00.このとき越えた大分水嶺
地図00-13.碓氷峠
浅間東面山麓越え(私が勝手につけた名称)の大分水嶺を草軽電鉄が越えていた。近くにあった駅名が国境平だったという。”くにざかいだいら”と読むのかと思ったら”こっきょうだいら”だと。大分水嶺と草軽電鉄ルート跡とのクロス地点の標高が1277m。ここが、浅間東面山麓を通過する大分水嶺の最低点らしい。そうして再び標高を上げながら大きく南へカーブする。その曲がり角に位置するのが鼻曲山。”へそ曲”がりはよく聞くが”鼻曲がり”とは珍しい。
YAMAKEIonlineによると、”――その山容が曲がった鼻によく似ていて、どこから眺めてもすぐそれと指呼できる。――”とある。そんな大げさな、曲がった鼻がどこからも指呼できるなんてと馬鹿にしていたが、カシミールでそのあたりを作画させてみると、なるほどと驚いた。稜線がカーブを描いているのだが、その外側が断崖になっている。カーブの外側だから、少々場所がずれてもそれはよく見える。
この崖は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の途中、発見したという水場。一滴の水もなく疲れ果てた武尊が、カラスが飛び立った跡に行って見ると、岩壁の中央からカラスの口に似た巨岩が突き出し、冷水が滴り落ちていたという。これが今の烏川(カラス川・高崎市の下流で利根川に合流)の水源だと。
だいたいこういう話は弘法大師の専売特許だが、このあたりでは、東征途中の日本武尊が話の中心ということになる。
01.大分水嶺の流れ
地図01.浅間山麓越え/鼻曲山/旧中山道碓氷峠1
右上の立体図は碓氷湖の上空約3000mの位置からの俯瞰図。左はその部分を地図に戻したものである。浅間山麓東面を下った大分水嶺が、鼻曲山で右へほぼ90度向きを変え、南下を始める。留夫山(1591m)、一の字山(1336m)と過ぎて、その南面の斜面を下ったところが旧中山道碓氷峠(1197m)である。残念ながら私は、そこを尋ねていない。
左の地図では軽井沢から旧碓氷峠まで、旧中山道がただ1本表示されているだけであるが、たとえばGoogleMapでは、旧中山道のほかにもう1本「峠道」が表示されている。それが峠の手前(西側)で合流し大分水嶺をまたぐ。長野県から群馬県へ越える場合、大分水嶺上左側に「熊野皇大神社」、右側に「元祖力餅しげの屋」がある。この地図では黒色の破線が県境。大分水嶺は一部を除いて県境と一致している。ちょっと歯切れが悪いが、「熊野皇大神社」と「元祖力餅しげの屋」の部分に県境が人工的に屈曲している部分がある。
02.旧中山道・碓氷峠
この碓氷峠の歴史は、神話の時代に遡る、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が出てくるのだから。
私は昭和15年、小学校入学。2年生からか名称が国民学校に変わって、6年生の8月に終戦ということになる。卒業が昭和21年3月、小学校で卒業した。そんなことで、国民学校をキセルで卒業したようなもの。バリバリの戦中派だ。何の時間だったか、神話をよく聞いた。次に出てくる日本武尊と乙橘姫の話も聞いた記憶がある。しかし、いまの若い人にはチンプンカンプンだろう。
ア.立風書房
、山本さとし著 『日本の峠道』に次のようにある。
――碓氷峠の名は、旧い神話の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の時代から登場する。東征のおり、相模灘でシケに遭い、妃の乙橘媛(オトタチバナヒメ)は海に身を投じて尊の遭難を救った。その帰路、ここで道に迷い八咫烏(ヤタガラス)に先導され、無事に峠を越すことができた。そしてこの峠に立ったとき、「吾妻はや」と三嘆して妃をしのんだという。この故事から作られたのが、峠の「熊野皇大神社」である――ということであるが、実はこれと同じ話が、前出の『鳥居峠』にもあった。
イ.定本”信州百峠”(井出孫六・市川健夫/郷土出版社刊)に次のようにある。――
――日本武尊が越えた碓日坂で「吾嬬(あづま)はや」と嘆いた伝説から、この峠の東に広がる地域に、吾妻郡―吾妻川―吾妻山(四阿山・あづまやさん)、嬬恋村などの名前が付けられたといわれている。(文・佐々木清司)
ウ.また、『日本百名山』では深田久弥が、四阿山の項で――日本武尊が東征からの帰り、鳥居峠の上に立って東を振り返り、乙橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで「吾妻はや」と歎かれた。そこで峠のすぐ北にそびえる山を吾妻山と名づけた、と言われる。その山から上州の方へ流れる川は吾妻川であり、東側は吾妻郡であり、嬬恋というロマンチックな名前を持った村もある。上州の吾妻山は、信州では四阿山と呼ばれる。――とある。
アは、日本武尊が嘆いたのは碓氷峠の上で、その裏付けには、峠にある熊野皇大神社を上げている。ねじれはない。
イは、嘆いたのは碓日坂(碓氷峠)で、裏付けには上州の地名を上げている。
ウは、嘆いたのは鳥居峠で、裏付けには上州の地名を上げている。
と、よく似た話だが、皆ちょっとずつ違う。神代の時代から、中山道がいまの碓氷峠を通っていたかどうか、そんなこと分かるはずもないのだから、まあ要するにどこかこの近辺の峠だったのだろう。
03.片峠
さて、”この碓氷峠付近の地形について”である。Wikipedia 碓氷峠・地理を要約すると次のようになる。
1200万年ほど前、現在の碓氷峠付近は海中にあった。
700万〜200万年前、碓氷川上流地域で噴火活動があった。
110万 〜 65万年前、溶岩噴出により碓氷峠付近は平地となった。
30万 - 20万年前、霧積川による侵食があり、急な崖が形成された。
ここいいう碓氷川上流、霧積川は右の地図に見るように、坂本宿の両側を流れる川である。要するに大分水嶺の東側、現在の群馬県側の地域で浸食作用が大きかったということであろう。
以上のような経緯から、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世の火山岩類で構成されている。下部の堆積岩層は泥岩、砂岩、凝灰岩などで侵食されやすい。碓氷峠東側の急勾配はこのような事情によるものと考えられる。例えば信越本線の横川駅(標高378m)と碓氷峠(標高960m)間を例にとれば、標高差572m、水平距離8Km、1Km当たりの標高差は71.5mになる。旧信越本線の碓氷峠アプト区間の勾配が66.6‰であるのもむべなるかなというところである。
いま仮に、横川駅から峠へ向かって水平方向にトンネルを掘り進めるとする。峠の真下に達したときには、地下572mの地点に達しているはずである。かりにそのまま水平に掘り進むとして、そのトンネルが再び地上に出るのは旧信越線のルート上でいえば、しなの鉄道と名を変えた戸倉駅あたりである(標高376m、横川駅より少し低くなっていいる。細かくいえば戸倉駅より少し手前ということになる)。碓氷峠からの直線距離47.6Km。まさに片峠。トンネルでスーッと抜けてしまう峠ではないのである。
04.旧信越本線・碓氷峠/アプト式が生きていたころ
1961(昭和36)年夏、東京からの帰り碓氷峠へ回った。「碓氷峠のアプト式」、子供のころから絵本でなじみにはなっていたが、見るのも乗るのも初めてだった。明治時代から延々と続いてきた碓氷峠のアプト式が、あと2年、1963年7月に粘着運転に変わるという。見るなら今しかない。そんな思いでの碓氷峠行だった。
9時21分発、準急”浅間”、中軽井沢行。当然満員。同じ列車に高崎行が併結されており、それが空いていたので、それでとにかく高崎まで行く。ここまでがEF53。ここで次に来る準急”高原”を待つ。やってきた列車は予想通り満員。1等のデッキで4等をやる(これがちょっとわかりにくい。興味がある方は下の*注をどうぞ)。横川までの約1時間はD51(貨物用蒸気機関車)のお世話になる。高崎を出ると単線になり、すぐ山路にかかる。12時40分横川着。
*注・東海道線を蒸汽機関車に牽かれた特急”つばめ”などのような展望車がついた特急列車が走っていたころの話である。展望車が一等車、一般庶民が乗るのが三等車。その中間の二等車とに分かれていた。昭和30年前半、東海道線が全線電化され電車特急が走りだしたころに、展望車がなくなり、それまでの2等車が1等車に、3等車が2等車になった。上の切符に、1240円・”2等”とあるのは、このときの”2等”である。そしてさらに内容は何も変わらないまま、1等車が”グリーン車”になり、悪名高い元3等車、当時の2等車が普通車になった。私が山へ行きだしたころの列車は、どれもこれも絶望的な込みようだった。初めから座席にありつくことなど考えずに、客車の前後のデッキに腰を下ろして、それを”4等展望車”と呼んでいた。「1等のデッキで4等をやる」と言うのは、当時の1等車のデッキへへたり込んで・・・・という意味である。ドアはいつも開けっ放し、オープンデッキだから写真は撮り放題、風はびゅんびゅん入ってくるので暑さ知らず。4等展望車の醍醐味だった。
オマケ。まだこんなヤツが煙をはいていた。多分高崎あたりではないかと思うが、撮影場所は定かでない。
9600型蒸気機関車。俗にキュウロクとよばれた国鉄を代表する貨物用機関車で、1913(大正2)年に第1号機が誕生し、1926(大正15)年まで770両が製造されたという。このころは、まだこのような大正生れの古武士が随所で活躍していた。
いよいよアプト式区間にはいる。ED42が前に1両、後ろに3両つく。12時45分横川発。ソロリソロリと行く。あまりののろさに、ラックレールにかみ合うまでかと思っていたが、そうではなく、かみ合ってからも同じ速度だった。
写真、横川にいたED42の3重連。
横川(海抜386m)から軽井沢(同942m)まで11.2Km、標高差約550m(最大勾配66.7‰、1000m走って66.7m上る)を48分かかって登るわけだから、時速になおして、14.0Km/h、実にのんびりしたもの。トンネルの数26個、アプト区間の開通、明治26年。偶然に一致とはいえ面白い。着工は東海道線より早く、明治15年、その理由は「東海道線は太平洋岸を走るため、外敵の攻撃を受けやすいから」だとか。
ステップの下を見ると、台車に取り付けられた箱状のものが見える。それからさらに左側に腕が伸びて、四角に小さく光る面が2つ並んで見える。この面がサードレールを下からこすって集電する。大阪地下鉄の御堂筋線など、地下鉄の古い路線はこの方式をとっていた。今はどうなっているか分からないが。
写真上左・ レールの中央に敷かれたラックレール。これに機関車側の歯車をかみ合わせて勾配を登る。レールの外側のサードレール、送電のためのレールである。上と側面はカバーされてレールそのものは見えないが、機関車の台車につけられた集電シューが下からこすって集電する。
写真上右・ 水平区間、ラックレールはついていないが、ポイント付近で、サードレールが右、左と分けて設置されている。
写真上。途中の駅、熊の平での列車交換。水平区間だからラックレールはない。列車から見て左側にサードレール(第三軌条)が見える。集電はサードレールから。無用の長物のパンタグラフは下げている。
これを撮るため、デッキから下へ下りる。いまでは考えられないことだが、当時はこのように、好き放題、勝手放題に降りたり乗ったりしていた。それがデッキで「四等」をやるものの特権ぐらいに思っていた。いま、考えれば何とも恥ずかしいことではある。
写真上。冷房のない車内は暑かった。窓は例外を除いて全部開いている。これが夏の旅だった。
写真左。対向列車の向かって右側、ステップの下に手のひらを上にしたようなアームが見える。小さくてわかりにくいがこれが集電シューである。左側はサードレールの下に入って稼働中。サードレールは左右どちらかに決まっているわけではない。とにかくどちらかにあればいいという形になっている。機関車側の集電シューは左右両方についていて、そのどちらから集電していく。いまの場合は、機関車から見て右側にサードレールがついている。架空線はないからパンタグラフはおろしている。
ここはどこだったか記録がないが、さすがここで降りるわけでに行かない。デッキからの撮影である。
列車はトンネルをくぐりくぐって、急勾配を登り続ける。ぱっと眼前が明るくなる。・・・と、そこはもう軽井沢の高原だった。
手前の何両かは水平。後4両はまだ勾配を上っているところ。見事な片峠である。地図で見ると、このあたりがまさに大分水嶺である。
05.軽井沢を過ぎて
なんや!このずぼらな撮り方は。「軽井沢」を撮りたかったにしても、もうちょっと他に手があっただろう。バックに隠れている機関車はC12、関西近辺ではほとんど見ることができない貴重品である。いまとなってはこの芸のない撮り方が悔やまれる。
乗ってきた1等車は軽井沢止まりなので(1等車には乗ってきたのだが、車内には入れてもらえず、デッキの隅で4等をやっていた)、隣の2等車に乗り移る。再びD51に変わった列車は、広々とした浅間の裾野を中軽井沢、信濃追分へとかけ下る。このころはこういうヤツがまだごろごろしてたんだ。
電柱の駅名標に”しなのおいわけ”とある。
暮れ行けば浅間も見えず、
歌かなし佐久の草笛。
浅間をバックに快走する列車。空に薄く煙が見える。浅間の煙ではない。機関車D51の煙である。
それはいいとして、この写真はどうして撮ったのか。何の記憶も残っていないが、窓から手を伸ばして撮ったものでもなさそう。推察するに、デッキに立って、左手で手すりをつかみ、右手を伸ばしてノーファインダーでの片手撮りか。身体全体は、ここまで出せないだろう。しょうもないことをやってましった。大学生のころではない。30歳に近い社会人が、いやいや恥ずかしい話である。
と、ここまで書いて来てふと考えた。ひょっとして、どこかの駅に止まっているときではないか。それならホームへ下りて、客車の一部をファインダーに入れて・・・できない相談ではない。しかし駅だとしたら、周りにその雰囲気が感じられるものだが・・・・。いや、それより、浅間山が真後ろになる駅があるのかどうか。碓氷峠に出てから、ずっと浅間山を右に見ながら走ったはずだが。
そんなこと考えていても仕方がない。地図で確かめてみた。いまはもう、”しなの鉄道”と名を変えているらしいが、当時は信越本線だった。確かに列車は浅間山を右にして走る。その間浅間山が後ろに見える駅はない。しかし後ろに見える区間はある。地図に「この区間」と赤で示した。浅間山を右に見て信濃追分駅を発車する。すぐに左へ大カーブ。90度曲がり切って南へ向く。それから右へ戻りだすまでの300m余りの区間である。この恥ずかしい写真が撮れたのは、この区間以外にない。
06.国道18号旧道
a.碓氷第三橋(メガネ橋)
旧信越本線の碓氷第三橋、碓氷川に架かる煉瓦造りのアーチ橋で、俗に言うメガネ橋。アプト式現役のころは、この上をED42が前に1両、後ろに3両ついて、エッチラオッチラ、14.0Km/hほどで走っていた。本来、このメガネ橋は4連だが、このときは、画面左のほうは木が生えて、3連にしか見えなかった。
このとき(1987年)、アプト式の運転が終了(1963年)して、24年の年月が経っていた。その後、横川駅 - めがね橋間の全長4.7Kmの廃線跡にアプトの道(ハイキングコース)の整備工事が行われ、2001(平成13)年に完成したとか。現在は延長され熊ノ平まで。
クルマはワーッと来るとにぎやかだが、行ってしまうと後は何とも静かなもの。反対側へ渡ってみる。何も考えずに撮ったものだが、右のアーチの奥に、当時の信越本線の新線のアーチが写っていた。アーチの中にアーチ。同じアーチだが時代が変われば随分変わるもの。
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