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知らずに越えた大分水嶺

--- 12.浅間山麓越え---
(長野県・群馬県)
草軽電鉄が越えた。

初稿作成:2022.07
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00-12 浅間山麓越え

 上述したように、浅間山の東山麓、大分水嶺を”浅間白根火山ルート”、”国道144号”の2本の主要道路が越えている。この2本と、1960年(昭和35)年に廃線になった旧草軽電鉄の国境平駅付近の3地点を併せて、「浅間山麓越え」とした。前者2本の主要道路は実際に何度か越えているが、写真での記録は残っていない。”峠を越えた”草軽電鉄については、実際に運行されているのを見てはいない。書籍、インターネット等からの得たものをまとめただけである。



01.浅間山麓越え

 この項の対象は浅間山東面山麓。四阿山、鳥居峠と南下してきた大分水嶺が、湯の丸山で向きをクッと東に変え、浅間山主峰を越えて、東面山麓を流れ下ってきたところである。浅間山自体は、円錐形の成層火山だといわれる。その広い裾野を大分水嶺が通る不思議さ。
 地図を見ればその大分水嶺を2本の主要道路が越えている。浅間に近いほうが”浅間白根火山ルート”、その次が”国道144号”である。この2本は、私自身何回か通っているが、いつも知らぬ間に通過してしまっている。一度もそこに”峠”を感じたことなどない。この2か所に関しては、現地での名称があるのかないのか、アルバムを探しても記録の写真もない。
 実際に何度か通っていながら、記録がないのが難儀だなと思いつつ、古い地図(1960(昭和35)年発行・詳細高等地図)を見ていて、懐かしい草軽電鉄が大分水嶺を越えていたのに気がついた。
 草軽電鉄の存在は鉄道雑誌で知っていたし、高校生のころだったか、ひょっとして大学生のころだったかもしれないが、何かの映画で例のL字型電機が走るのを見た淡い記憶がある。その映画が、高峰秀子の”カルメン故郷に帰る(1951年・松竹映画)”とのことだが、私が見た映画がそれだったかどうかその記憶もない。
 と、そんなことを考えていたら、映画『ここに泉あり』にも、草軽電鉄が登場したという。この映画は間違いなく見た。暑い夏のさなか、汗だくになって練習をしている群馬交響楽団の練習場へ山田耕作(映画内でも山田耕作本人が)がやってくる。・・・はっきり憶えている。なのに、草軽電鉄のことはいまそれを知って驚いている。人間の記憶というものは・・・。
 いろいろ調べてみると、この草軽電鉄は、軽井沢ー草津温泉間の南半分(吾妻川以南)は1960(昭和35)年4月で廃線になったという。私が見た高校地図に草軽電鉄のルートが記載された最後の年だったようだ。これも何かの縁だろう。
 実際には、自分自身何度か越えながら、何の記録も残していない2本の主要道路と、映画で見た淡い記憶でしかない草軽電鉄、これらの峠越えを三者合わせて「浅間山麓越え」とする。



02.大分水嶺の流れ
地図0。浅間山麓越え1

 浅間山を中心として”L字”を上下左右を逆して並べた形になっている。ちなみに鳥居峠から湯の丸山までが6Km強、そこから浅間山までが11Km強。それを上下逆にして左右を逆にした形になっている。浅間山から西へは湯の丸山、およびそのすぐ西の烏帽子山まで山がつついて浅間連山というイメージであるが、東にはそれはなく裾野が広がっている。浅間山の標高が2568m。浅間白根火山ルートの大分水嶺越えの地点での標高が1411mである。





03.草軽電鉄廃線跡地図

 以下Wikipediaを要約・加筆したものである。
 草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治の終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津や浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。1915(大正4)年に草軽軽便鉄道として新軽井沢〜小瀬(のちの小瀬温泉)間が開業し、順次、線路を北へ伸ばし、草津温泉までの全線が開通したのは1926(大正15)年のことだった。
 全長55.5Km。軌間762mm。(新幹線1435mmは標準軌、在来線は1067mで狭軌と呼ばれているが、草軽電鉄はそれより狭い、本当の意味でのナロ―ゲージである。なお、新幹線が広軌と呼ばれることもあるが、世界的には広軌は1500mm超とされている。)

 なお建設費用をできるだけ抑えようとしたため、急カーブやスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらずトンネルは存在しなかったという。これはある意味では先見の明といえる。草軽電鉄の銘が示す通り後には電機運転になるが、当初は蒸機運転(浅間山麓を行く草軽軽便鉄道)だったという。ちなみに電機運転開始は1924(大正13)年。ということで最初の10年間は蒸機運転だったわけで、蒸機のノロノロ運転でトンネルをくぐると機関士が苦労をしただろう。
 急勾配の上りは機関車にとってはつらいが、電気ブレーキをかけながら一定の速さで勾配を下るのは電気機関車でこそできる芸当で、蒸気機関車にとっては簡単な話ではない。それに加え本来道床に必要な砕石も敷かれない区間もあったとか。線路規格も極端に低いものであったことから、55.5Kmを走破するのに2時間半から3時間を要したという。

ア.国境平(こっきょうだいら・地図4)

 さて、この草軽電鉄線が大分水嶺を越える。右の地図の「4.国境平」。赤い線が大分水嶺、浅間山の頂上を経て東面の斜面を流れ下り、”浅間白根火山ルート”と”国道144号”を越え、あと少しで南へ折れ曲がるというところである。大分水嶺上の標高が1277m。新軽井沢の標高が942m。標高差335mである。両駅間の営業キロが17.3Kmで、その間の平均勾配は19.4‰(パーミル)。碓氷峠旧線の66.6パーミルにははるかに及ばないが、かなりの勾配だといえるだろう。
 周辺は、春から秋にかけてハイキング、冬はスキー場へと多くの客が列車を利用したようだ。次の”二度上駅”まで2.6Km。長日向駅から国境平を通り、二度上駅、次の集落の栗平駅までの6.5Kmは高原を満喫できるコースで当時は「四千尺高原の遊覧電車」と宣伝していたという。(昔は、その土地の標高を”尺”で表わす場合があった。上高地河童橋畔”五千尺旅館”もその例)。

イ.二度上(にどあげ・地図5)

 大分水嶺を越えた群馬県側最初の駅である。ルート図によると、この駅にスイッチバックがあったらしい。行ったり来たり二度も三度も止まるから”二度上げ”という駅名ができたのかと思っていたが、一応は確かめておかないとと思って、Google Mapで”二度上”で検索してみた。駅が廃止になって随分日が経つから、何も出てこないだろうと思っていたのが、なんと出てきたのである。”二度上峠”が。こういう使われ方をされているということは、スイッチバックが語源の駅名ではない。もともと地名として使われていたことになる。スイッチバック語源説は見事空振り。

ウ.上州三原(地図9)

 吾妻川を越えて最初の駅である。ルート図によるとこの駅の最終営業日が1962(昭和37)年2月1日となっている。念のためと思って、一つ手前(吾妻川の手前)の吾妻駅を見ると1960(昭和35)年4月25日。何となく違和感がある。鉄道線路が廃線になっていくのは、中心地(いまの場合でいえば軽井沢)から遠いほうから順にというのが相場である。ところがいまの場合はその逆である。いろんな解説文を読んでみると、廃線の決定打は1959(昭和34)年8月の7号台風による、吾妻川鉄橋の流失だったという。復旧不能のために嬬恋−上州三原はバス連絡となり、これにより、最終的に1960(昭和35)年4月、新軽井沢−上州三原37.9Kmの廃止となったという。
 鉄橋流出という大事故、それも路線の中央部に近い、どちらか片方を廃線にという場合、一般的にはより中心地に近いほうが残ると考えられる。いまの場合、上州三原から草津温泉までの方がより重要度が高いと考えられたのだろうか。ひょっとして、車庫などが上州三原以北にあたのだろう。

 右の地図は、いちばん下の軽井沢から北へ向かう。まっすぐ北上すれば何の問題もないのだが、実際は東へ西へ偏る。その分地図が左右にずれる。上下の地図で上下の整合性があるのは下の4枚のみである。

12・草津温泉/鳥の窪

11・谷所/草津前駅

10・万座温泉口/湯窪


9・東三原/上州三原/嬬恋


8・吾妻


7・吾妻沢


6・北軽井沢


5・栗平/二度上


4・国境平


3・長日向


2・小瀬温泉/三笠


1・鶴溜/旧軽井沢/新軽井沢





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