければならないという。そういえばこの写真、”このオッチャンたち、こんな長い石段上ってどこへ行ってきゃはったんやろ”と思って撮った、この石段こそが妙義神社への石段だったわけ。
結局この石段は上らなかったが、いま写真を見れば、この石段、上がったところで閉鎖されていたようである。
(6).波己曽神社/2
現地で購入してきたパンフレットに次のようにある。――「妙義の古名は波己曽」――文・近藤義男氏より。
――古代、この地方の人々は、妙義の奇岩怪石の山を朝夕遙拝し、この山を波己曽山と称したようである。新居守村によれば波己曽は「いわこそ」であるといわれ、すぐれた岩山という意味であろうから、妙義の山容を表現した名称である。山麓の村々には、波己曽神社が祀られ、それらの神社は妙義の山を拝するような方向に社殿が作られていた。――中略――また。現在の妙義神社境内にも、波己曽様と呼ばれる古い社殿が残っている。波己曽こそ妙義の古名であり、この山容を表現するにふさわしい名称であったのである。――もう1枚。
(7) 妙義山・その他
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